歴史・宗教

たとえ徳川家が滅亡に追いやられても、武士の魂だけは決して忘れてはならない

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「幕末・明治維新の真相、歴史の裏舞台に“貢献”したフリーメーソン・工作員の正体を暴く②(徳川編)」

前回に続き、「幕末・明治維新の真相」について書いていこうと思います。
前回は坂本龍馬を中心とした維新勢力の正体を中心に書きましたが、今回は敵対していた徳川について見ていこうと思います。なんと徳川側にも、フリーメーソン・工作員は暗躍していたようです・・・。

皆さんは疑問に思わないでしょうか?
幕末に徳川慶喜は大政奉還を上奏し、いわゆる明治維新によって徳川政権は倒され、歴史上から抹殺されたはずであるのに、明治になってからも徳川の末裔はしっかりとその地位を確立した存在であり続けていることに・・・。
その疑問を探ってみたいと思います。



まずは、こちらをどうぞ↓
https://www.youtube.com/watch?v=yTJ_CmKN8aU

こちらで書き起こしをしてくれています。

http://www.telejirou.com/archives/12299
幻の徳川家16代将軍
都市伝説テラー・オリエンタルラジオ・中田敦彦が、
幻の徳川家16代将軍について語る。
徳川の将軍と言うと、
15代将軍の徳川慶喜で終わったと、
教えられてきた。
ところが、
幻の16代将軍・徳川家達(とくがわいえさと)という存在があった。
本来、徳川家達が15代将軍になるはずだったが、
14代将軍の徳川家茂が死んだ時、
徳川家達はまた幼かったという事もあり、
徳川慶喜が15代将軍になったのである。
結局、徳川家達が将軍にならなかった理由は、
大政奉還が行われて、
明治政府に政権を明け渡したからである。
その事によって、
徳川慶喜は大政奉還をした最後の将軍という事で、
歴史に名を名を残した。
しかし徳川家達は歴史に名を残す手前で、
なれずに、
歴史から名を消している
まさに悲劇の人物であるが、
徳川家達の悲劇は始まりに過ぎなかった。
その後、徳川家はどうなったかと言えば、
家が取り潰される事もなく、
一貴族として存続はする。
そこで、
徳川家達は歴史に名を残そうと政治家になる。
そして、
徳川家達は、
30代になり大きなチャンスがやってくる。
それが、
初代東京市長(現・東京都知事)である。
東京都知事に徳川家達になるという事は、
江戸を治めていた徳川が再び、
江戸を治める事になる。
しかし、
内定直前にまでなったが、
徳川家の当時のお目付け役であった、
勝海舟の反対にあう。
勝海舟からすれば、
国を背負って欲しいので、
江戸だけで満足してほしくないという意見を受け、
徳川家達は泣く泣く東京市長を辞退した。
その後、
50代になった徳川家達に再びチャンスが訪れる。
今度は総理大臣である。
時の山本権兵衛内閣がスキャンダルで潰れる。
どうにか次の候補を探さなければいけないという事で、
陛下から指名があったのが、
徳川家達であった。
しかし、
今度は、
徳川一族から反対にあった。
徳川一族は、
政治のトップに立って失敗したら、
徳川の立場がないと非常にネガティブに反対された。
この徳川一族の反対にあい、
徳川家達は、
またもや泣く泣くチャンスを奪われた。


德川 家達(ウィキより抜粋)

德川 家達(とくがわ いえさと)は、徳川宗家16代当主。もとは田安徳川家7代当主。静岡藩初代藩主。幼名は亀之助。号は静岳。位階、勲等、爵位は従一位大勲位公爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長第6代日本赤十字社社長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。

