「ロマノフ王朝もレーニンもドクター・ハマーもワシントン・ポストも根は同じ」byソウルマン
「ロマノフ家の黄金」③(最終回)広瀬隆
前回に続く。以下、一部引用する。
*そのトロワイヤの著書が描いた通り、女帝と呼ばれたエカテリーナ二世は、ドイツからやってきて、ピョートル大帝の孫ピョートル三世に嫁ぎながら、その結婚生活のなかでは処女であった。
・・・・・(中略)・・・・・
ところが女帝エカテリーナは、公式な王室記録によっても、パヴェル、アンナ、アレクセイの3人を出産しているのだ。処女が子供を出産するのは、キリストの聖母マリア様だけかと思えば、そうではない。この3人の子どものうち、1754年に生まれた謎の長男パヴェル・ロマノフ1世が、母の死後正式にツァーリとして即位し、その後のロマノフ家の皇位継承者全員にとって、先祖となったのである。この皇帝パヴェルの母が女帝エカテリーナ、つまり誰もが指摘しているようにロシア人の血が一滴も入っていない女性であった。
・・・・・(中略)・・・・・
レーニンの兄の一派が爆殺したというアレクサンドル二世は、その正体不明な血筋から出た“偽ロマノフ皇帝”パヴェルの直系である。レーニンの兄は、無駄な命を落としたものだ。そのあとレーニンの兄を処刑したアレクサンドル三世も、その正体不明な血筋から出た“偽ロマノフ皇帝”パヴェルの直系の曾孫であるから、やはり偽ロマノフであった。その息子、最後の皇帝ニコライ二世も勿論同じである。
*ハマー・ギャラリーを訪れた彼の親友は、自伝に登場するギンベル一族というドイツからの移民だったが、ギンベル・ブラザースというデパートを経営して全米にその名が鳴り響いていた。
・・・・・(中略)・・・・・
その怪物の親友だったギンベル・ファミリーは、ただのデパート業者ではなかったのである。文字通り世界の銀行界を動かした初代の「世界銀行」総裁ユージン・マイヤーが、ギンベルの一族だったという事実が、家系図の線から現れてきた。ハマーの背後にいたこの銀行家マイヤーは、世界銀行の総裁という肩書より、アメリカの首都を制する新聞“ワシントン・ポスト”のオーナーとしてよく知られてきた。しかし第二次世界大戦直後に発足した世界の金融体制は、ヨーロッパを本拠地とするIMF(国際通貨基金)と、アメリカを本拠とするユージン・マイヤーの世界銀行(国際復興開発銀行)の二大メカニズムを柱として運営されてきたのである。
・・・・・(中略)・・・・・
世銀総裁ユージン・マイヤーの娘は、父親よりよく知られていた。1991年に息子のドナルド・グラハム(グレアム)に経営権をゆずるまで、“ワシントン・ポスト”の社主として全世界の政治家に大きな影響をおよぼしてきたキャサリン・グラハムである。日本の首相人事は、「グラハム女史が首を縦に振らなければ認められない」と噂されるほど、わが国では彼女の威光がおそれられてきた。天皇家の内情も、キャサリン・グラハムには筒抜けであった。
*ドクター・ハマーと名乗って、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフに至るまで、すべての歴代ソ連首脳とワシントンを交流させ、米ソ政界のフィクサーとして動いた男の背後には、“ワシントン・ポスト”があった。
*ご存知ハマーは、その後「オクシデンタル石油」という小さな会社を買い取ってから油田を掘り当て、爆発的な成功を収めた。そのときオクシデンタルの副社長だったのが、上院議員アルバート・ゴアで、その息子のアルバートJr.が、1993年から“クリントン政権の副大統領アル・ゴア”と呼ばれるようになった。
*ハマーがこのように広大な国際的人脈を形成する源になったのは、ロマノフ家の財宝ではなく、実はロマノフ家であった。ハマーの最初の妻がロシア貴族であったからだ。
(管理人)
エカテリーナ二世をウィキで見てみる。
エカチェリーナ2世(エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ、ロシア語: Екатерина II Алексеевна, ラテン文字転写: Yekaterina II Alekseyevna (イカチリーナ・フタラーヤ・アレクセーエヴナ)、1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦))は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(女帝)。在位は1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)。夫は第7代皇帝ピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン(秘密結婚)、子は第9代皇帝パーヴェル1世ほか。
