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ソウルマン

「ミャオ族をはじめとしたタイ系の中国南部の少数民族が、日本に来訪し、古代日本人となった」byソウルマン

「日本民族の血~日本民族と大和朝廷の誕生~」①辻田禎助


1976年の書である。以前ある方からコメントをいただき、本書を御薦めいただいた。
私は「いつか読ませていただくかもしれません」とお答えしたが、6年以上たって読んだ。
複数回に分けて記す。以下、一部引用する。今回は、(「中国の少数民族」村松一弥著)より著者が本書で紹介したものを記す。


*ミャオ族
日本神話のイザナギ・イザナミ二神の国生みの話によく似た神話を、好んで語る民族が、中国西南山地に住んでいる。大洪水から生き残った兄と妹が結婚して、子孫をふやしたという話を伝えるミャオ族がそれだ。
イザナギ・イザナミ二神は、はじめ不具の子である蛭子(ひるご)を生む。ミャオ族の祖先となるこの兄妹も、目も鼻もない子を生む。

日本でいえば、盆踊りに似た行事も祭りの期間に行われる。
トン・ニオ(太鼓踊り)の太鼓は、大きな木の銅の両側に皮を張ったもので、日本の大太鼓に似ている。大きな村になると、木の太鼓(木鼓(ニオ・タウ))のほかに、ニオ・クォという銅鼓があって、これを用いる。銅鼓は、鼓面が地面に垂直になるように、三角に組んだ木のわくにつるし、両手に木のバチを持ち、右手で鼓面を、左手でそのへりをたたく。このさい、別の一人が、たたく第二拍子ごとに銅鼓の底に大きな木桶をあてがって共鳴させ、ゴン、ゴォーンと音を遠くまでよく響かせるのである。
木鼓も銅鼓も使わないときは、山中の洞窟にしまっておいて、ミャオの領域の鎮めとし、つぎの祭りまでは勝手に動かしてはならなかった。動かすと天災・人災がおこるとされているのである。
この銅鼓は日本の銅鐸とよく似ている。日本の歴史家は、銅鐸についてつぎのようにいっている。
銅鐸は釣鐘を平たく押しつぶしたような、扁円筒形の青銅製品で、上部に孔があり、吊り上げて鳴らしたものと思われ、雨乞いなどに用いたものかといわれている。
この銅鐸は近畿を中心に、中国地方、四国の東半部、中部地方の西半部に分布している。弥生式文化の誕生の地とも考えられる。北九州にはない。また、日本に青銅を伝えたと考えられる大陸にも見ることはできない。日本でだけ見られる銅鐸は、いわば突然に出現したかのようである。
これに似た現象が、古来中国の南部や東南アジアの稲作諸民族の間に見られる。
また銅鐸は、これまで約200年から300年近く出土しているが、明確に集落のあとからは発見されず、多く部落から離れた、山ふところの目だたない場所の斜面に穴を掘って埋めてある。もし部落にとって貴重な宝器であるならば、なぜ部落から離れた山中に、これを埋没しておいたのであろう?
以上のように疑問視され、またいろいろと推理されているのである。ミャオ族の銅鼓と日本の銅鐸、そして、しまう場所の不思議な一致、これも偶然の一致であろうか。稲作をこの日本にもたらしたのがミャオ族であったとするならば、大和朝廷の部族の祖先がミャオ族と関係があったとするならば、中国や朝鮮には皆無で大和地方に忽然と現れたことも、その銅鼓の出土する場所に対する謎を解くのも簡単なことではなかろうか。
歌垣やルーション踊りは、ナウ・フー・ナウのほか、正月、3月3日、8月15日などにも行われ、いずれも、ミャオの口頭伝承の中で、生き生きと歌い語られている。みずからの文字を持たぬミャオ族は、そのかわり、口頭伝承を大事に育ててきた。
解放後に採集された民話をみても、日本の羽衣や、猿蟹合戦などとそっくりな話が見当たり、ミャオ民話の世界は日・中民話の比較研究上、見逃すことのできない宝庫といえる。

*タイ系諸民族
日本人はサシミが好きだが、欧米人はもちろん漢民族もたいてい苦手のようだ。ところが、西南中国の稲をつくる山間原住民の間には、魚を生でたべる習慣が広く行われている・
・・・・・(中略)・・・・・
つまり、タイ系の民族が住む西南中国の谷間は、われわれの稲作文化をつくりだしたふるさとといってもよいのである。
・・・・・(中略)・・・・・
モチゴメをウスでついてつくるモチという食品は漢民族には無いが、西南中国の原住水稲(すいとう)耕作民は日本人におとらず好んでつくる。

