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ソウルマン

「「日本のあらゆる芸術の発生は、阿弥芸術といってよいくらい彼らによって創案されたものである」といわれているが、真相はもっと悲しいものであるし、喜怒哀楽の四つの感情の中で喜や楽からは芸術は生まれはしないものである。 なんともならない憤りをぶっつけたり、哀しみをうたいあげてゆく怨念が、やがて芸術になってゆくのである。」by八切止夫

「武家意外史」②(最終回)八切止夫

前回に続く。以下、一部引用する。


*俗に家康の黒幕は明智光秀が変身した天海僧正だったといわれる。しかし家康の側近にいて参謀役をつとめていたのは、鷹匠あがりの本多正信とこの道阿弥である。が、本多はのち宇都宮15万石になったが、山岡は、山城半国の守護職だったのに、家康のために甲賀組の総帥としてキッシンジャーのようにその生活を謎のままおえていった男である。伊賀の服部半蔵は身分は低いがその名は広く知られているのに反し、まったく彼の名は知られていない・・・ようである。

*猿女(さるめ)族というのは、騎馬民族の入ってくる前から住みついていた古い原住民なのである。
『続(しょく)日本紀』によれば、語部(かたりべ)として諸国を流浪する女芸人のようなものだったらしい。
が、百済からの人々の勢力が強化されてきて反体制の原住民の暴動を押えるため諸国に関所を設け、取り締まるようになった8世紀のことである。
彼女らは今でいえば新しい戸籍を取得するため、北鮮系の小野姓を名のる男たちを拐(かどわ)かして虜(とりこ)にし、自分らもそれに改姓。うまく関所を通り抜けていたという。そして今日、
「パンツ」のことを猿股というのも、猿女(さるめ)族の女共が着用していた猿股引の転化だと、
『事物起源集』にはでているが、禁中に仕えた者らは、縫殿寮(ぬいどのりょう)に所属する女嬬(にょじゅ)として、
「大嘗祭」や「鎮魂祭」の式典には女力持ちとして平安朝までは奉公していた。そこで、
『明解古語辞典』などひけば、猿女の名前だけは古代の女官として出ている。しかし、
『俗語解例集』では、もっと詳しく、「さるめ=嬶(かかあ)天下の蔑称。古代、猿女族とよぶ女尊男卑の部族ありて、夫を奴隷のごとく扱ったからである。世俗に『絵本太閤記』などで木下藤吉郎のことを猿面冠者(さるめんかんじゃ)とするのも、容貌が猿に似ていたというのではない。その妻女の方が身分が高く威張っていたことを現すものであり、『宇治拾遺物語』の巻十にでてくる猿丸から転じた猿丸太夫(さるまるだゆう)も、やはり嬶(かかあ)天下に悩まされた男の意味であった」
と、いった具合になって居るのである。

*また三井寺光浄院の出で、元亀3年6月8日付けで山城半国の守護職にまでなっていた山岡備前守が、「道阿弥」の名で知られているのも、それなりの訳けがある。
日本もヨーロッパと同じで中世までは宗教戦争のくり返しだったが、足利政権は仏教体制ゆえ、南朝の遺臣くづれや神徒派の者が、中央官庁である室町御所へ奉公を願った際には、
「まず御仏を拝みまいらせ南無阿弥陀仏に転白(向)すべし」
とし、頭をすぐ丸めさせ僧体になることを命じ、その名も強制的に何々阿弥とつけさせたからである。
道阿弥の父景之は千阿弥、その父景就も沙阿弥の名をつけられているのもこの為である。
道阿弥の祖先は勢多の大橋の橋番から、下剋上の乱世に便乗して橋の近くに砦まで築くようになったから、逃げるとき足利義昭は保身のために守護を命じ味方にしたのであるが、それ迄は、「反体制の者の子孫に武力をもたせては・・・」との懸念から、阿弥の名のつく転向者へは、
「茶湯、生花、絵画、庭作り」といったことのみを限ってさせていた。歴史家のとくように信仰あつく、みずから阿弥を名のり風流事に専念していたのではないのである。
「日本のあらゆる芸術の発生は、阿弥芸術といってよいくらい彼らによって創案されたものである」といわれているが、真相はもっと悲しいものであるし、喜怒哀楽の四つの感情の中で喜や楽からは芸術は生まれはしないものである。
なんともならない憤りをぶっつけたり、哀しみをうたいあげてゆく怨念が、やがて芸術になってゆくのである。




