「「今」を理解するためには、「本当の歴史」を学ぶ必要があるのです。 戦争が何故起こるのかを理解するには、「戦争の真実」を学ぶ必要があるのです。」byソウルマン
「山本 五十六と似たあの人」
暑くなってきたからかどうかは分からないが、久しぶりにあの戦争について少し触れておく。
あの戦争のキーマンの人と思われる、山本五十六について、ウィキより抜粋する。
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。
旧姓は、高野(たかの)。海軍兵学校32期生。第26、27代連合艦隊司令長官。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。皇族・華族以外で、日本における国葬の栄誉を受けた最初の人物である。
息子の山本義正によれば、少年時代の山本はアメリカ人宣教師の元で聖書の勉強をしたことがあるという[7]。
1909年(明治42年)、アメリカ合衆国に駐在武官として赴任。1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政(後の海軍大臣・首相)と盟友になる[25]。井上成美によれば、兵器学講座担当であったという[26]。
1919年(大正8年)4月5日、アメリカ合衆国への駐在を受命、ハーバード大学に留学した(~1921年5月5日)。アメリカに駐在する前の1918年(大正7年)から「ナショナルジオグラフィック」を購読していた。長男の山本義正は、2度目のアメリカ滞在から日本に帰国した1928年(昭和3年)以降のこととして「(山本がアメリカから帰国してから1930年(昭和5年)まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックがアメリカから毎月届きました。当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出して良く見たものです」「(山本の)本棚の半分はアメリカの歴史に関する本で、他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースの中に大切にとってありました。父はアメリカを知るためのあらゆる勉強をしていました」と語った[35]。
アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行機産業とそのサプライチェーンに強い印象を受けている[36]。日本では専売指定されていた砂糖と塩でさえ、アメリカではともにプラントで大量生産され、市場で大量消費されていることをワシントンD.C.の喫茶店で身をもって知り、彼我の生産および流通の圧倒的な差に衝撃を受ける。後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談で答えている
1921年(大正10年)7月19日に帰国後、軽巡洋艦「北上」副長、続いて海軍大学校教官(軍政学担当)に転じる[38]。1年後、海軍大学校教頭に山本英輔が着任し山本五十六の航空機観に影響を与えた[39]。1922年(大正11年)、井出謙治大将と共に欧州・米国を視察した[40]。英国・ロンドン滞在中に関東大震災が発生すると、山本は動揺する周囲に対し「日本人は偉大な民族であり、前より立派に復興する」と励ましている[41]。
1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となって、再びアメリカに滞在する[49]。山本の航空隊在任は1年3か月であったが、「天洋丸」に乗船してアメリカに向う山本の頭上を、航空隊の部下達が編隊を組んで見送った[50]。天性の物腰柔らかな態度を買われてアメリカに赴任した山本は英語力に磨きをかけるとともに、書道の腕前でアメリカの海軍士官やその妻たちを楽しませた。信じられないようなスピードで絹布の上に漢字を描いてみせたからである[51]。
この際にも再びアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産や流通体制を視察、研究し、この経験が後の対米戦の戦略立案に大きな影響を与えた。
1928年(昭和3年)3月に帰国後、8月から軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務め[53]た。そこでの水雷学校での講義で、将来の海軍は航空主兵となること、「対米作戦では積極作戦をとりハワイを攻めるべき」と発言している[54]。
1936年(昭和11年)2月の二・二六事件では、反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返し、重傷を負った侍従長・鈴木貫太郎のために医者を手配している[104]。総理大臣・岡田啓介の救出にも米内光政と共に関わった[105]。二・二六事件における米内の対応を山本は高く評価し、後日、永野修身が海軍大臣を辞任する際、山本は米内を後任として推薦している[106]。
