歴史・宗教

中臣鎌足→藤原鎌足の真相は?

 ←「The Ties That Bind 」Bruce Springsteen  →「Lust For Life」IGGY POP
「大化の改新の謎 闇に葬られた衝撃の真相」 関裕二

2002年の書である。大化改新・乙巳の変の真相は「既得権を死守しようとした守旧派による「改革潰し」であり、蘇我入鹿の悪人像を偽造したものである」との持論を展開し、大化改新の真相を解き明かすことを目的として本書を書いたとのことである。
以下、一部引用する。


*奈良県と大阪府の県境付近に、「王陵の谷」と呼ばれる一角がある。大津皇子(おおつのみこ)の眠る二上山の西側、磯長谷(しながたに)一帯に、聖徳太子ゆかりの人物群の古墳が密集しているところから、この名がある。
・・・・・(中略)・・・・・
この「王陵の谷」の中心的役割を果たしているのが聖徳太子の眠る叡福寺で、聖徳太子が推古28年(620)にこの地の廟を造営し、さらに聖武天皇の勅願により神亀(じんき)元年(724)に寺院が建立されたともいわれるが、はっきりとしたことは分かっていない。
分かっていることは、この寺が、いつの日からか、聖徳太子の墓陵を守りつづけてきたという一点である。
この叡福寺には聖徳太子信仰も手伝って、いまだに観光バスが乗り付けるが、叡福寺を見下ろす高台に、もう一つ大切なお寺があることは、あまり知られていない。
それが西方院(さいほういん)で、代々蘇我を名乗る住職がつとめてきた。だから今でも、ご住職の姓は「蘇我さん」である。
ちなみに、学校教育が行き届いてしまった結果(?)、いまだに蘇我さんの子女たちは、学校で肩身の狭い思いをしているという。歴史の授業.で、蘇我入鹿が悪人として教えられているからだ。
さて、西方院はやはり聖徳太子の墓陵を守ってきたのだが、この寺には謎が多い。
寺に残された伝承によれば、太子薨去(こうきょ・死亡)ののち、太子の三人の御乳母(おめのと)・善信(ぜんしん・蘇我馬子の娘)・禅蔵(ぜんぞう・小野妹子の娘)・恵善(えぜん・物部守屋の娘)が出家し、太子御廟(ごびょう)の前に一宇(いちう)を建立したのがはじまりとされている。
小野妹子の娘は分かるにしても、蘇我馬子・物部守屋の娘たちが、なぜ聖徳太子の御廟を守るために出家したのか、どうにも納得しかねるものがある。
蘇我馬子は聖徳太子と対立していた疑いが強く、また、馬子の孫・蘇我入鹿は、聖徳太子の末裔一族を滅亡に追い込んでいる。
物部守屋は蘇我馬子と聖徳太子の軍勢に滅ぼされた人物であり、なぜ敵対する一族の娘が、みな尼僧になって聖徳太子の御廟を守ったのだろう。それに、蘇我氏と物部氏は犬猿の仲であったと「日本書紀」はいう。であるならば、なぜ西方院で、二つの氏族の女性が仲よく並んでいるのだろう。


*ところが中大兄皇子の時代、百済は滅亡の危機に瀕していた。最大の原因は東隣の新羅が急速に発展してきたことで、これに対抗するためには百済は高句麗と結び、ここに東アジアをめぐる新たな図式が生まれた。新羅・唐と、百済・高句麗の戦いが切って落とされたのである。
・・・・・(中略)・・・・・
転機が訪れたのは、ちょうど中国王朝が隋から唐に変わったころ(西暦618)であった。いったんは高句麗・百済・新羅それぞれが唐に朝貢(ちょうこう)し、平和が訪れたと思われた。しかし、新羅が高句麗と百済に封じ込められていると唐に訴え出たところから、唐は高句麗と百済を危険視し、新羅を味方に引き入れるようになっていったのである。
中国・百済・新羅と高句麗の反目という図式が、中国・新羅と高句麗・百済の対立という図式に変化したわけだ。
高句麗や百済の新羅侵略に対し、西暦644年、ついに唐は高句麗征伐に乗り出す。この戦いは、西暦648年に唐の皇帝・太宗が亡くなるまでつづけられた。
乙巳の変が起きた西暦645年とは、こういう時代であった。そして注目すべきは、日本側の姿勢である。
5世紀・6世紀のヤマト朝廷ならば、間違いなく百済救援の兵を繰り出したにちがいない。しかし、聖徳太子が実験を握ったころから、ヤマト朝廷は、「百済のための出兵」を見送りはじめている。
聖徳太子がとった外交政策は、百済一極外交の是正であったように見受けられる。太子の目は、朝鮮半島の先の中国大陸に注がれていて、だからこそ、遣隋使を派遣し、律令制度を直接隋から学び取ろうとしていたのであろう。この外交方針を、蘇我氏も継承していたようで、彼らはそれまでの百済一辺倒ではなく、新羅とも友好関係を結び、全方位型外交を目指していた可能性が高い。少なくとも朝鮮半島への軍事介入を極力避けたいというのが本心ではなかったか。

