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ソウルマン

「「彼ら」は、八百長戦争を起こす時は偽りの天皇絶対主義を煽り、「紀元2600年」のような軍歌を利用して国民を戦場に引きずり込み、天皇の名のもとに国民を死に追いやったくせに、その裏では津田左右吉を使って天照大神や神武天皇以降の天皇の存在を否定するという2枚舌作戦を展開したわけである。」byソウルマン

「縄文日本文明1万5千年史序論」④(最終回)太田龍


前回に続く。以下、一部引用する。

*橘孝三郎は水戸の人、昭和初期、昭和維新運動の幕を揚げた「5.15事件」の思想的理論的指導者として著名である。晩年には大著『天皇論』が出版されている。ちなみに、この「5.15事件」に際しては、橘孝三郎は事件に関与したとして逮捕起訴、有罪投獄された。
・・・・・(中略)・・・・・
橘の『天智天皇論』では、『日本書紀』から次の如く、引用している。
・・・・・(中略)・・・・・
ここに述べられていることの本当の意味は、次のように解釈されなければならない。
⑴ 、大和三輪山は、飛騨高天原から派遣されて新しい日本の首都大和の国を建てた人々の信仰の中心であった。
⑵ 、間もなく出雲教が逆襲に転じ、三輪山から天照大神の祭祀を追放し、大国主命を祭神とする出雲教の総本山とすることに成功した。
⑶ 、天皇は出雲教で包囲された。
⑷ 、倭迹迹姫(やまととひめ)は、大物主神を祭る神官と結婚したところが、その男が実は、飛騨高天原スメラミコトの国を滅ぼそうとする出雲教の有力人物であることに気づいた。
⑸ 、その時既に、姫はその男にはらまされていた。
⑹ 、姫はそのことを深く恥じ、陰部(ほと)をついて堕胎しようとして失敗、出血多量で死亡した。
⑺ 、飛騨高天原から来た人々の子孫たちは、姫の死を悲しみ、墓を作った。
崇神天皇の御代に、出雲教は三輪山乗っ取りを完了した。これが古代日本史の核心である。
この史実が見えないように、出雲教勢力によって巧みに隠蔽されてきたので、今の今まで、正確には、平成3年、山本健造『日本起源の謎を解く』、平成4年、同『明らかにされた神武以前』、平成4年、同『裏古事記』が世に出る前は、誰一人として、その核心に到達することが出来なかったのである。
中西正矢著『やまと民族の古代史』では、人皇初代神武天皇から第11代垂仁天皇まで、皇居は、奈良県橿原市、御所(ごせ)市、大和高田市、田原本町(たわらもとちょう)、奈良市、桜井市(いずれも現在)を、代が変わるごとに転々としていたが、ところが、第12代景行天皇から、皇居は大和を離れると述べられる。
第12代景行天皇 滋賀県大津市穴太(あのう)
第13代成務天皇 滋賀県大津市穴太(あのう)
第14代仲哀天皇 福井県敦賀市
第15代応神天皇 大阪市中央区上町台地
第16代仁徳天皇 大阪市天王寺区東高津町
この遷都はなぜか、それは何を意味しているのか。歴代天皇は、出雲教信仰に占領された大和から逃げて歩いたのだ、と山本説では解釈されている。これが正しい見方である。


(管理人)
崇神天皇をウィキで見る。


崇神天皇(すじんてんのう、旧字体: 崇神󠄀天皇、開化天皇9年または10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、日本の第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。『日本書紀』での名は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)。実在した可能性のある最初の天皇とする説があり、考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、近年発掘の進む纏向遺跡との関係からその存在に注目が高まっている天皇の一人である。
稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)。19歳で皇太子となる。
父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、活目命(後の垂仁天皇)や倭彦命らを得た。即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神を祀ることで治めた。即位10年、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。即位65年、任那から朝貢があった。即位68年、崩御。
即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。
即位4年、詔を発して万世一系を謳った。
即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。
即位7年、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して、神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占った。すると倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇は沐浴斎戒して宮殿を中を清めて、「願わくば夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げた。続いて倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市にせよという神託を受けた。そこで大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子が探し出されて大物主神を祭る神主となった。三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。市磯長尾市(いちしのながおち)も倭大国魂神を祭る神主となった。すると疫病は終息して五穀豊穣となった。
武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)が謀反を起こそうとしていることがわかった。叛乱が露見した武埴安彦は山背から、妻の吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の武埴安彦勢には大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせて打ち破った。