1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦)、北ドイツ(現在はポーランド領)ポンメルンのシュテッティンで神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯(英語版)クリスティアン・アウグスト(プロイセン軍少将)の娘として生まれた。キリスト教ルター派の洗礼を受け、ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ(Sophie Auguste Friederike)と名づけられた。
美貌と言えるほどの器量の持ち主ではなかったが、生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。本来、家柄的にはとても大国の后妃候補に挙がる身分ではなかったが、母ヨハンナの早世した長兄カール・アウグストがロシア女帝エリザヴェータ・ペトロヴナの若かりし頃の婚約者であった縁もあり、ゾフィーは14歳でロシア皇太子妃候補となる[3]。
1744年、ロシア帝都サンクト・ペテルブルクに到着。舞踏をランゲに、正教をプスコフ主教(1748年からは大主教)シモン・トドールスキイに、ロシア語を、初めてロシア語を体系化したワーシリィ・アダドゥーロフに習う。ロシア語の勉強に熱中したあまり高熱を発して倒れてしまい、エリザヴェータ女帝やロシア国民の心を動かしたという逸話もある。同年、ロシア正教に改宗し、エカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名した。偶然にもエカチェリーナ1世と同じ名を持つことになった。
翌日、エリザヴェータの甥で母方の又従兄にも当たる皇太子のホルシュタイン公ピョートル・フョードロヴィッチ(ピョートル3世)と婚約、翌1745年に結婚し、大公妃(ヴェリーカヤ・クニャージナ)(Великая Княжна)の称号を帯びた。2人ともドイツ育ちのため、ピョートルにとってはとりあえずドイツ語で存分に会話できる相手ではあったらしい。ロシア文化(英語版)には不慣れであったが、エカチェリーナがロシア語を習得し、ロシア正教にも改宗し、ロシアの貴族や国民に支持される努力を惜しまなかったのに対し、ピョートルはドイツ風にこだわり続け、ドイツ式の兵隊遊びに熱中し、周囲の反感を買い続けた。ピョートルに唯一かなりの才能があったと思われる趣味は音楽だったが、こればかりはエカチェリーナの方に才能が無かった。
不仲により、結婚後も長期間夫婦の関係はなかった。エカチェリーナはセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵らの男性と半ば公然と関係を持つようになっていた。エリザヴェータ女帝や周囲が世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも、むしろ積極的に勧めたとも言われる。ピョートルの方も大宰相(帝国宰相)ミハイル・ヴォロンツォフの姪エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを寵愛するようになり、夫婦の関係は完全に破綻する。
1761年12月25日(ロシア暦)/1762年1月5日(グレゴリオ暦)にエリザヴェータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝(ツァーリ)に即位、エカチェリーナも皇后 (ツァリーツァ)(царица)となった。
ピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者で、皇太子時代からエリザヴェータやロシア貴族と対立していた。七年戦争では、ロシア軍がプロイセン領内に侵攻してフリードリヒ2世を追い詰めていたにもかかわらず、ピョートル3世が即位後にいきなりプロイセンと講和条約を結んだことはロシア軍からの不評を買った[6]。また、皇后エカチェリーナを廃し、寵姫エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを皇后に据えようとして、彼女の一族であるヴォロンツォフ一門を重用した上、ルター派の信者だったピョートルはロシア正教会にも弾圧を加えた。