明治10年(1877年)、イギリスのイートン・カレッジに留学する。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。明治15年(1882年)10月に帰国する。
家達は海軍大臣の加藤友三郎や駐米大使の幣原喜重郎などとともにワシントン軍縮会議首席全権を務め、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した。この決定は欧米列強の軍事的緊張を是正して国際関係を安定化させることが目的だったが、国内では海軍軍令部や右翼から「軟弱外交」との批判を受けた。
大正2年(1913年)に恩賜財団済生会会長、大正4年(1915年)に明治神宮奉賛会会長に就任。大正10年(1921年)には大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)の名誉会長として、その発足に立ち会っている[1]。
昭和4年(1929年)11月、第6代日本赤十字社社長に就任した。昭和9年(1934年)には、日本におけるアジア初の国際会議となった第15回赤十字・赤新月国際会議の東京開催に尽力した。さらに昭和11年(1936年)12月には、1940年の東京オリンピック招致成功を受けて、東京市や大日本体育会などを中心として設立された「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。
昭和15年(1940年)死去、享年78。大勲位菊花大綬章受章。



德川 家達については以前にも書いたが、改めて気付いたことも多い。
テレビでは德川 家達は「悲劇の主人公」といった話になっているが、1940年東京オリンピック委員長、第六代日本赤十字社社長を歴任するなど実に輝かしい経歴の持ち主である。とても倒された過去の大名の末裔とは思えない待遇である。
そして、あのフリーメーソンであることが発覚した幣原喜重郎などとともにワシントン軍縮会議首席全権を務め、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した、とのことである。この日本の歴史における重大事件が、日本を太平洋“八百長”戦争に押しやる要因となったことは以前書いた通りである。この重大事件にも德川 家達は関わっていたのである・・・。
イギリス留学もしており、どう考えても「彼ら」指示で動いていたとしか思えないのである。

現在の徳川家の末裔たちはどうされているのだろうか?


http://matome.naver.jp/odai/2136859473149571501
徳川家のまつえいたちは今なにをやっているのか?


皆さん、ご立派な経歴をお持ちの方ばかりのようです・・・。



ところで、こういったブログ記事がある。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/bakumatuseihenco/tokugawakeco.htm
(れんだいこ)さん
【徳川家から見た幕末維新考】
「太田龍の時事評論」の2,006.8.25日付け№1783「徳川宗家第十九代後継者、徳川家広氏の重大な発言(『ボイス』九月号)」を紹介する。(れんだいこ編集)
  「ボイス」平成十八年九月号、二百二十八頁以下に、「徳川家から見た近代日本―幕府と長州の『戦い』は今日まで連綿とつづいている」、と言う座談会が掲載されて居る。座談会の出席者は、徳川家広(徳川宗家十九代後継者)、他二人。

 平成十八年七、八月は、日本歴史に残る重要な時期と成るであろう。この時期に筆者の見るところでは、次の四つの画期的事件があった。即ち、

 (1)鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(七月、成甲書房、上下二巻)の出版。
 (2)いはゆる富田メモの報道(七月二十日、日経新聞、そして各紙)
 (3)「徳富蘇峰終戦後日記」の出版(講談社)。
 (4)「ボイス」、九月号。前出座談会。

 天皇家の血統継承に、今、大きな問題が生じて居るが、徳川家の血統はどうなのか。筆者はこの問題について、「週刊日本新聞」四五一号、四、五頁で論じた。十五代将軍徳川慶喜が、いはゆる大政奉還したあと、英国(イルミナティサタニスト世界権力)の走狗と化した売国奴長州賊は、売国奴岩倉、三條らの一部公卿を手なずけて、徳川幕府を倒して、イルミナティの手先としてのニセ日本国をデッチ上げた。このことについては、「天皇破壊史」「長州の天皇征伐」(成甲書房)参照。

 しかし、この長州岩倉の売国奴一味は、徳川の血統を根絶やしにしなければならなかったにも拘わらず、それに失敗した。徳川慶喜が引退したあと、徳川宗家は十六代家達が継承、十七代家正、十八代恒孝に至って居り、十九代後継者が、徳川家広、だと言う。徳川の血統は、今、御三家、御三卿を含めて七系統。徳川の現存者子孫は、現在、約三百人、と聞いたことがある。

 「徳川と長州の戦いは、なを、継続中」(徳川家広)と言う。これは重大な発言である。「長州の天皇征伐」の熱心な読者には、そのことがただちに理解されるであろう。公式イデオロギーに毒されて居る普通の日本人には、このことの意味がまるで通じないかも知れないか。