「実在した可能性のある最初の天皇とする説があり」との記述から、崇神天皇は現在の歴史学界からも「評価されている」と判断される。
太田氏は、「崇神天皇のときに天皇の重臣すべてが出雲教信者となった」という中西正矢の説を肯定的に紹介している。
この「事実」から、「現在の歴史学界も出雲教勢力の配下にある」と判断するべきだろう。
「天照大神は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して笠縫邑((かさぬいむら・現在の檜原神社(大神神社(おおみわじんじゃ))に祀らせた」とウィキに記されているが、本書で太田氏はこう述べている。
「これは神勅―宝鏡の持ち出しの禁―に対する重大な違反である」と。
さらに、本書で太田氏はこう述べている。
「崇神天皇は、「神の勢いを恐れて、共に住みたまうに安からず」、との理由で、天照大神の神勅に違反して、宝鏡を皇居の外に出した。ここに「神の勢い」とある、その「神」とはそもそも何のことか。天照大神の「神」でないことはむろん自明だ。とはいえ天照大神の「神」でないとすれば、いかなる「神」なのか」と。
さらに、本書で太田氏は橘孝三郎の説を紹介している。
「これは「崇神、垂仁宗教大革命」であり、崇神、垂仁の時に天照大神の体制が否定され、「大物主神崇拝新体制」に移行した」と。
ウィキには「武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の謀反」のことが記されているが、本書で太田氏は橘孝三郎の説を紹介している。
「武埴安彦の大乱は、(政治的反乱ではなくて)宗教的反乱なのだ。大物主神信仰新興宗教を打倒して旧スメラミコト宗教体制を回復せんとしたものなのだ」と。

「倭迹迹姫(やまととひめ)は、大物主神を祭る神官と結婚したところが、その男が実は、飛騨高天原スメラミコトの国を滅ぼそうとする出雲教の有力人物であることに気づき、姫はそのことを深く恥じ、陰部(ほと)をついて堕胎しようとして失敗、出血多量で死亡した。」と太田氏は本書で記しているが、そこに関する記述もウィキにある。
どちらが真実であるかはご自身でご判断ください。

「箸墓伝説[編集]
大物主を祀ることで疫病が収まった後、倭迹々日百襲姫命(やまとととびももそひめ)は大物主神の妻となった。大物主神は夜しか現れなかったので、姫はもっとよく御姿を見たいと言った。そこで大物主神は朝に姫の櫛籠に入るから姿を見ても驚かないでほしいと言った。果たして姫が箱の中を見てみると綺麗で小さい蛇がいた。姫は驚いて叫んだ。大物主神は大いに恥じてすぐに人の形に戻り姫を呪った。大物主神が去った後に姫が腰を抜かして座ったところ、箸で陰部を突いてしまいそのまま亡くなった。姫は大市に葬られ墓は箸墓と名付けられた。この墓は昼は人が作り、夜は神が作ったと言われる。墓を作るため人々は列を作ってリレー形式で石を運んだと伝えられ、この様子が歌に詠まれた。


太田氏は、本書で「イルミナティの手先による工作以外の何ものでもないアカデミズム歴史学が、いわゆる日本史学の強固な陣地を構築するのが明治30年代以降。その極致が、日本民族の敵、日本史の徹底的な破壊者、国賊、津田左右吉である、現在では、津田左右吉を典型とするイルミナティの代理人による日本史観こそが、圧倒的主流である」と述べておられる。
その津田左右吉をウィキで見る。