軍やロシア正教会によるピョートル3世への怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こるが、愛人関係にあったグリゴリー・オルロフとの子供であるアレクセイ(ロシア語版)を妊娠中だったエカチェリーナはすぐには動きがとれなかった。エカチェリーナは4月11日(ロシア暦)/4月22日(グレゴリオ暦)に極秘出産を済ませ、6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦)に近衛軍やロシア正教会の支持を得てクーデター(ロシア語版)を敢行した。
この時、エカチェリーナはロシア軍伝統の緑色の軍服の男装で自ら馬上で指揮を取ったと伝えられ、その凛々しい姿の肖像画が残されている。オルロフ兄弟やエカテリーナ・ダーシュコワ夫人らの尽力で、近衛連隊を始めとする在ペテルブルクの主要な軍隊や反ピョートル3世派の貴族はことごとくエカチェリーナ側に付き、ピョートル3世側についた重臣たちもその多くがお咎めなしで帰参を許されたこともあり、クーデターはほぼ無血で成功した。
在位6ヶ月のピョートル3世は廃位・幽閉され、間もなく監視役のアレクセイ・オルロフ(グリゴリーの実兄)に暗殺されたという。公式には、「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカチェリーナ2世はこれを深く悼む」と発表され、エカチェリーナ2世は自身の関与を否定したが、真相は不明である。
エカチェリーナ2世が政務を執る事では一致したものの、ロマノフ家の血統でないエカチェリーナの女帝即位には疑問の声もあり、嗣子パーヴェルを即位させてエカチェリーナは摂政に、という案もあったが、結局はエカチェリーナ自身が正式に女帝として即位することとなり、1762年9月22日(ロシア暦)/10月3日(グレゴリオ暦)にモスクワにあるクレムリンのウスペンスキー大聖堂で戴冠式を行った[7]
エカチェリーナ2世は当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、啓蒙君主を自認していた。そのため、ヴォルテール、ディドロなどとも文通を行い、自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興といった啓蒙思想に基づいた近代化諸政策に着手した。
私生活の面では生涯に約10人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる愛人を抱え、夜ごとに人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある。孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末であった。
すごい女性だったようですね。
夫のピョートル三世とは夫婦関係はなく、愛人との間の子どもが皇帝になったんですね。
だから、実質上、ロマノフ家の家系は、ピョートル三世で終わっているわけですね。
ロシア革命でニコライ二世が殺されたといっても、“偽物ロマノフ家”だったんですね。
このあたりにロシア革命の真相がありそうですね。
前回記事で紹介しましたが、レーニンの母方の曾祖父はユダヤ人の貿易商で、エカテリーナ二世の愛人の一人であったのですから、レーニンの家系自体が“偽物ロマノフ家”の関係者(というよりもエカテリーナ二世の末裔?)だったようですね。
エカテリーナ二世は怖い人ですね。
数百ともいわれる愛人を抱えていたという「伝説」の持ち主であるだけでなく、夫のピョートル三世を廃位・幽閉に導き、暗殺に関わった疑惑まであるのですから。
啓蒙思想の持ち主であったことから、明らかなイルミナティですね。
ドクター・ハマーとアル・ゴアは繋がっていましたね。
地球温暖化という嘘を拡散したことで有名な、あのアル・ゴアですよ。
ドクター・ハマーやギンベル・ファミリーやワシントン・ポストのバックはロスチャイルドだったようですね。
ソ連崩壊後もアメリカとロシアの“おかしな関係”は続いていますよ。
テレビでは悪役として叩かれて、ネットでは正義のヒーローとして崇められているプーチンも、このグループの一人ですよ。
彼らの正体を理解すれば、以下のことが見えてきますね。
・米ソ冷戦は嘘
・ソ連崩壊もシナリオ
・右も左も根は同じ
・ロマノフ王朝もレーニンもドクター・ハマーもワシントン・ポストも根は同じ
・地球温暖化詐欺はシナリオ
・ロシアとウクライナの“戦争ごっこ”はシナリオ
評点:80点
広瀬隆
