私達の先祖は飛騨からきたと代々言い伝えがあります - 日本人のルーツ

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私達の先祖は飛騨からきたと代々言い伝えがあります

「日本起源の謎を解く」①山本健造


1991年の書である。以前、太田龍氏が著書の中で「飛騨高天原説」に触れておられたので少し関心を持っていたが特に調べていなかった。
そんなことは忘れていた頃に、Misaki-1167さんからこの説に関するコメントをいただき、ご推薦いただいたため読んでみた。
複数回に分けて、価値ある箇所と疑問に感じた箇所を記す。今回は価値ある箇所を一部引用する。



<価値ある箇所>
*安田喜憲(よしのり)氏の「湖底の泥中(でいちゅう)の花粉の研究」により4万年前からの植物の繁茂の変遷が手に取るように判定されるようになりました。それから推定すれば8590年前より地球上の温度が上昇を始め、5670年前頃より飛騨の高地は人類が住むのに楽になり、4500年前(縄文中期)には今より7度も気温が高くなり、下界は蒸し暑く飛騨に高度の精神文化の華が開いたと推定されます。
その頃、比較的冷涼であった東北地方に凸状の石器の石冠(せきかん)を奉じて集団移動をはじめたと推定されます。全国に219個発見されている石冠の中67個は飛騨に発見され、新潟県中郷村の主として墓地より65箇出土し、残りは東北地方にバラまかれています。
ところが四千年頃をピークとして温度が下降し3千年頃から2500年頃までに降雪を見るに至り、石器の凹状の御物石(ぎょぶついし)を奉じて暖地(だんち)への集団移動がはじまりました。御物石は全国より144個(1976年現在)発掘されていますが、その中74個は飛騨より発見され、飛騨に近い美濃、富山、石川から43個が発掘され、その他は暖地にバラバラと発見されます。これらの石器は彫刻が施され先祖を祀る御神体と推定されます。
その後、2100年頃に二度目の大雪と厳寒が襲い、そのために集団でヤマノフモトへゆこう運動が起こり、飛騨政権の移動が起こったのが「古事記」や「日本書紀」に神話伝説として残る「天孫降臨」と推定できます。この時は石を奉ずる風習はなかったと推定されます。「古事記」では鏡になっています。
「出雲の国譲り事件」とは、以前より飛騨政権と出雲政権は政略結婚を重ねていて、天照大神(ヒルメムチ)の弟、スサノオが出雲に婿入りした頃、ウラジオストックの近くに今も住むオロチ族の荒くれ男が出雲で砂鉄をとり、刀を造っていて女狩りをして荒びたのを酒を呑ませて酔い崩れたところを切ったのが、オロチ(大蛇とお伽話化される)退治です。その後、飛騨と出雲の結婚問題のもつれは談判の末「出雲の国譲り」が断行され、それが神話となったのですが、神話ではなく事実なのです。
同じ頃、九州では外国の民族が三巴(みつどもえ)となり睨み合い、このままのしておくとその勢力が本土を征服する心配があったのです。今後どうするべきか飛騨の安川原(やすかわら)で、繰り返し相談が持たれ、このまま時間がたてば大変なことになるので、九州の問題を早く解決せよ、その後飛騨は山奥であり、雪が降ってくるようになったのでヤマノフモト(大和)へ政府を移す相談が決まりました。その中心になった御方が後に天照大神と敬われる肇国(ちょうこく)の大恩人ヒルメムチという一女性であったのです。
相談した結果に従って、天照大神(ヒルメムチ)の子や孫を中心にして、大和に都を開くべく開拓に取りかかりました。飛騨政権の後継邇々芸命(ニニギノミコト)は九州解決の為、大勢引きつれて九州の高千穂へ向かったのです。天照大神(ヒルメムチ)より「平和裡に解決せよ」と命令されている為、三十年余りも経って、継邇々芸命(ニニギノミコト)の孫に当るサヌ命(神武天皇)が大和への帰還を果たすのです。