(管理人)
山岡道阿弥について、こちらのサイトをから引用する。

http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/118.htm
山岡道阿弥は、栗東武士として名高い瀬田城主の山岡景之の四男として生まれた。 山岡家はもともと、甲賀郡の毛牧村を本拠地とした地侍で、栗太郡、甲賀郡など湖南地方に広い勢力を築きあげていた。 父景之は文明・永正年間の頃、六角氏綱の下で「湖南の旗頭」を勤めたという。 この頃には、要衝瀬田の唐橋を支配する瀬田城を拠点としていた。

道阿弥は、はじめ三井寺に入り、暹慶と称し光浄院の住持となったが、 戦国時代の動乱によって還俗を余儀なくされ、景友を名乗り織田信長に仕えることになる。

天正元年、武田信玄は満を持して入洛の途についた。 すでに信長と不和となった将軍足利義昭もこれに同調して軍を起こす。 道阿弥も義昭の誘いによって石山に要害を構えて、柴田勝家、明智光秀に率いられた織田の軍勢に対抗するが、 敗れて瀬田城を逃れる。巷間伝わる信長の気性からは考えられないことだが、 その後許されて、信長の旗下に加わることになった。

その後、信長が明智光秀の軍勢により本能寺で倒れるや、瀬田橋に火を放ち、安土城に向かう明智軍を防ぎ、 その功により秀吉のお咄衆として仕えている。秀吉から伏見城下に屋敷を拝領した場所は、 現在の近鉄「桃山御陵前駅」周辺に当たり、今も「道阿弥町」という名前で呼ばれている。

しかし、秀吉の死後、急速に徳川家康に接近する。 関ヶ原の合戦には、石田三成方の長束正家の甲賀水口城を降し手柄を挙げ、 伏見籠城戦に参加した甲賀武士の子孫百名と九千石を家康から賜る。 道阿弥の子孫は江戸時代になっても幕府に仕え、将軍の側近である御書院番などを勤め明治維新を迎えている。



こちらからも引用する。

https://www.wikiwand.com/ja/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E6%99%AF%E5%8F%8B
山岡 景友(やまおか かげとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶、大名、武将。豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)。江戸時代初期の大名で、常陸国古渡藩の初代藩主。後年、再び剃髪して道阿弥と号したため、山岡 道阿弥(やまおか どうあみ)の名でも知られる。
天文9年(1540年)、六角氏家臣の勢多城主山岡景之の四男として誕生した。初名は景宗。甲賀を出自とする一族の出身である。
領内にあった園城寺光浄院の住持となり、号を暹慶(せんけい)とした。室町幕府の奉公衆と親しく、政所代の蜷川親長とも親交があった。
15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられ、『耶蘇通信』では「将軍の寵臣」との記述がある。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死すると、兄・景隆と共に行動し、明智光秀の降誘を拒絶。瀨田の橋を落とし、浦々の川船を隠して、その軍の近江進撃を妨害した。その後、兄らと勝家に与し、賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉により景隆が改易されたため、景友も失領した。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄方に属して、佐久間信栄に従って信雄方の伊勢国峯城を守った。しかし程なく天下人に台頭した秀吉の家臣となって、所領を安堵され、後に御伽衆にも加えられた。再び剃髪して道阿弥と号した。なお、領地の関係で大津城主の京極高次とも親しかった。
慶長3年(1598年)の秀吉の死により遺物金5枚を拝領。以後は黒田長政らを通じて徳川家康に接近し、度々、その使者として活動。
慶長4年(1599年)3月、家康の使いとして病床にあった前田利家を訪問するため大坂に行き、藤堂高虎宅に居候して家康方諸将との連絡役を務めた。12月8日には家康の茨木放鷹に扈従した。
慶長5年(1600年)、7月の家康の会津遠征に同行。畿内にいた弟・景光には石田三成が挙兵した場合には伏見城の籠城に加わるように指示した。開戦すると道阿弥は先だって伊勢に下向し、福島高晴の軍に加わって伊勢長島城の守備に参加した。関ヶ原の戦いの本戦で東軍が勝利したと知ると伊勢長島より関ヶ原に向かうが、途中で長束正家の軍勢に遭遇。追撃する東軍諸将(池田長吉、亀井茲矩)の軍勢に加わってこれと戦い、正家が逃げ込んだ近江水口城の攻略でも功績があった。さらに伊勢桑名城攻略を進言し、九鬼守隆・池田長幸・寺沢正成とこれを攻めた。桑名城では氏家行広・行継兄弟、寺西直次らが籠城したが、東軍が迫ると投降した。神戸城の滝川雄利、亀山城の岡本宗憲は、逃亡、投降したので、両城を接収した。また、水口城の落城の際に正家の弟・玄春を捕虜にしたが、玄春は西軍の伏見城攻囲の際に甲賀の士の妻子を磔にしていたので、大津で拝謁した家康の許可を得てこれを斬った。家康は、近江国内で9,000石と伏見城落城で討ち死にした甲賀の士の子孫10騎100卒からなる甲賀組を、道阿弥に与えた。
同年10月、小野木公郷の籠もる福知山城攻囲に派遣され、降伏開城して城下の浄土寺に蟄居していた公郷を自害させた。この功績により、家康より肩衝の茶入(道阿弥肩衝)を賜り、伏見城の新宮門と邸宅を与えられた。また高野山に籠った京極高次の下山説得にも尽力した。
慶長8年(1603年)、伏見邸宅に家康が訪れた時、良光の短刀を授けられた。
同年10月3日、加増され、常陸古渡1万石の大名となったが、12月20日に死去。享年64(62とも)。婿養子の景本は幼かったので嗣子として認められず取り潰しとなり、藩は無嗣除封で改易となった。徳川家の御家人だった甥・景以(景本の実父)が養子となって家督を継ぐことが許されたが、甲賀組を預かるも、禄は3,000石であった。