 「長州」こそ、「大日本帝国」の主体であり、その真の創設者である。従って、敗戦と共にこの「大日本帝国」が崩壊したとき、蜷川新先生のような徳川幕府陣営の人物は、「長州」も、そして「長州天皇」も、当然、退陣するものと考えた。しかし、徳川家広によれば、敗戦後も長州勢力は、うまく立ち廻って主導権を握った、と言う。ここに、現代日本史の核心が存在する。(了)
 「ボイス」(平成18.9月号)の「徳川家から見た近代日本―幕府と長州の『戦い』は今日まで連綿とつづいている」(237P) 
北康利
________________________________________(作家)  徳川家に對して、長州閥の人々はごく最近まで、”色々仕掛けてきてゐた”やうですね。
徳川家廣
________________________________________(飜譯家)  (笑)。例へば「三百年のベール」。徳川家康の出自の謎を「解き明かした」明治のトンデモ本「史疑」の内容を紹介し、また其の本が世に出なかつた經緯を書いたものです。此の著者の南條範夫氏は、一高、東大と進み、商工省から滿州國に行つて、戰後には時代小説の大家と成つてゐるのは、皆さんご存知のとほりですが、實は舊制山口中學卒でもあります。詰り、岸信介と物凄く近い人なのですね。

 兔に角、長州藩閥人脈の方達は、大日本帝國の歴史を正確に記述される事を非常に恐れてゐる筈です。英吉利のバックアップを得て國を造り、シベリア出兵の失敗によつて中樞から一時追ひ出されるものの、其の後、滿州事變を畫策する事で強引に權力を奪還して、最後は大日本帝國の領土を失はせてしまつた。

 終戰時の日本の領土は明治維新時よりも狹く成つてゐました。一人當たりのGNPでいつても、低く成つてゐたのではないか。此の樣な事實から國民の目を逸らし、責任逃れするには、前任者に罪を擦り附ける ― 江戸時代が暗黒時代だつたと喧傳するしかない譯ですね。
谷澤永一
________________________________________(關西大學名譽教授)  成る程。近世の研究をしてゐても、未だ分からない事が澤山有りますが、近代に至つては、まだまだ時代を動かした本當の事實が明らかに成つてゐないと云ふ事ですね。此れは一寸、歴史學の埒内では書きやうがないですね。




ブログ主さんは気付いていないようですが、この記事は意図せずに「徳川家と長州は現在も対立している。徳川はあくまでも長州に敗れた過去の勢力である。」という間違った情報を拡散してしまっています。
あの慧眼の持ち主である太田龍氏も、すっかり騙されていたようですね。

次のブログ記事は、なかなか真に迫っておられます。


(Electronic Journal)さん
http://electronic-journal.seesaa.net/article/173536220.html
●「幕府にもいたフリーメーソン」(EJ第2960号)

グラバーは、一貫して長州藩や薩摩藩などの雄藩を支援し、倒
幕の動きを加速させていたように思えます。しかし、グラバーは
幕府にも手を伸ばしていたのです。それも徳川慶喜の側近に手を
打っていたのです。それは西周(にしあまね)という人物です。

 西周は、江戸の蕃書調所の教授をやっていたのです。蕃書調所
というのは、安政3年(1856年)に発足した江戸幕府直轄の
洋学教育研究機関です。開成所の前身で、東京大学の源流諸機関
のひとつであり、現代でいうと、西は東京大学の教授といったと
ころです。
 西は文久3年(1862年)に幕府の研修生としてオランダに
留学しています。留学先はライデン大学です
。学んだのは、自然
科学、国際法、国内法、政治学および統計学です。
 その西周は、ライデン大学から近くにある「ラ・ベルトゥ・ロ
ッジ ナンバー7」に加盟し、フリーメーソンになっています。
現在記録に残っているという意味では、日本人最初のフリーメー
ソンということになります
。同ロッジに残されている入会記録は
次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1864年、10月20日。第一階級として入会。日本国、津
 和野生まれ、35歳、日本国官吏としてライデンに在住の西周
 助(本名)署名・       ──加治将一著の前掲書より
――――――――――――――――――――――――――――-
 この西周とグラバーとの接点を示す記録は何もありませんが、
何らかの交流があった可能性があるのです。というのは、このラ
イデン大学には、若きグラバーの写真が残されているからです。
ということは、ライデン大学とグラバーとは何らかのつながりが
あったことを示しています。この大学の日本学科には今でも多く
の学生が在籍し、日本語研究にかけては、ヨーロッパでもトップ
クラスの力の入れようなのです。当時日本のことを熟知していた
グラバーと関わりがあっても不思議はないのです。