津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本の歴史学者・思想史家。早稲田大学文学部教授を歴任。記紀を史料批判の観点から研究したことで知られ、日本における実証史学の発展に大きく貢献した。1947年帝国学士院会員選出。1949年文化勲章受章。従三位勲一等。
津田左右吉の成果は、記紀神話とそれに続く神武天皇以下の記述には、どの程度の資料的価値があるかを学術的に解明した点である。
1919年の「古事記及び日本書紀の新研究」、1924年の「神代史の研究」が代表成果作である。
津田は記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした。
これらの部分は朝廷の官人の政治的目的による造作の所産であり、記紀神話は皇室が国民を支配するという思想を前提に、それを物語として展開していったもので、神武東征もその一部であるとした。また、第23代天皇顕宗天皇、第24代仁賢天皇らの発見物語も典型的な貴種流離譚であって実在しないとしている。発見譚に関わった第22代清寧天皇も、第24代仁賢天皇の皇子の第25代武烈天皇も実在しないとしている。
津田の説は、戦後の古代史研究における大きな成果であり、津田史観と呼べる見解は今日の歴史学・考古学の主流となっている。
『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の中に次のような内容が含まれている。
1. 神武天皇(初代)から仲哀天皇(14代)までの歴代天皇の存在を否定する記事がある。
2. 神武東征及び景行天皇の筑紫巡行・熊襲親征、日本武尊の熊襲征伐・東国経略、神功皇后の三韓征討など、上代における皇室の事蹟を、全て否定している。
3. 現人神である天皇の地位は祭祀を行う役割に由来するものとしている。
4. 天照大神は神代史作者が観念上、創作したものとしている。
5. 天照大神を始めとする皇室系譜上の神々は、朝廷による支配を正当化するための政治的目的で創作された存在としている。
6. 皇極天皇以前の神勅、詔勅は、全てのちの人が創作したものとしている。
7. 仲哀天皇以前の皇統譜には、意図的に手が加えられているとしている。
8. 仁徳天皇の仁政は、中国の思想をもとに創作された物語としている。
9. 皇室系譜の神々は、天皇の統治権を確立し、皇室の権威の由来を説明するために、創作された物語上の存在であるとしている。
10. 天照大神からニニギノミコトに賜った神勅には、中国の思想を含み、かつ日本書紀編者の手が加わっているとしている。

津田が主張した記紀への指摘[編集]
• 記紀神話は天皇の日本支配を正当化するため、6世紀中頃(継体から欽明朝)に作り出された説話である。
• 6世紀に作り出された説話は、様々な潤色をされ、8世紀初頭に現在の記紀神話になった。
• 初代天皇である神武天皇は大和王朝の起源を説明する為に作り出された人物で史実ではない。
• 神武から9代目の開化天皇(欠史八代)までは、記紀編纂時に挿入された創作の人物である。
• 最初に実在した可能性のある天皇は10代目の崇神天皇である。
• 13代成務天皇、14代仲哀天皇とその后の神功皇后は実在しない創作の人物である。




津田左右吉は、「記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした」人物である。しかし、「最初に実在した可能性のある天皇は10代目の崇神天皇である」と主張している。
つまり、日本原住民勢力の本来の神とされている天照大神からの皇統は否定し、出雲教外国勢力下となった崇神天皇から「実在した天皇」が始まったと主張しているのだ。
しかも、この津田左右吉の見解は今日の歴史学・考古学の主流となっているのだ。
いつも新聞テレビ・学校教育・歴史学界を批判している私だが、これらが喧伝する歴史偽装の源は津田左右吉の見解にあったわけである。
つまり津田左右吉は、出雲教外国勢力の傀儡であり、「彼ら」の傀儡であるということだ。

「彼ら」は、八百長戦争を起こす時は偽りの天皇絶対主義を煽り、「紀元2600年」のような軍歌を利用して国民を戦場に引きずり込み、天皇の名のもとに国民を死に追いやったくせに、その裏では津田左右吉を使って天照大神や神武天皇以降の天皇の存在を否定するという2枚舌作戦を展開したわけである。

津田左右吉は、文化勲章受章し、従三位勲一等を受けているわけだから、皇室を否定しながらも天皇の「評価」が高いのである。
まさに、右も左も根は同じ。
左右両サイドからの国民騙しオペレーションである。
今のコロナ詐欺と同じである。

学校教育における古代史が、仏教伝来及び大化の改新(これも嘘だが)以降のことしか教えないのは、それ以前の“本当の古代史”を国民に知らせたくないからである。
飛騨王朝をトップとした日本原住民の本当の皇統の歴史を知らせたくなく、出雲教朝鮮人勢力・藤原氏中国人勢力に乗っ取られた大和朝廷の歴史を知らせたくないからである。
現在もこの“偽りの古代史・天皇史”が「正しい日本史である」という狂育が行なわれていることから、現在のこの国の支配体制がどうなっているかが分かるというものだ。

学校教育は嘘偽りであり、コロナも噓偽りである。

天照大神や神武天皇以降の天皇の存在を否定した津田左右吉の見解が今日の歴史学・考古学の主流となっていることや、天皇の津田左右吉に対する「評価」が高い「本当の理由」は、ここにあるのだろう。
ちなみに出雲族に乗っ取られた三輪山(大神神社)は、大物主神が主祭神であり、その大物主神は蛇神であるらしいですね。
出雲族・大物主神・「彼ら」の正体は・・・


評点:80点







太田龍




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