1939年(昭和14年)8月30日、山本は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する[144]。山本は連合艦隊司令長官に任官されることを拒否し、吉田善吾が海軍大臣に内定された際、吉田の下で次官として留任し日米開戦を回避出来るように補佐する事を要望して、米内光政に人事の撤回を強く要求したが認められなかった[145]。連合艦隊司令長官就任は采配・指揮能力を買われたものではなく、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるためにこの人事を行った[146]。
1941年(昭和16年)1月7日、海軍大臣・及川古志郎への書簡『戦備ニ関スル意見』にて「(真珠湾攻撃構想は)既に昨年11月下旬、一応口頭にて進言せる所と概ね重複す」とあり山本はすでに真珠湾攻撃を検討していた[168]。山本は及川への書簡で、自分を第一航空艦隊司令長官に格下げし直接指揮させてほしいと希望し[169]、空母喪失と引き換えに戦争を一日で終える気構えも示していた[170]。また、山本は連合艦隊司令長官には米内光政を期待していた[171]。また、新聞記者に山本が海軍大臣だった場合の連合艦隊司令長官人事を問われ「米内さんだヨ。あのひと一人だネ」と答えている[172]。
1月24日、衆議院議員・笹川良一に「日米開戦に至らば己が目ざすところ、素よりグアム・フィリピンに非ず、はたまたハワイ・サンフランシスコに非ず、実にワシントン・ホワイトハウスの思ならざるべからず。当路の為政家果たして此本腰の覚悟と自信ありや」と語った[178]。
第一航空艦隊参謀長の任についていた草鹿龍之介は真珠湾攻撃に反対の立場だった。そこで大西瀧治郎少将と相談の上、戦艦「長門」にいた山本を訪れて反対論を展開した[187]。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話した[188]。大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を翻し、唖然とする草鹿を横目に、大西と山本はポーカーを始めた[189]。山本は草鹿を「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いた[190]。
12月9日に山本は幕僚にハワイ攻略、セイロン島攻略の研究を命じた。
軍令部は米豪分断作戦を、連合艦隊司令部は当初インド洋作戦を主張し、軍令部に却下されるとハワイ攻略作戦へと重点を移す[226]。連合艦隊司令部は、山本の望むハワイ攻略をにらんだミッドウェー島攻略作戦を独自に作成し、早く認めさせるため大本営の望むFS作戦を組み入れ4月1日までに幕僚にまとめさせた。連戦連勝の驕りから成功を前提にスケジュールが組まれ、敵勢力を事前に調べることもしなかった。作戦案は4月3日に軍令部に持ち込まれたがFS作戦を進めたい軍令部作戦課はこれに反対した。これに対し連合艦隊参謀・渡辺安次からミッドウェー攻略作戦が認められなければ山本は職を辞すと伝えられた。
ミッドウェー島攻略とアメリカ機動部隊殲滅を目的とするミッドウェー作戦が6月7日決行予定で計画される。4月22日、帰還したばかりの実行部隊である第一航空艦隊に知らされると、山口多聞、源田実から戦力を一度立て直すべき、準備も間に合わず時期尚早と激しい反対があったが山本ら連合艦隊司令部はすでに決まったことであるとその声を黙殺した[233]。第二艦隊司令長官・近藤信竹からも、「ミッドウェー作戦をやめアメリカとオーストラリア遮断に集中すべき」と意見があったが山本は奇襲できれば負けないと答えた。
い号作戦終了後、山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された[289]。
アメリカ海軍情報局は、4月17日に「武蔵」から発信された暗号電文を解読してこの前線視察の情報を知った[302]。
4月18日午前6時、山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した[305]。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した。この事件は後に海軍甲事件と呼称された。59歳没。戦死時に着用していた第三種軍装(陸戦用服装)は、太平洋戦争に突入してから山本が初めて着用したものだった[306]。
墜落当日は発見できず、19日午前中に浜砂隊と遭遇、浜砂隊に遅れて現場に到着した[311]。最初に現場に到着した浜砂によれば、山本の遺体は機体の傍に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま、泰然としていた[312]。