 おそらく西はグラバーと面識があったと思われます。蘭学を志
していた西が、長崎のオランダ人を通じて西と知り合う可能性は
高いと思われるからです。
 推測ですが、事前にグラバーは西と会い、フリーメーソンの基
礎知識を教えたのではないかと考えられます。そして、グラバー
は、ライデン大学のフィッセリング教授を紹介したと思われるの
です。まフィッセリング教授はもちろんグラバーとフリーメーソ
ン仲間なのです。

 グラバーとしては、幕府の中枢にいる前途有望な若手スタッフ
が同じフリーメーソン仲間になけば、何かと気脈を通じやすくな
るので、フリーメーソンに入会することは歓迎なのです。
 それからもう一人西よりも一ヵ月遅れてフリーメーソンに入会
した幕臣がいたのです。津田真道がそうです。西と同じロッジに
入会したのです
。このあたりのことはほとんど知られていない出
来事です。     ――――― [新視点からの龍馬論/51]


西周(ウィキより抜粋)
西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。周助ともいう。
石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。
漢学の素養を身につける他、天保12年(1841年)に藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶオランダ留学中の1864年にライデンでフリーメイソンリーに入会している。
慶応元年(1865年)に帰国した後、目付に就任[1]、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立につとめた。
明治6年(1873年)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。
東京学士会院(現在の日本学士院)第2代及び第4代会長[2]、獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長を務めた。

明治30年(1897年)、明治天皇は西の功績に対し勲一等瑞宝章、男爵の位を授けた。同年1月31日に死去。享年68。


津田 真道(ウィキより抜粋)
津田 真道(つだ まみち、文政12年6月25日(1829年7月25日) - 明治36年(1903年)9月3日)は、日本の武士(幕臣)、官僚、政治家、啓蒙学者。福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らと明六社を結成。岡山県出身。
美作国津山藩上之町(現:岡山県津山市)の生まれ。幼名は喜久治。後に真一郎、行彦とも名乗った。嘉永3年(1850年)に江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。
藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィセリング(ドイツ語版)に学ぶ。オランダ留学中の1864年(元治元年)にフリーメイソンリーに入会している。4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任、大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』)。


大政奉還(ウィキより抜粋)
大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許した政治的事件である。

雄藩の政治参加を伴う公武合体を構想していた薩摩藩は、参預会議(1864年)の崩壊により一橋慶喜(当時将軍後見職)や幕閣との対立を深め、また切り札と考えた四侯会議(1867年)でも15代将軍に就任した慶喜の政治力により無力化されたため、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し、長州藩とともに武力倒幕路線に傾斜していった。
このような状況の中、土佐藩の後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らに大政奉還論の採用を主張した。これに薩摩藩の小松清廉らも同意し、6月22日薩土盟約が締結された。これは幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものとされていた。
大政奉還論はいわば平和裏に政体変革をなす構想であったが、薩摩藩がこれに同意したのは、慶喜が大政奉還を拒否することを見越し、これを討幕の口実にすることにあったといわれる。そのため、盟約には土佐藩の上京出兵、将軍職の廃止を建白書に明記することが約束された。
後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、山内容堂(前土佐藩主)は大政奉還を藩論とすることには同意したものの、上京出兵には反対し、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日に薩土盟約は解消された。
10月3日、土佐藩は単独で大政奉還の建白書を藩主・山内豊範を通じ将軍・徳川慶喜に提出した。
土佐藩の建白を受け、10月13日、徳川慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問した。10月14日(11月9日)に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれに困惑したが、薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定した。慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられ、大政奉還が成立した。