*チワン族
いまのベトナム人(キン族)の租でもあるという。嶺南一帯からベトナムにかけて発見される銅鼓という青銅製の大型の太鼓は、西甌越 (おうえつ) 系の水稲耕作民の、奴隷制古代文明の産物で、これが楚国の地にも伝わってミャオ・ヤオ系民族にも用いられるようになったものと思われる・
・・・・・(中略)・・・・・
チワン族もモチゴメを好み、3月3日の祖先の祭りの日には、赤飯(ハウ・ナン・ホン)をつくる習慣がある。ハウ・ナンはモチゴメを蒸したオコワのことで、ホンは赤。クラムという木の葉を用いて赤く染める。


*タイ系民族のプイ族
プイ族が住んでいるのは貴州省の南部である。
プイ族の正月はモチゴメがなければすごせない。まずモチだ。これは蒸したモチゴメを木の臼に入れて、木のキネをもった若者が二人がかりでつく。つき上ったモチは娘が手のひらにラードをぬって平たい円形にする。モチの中にはアズキアンやゴマアンを入れることもある。アンが入っていないモチは切って甘酒を入れてたべる。なんと日本のモチのつくり方、たべ方によく似ていることか。

*トン族
広西・貴州・湖南の三省が接する山岳地帯の奥深い山間河谷に、プイ族と同じように、古いタイ系の文化を伝えている人々が、まるで桃源郷のような天地を開いて生活している。
・・・・・(中略)・・・・・
トン族は、山すそに百戸から五百戸ぐらいの集落をつくり、谷川の水を山間の田にひいてモチゴメをつくる。池を掘って養魚もする。茶も栽培する。
・・・・・(中略)・・・・・
正月には、プイ族と同様の丸いモチをつくる。
・・・・・(中略)・・・・・
トン族婦人は、正装には、日本の着物の帯のような幅の広い、美しい帯をしめる。
・・・・・(中略)・・・・・
その昔話の中には、日本の猿蟹合戦や花咲爺とそっくりな話が伝わっている。




(管理人)
銅鐸をウィキで見てみる。

銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
語源となった「鐸」は古代中国大陸において用いられた柄付きの青銅器の楽器である。鐸は柄を持ちもう一方の手にもった打器で鐸を打ち鳴らして音をだした。これに対して吊るして使用される楽器は「鐘」と呼ばれる。
弥生時代の銅鐸は鐸もしくは鐘のような形をしている青銅器である。日本では古くから「銅鐸」と呼んだが、実際には鐘のように吊るして使用された。
銅鐸の名称がはじめて用いられたのは8世紀に編纂された続日本紀においてである。和銅六年(713年)に大和国宇陀郡において見つかった銅鐸が献上されたと記されている。他の記録でも銅鐸の名称が見られる。
大倭國宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而獻之高三尺口徑一尺其制異常音協律呂勅所司蔵之
大倭宇太郡波坂郷の人、大初位上村君東人、銅鐸を長岡野の地に得て献る。高さ三尺、口径一尺、その制、常に異にして、音、律呂に協う。所司に勅して蔵めしめたまふ。
12世紀の「扶桑略記」や14世紀の「石山寺縁起」など以後の記録では「宝鐸」と呼ばれた。

これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。文化庁による平成13年(2001年)3月末時点での主な出土数は以下の通りである。
• 兵庫県 56点
• 島根県 54点
• 徳島県 42点
• 滋賀県 41点
• 和歌山県 41点
一時は近畿を中心とした銅鐸文化圏という概念が存在したが、その後吉野ヶ里遺跡をはじめ北部九州で多くの銅鐸およびその鋳型が出土したことから、銅鐸文化圏の概念は否定された。特に、吉野ヶ里遺跡から出土した銅鐸およびその鋳型が伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)と完全に一致したことから、最近ではむしろ北部九州で作られたものが出雲にひろまったと考えられるようになった。
文様に加えて絵も描かれた銅鐸も少なくなく、約13%である(1997年2月現在)。

中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の地方国家「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸が出土している。日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
1世紀末ごろを境にして急に大型化する(IV式:突線紐式)。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種がある。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。
近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られた。2世紀末葉になると近畿式のみとなる。銅鐸はさらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる。
銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年(668年)、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。『続日本紀』には、和銅6年(713年)、大和宇波郷の人が長岡野において発見した記事があり、『日本紀略』には、弘仁12年(821年)、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。
なお『古事記』の国産みには小豆島の別名として大鐸姫が登場する。