浜砂によれば、衣服を脱がせていないので断言できないが、右前頭部に擦過傷があったが、外見上さしたる傷はなかったという[315]。直後に中村隊も現場に到着した。渡辺安次の証言では、遺体発見時に胸部と頭部に貫通銃創があったとしている[316]。軍医少佐・田渕義三郎の遺体検死記録によると「死因は戦闘機機銃弾がこめかみから下アゴを貫通した事、背中を貫通した事」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと結論づけている[317]。一方で山本の遺体を清めた安部茂元大尉らから、顔面に銃創がなかったという[318]。浜砂隊が遺体を動かしていたが、吉田は山本は即死ではないと判断している[319]。山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38の武装はイスパノ・スイザ HS.404航空機関砲(口径20mm)と ブローニングM2重機関銃(口径12.7mm)であり、「小指頭大ノ射入口、右外眥ニ拇指圧痕大ノ射出口ヲ認ム」という検案記録通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである[320]。また田渕は後方で検死を行っただけで現場を見ておらず、蜷川から引き継ぎも行っていない[321]。田渕自身も不審に思ったが深く追求できず、戦後、粗雑な書類で単なる形式処理であったことを認めている[322]。実際に、田渕が山本の軍服を記念に保管しようとしたところ、渡辺が遺体から衣服を脱がすことを強い口調で禁止した[323]。
公式には機上で即死したと記録されているが異論もある[324]。熱帯地方では死体に猛烈な蛆がわくが、浜砂や中村は19日午後の段階で山本の遺体にウジ虫を認めていない[325]。この事から、山本は機上での戦死ではなく死亡時刻は19日午前6時ごろと推測する見解もある[326]。20日午前8時に浜砂と海軍陸戦隊が再び現場に到着すると、山本の遺体顔面は形相が判別できないほど腫れ上がり、遺体全体にウジが猛烈に発生していた[327]。
最初に山本の検死を行った蜷川親博は「遺体に顎の外傷や口胞内出血を認めず、全身打撲か内臓破裂によるショック死」という結論をメモに残している[328]。蜷川の実弟である蜷川親正は「山本の死体の傷は渡辺安次と南東方面艦隊軍医長・大久保信による死後損壊」と述べ[329]、「山本は当初生存していたものの、全身打撲もしくは内臓破裂により、19日夜明けごろ絶息した」と結論づけている[330]。
戦死後、藤井茂と近江兵治郎が遺品を整理するため「武蔵」長官室に入った。すると山本の机には封筒に入れた封印無しの遺書(永野修身、嶋田繁太郎、堀悌吉、妻・礼子、反町栄一宛)、さらに遺髪が一人分ずつ紙に包まれていた[341]。山本の死は1か月以上秘匿され、5月21日の大本営発表ならびに内閣告示第8号[342]で公になった[343]。山本に対し大勲位、功一級、正三位と元帥の称号が授与され、国葬に付することが発表された。新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けている[344]。
5月27日付でドイツ政府より剣付柏葉騎士鉄十字章を授与される。この勲章は騎士鉄十字章の5等級のうち3段階目にあたるが、受賞者はドイツ国全体でも160名しかおらず、外国人受賞者は山本のみである。また、山本が騎士鉄十字章の外国人受賞者としては単独で最高位となっている。
昭和天皇は山本の国葬が決定された際、侍従武官・山縣有光に「山本元帥を国葬にしなければならないのかね」と疑問を呈したが、6月5日に日比谷公園で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政元首相が務めた。皇族・華族以外の者が国葬に付された最初の例であり、かつ戦前唯一の例である。朝日新聞社は『元帥山本五十六傳』を刊行、斎藤茂吉や佐藤春夫を始め多くの詩人が追悼の詩歌を寄せ、7万部を刷った[345]。
こちらの記事も。
https://forbesjapan.com/articles/detail/62567
2023年4月18日は、山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死してから80年にあたる。この日、米メリーランド州アナポリスにある米海軍士官学校を訪れた。全米のエリート4500人が集まり、未来の海軍幹部や、米国の各界で活躍するトップリーダーを養成する機関だが、山本五十六に強い敬意と畏怖の念を感じる場所でもあるからだ。