サヌ命(神武天皇)が大和入りしようとした時に、相手が何者か知らず射ち合いとなりサヌ命(神武天皇)の兄イツセ命が殺されました。後、話し合いでサヌ命(神武天皇)が帰られたことが解かり、責任者の長髄彦(ナガスネヒコ)を軟禁したのです。「日本書紀」では長髄彦(ナガスネヒコ)は殺されたことになっていますが、飛騨の口碑では「殺したことにして東北へ流した」と伝わっています。
長髄彦(ナガスネヒコ)は家来をつれ東北へ行き、そこでアラハバキ王国を建て、そこにヤマト城を築いたのです。その城跡は20数年前に土木工事の為崩されたのは誠に残念です。その子孫に元秋田子爵、故阿部晋太郎氏(元自民党幹事長)等の名士があります。
サヌ命(神武天皇)が大和へ帰還される時次兄のイナヒ命や三兄のミヤケマ命を九州に残して九州のヤマト国を治めさせました。その子孫に邪馬台国(ヤマタイコク)ではなく邪馬臺国(ヤマトコク)の卑弥呼がでたのです。
天照大神はサヌ命(神武天皇)の4代前の先祖であり、卑弥呼は九州の大和を兄弟にまかせたその子孫であり全く時代が違う別人なのです。

天皇の在位年数の科学的計算法を安本美典博士の著書に学び、更に新法式を編み出して計算してみますと、天照大神(ヒルメムチ)の在世時代は卑弥呼の時代より約266年以上昔でなければなりません。西暦前27年以上前の実在の人物です。そして神武天皇の即位は西暦33年より前でなければならぬことになります。

*飛騨のアルプス麓(ろく)の名家に、素晴らしく名誉で重大な口碑や絵文字のような記録が残されていて、天皇家の先祖につながることなので他人に漏れると、近い人々には大法螺(ほら)吹きとして苦笑され、時代によっては不敬罪として投獄され、記録は没収焼却されてしまう事は決まっているから、長男だけに、それも成熟して、他に漏れる心配がなくなってから読ませるという厳しい制限付きの古記録があったのです。それをある事情によって、他人である私が口伝され、それを筆記して本棚に納めて50数年もたちました。その口碑が正しいかどうか、全国に旅して調査を重ねるに従って「古事記」や「日本書紀」にボカシてある所が、はっきりと判かって来ました。さらに、口碑にあることが正しいという証拠が次々と出てきたのです。

天照大神(ヒメルムチ)の弟のスサノオノミコトがオロチ族の荒くれ男達を退治して、それらの鉄剣を献上がてら出雲から飛騨に帰った時に、今後の出雲政権と飛騨政権が平和にいく為に互いに子を結婚させるという契約(うけい)をしました。「古事記」では姉の天照大神(ヒメルムチ)と弟の素戔鳴命(スサノオノミコト)が結婚して一度に男5人、女3人の子を産んだと思わせるような文章になっています。飛騨政権からは長女の多紀理姫(タキリヒメ)が出雲の大国主に嫁入りして二人の子が出来たのに大国主は須勢理姫(スセリヒメ)を正妻にする為に父素戔鳴命(スサノオノミコト)の許可を得ようと訪問した時、父は怒って大変に叱ったが、父の言葉を聞かずに須勢理姫(スセリヒメ)と逃げてしまうので素戔鳴命(スサノオノミコト)も仕方なく泣き寝入りし世を去るのです。
「古事記」ではなぜスサノオノミコトが大国主を叱りいじめるのか全然わからないのです。
正妻の座を取られた多紀理姫(タキリヒメ)は二人の子を残して飛騨に帰ってきたことが大騒動になりました。残した男の子は阿遅志貴命(アジスキノミコト)、妹が下照姫(シタテルヒメ)といいます。阿遅志貴命(アジスキノミコト)は出雲の王様になる座を追われてカモといわれました。カモとは継子(ままこ)という意味です。カモ命と下照姫(シタテルヒメ)が年頃になる頃まで、飛騨政権はカモ命を出雲政権の後継者に据えるように交渉を続けたが、うまくゆかないので、若彦(ワカヒコ)を全権大使格で出雲に遣わしたのですが、若彦は出雲の権勢に恐れをなして言い出さず、下照姫の美しいのに惚れて子を孕ませて、出雲の王になろうと狙っていました。
飛騨では8年たっても何の返事もないので高木命(タカギノミコト)の姫、雉名鳴女(キジナナキメ)を探偵に出されました。若彦は雉名鳴女(キジナナキメ)を見覚えがあったので、飛騨に秘密のばれるのを恐れて雉名鳴女を射殺しました。この矢を引き抜いて御伴の女が持ち帰ったところ、この矢は髙木命が若彦に餞別として与えたものでした。
若彦の悪事がはっきりしたので、密使を遣わして若彦を射殺しました。
若彦がなぜ射殺されたか知らぬ下照姫と兄のカモ命は飛騨に帰れば祖母の天照大神(ヒルメムチ)や、母多紀理姫(タキリヒメ)にも面会して葬式ができると思って、若彦の遺骨をもって美濃の飛騨路まで辿りつき若彦の妹の家に泊まった時に、若彦の反逆を知り、逆賊の遺骨を飛騨に持参できないので、そこで葬式をすることにしたのです。