見た目が鐸(持ち手付きの鐘)に見えるので楽器のように思うが、現在のところ用途は未だ定かではない。出土状況や表面に遺された痕跡などから使用方法はある程度推測されている。銅鐸はその形状ゆえ、初期の小型の物は鈕(ちゅう)の内側に紐(ひも)などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられる(西洋の鐘やカウベルと同じ)。

埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも二例ある)。一、二個出土する場合が多いが、十数個同時に出土した例も五、六ある。あまり注目される事が無いが頂上からの出土がないことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。松帆銅鐸のように海岸砂丘部に埋納されていたと推定される珍しい例もある。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説ある。
御神体として米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかという説]
しかし、これには反論があり「祀るための宝物ならそれなりの扱いを受けるはずで、そのような施しは見受けられない」ということである。だが、この場合の「施し」というものが具体的にどのような痕跡を指すのかが問題である]。
平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)
特に「聞く銅鐸」の紋様の不鮮明さは埋納時から発掘までの土中での経年劣化ではなく、磨く等の行為によるものとされており(佐原真)、祭りの度に繰り返し掘り出し磨かれたためという。かつての東南アジア方面(ベトナム等、しかし現在は不明)の銅鼓も日ごろ地中に埋めてあり、祭りの時や葬儀の時取り出して使用していたという。
大変事にあたり神に奉納したのではないかという説]
しかし十数個同時に出土する例は「大変事」の規模にあわせたために大量に埋納したのか、全国各地で出土するのは全国規模で弥生時代を通して「大変事」が頻発したのか、等を埋納状況などを踏まえた上で考える必要がある。
地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説
古代華南にそのような風習が見られた。
文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説
だが、そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である(古墳時代には同盟集団に配布したと思しき例が少なからずあるようである)。また、銅鐸の製造集団の負う文化的背景に由来すると思われる地域的な銅鐸の特徴差について考慮を全く欠いているという批判がある。
銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)
この「外敵」を後世の有力集団の祖先に擬する説もある。しかし、全国的に似たような埋納のされ方なので、慌てて隠したのであればいろいろな埋め方があるはず、という反論がある。2世紀後半頃に倭国大乱が起こり、3世紀前半に卑弥呼が邪馬台国の女王として倭の国々を統治している。
政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)
つまり、弥生時代の個々の村落を統合する新しい支配者が現れる等して人々がより大きな集団を構成する際に、それまでのそれぞれの共同体の祭儀から専制的権力者の祭儀への変化が起き、各々の村落で使われていた銅鐸を埋納したというものである。その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破壊銅鐸の出土はこのような理由によるとする。また、この社会・祭儀の変化とは次の古墳時代への変化のことと関連付けられることが多い。
銅鐸はしばしば破壊された状態で発見される。たとえば、兵庫県豊岡市の久田谷銅鐸は、5~10cm前後に砕かれた状態で発見された。奈良県桜井市の脇本遺跡からは、銅鐸の破片の他に銅鐸とは違う鋳型などがまとまって出土し、「銅鐸片を溶かし、鏡や鏃(やじり)などの青銅器に作り替えた」可能性が寺沢薫により指摘されている。また、銅鐸は発見後に破壊される例もある。たとえば、四区袈裟襷紋に絵画の鋳出された谷文晁旧蔵銅鐸は、表裏八区画のうち、片面上段の左右二区画が欠損している。これは「江戸時代に花器として銅鐸を使うことが通人の間で流行したことによる」と考えられ、同様にして発見後に破壊されるケースは「容器に転用したり吊り手を切断したもの、身を切断したものなど、その犠牲になったものは二十例ほどになる」という。
しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じることは危険である。


かつては遺跡が発掘されること自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがあった。そしてこの偏りが絶対であったうちは中京以西の列島を二分する「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」の存在によるものであると捉えられ、仮定としてではなく真剣に論じられていた時代があった。(さらに中国地方を「銅剣文化圏」としてこれを加え、三つの文化圏が対立しあっていたとする説もあった。)
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったことが多くなった。特に佐賀県の吉野ヶ里遺跡からは銅鐸の鋳型と銅鐸が出土した。また出土した銅鐸が島根県の福田型銅鐸と酷似しており、同じ鋳型で吉野ヶ里で生産された銅鐸が島根県まで移出された可能性が高くなった。さらに福岡県、大分県などでも多数の銅鐸や鋳型が出土している。
このため、「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」という言葉は論じられることがなくなり、小学校の教科書からも記述が削除されている。
一方三輪氏や賀茂氏などの地祇系氏族との関連は以前より指摘されており、出土分布が島根県(大国主神など出雲神話の舞台)、兵庫県(播磨国風土記など出雲系神話の舞台)、徳島県(天八現津彦命の後裔が定住)、高知県(天八現津彦命の後裔が定住)、奈良県(事代主神など三輪氏の本拠)、滋賀県(和邇氏一派や三上氏の本拠)、長野県(建御名方神の後裔が定住)であるように、三輪氏系部族と物部氏系部族の政治連合体において象徴的に用いられたとする説もある。これらは神武東征の影響によって崩壊し、畿内の中心地域から弥生時代後期に銅鐸が消えたとされる。