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前回に続く。以下、一部引用する。
*そのトロワイヤの著書が描いた通り、女帝と呼ばれたエカテリーナ二世は、ドイツからやってきて、ピョートル大帝の孫ピョートル三世に嫁ぎながら、その結婚生活のなかでは処女であった。
・・・・・(中略)・・・・・
ところが女帝エカテリーナは、公式な王室記録によっても、パヴェル、アンナ、アレクセイの3人を出産しているのだ。処女が子供を出産するのは、キリストの聖母マリア様だけかと思えば、そうではない。この3人の子どものうち、1754年に生まれた謎の長男パヴェル・ロマノフ1世が、母の死後正式にツァーリとして即位し、その後のロマノフ家の皇位継承者全員にとって、先祖となったのである。この皇帝パヴェルの母が女帝エカテリーナ、つまり誰もが指摘しているようにロシア人の血が一滴も入っていない女性であった。
・・・・・(中略)・・・・・
レーニンの兄の一派が爆殺したというアレクサンドル二世は、その正体不明な血筋から出た“偽ロマノフ皇帝”パヴェルの直系である。レーニンの兄は、無駄な命を落としたものだ。そのあとレーニンの兄を処刑したアレクサンドル三世も、その正体不明な血筋から出た“偽ロマノフ皇帝”パヴェルの直系の曾孫であるから、やはり偽ロマノフであった。その息子、最後の皇帝ニコライ二世も勿論同じである。
*ハマー・ギャラリーを訪れた彼の親友は、自伝に登場するギンベル一族というドイツからの移民だったが、ギンベル・ブラザースというデパートを経営して全米にその名が鳴り響いていた。
・・・・・(中略)・・・・・
その怪物の親友だったギンベル・ファミリーは、ただのデパート業者ではなかったのである。文字通り世界の銀行界を動かした初代の「世界銀行」総裁ユージン・マイヤーが、ギンベルの一族だったという事実が、家系図の線から現れてきた。ハマーの背後にいたこの銀行家マイヤーは、世界銀行の総裁という肩書より、アメリカの首都を制する新聞“ワシントン・ポスト”のオーナーとしてよく知られてきた。しかし第二次世界大戦直後に発足した世界の金融体制は、ヨーロッパを本拠地とするIMF(国際通貨基金)と、アメリカを本拠とするユージン・マイヤーの世界銀行(国際復興開発銀行)の二大メカニズムを柱として運営されてきたのである。
・・・・・(中略)・・・・・
世銀総裁ユージン・マイヤーの娘は、父親よりよく知られていた。1991年に息子のドナルド・グラハム(グレアム)に経営権をゆずるまで、“ワシントン・ポスト”の社主として全世界の政治家に大きな影響をおよぼしてきたキャサリン・グラハムである。日本の首相人事は、「グラハム女史が首を縦に振らなければ認められない」と噂されるほど、わが国では彼女の威光がおそれられてきた。天皇家の内情も、キャサリン・グラハムには筒抜けであった。
*ドクター・ハマーと名乗って、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフに至るまで、すべての歴代ソ連首脳とワシントンを交流させ、米ソ政界のフィクサーとして動いた男の背後には、“ワシントン・ポスト”があった。
*ご存知ハマーは、その後「オクシデンタル石油」という小さな会社を買い取ってから油田を掘り当て、爆発的な成功を収めた。そのときオクシデンタルの副社長だったのが、上院議員アルバート・ゴアで、その息子のアルバートJr.が、1993年から“クリントン政権の副大統領アル・ゴア”と呼ばれるようになった。
*ハマーがこのように広大な国際的人脈を形成する源になったのは、ロマノフ家の財宝ではなく、実はロマノフ家であった。ハマーの最初の妻がロシア貴族であったからだ。
(管理人)
エカテリーナ二世をウィキで見てみる。
エカチェリーナ2世(エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ、ロシア語: Екатерина II Алексеевна, ラテン文字転写: Yekaterina II Alekseyevna (イカチリーナ・フタラーヤ・アレクセーエヴナ)、1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦))は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(女帝)。在位は1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)。夫は第7代皇帝ピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン(秘密結婚)、子は第9代皇帝パーヴェル1世ほか。