学校内にある学生寮の横に、ミッドウェー海戦(1942年6月)の記念碑群が置かれている。当時の海戦の流れを詳しく図解した碑もあれば、「最も決定的な海戦のひとつ」という文句で始まる、海戦を説明した碑もある。日米両軍が中部太平洋の制海権をかけての戦いで、日本は主力空母4隻とベテランのパイロット多数を失い、太平洋戦争の転換点になった。米軍は勝利したものの、当初は敗色濃厚とみられていたことが、この戦いを長く記憶し、教訓にする契機になった。このミッドウェー海戦を強く主張したのが、「米空母機動部隊の撃滅」を訴えていた山本五十六だった。
当日は生憎、閉館していたが、校内の博物館には山本五十六の写真と人物を紹介したコーナーもある。山本を「真珠湾攻撃を企画した人物が、戦争に最も反対した人々の一人だったのは皮肉である」とも紹介している。山本五十六がかつて、近衛文麿に「(対米戦争を)やれと言われれば、最初の半年や1年は暴れてご覧にいれる。しかし、2年、3年となれば全く確信は持てない」と述べた故事にも触れている。
山本五十六が米海軍に携わる人々に強烈な印象を残したのは、その斬新な発想にある。自衛隊の元幹部は「真珠湾攻撃当時、米国での空母の位置づけは艦隊の護衛といった程度だった。多数の空母を集め、真珠湾攻撃を実現した山本の戦術をみて、米国人は『そんなやり方もあるのか』と度肝を抜かれた」と語る。米国はその後、空母を中心にした航空戦術を重視し、戦後は空母1隻にイージス艦5隻程度、原子力潜水艦1~2隻で構成する空母打撃群を中心とした作戦構想を確立した。
<ポイント>
・アメリカ人宣教師の元で聖書の勉強をしたことがある。
・米内光政(海軍大臣・首相)と盟友。
・アメリカに何度も留学していて、英語堪能。
・自身も関わっている二・二六事件における米内の対応を山本は高く評価している。
・笹川良一と関わっている。
・真珠湾攻撃を企画した人物である。
・ミッドウェー海戦を強く主張した人物である。
・自身の死が不可解である。
・国葬された人物である。
これだけで、もう証拠十分じゃないのでしょうか?
なんの証拠かって?
分からない人は・・・
「自身の死が不可解で、国葬された人物」って、誰かを連想しませんか?
歴史は繰り返すんですよ。
今起きていることは、過去のオペレーションをもう一度やってるだけなんですよ。
誰のオペレーションって?
分からない人は・・・
教科書の嘘歴史なんかはどうでもいいから、自分で「本当の歴史」を調べないと。
「今」を理解するためには、「本当の歴史」を学ぶ必要があるのです。
戦争が何故起こるのかを理解するには、「戦争の真実」を学ぶ必要があるのです。
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暑くなってきたからかどうかは分からないが、久しぶりにあの戦争について少し触れておく。
あの戦争のキーマンの人と思われる、山本五十六について、ウィキより抜粋する。
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。
旧姓は、高野(たかの)。海軍兵学校32期生。第26、27代連合艦隊司令長官。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。皇族・華族以外で、日本における国葬の栄誉を受けた最初の人物である。
息子の山本義正によれば、少年時代の山本はアメリカ人宣教師の元で聖書の勉強をしたことがあるという[7]。
1909年(明治42年)、アメリカ合衆国に駐在武官として赴任。1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政(後の海軍大臣・首相)と盟友になる[25]。井上成美によれば、兵器学講座担当であったという[26]。
1919年(大正8年)4月5日、アメリカ合衆国への駐在を受命、ハーバード大学に留学した(~1921年5月5日)。アメリカに駐在する前の1918年(大正7年)から「ナショナルジオグラフィック」を購読していた。長男の山本義正は、2度目のアメリカ滞在から日本に帰国した1928年(昭和3年)以降のこととして「(山本がアメリカから帰国してから1930年(昭和5年)まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックがアメリカから毎月届きました。当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出して良く見たものです」「(山本の)本棚の半分はアメリカの歴史に関する本で、他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースの中に大切にとってありました。父はアメリカを知るためのあらゆる勉強をしていました」と語った[35]。
アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行機産業とそのサプライチェーンに強い印象を受けている[36]。日本では専売指定されていた砂糖と塩でさえ、アメリカではともにプラントで大量生産され、市場で大量消費されていることをワシントンD.C.の喫茶店で身をもって知り、彼我の生産および流通の圧倒的な差に衝撃を受ける。後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談で答えている