・・・・・(中略)・・・・・
カモ命や下照姫の子孫の親子、孫の3人が神武天皇の大和入りの時、熊野の迂回路を案内して大功を立てたので、八咫烏(ヤタガラス)の称号をもらいました。それで下照姫の住みついた村を大八咫(おやだ)村といいました。今の美濃市大矢田(おやだ)です。今、天照大神(ヒルメムチ)より多紀理姫→下照姫→八咫烏の親子孫3人と血を受けついだ血統は、辻に立って道案内をした家として家紋は三羽烏となり、辻氏がこの村に栄えているのです。
兄のカモ命は出雲に帰っても継子で跡継ぎになれないし、飛騨にも入れないので美濃を開拓したのです。そこが美濃加茂市であり、御手洗姫(ミタライヒメ)の住んだところが御手洗(みたらい)町です。
・・・・・(中略)・・・・・
飛騨の入口に若彦、下照姫、カモ命の遺跡があり、飛騨には雉名鳴女(キジナナキメ)の生故郷(うまれふるさと)があります。そして「古事記」の語部(かたりべ)として、この物語を伝えた稗田阿禮(ヒダノアレイ)の住んだ阿禮屋敷(アレイヤシキ)が飛騨路の峠の下に今も残り、その子孫の阿禮清一(アレイセイイチ)氏が今も健在です。稗は音では「ヒ」であり、訓では「ヒエ」です漢字が輸入された当時は「稗田阿禮(ヒダノアレイ)」と書いていたのを、後世になって稗田阿禮(ヒエダノアレイ)と読み違えてきたと推定されます。

出雲政権は飛騨政権との話し合いの談判に屈して政権を飛騨に返上したのが「出雲の国譲り」です。それからヒルメムチ(天照大神)の孫邇々芸命(ニニギノミコト)は「九州でよその国の人々が三巴(みつどもえ)になって戦っていて、それが終わると本州に攻め上り、日本古来の民が危ない、行って話し合いで治めよ」とのヒルメムチ(天照大神)の命を受けて若い男女大勢つれて山を下るのが「古事記」の天孫降臨です。

その為、鵜萱葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の子サヌ(神武天皇の幼名)は邇々芸命(ニニギノミコト)の本当の孫に当るのですが、「古事記」ではヒコ孫(4代目)になっています。
サヌ(神武)が、高天原の会議で決議されている通りに近畿地方の大和に帰還して都を開く為に九州に一族の一部を残して九州の統治を任せて、他の一部をつれて日向を出発されたのです。九州に残された政権が九州の邪馬臺国(ヤマトコク)であると私は推定します。サヌ命(神武天皇)が出発された地にはっきりと口碑が残っており、今は記念碑があります
。・・・・・(中略)・・・・・
飛騨の人々から見れば奈良の都の予定地はヤマノフモトであったのです。ヤマノフモトはヤマトと約(つづ)まったのです。
この地大和には饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が先に飛騨から来て開拓して待っておられ、長髄彦(ナガスネヒコ)の妹を后にしておられたのでした。饒速日命は邇々芸命の兄です。弟邇々芸命の孫と対面され、互いに天照大神(ヒルメムチ)から授けられた十種(とくさ)の神器(じんぎ)を示し合い、同族であることが証明されたのです。長髄彦の大軍は陣を張り将(まさ)に合戦になる寸前だったので、ゆっくり相談する間もなく長髄彦を軟禁して全軍の引き上げを命じたのです。この時の様子は事情を知らぬ者には如何にも不思議だったので、神武天皇の弓に金の鵄(とび)が止まると賊軍は目が眩(くら)がって
一目散に逃げたという象徴的なお伽話となり、戦場で勲功のあった兵士に贈られる金鵄勲章(きんしくんしょう)の由来となっています。