山岡道阿弥は、信長、秀吉、家康の“共通のお気に入り人物”だったようだ。
その理由の一つが彼の出自にあるだろう。
元来は仏教勢力ではなく神徒派であったということだ。
はい、唐系や百済系ではない日本原住民系であったということだ。
これは、信長、秀吉、家康に共通する出自である。
そして、「阿弥と名のつく者は仏教勢力から頭をすぐ丸めさせ僧体になることを命じられた者であり、強制的に何々阿弥とつけさせられた。日本の芸術は外国人支配者勢力から差別されてきた日本原住民の哀しみや憤りから生まれた」という“学校教育が伝えない事実”を、日本人は覚えておく必要があるだろう。


評点:80点







八切止夫


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Posted byソウルマン

Comments 2

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mint

ソウルマンさん、こんにちは。

山岡道阿弥…大変興味深く読ませていただきました。

仏教勢力ではなく神徒派=唐系や百済系ではない日本原住民系なんですね。
自分のルーツも本気で探りたくなりました。

観阿弥 世阿弥は少し知っていましたが、

>阿弥と名のつく者は仏教勢力から頭をすぐ丸めさせ僧体になることを命じられた者であり、強制的に何々阿弥とつけさせられたとは、全く知りませんでした。

日本の古典音楽、日本原住民の哀しみや憤りから生まれたんですね。
これまで深入りせずに触れてきましたが、見識が深まりました。

>猿女族とよぶ女尊男卑の部族ありて、夫を奴隷のごとく扱った….

こちらも知りませんでした!
猿女氏についても調べてみましたら、とても面白かったです。
ちょうど先日から古事記や日本書紀が気になっていたので、ソウルマンさんの過去記事もまた探ってみたいと思います(*⁰▿⁰*)

2024/04/09 (Tue) 14:48
ソウルマン

ソウルマン

Re: タイトルなし

mintさん

おはようございます。

山岡道阿弥にしても、猿女族にしても、
私もこれまで全く知りませんでした。
恐らくほとんどの日本人は知らないんじゃないでしょうか。
どんなことでも未知の事実を知るということは面白く嬉しいものですね。
こういったことでmintさんと意見交換ができると、さらに会話の幅が広がると思うので、とても嬉しく思っています。
へたくそな過去記事も、ゆっくりと、辛抱強く(笑)、見て頂けたら嬉しく思います。
どれもその時の思いつきで書いているE加減なものですが。
今となっては何を書いたかもほとんど覚えていませんが(笑)


2024/04/10 (Wed) 09:48