じつをいうと、このような国際情勢が、乙巳の変に暗い影を落としていた疑いが強い。
乙巳の変の入鹿暗殺を唯一嘆いた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は、自宅に戻ると、

韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ・蘇我入鹿)を殺しつ。吾が心痛し

と絶叫している。「蘇我入鹿が韓人に殺された。胸が張り裂けそうだ」というのである。
この一節には注が挿入されていて、そこには、「韓政(からのまつりごと)に因(よ)りて誅(ちゅう)せらるるを謂ふ」とある。すなわち、外交問題をめぐる内紛があった、といっているわけである。また、古人大兄皇子が叫んだ「韓人」とは、朝鮮半島の人を指し、狭くは百済人を指した。

このような背景を探っていくと、実権を手中にした中大兄皇子が民衆の罵倒を無視してまで百済遠征にこだわりつづけた姿勢は、西暦645年以来の宿願だったと考えることで、乙巳の変の最大の争点というものが明らかになってくるのではあるまいか。それは「律令」云々ではなく、百済を救援しようとしない蘇我政権に対し、親百済派の皇族・中大兄皇子が反旗を翻したものなのではあるまいか。

このように、出雲と物部は明確につながっているが、「蘇我」も、出雲とは浅からぬ縁で結び付いていたのである。
出雲大社本殿裏手の摂社(せっしゃ)は素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祀っているが、ここを「素鵞(そが)社」と呼ぶのはなぜだろう。素戔鳴尊の最初の宮は須賀(すが)で、蘇我氏の場合、「蘇我」だけでなく、「宗我(そが)」「宗賀(そが)」とも書き、「宗我」は「スガ」とも読める。
すなわち「ソガ(蘇我)」は出雲の「スガ(須賀)」が音韻変化したものであったと考えられ、蘇我氏の地盤「飛鳥=アスカ」も、門脇禎二氏が指摘するように、「ア」(接頭語)+「スカ(スガ)」が語源だったのではあるまいか。
7世紀、「方墳」の造営は蘇我氏の特権として他の豪族には許されなかった。唯一許されたのは出雲国造家(こくそうけ)である。このように、蘇我氏と出雲は目に見えぬ縁で結ばれていた。

・・・・・(中略)・・・・・
しかし、不審なのは「日本書紀」の態度である。7世紀、専横を繰り返し天皇家をないがしろにした蘇我氏が渡来系であったならば、「日本書紀」は迷うことなく蘇我氏の素性を暴露していたであろう。
ところが、「日本書紀」は蘇我氏の素性をまったく無視してしまった。その理由を詮索するに、蘇我氏の祖が記録できないほど正統なものだったからだろう。つまり、物部氏が「出雲」であることを抹殺されたように、蘇我氏も正体を封印されてしまったと考えたほうが話のつじつまが合ってくる。
ところで物部氏と蘇我氏といえば、物部守屋と蘇我馬子の対立で知られる。したがって、二つの氏族は仲が悪かったと信じ込まされている。しかし、「日本書紀」は蘇我氏が隆盛を極めたのは蘇我馬子が物部系の女人を娶り、物部の財力があったからといい、物部系の「先代旧事本紀」は、一族の女人が蘇我入鹿を産んだことを誇らしげに記録している。また、蘇我氏が物部守屋を滅ぼした事件をまったく責めることなく、それどころか、事件のあったこと自体、無視している。
このような「仲のよかった物部と蘇我」を認めるように、「日本書紀」は蘇我入鹿の弟(あるいは入鹿本人)が「物部大臣」と呼ばれていたとする。

では、蘇我氏の祖が出雲系だったとして、彼らはどのように出雲神とつながってくるのか、という疑問が出よう。「古事記」にいう蘇我氏の祖・武内宿禰(たけのうちのすくね)がこの謎を解き明かしているように思われる。この男の正体は大物主神(おおものぬしのかみ)の子・言代主神(ことしろぬしのかみ・事代主神)であり、葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)と同一だったのではないかというのが私見の骨子である。