神武天皇が天皇(スメラノミコト)の位につきなさる時、飛騨の位山の先祖の霊に報告され、位山の一位の木の板を「位板(くらいいた)」として授けられたのです。今の辞令に当ります。後に「手板(ていた)」と呼びました。位板は矩形(くけい)の板だったのです。後に中国より笏木(しゃくぎ)が輸入されました。笏木は文書を書いた紙をはっておく為のもので位板より長い板で手に持つところはせまく削ってあります。位板と笏木は本来は別のものですが、代々の天皇の即位式には位山の一位で謹製された笏木が献上されるようになったのです。
幼名サヌが大和に入られてからヤマトイワレ命と改名され、更に天皇(スメラミコト)の位につきなさる時は飛騨から大勢の男女が大和にゆき御殿をつくり御仕(おつか)えしたのです。これが認められて飛騨の匠となったと推定されます。
橿原神宮の傍(かたわら)にはヤマトの語源と推定される山本部落が今も残っています。その近くには飛騨町、上飛騨町、飛太郷、飛騨庄、飛田、日多、比田、斐田、日高(ひだ)、疋田(ひだ)、蟇田(ひだ)、辟田(ひだ)、があり、吉野山に飛騨など飛騨人の住んだ地名が今も残っています。
調査に行った時、飛騨町の老翁(ろうおう)岡山薫氏(上飛騨町72番地在住)が「私達の先祖は飛騨からきたと代々言い伝えがあります」と言われました。

この方面の古代史を綴った書物が和田氏の宅に秘蔵されていて、それを公にされて、「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」と名づけられています
この書の中を読んで見ますと、長髄彦の軍は、神武天皇の軍に敗れて、大和より北方の津軽(東日流)に逃げて来たので「大和を奪った神武天皇は仇敵である」と言う意味の事が書いてあります。この為に、この書は戦前は禁書とされ、家を継ぐ者一人だけが読む事を許され、妻にも兄弟にも漏らさぬ事を血判で先祖に誓ったのでした。

鈴鹿から伊勢のあたりには飛騨の雲の上から下山してきた人々(「古事記」に所謂、天孫族)が多く住みつき皇室の祖先の天照大神を讃迎(さんげい)する情熱が高かったので、神風の吹く地と呼ばれたのであります。
伊勢の国には桑名市に稗田(ひだ)、鈴鹿市に稗田、肥田(ひだ)、多気郡に疋田(ひだ)、飯高(ひだ)などヒダと読める地名を始め、古代の神々(先祖)の名にちなんだ地名がたくさん残っています。大昔から飛騨の人々は長良川を下った所にある伊勢の地に大勢住み着き、都の出雲神道が盛んになった時も、天照大神の御恩を決して忘れることがなかったのです。それで倭姫(ヤマトヒメ)は伊勢の地に天照大神をお祀りされたのです。





日本起源の謎を解く―天照大神は卑弥呼ではない日本起源の謎を解く―天照大神は卑弥呼ではない
(1991/08)
山本 健造

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COMMENT

NoTitle

故山本健造氏のお弟子さんである中西正矢氏のブログや著書もオススメです。長髄彦の子孫は、阿部氏です。1555年毛利元就が陶晴賢と巌島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方に付いた船の調達人がガンと称する帰化人でした。
毛利は、その功績により、ガンを田布施の代官に召し上げmした。ところがこれが悪代官でした。岸要蔵こと李要蔵を曽祖父に持つのが岸信介で岸の娘婿が、文鮮明と関係有る晋太郎という説も有ります。長髄彦とは、無関係ですね。

Re: NoTitle

> 故山本健造氏のお弟子さんである中西正矢氏のブログや著書もオススメです。長髄彦の子孫は、阿部氏です。1555年毛利元就が陶晴賢と巌島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方に付いた船の調達人がガンと称する帰化人でした。
> 毛利は、その功績により、ガンを田布施の代官に召し上げmした。ところがこれが悪代官でした。岸要蔵こと李要蔵を曽祖父に持つのが岸信介で岸の娘婿が、文鮮明と関係有る晋太郎という説も有ります。長髄彦とは、無関係ですね。

興味深い情報を有難うございます。
中西正矢氏のブログ等、また見てみようと思います。

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