大政奉還上表の前日の10月13日、徳川慶喜は開成所教授職を務めた幕臣の西周に対し、英国の議院制度等に関して諮問を行っている。大政奉還成立後の11月、西は意見書として「議題草案」を慶喜側近の平山敬忠に提出している(他にも慶喜周辺に存在した構想として、津田真道の「日本国総制度」(同年9月)などが知られている)。
西はこの中で、徳川家中心の具体的な政権構想を示している。西洋の官制に倣う三権分立が形式的にではあるが取り入れられ、行政権を公府が(暫定的に司法権を兼ねる)、立法権を各藩大名および藩士により構成される議政院がもつこととしており、天皇は象徴的地位に置かれている。公府の元首は「大君」と呼ばれ、徳川家当主(すなわち慶喜)が就任し、上院議長を兼ね、下院の解散権を持つものとされていた。軍事については、当面各藩にその保有を認めるが、数年後には中央に統合するものとされた。その他、従来の諸大名領を現状のままとし、公府の機構は幕府のそれとの関連が意識されているなど、極めて現実的な計画であった[2]。



はい!これまたフリーメーソンです(笑)。
ウィキは本当に正直ですね(笑)
グラバーと慶喜の間に入っていたのが、日本初のフリーメーソンとして有名な西周と津田真道だったのでしょう。大政奉還にも二人は関わっていたようですね。グラバーは維新側と幕府側の両サイドを操っていた「ダブルスパイ」だったようです。敵対しているはずの両勢力を結びつけるキーワードは「フリーメーソン」であるようですナ。

西周、津田真道とともにオランダに留学した榎本 武揚という人物がいます。


榎本 武揚(ウィキより抜粋)
榎本 武揚(えのもと たけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日) - 明治41年(1908年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名は「ぶよう」と故実読みされることもある。
幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ

ジョン万次郎を調べてみます。

ジョン万次郎(ウィキより抜粋)
ジョン万次郎(ジョン まんじろう、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 明治31年(1898年)11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての人物。日米和親条約の締結に尽力し、その後通訳・教師などとして活躍した。ジョン・マン(John Mung)とも呼ばれた。本名は中濱 萬次郎(なかはま まんじろう)。
天保12年(1841年)、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。
同年、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年(天保15年)にはオックスフォード学校、1844年(弘化元年)にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。民主主義や男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験した。
嘉永4年(1851年)2月2日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では万次郎一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。
帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わって船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との対等な交友を日本人船員にそねまれることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。
坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われ、激動の幕末における影の重要人物である。




どうやら、こんがらがった糸が解れてきたように思います。
幕府側の榎本 武揚に英語を教えたジョン万次郎は、敵対するはずの坂本龍馬の「世界観」にも影響を与えているようです。
どういった「世界観」でしょうか?
私には「邪悪な世界観」にしか思えません。
昨年私は足摺岬に行きましたが、明らかにジョン万次郎の銅像は「フリーメーソンのコンパス」を連想させる三角の定規を持っていました(笑)。
ジョン万次郎がフリーメーソンだったことは間違いないでしょう。
私は以前、「坂本龍馬の介入で徳川慶喜が大政奉還を上奏し、内戦を避けようとした(実際は鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争が起きた)が、日本を血みどろの内戦状態にしたかった「彼ら」がこの事実に怒り、龍馬暗殺を起こした」と見ていましたが、どうやらこの大政奉還も「彼ら」の想定内であり、龍馬暗殺は「知りすぎていた男」に対する単なる“とかげの尻尾きり”だった、というのが真相なのではないかと感じるようになりました。
「薩長と徳川の対立」というのも、全てが仕組まれた“出来レース”だったのでしょう。だからこそ大政奉還後の明治になっても、徳川家の末裔たちは“ご立派な名誉と地位”を授けられているのでしょう。
徳川幕府から明治へと移行する日本の重要な転換期に、ここに述べたようなフリーメーソン人脈が蠢いていたことは疑いようがありません。
その一環として、例の孝明天皇弑逆事件・明治天皇すり替えがあったことは言うまでもないことです。この事件の主犯と思われる伊藤博文や岩倉具視がフリーメーソンであったか否かは分りませんが、「彼ら」のエージェントであったことは疑いようがないでしょう。
どうやら日本が「彼ら」の“ゲームの駒”として戦わされていたのは、日露戦争の時からではなく、幕末の時代からだったようです・・・。
いや、それよりずっと前の太古の時代からかもしれません・・・。