本書は吉野ヶ里遺跡が発見される前の書である。
だから「銅鐸は近畿を中心に、中国地方、四国の東半部、中部地方の西半部に分布している。弥生式文化の誕生の地とも考えられる。北九州にはない。」と記されているのだが、吉野ヶ里遺跡の発見によって、現在はこの説は打ち消されている。
次に、銅鼓をウィキで見てみる。


銅鼓(どうこ、チワン語: gyongdoengz 皷⿰金弄、ベトナム語: trống đồng 𪔠銅)とは、中国南西部から東南アジア島嶼部まで幅広く出土する楽器、祭器でドンソン文化を特徴づける遺物。
青銅で作られた片面の太鼓である。主に雨乞いや祖先祭祀の際、精霊に働きかける目的で作られたとされる。最古のタイプの銅鼓は、紀元前5世紀頃に雲南地方で作られはじめたと考えられている。その後の銅鼓は、20世紀初頭のフランツ・ヘーゲルによって、一型から四型にまで分類されている。こうした銅鼓(とりわけヘーゲルI型銅鼓)はメコン川、紅河流域の交易ルートを通じて各地に伝播したほか、東南アジア島嶼部にまで幅広い広がりをみせた。



こちらのサイトからも見てみる。

https://www.y-history.net/appendix/wh0202-004_1_1.html
銅鼓の役割
 「銅鼓自体を綿密に観察することによって、銅鼓の機能もおのずからはっきりしてくる。まず第一にそれはあの世とこの世、それに両者をつなぐ舟という世界の構造を具体的に示した、世界軸、あるいは宇宙軸であって、当然のこととして稲作の導入によって生まれた首長の権威を高めるものであったに違いない。その金色燦然たる輝きと、それを叩いた時に発する深い音はそれ自体が「畏れ多い」雰囲気をかもしだしたはずである。第二にそうした機能の延長として、葬儀などの儀礼の際に祭具として使用されたと思われる。そういう意味で、わが国の銅鐸と似たような役割を果たしたものと思われる。」<生田滋『世界の歴史13』東南アジアの伝統と発展(中央公論新社)1998 p.60>


この「あの世とこの世、それに両者をつなぐ舟という世界の構造を具体的に示した、世界軸、あるいは宇宙軸」という説が正しければ、本書に記されている「木鼓も銅鼓も使わないときは、山中の洞窟にしまっておいて、ミャオの領域の鎮めとし、つぎの祭りまでは勝手に動かしてはならなかった。動かすと天災・人災がおこるとされているのである。」という理由が分かるような気がする。
そして本書の「銅鐸は、これまで約200年から300年近く出土しているが、明確に集落のあとからは発見されず、多く部落から離れた、山ふところの目だたない場所の斜面に穴を掘って埋めてある。もし部落にとって貴重な宝器であるならば、なぜ部落から離れた山中に、これを埋没しておいたのであろう?」という理由も見えて来る。

「銅鐸と銅鼓は繋がっている」と判断するべきではないか?
ミャオ族やチワン族等の人間が日本列島に海流に乗ってやってきて、自分たちの銅鼓の文明を導入し、それは銅鐸に変わっていったのだろう。
銅鐸も、銅鼓も、単なる楽器や釣鐘などといった代物ではないだろう。
祭祀の道具を超えた存在であり、現代人には理解不能な能力を持っていたのだろう。
だから、それを恐れた当時の日本原住民は、使用しないときは地中に埋めたのだろう。

他にもモチに関することや、伝統文化や風習、猿蟹合戦のような民話も、日本と類似していることから、「ミャオ族をはじめとしたタイ系の中国南部の少数民族が、日本に来訪し、古代日本人となった」と判断するべきだろう。
勿論、それ以外の多種雑多な民族も混じりあっているだろうが、現在の日本民族の先祖にあたる主力民族は「ミャオ族をはじめとしたタイ系の中国南部の少数民族」であると思ってほぼ間違いないだろう。




辻田禎助



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