1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦)、北ドイツ(現在はポーランド領)ポンメルンのシュテッティンで神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯(英語版)クリスティアン・アウグスト(プロイセン軍少将)の娘として生まれた。キリスト教ルター派の洗礼を受け、ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ(Sophie Auguste Friederike)と名づけられた。
美貌と言えるほどの器量の持ち主ではなかったが、生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。本来、家柄的にはとても大国の后妃候補に挙がる身分ではなかったが、母ヨハンナの早世した長兄カール・アウグストがロシア女帝エリザヴェータ・ペトロヴナの若かりし頃の婚約者であった縁もあり、ゾフィーは14歳でロシア皇太子妃候補となる[3]。
1744年、ロシア帝都サンクト・ペテルブルクに到着。舞踏をランゲに、正教をプスコフ主教(1748年からは大主教)シモン・トドールスキイに、ロシア語を、初めてロシア語を体系化したワーシリィ・アダドゥーロフに習う。ロシア語の勉強に熱中したあまり高熱を発して倒れてしまい、エリザヴェータ女帝やロシア国民の心を動かしたという逸話もある。同年、ロシア正教に改宗し、エカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名した。偶然にもエカチェリーナ1世と同じ名を持つことになった。
翌日、エリザヴェータの甥で母方の又従兄にも当たる皇太子のホルシュタイン公ピョートル・フョードロヴィッチ(ピョートル3世)と婚約、翌1745年に結婚し、大公妃(ヴェリーカヤ・クニャージナ)(Великая Княжна)の称号を帯びた。2人ともドイツ育ちのため、ピョートルにとってはとりあえずドイツ語で存分に会話できる相手ではあったらしい。ロシア文化(英語版)には不慣れであったが、エカチェリーナがロシア語を習得し、ロシア正教にも改宗し、ロシアの貴族や国民に支持される努力を惜しまなかったのに対し、ピョートルはドイツ風にこだわり続け、ドイツ式の兵隊遊びに熱中し、周囲の反感を買い続けた。ピョートルに唯一かなりの才能があったと思われる趣味は音楽だったが、こればかりはエカチェリーナの方に才能が無かった。
不仲により、結婚後も長期間夫婦の関係はなかった。エカチェリーナはセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵らの男性と半ば公然と関係を持つようになっていた。エリザヴェータ女帝や周囲が世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも、むしろ積極的に勧めたとも言われる。ピョートルの方も大宰相(帝国宰相)ミハイル・ヴォロンツォフの姪エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを寵愛するようになり、夫婦の関係は完全に破綻する。
1761年12月25日(ロシア暦)/1762年1月5日(グレゴリオ暦)にエリザヴェータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝(ツァーリ)に即位、エカチェリーナも皇后 (ツァリーツァ)(царица)となった。
ピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者で、皇太子時代からエリザヴェータやロシア貴族と対立していた。七年戦争では、ロシア軍がプロイセン領内に侵攻してフリードリヒ2世を追い詰めていたにもかかわらず、ピョートル3世が即位後にいきなりプロイセンと講和条約を結んだことはロシア軍からの不評を買った[6]。また、皇后エカチェリーナを廃し、寵姫エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを皇后に据えようとして、彼女の一族であるヴォロンツォフ一門を重用した上、ルター派の信者だったピョートルはロシア正教会にも弾圧を加えた。