1921年(大正10年)7月19日に帰国後、軽巡洋艦「北上」副長、続いて海軍大学校教官(軍政学担当)に転じる[38]。1年後、海軍大学校教頭に山本英輔が着任し山本五十六の航空機観に影響を与えた[39]。1922年(大正11年)、井出謙治大将と共に欧州・米国を視察した[40]。英国・ロンドン滞在中に関東大震災が発生すると、山本は動揺する周囲に対し「日本人は偉大な民族であり、前より立派に復興する」と励ましている[41]。
1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となって、再びアメリカに滞在する[49]。山本の航空隊在任は1年3か月であったが、「天洋丸」に乗船してアメリカに向う山本の頭上を、航空隊の部下達が編隊を組んで見送った[50]。天性の物腰柔らかな態度を買われてアメリカに赴任した山本は英語力に磨きをかけるとともに、書道の腕前でアメリカの海軍士官やその妻たちを楽しませた。信じられないようなスピードで絹布の上に漢字を描いてみせたからである[51]。
この際にも再びアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産や流通体制を視察、研究し、この経験が後の対米戦の戦略立案に大きな影響を与えた。
1928年(昭和3年)3月に帰国後、8月から軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務め[53]た。そこでの水雷学校での講義で、将来の海軍は航空主兵となること、「対米作戦では積極作戦をとりハワイを攻めるべき」と発言している[54]。
1936年(昭和11年)2月の二・二六事件では、反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返し、重傷を負った侍従長・鈴木貫太郎のために医者を手配している[104]。総理大臣・岡田啓介の救出にも米内光政と共に関わった[105]。二・二六事件における米内の対応を山本は高く評価し、後日、永野修身が海軍大臣を辞任する際、山本は米内を後任として推薦している[106]。
1939年(昭和14年)8月30日、山本は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する[144]。山本は連合艦隊司令長官に任官されることを拒否し、吉田善吾が海軍大臣に内定された際、吉田の下で次官として留任し日米開戦を回避出来るように補佐する事を要望して、米内光政に人事の撤回を強く要求したが認められなかった[145]。連合艦隊司令長官就任は采配・指揮能力を買われたものではなく、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるためにこの人事を行った[146]。
1941年(昭和16年)1月7日、海軍大臣・及川古志郎への書簡『戦備ニ関スル意見』にて「(真珠湾攻撃構想は)既に昨年11月下旬、一応口頭にて進言せる所と概ね重複す」とあり山本はすでに真珠湾攻撃を検討していた[168]。山本は及川への書簡で、自分を第一航空艦隊司令長官に格下げし直接指揮させてほしいと希望し[169]、空母喪失と引き換えに戦争を一日で終える気構えも示していた[170]。また、山本は連合艦隊司令長官には米内光政を期待していた[171]。また、新聞記者に山本が海軍大臣だった場合の連合艦隊司令長官人事を問われ「米内さんだヨ。あのひと一人だネ」と答えている[172]。
1月24日、衆議院議員・笹川良一に「日米開戦に至らば己が目ざすところ、素よりグアム・フィリピンに非ず、はたまたハワイ・サンフランシスコに非ず、実にワシントン・ホワイトハウスの思ならざるべからず。当路の為政家果たして此本腰の覚悟と自信ありや」と語った[178]。
第一航空艦隊参謀長の任についていた草鹿龍之介は真珠湾攻撃に反対の立場だった。そこで大西瀧治郎少将と相談の上、戦艦「長門」にいた山本を訪れて反対論を展開した[187]。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話した[188]。大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を翻し、唖然とする草鹿を横目に、大西と山本はポーカーを始めた[189]。山本は草鹿を「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いた[190]。
12月9日に山本は幕僚にハワイ攻略、セイロン島攻略の研究を命じた。