最後に、これらの「幕末・明治維新の真相」を証明する事例として、徳川家とロスチャイルド家が2014年の現在も交流しているという記事を紹介します。
ただ気になったのは、徳川家広氏が「一番好きな歌手がアンジェリーク・キジョーだ」と答えている箇所です。私は大変複雑な心境です(笑)。
徳川家広氏の音楽に関する素養がどれだけあるのか私は知りませんが、アンジェリーク・キジョーのことは「彼ら」に教えてもらったとしか私には思えません(笑)。
キリスト教(実際はユダヤ・カバラ教)を禁止して国を守った家康も、今の徳川家の現状を見て、草葉の陰で泣いていることでしょう。
私には家康の心の声が聞こえてきます。
「たとえ徳川家が滅亡に追いやられても、武士の魂だけは決して忘れてはならない」と。





http://bylines.news.yahoo.co.jp/kataokahidehiko/20140501-00034967/
徳川家と英国ロスチャイルド家による日本史と世界史がリンクする奇跡の対談が実現
-シャーロット:私は、世界がより平和になると良いと、つくづく思います。誰かが魔法のようにしてくれれば良いのですが、残念ながらそれは不可能です。もし世界で人種や宗教に拘わらず、皆が仲良く暮らせたら、世界はもっと平和になるのです。それには文化の力が大切だと思います。私は音楽家なので、音楽が人々に人間本来持つ優しさをもたらすことを信じて、それに貢献できたら幸せだと思います。
-徳川:一番重要なのは、貧困をどうやってなくしていくか、ということだと思います。日本国内に関しては、若年者の雇用状態が悪いですね。先が全く見えない若い人達が増えている。ですから、どうやって国内の富を均平にさせるか、これが一番重要だと思います。それから文化ですが、戦争が長期化しているソマリア等アフリカ全体や犯罪が多いラテンアメリカでも音楽は社会を癒す力を持っています。私が一番好きなのは南アフリカワールドカップ開会式で歌ったアンジェリーク・キジョーですが、こんな素晴らしい歌手が生まれること、そういう力を信じたいと思います



あんたら、よく言うわ(爆)





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NoTitle

こんばんは☆
長州田布施教条主義は今も生きておられまして、薩摩の田布施と一緒になって、頑張っておられます…(でももうすぐ死に絶えそうですけど)☆

それにしても連中の「非日本的」な所は変わりまんね。
武士道を貫き通して死んでいった会津藩士を、埋葬する事も許さず風葬に処した連中ですから…東北の人間は例え彼らを赦しても、そのこと自体は決して忘れないでしょうね…☆

「罪は天が裁く、人は人を裁けない」
この言葉が本当なら、これから色々と起きてくるでしょうね…☆

Re: NoTitle

こんばんは


> 長州田布施教条主義は今も生きておられまして、薩摩の田布施と一緒になって、頑張っておられます…(でももうすぐ死に絶えそうですけど)☆

いくら表面上は隠し通しても、ネット等を通して「日本人成りすまし売国奴勢力」の正体は、多くの人びとに知れわたっています。死に絶えるのも時間の問題でしょう。

> それにしても連中の「非日本的」な所は変わりまんね。
> 武士道を貫き通して死んでいった会津藩士を、埋葬する事も許さず風葬に処した連中ですから…東北の人間は例え彼らを赦しても、そのこと自体は決して忘れないでしょうね…☆

「非日本的」を飛び越えて、「非人間的」行動のようですね。決して許すことはできません。

> 「罪は天が裁く、人は人を裁けない」
> この言葉が本当なら、これから色々と起きてくるでしょうね…☆

本当に「善なる神」が存在するならば、必ずや裁きがあるでしょう。
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