軍やロシア正教会によるピョートル3世への怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こるが、愛人関係にあったグリゴリー・オルロフとの子供であるアレクセイ(ロシア語版)を妊娠中だったエカチェリーナはすぐには動きがとれなかった。エカチェリーナは4月11日(ロシア暦)/4月22日(グレゴリオ暦)に極秘出産を済ませ、6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦)に近衛軍やロシア正教会の支持を得てクーデター(ロシア語版)を敢行した。
この時、エカチェリーナはロシア軍伝統の緑色の軍服の男装で自ら馬上で指揮を取ったと伝えられ、その凛々しい姿の肖像画が残されている。オルロフ兄弟やエカテリーナ・ダーシュコワ夫人らの尽力で、近衛連隊を始めとする在ペテルブルクの主要な軍隊や反ピョートル3世派の貴族はことごとくエカチェリーナ側に付き、ピョートル3世側についた重臣たちもその多くがお咎めなしで帰参を許されたこともあり、クーデターはほぼ無血で成功した。
在位6ヶ月のピョートル3世は廃位・幽閉され、間もなく監視役のアレクセイ・オルロフ(グリゴリーの実兄)に暗殺されたという。公式には、「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカチェリーナ2世はこれを深く悼む」と発表され、エカチェリーナ2世は自身の関与を否定したが、真相は不明である。
エカチェリーナ2世が政務を執る事では一致したものの、ロマノフ家の血統でないエカチェリーナの女帝即位には疑問の声もあり、嗣子パーヴェルを即位させてエカチェリーナは摂政に、という案もあったが、結局はエカチェリーナ自身が正式に女帝として即位することとなり、1762年9月22日(ロシア暦)/10月3日(グレゴリオ暦)にモスクワにあるクレムリンのウスペンスキー大聖堂で戴冠式を行った[7]
エカチェリーナ2世は当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、啓蒙君主を自認していた。そのため、ヴォルテール、ディドロなどとも文通を行い、自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興といった啓蒙思想に基づいた近代化諸政策に着手した。
私生活の面では生涯に約10人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる愛人を抱え、夜ごとに人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある。孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末であった。
すごい女性だったようですね。
夫のピョートル三世とは夫婦関係はなく、愛人との間の子どもが皇帝になったんですね。
だから、実質上、ロマノフ家の家系は、ピョートル三世で終わっているわけですね。
ロシア革命でニコライ二世が殺されたといっても、“偽物ロマノフ家”だったんですね。
このあたりにロシア革命の真相がありそうですね。
前回記事で紹介しましたが、レーニンの母方の曾祖父はユダヤ人の貿易商で、エカテリーナ二世の愛人の一人であったのですから、レーニンの家系自体が“偽物ロマノフ家”の関係者(というよりもエカテリーナ二世の末裔?)だったようですね。
エカテリーナ二世は怖い人ですね。
数百ともいわれる愛人を抱えていたという「伝説」の持ち主であるだけでなく、夫のピョートル三世を廃位・幽閉に導き、暗殺に関わった疑惑まであるのですから。
啓蒙思想の持ち主であったことから、明らかなイルミナティですね。
ドクター・ハマーとアル・ゴアは繋がっていましたね。
地球温暖化という嘘を拡散したことで有名な、あのアル・ゴアですよ。
ドクター・ハマーやギンベル・ファミリーやワシントン・ポストのバックはロスチャイルドだったようですね。
ソ連崩壊後もアメリカとロシアの“おかしな関係”は続いていますよ。
テレビでは悪役として叩かれて、ネットでは正義のヒーローとして崇められているプーチンも、このグループの一人ですよ。
彼らの正体を理解すれば、以下のことが見えてきますね。
・米ソ冷戦は嘘
・ソ連崩壊もシナリオ
・右も左も根は同じ
・ロマノフ王朝もレーニンもドクター・ハマーもワシントン・ポストも根は同じ
・地球温暖化詐欺はシナリオ
・ロシアとウクライナの“戦争ごっこ”はシナリオ
評点:80点
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