軍令部は米豪分断作戦を、連合艦隊司令部は当初インド洋作戦を主張し、軍令部に却下されるとハワイ攻略作戦へと重点を移す[226]。連合艦隊司令部は、山本の望むハワイ攻略をにらんだミッドウェー島攻略作戦を独自に作成し、早く認めさせるため大本営の望むFS作戦を組み入れ4月1日までに幕僚にまとめさせた。連戦連勝の驕りから成功を前提にスケジュールが組まれ、敵勢力を事前に調べることもしなかった。作戦案は4月3日に軍令部に持ち込まれたがFS作戦を進めたい軍令部作戦課はこれに反対した。これに対し連合艦隊参謀・渡辺安次からミッドウェー攻略作戦が認められなければ山本は職を辞すと伝えられた。
ミッドウェー島攻略とアメリカ機動部隊殲滅を目的とするミッドウェー作戦が6月7日決行予定で計画される。4月22日、帰還したばかりの実行部隊である第一航空艦隊に知らされると、山口多聞、源田実から戦力を一度立て直すべき、準備も間に合わず時期尚早と激しい反対があったが山本ら連合艦隊司令部はすでに決まったことであるとその声を黙殺した[233]。第二艦隊司令長官・近藤信竹からも、「ミッドウェー作戦をやめアメリカとオーストラリア遮断に集中すべき」と意見があったが山本は奇襲できれば負けないと答えた。
い号作戦終了後、山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された[289]。
アメリカ海軍情報局は、4月17日に「武蔵」から発信された暗号電文を解読してこの前線視察の情報を知った[302]。
4月18日午前6時、山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した[305]。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した。この事件は後に海軍甲事件と呼称された。59歳没。戦死時に着用していた第三種軍装(陸戦用服装)は、太平洋戦争に突入してから山本が初めて着用したものだった[306]。
墜落当日は発見できず、19日午前中に浜砂隊と遭遇、浜砂隊に遅れて現場に到着した[311]。最初に現場に到着した浜砂によれば、山本の遺体は機体の傍に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま、泰然としていた[312]。
浜砂によれば、衣服を脱がせていないので断言できないが、右前頭部に擦過傷があったが、外見上さしたる傷はなかったという[315]。直後に中村隊も現場に到着した。渡辺安次の証言では、遺体発見時に胸部と頭部に貫通銃創があったとしている[316]。軍医少佐・田渕義三郎の遺体検死記録によると「死因は戦闘機機銃弾がこめかみから下アゴを貫通した事、背中を貫通した事」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと結論づけている[317]。一方で山本の遺体を清めた安部茂元大尉らから、顔面に銃創がなかったという[318]。浜砂隊が遺体を動かしていたが、吉田は山本は即死ではないと判断している[319]。山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38の武装はイスパノ・スイザ HS.404航空機関砲(口径20mm)と ブローニングM2重機関銃(口径12.7mm)であり、「小指頭大ノ射入口、右外眥ニ拇指圧痕大ノ射出口ヲ認ム」という検案記録通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである[320]。また田渕は後方で検死を行っただけで現場を見ておらず、蜷川から引き継ぎも行っていない[321]。田渕自身も不審に思ったが深く追求できず、戦後、粗雑な書類で単なる形式処理であったことを認めている[322]。実際に、田渕が山本の軍服を記念に保管しようとしたところ、渡辺が遺体から衣服を脱がすことを強い口調で禁止した[323]。
公式には機上で即死したと記録されているが異論もある[324]。熱帯地方では死体に猛烈な蛆がわくが、浜砂や中村は19日午後の段階で山本の遺体にウジ虫を認めていない[325]。この事から、山本は機上での戦死ではなく死亡時刻は19日午前6時ごろと推測する見解もある[326]。20日午前8時に浜砂と海軍陸戦隊が再び現場に到着すると、山本の遺体顔面は形相が判別できないほど腫れ上がり、遺体全体にウジが猛烈に発生していた[327]。
最初に山本の検死を行った蜷川親博は「遺体に顎の外傷や口胞内出血を認めず、全身打撲か内臓破裂によるショック死」という結論をメモに残している[328]。蜷川の実弟である蜷川親正は「山本の死体の傷は渡辺安次と南東方面艦隊軍医長・大久保信による死後損壊」と述べ[329]、「山本は当初生存していたものの、全身打撲もしくは内臓破裂により、19日夜明けごろ絶息した」と結論づけている[330]。
戦死後、藤井茂と近江兵治郎が遺品を整理するため「武蔵」長官室に入った。すると山本の机には封筒に入れた封印無しの遺書(永野修身、嶋田繁太郎、堀悌吉、妻・礼子、反町栄一宛)、さらに遺髪が一人分ずつ紙に包まれていた[341]。山本の死は1か月以上秘匿され、5月21日の大本営発表ならびに内閣告示第8号[342]で公になった[343]。山本に対し大勲位、功一級、正三位と元帥の称号が授与され、国葬に付することが発表された。新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けている[344]。
5月27日付でドイツ政府より剣付柏葉騎士鉄十字章を授与される。この勲章は騎士鉄十字章の5等級のうち3段階目にあたるが、受賞者はドイツ国全体でも160名しかおらず、外国人受賞者は山本のみである。また、山本が騎士鉄十字章の外国人受賞者としては単独で最高位となっている。
昭和天皇は山本の国葬が決定された際、侍従武官・山縣有光に「山本元帥を国葬にしなければならないのかね」と疑問を呈したが、6月5日に日比谷公園で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政元首相が務めた。皇族・華族以外の者が国葬に付された最初の例であり、かつ戦前唯一の例である。朝日新聞社は『元帥山本五十六傳』を刊行、斎藤茂吉や佐藤春夫を始め多くの詩人が追悼の詩歌を寄せ、7万部を刷った[345]。
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https://forbesjapan.com/articles/detail/62567
2023年4月18日は、山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死してから80年にあたる。この日、米メリーランド州アナポリスにある米海軍士官学校を訪れた。全米のエリート4500人が集まり、未来の海軍幹部や、米国の各界で活躍するトップリーダーを養成する機関だが、山本五十六に強い敬意と畏怖の念を感じる場所でもあるからだ。
学校内にある学生寮の横に、ミッドウェー海戦(1942年6月)の記念碑群が置かれている。当時の海戦の流れを詳しく図解した碑もあれば、「最も決定的な海戦のひとつ」という文句で始まる、海戦を説明した碑もある。日米両軍が中部太平洋の制海権をかけての戦いで、日本は主力空母4隻とベテランのパイロット多数を失い、太平洋戦争の転換点になった。米軍は勝利したものの、当初は敗色濃厚とみられていたことが、この戦いを長く記憶し、教訓にする契機になった。このミッドウェー海戦を強く主張したのが、「米空母機動部隊の撃滅」を訴えていた山本五十六だった。
当日は生憎、閉館していたが、校内の博物館には山本五十六の写真と人物を紹介したコーナーもある。山本を「真珠湾攻撃を企画した人物が、戦争に最も反対した人々の一人だったのは皮肉である」とも紹介している。山本五十六がかつて、近衛文麿に「(対米戦争を)やれと言われれば、最初の半年や1年は暴れてご覧にいれる。しかし、2年、3年となれば全く確信は持てない」と述べた故事にも触れている。
山本五十六が米海軍に携わる人々に強烈な印象を残したのは、その斬新な発想にある。自衛隊の元幹部は「真珠湾攻撃当時、米国での空母の位置づけは艦隊の護衛といった程度だった。多数の空母を集め、真珠湾攻撃を実現した山本の戦術をみて、米国人は『そんなやり方もあるのか』と度肝を抜かれた」と語る。米国はその後、空母を中心にした航空戦術を重視し、戦後は空母1隻にイージス艦5隻程度、原子力潜水艦1~2隻で構成する空母打撃群を中心とした作戦構想を確立した。
<ポイント>
・アメリカ人宣教師の元で聖書の勉強をしたことがある。
・米内光政(海軍大臣・首相)と盟友。
・アメリカに何度も留学していて、英語堪能。
・自身も関わっている二・二六事件における米内の対応を山本は高く評価している。
・笹川良一と関わっている。
・真珠湾攻撃を企画した人物である。
・ミッドウェー海戦を強く主張した人物である。
・自身の死が不可解である。
・国葬された人物である。
これだけで、もう証拠十分じゃないのでしょうか?
なんの証拠かって?
分からない人は・・・
「自身の死が不可解で、国葬された人物」って、誰かを連想しませんか?
歴史は繰り返すんですよ。
今起きていることは、過去のオペレーションをもう一度やってるだけなんですよ。
誰のオペレーションって?
分からない人は・・・
教科書の嘘歴史なんかはどうでもいいから、自分で「本当の歴史」を調べないと。
「今」を理解するためには、「本当の歴史」を学ぶ必要があるのです。
戦争が何故起こるのかを理解するには、「戦争の真実」を学ぶ必要があるのです。
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