*もちろん、いちどは壬申の乱で没落した藤原(中臣)氏である。並大抵なことでは権力の中枢にのぼりつめることはできなかったであろう。そのため、藤原氏は手段を選ばない手口で、多くの皇族や豪族を闇に葬っている。当然、藤原氏は深い恨みを買い、その様子は多くの伝承から窺い知ることができる。
たとえば「竹取物語」は、藤原氏の陰謀で没落の憂き目を見た紀氏(紀貫之)によって書かれた疑いが強いが、藤原不比等を暗示する車持皇子(くらまちのみこ)に対して、「たばかりある者」すなわち、謀略好きな男と手厳しい。そればかりか、姑息な手段でかぐや姫を我がものにしようとした人物として描かれている。
車持皇子は、罪もない者たちを血の出るほど叩きのめすという残虐な人物だったというのだ。
かぐや姫を迎えにきた月の都の者たちは、「いざ、かぐや姫、穢(きたな)き所にいかでか久しくおはせん」と語りかける。「穢き所」とは、藤原の天下そのものを指している。

このような辛らつな批判を受けるほど、藤原氏は恨みを買っていたのだが、彼らにとっての律令整備は、聖徳太子の描いた理想国家の実現と言う大意あるものではなかった。既存の豪族層の力をはぎとり、自家のみの繁栄を勝ち取るための恰好の手段にすぎなかった。もちろんこれが、父・鎌足から引き継がれた藤原氏の執念だったのだろう。

*興味深いのは、法隆寺最大の祭り、聖霊会(しょうりょうえ)のクライマックスで演じられる舞楽・蘇莫者(そまくさ)である。

「一見してそれは怨霊なのである」

と、梅原猛氏が「隠された十字架」(新潮社)の中で述べたとおり、蘇莫者の出で立ちは異様である。蘇莫者は唐人風の服をまとい、蓑を背負っているのである。いったい、この蘇莫者が、なぜ法隆寺最大の祭りの主役なのであろうか。
奇妙な符号がある。斉明天皇にまとわりついた、あの鬼である。かの男は唐人風で、しかも笠をかぶっていたという。男の名は豊浦大臣(とようらのおおおみ)。乙巳の変で殺された蘇我入鹿とも蘇我蝦夷ともいわれていた。
では、豊浦大臣なるものと、蘇莫者の似かよりには何か関係があるとでもいうのだろうか。
梅原猛氏は、蘇莫者の「蘇」は「蘇我」であり、蘇莫者は「蘇我の莫(な)き者」=「蘇我の亡霊」であろうとした。しかもそれは、「蘇我系皇族」聖徳太子にほかならないというのである。
蘇莫者の「蘇」が「蘇我」の「蘇」であることに異存はない。しかし、それは本当に聖徳太子を意味していたのだろうか。
やはり聖徳太子建立の四天王寺にも、蘇莫者伝承がある。そこでは、聖徳太子が法隆寺から四天王寺に向かう山中で、山神・蘇莫者に出会ったのだとしている。この伝承を見る限り、聖徳太子と山神・蘇莫者は別人である。法隆寺の聖霊会でも、舞楽を鼓舞するように、聖徳太子は笛吹き役として舞台の脇に控えている。とすれば、蘇莫者は聖徳太子ではなく、しかも聖徳太子を上回る大役である。

とするならば、蘇莫者は聖徳太子ではない蘇我系の何者かであり、蘇我入鹿そのものだったのではあるまいか
では、なぜ法隆寺に蘇我入鹿が祀られねばならないのだろう。
いや、こう考えるべきではないか。つまり、法隆寺は「蘇我」の寺であり、そこに祀られるのは聖徳太子という個人ではなく、「蘇我」にかかわる人々、と考えればいいのである。この「蘇我」は、「日本書紀」によって、聖者・聖徳太子と、悪人・蘇我入鹿に分類されてしまっただけの話なのである。蘇我氏の功績はすべて皇族としての聖徳太子という偶像にかぶせられ、いっぽうで蘇我氏の「悪」のイメージは、聖徳太子一族殺しという「冤罪」によってつくり上げられたのであろう。しかし、斑鳩宮の山背大兄王の「奇怪な滅亡」を見れば分かるとおり、それは明らかな虚構である。
じつをいうと、このようなカラクリを見事にわれわれの前に提示してしまったのが、8世紀の藤原氏なのである。


*こうして、乙巳の変と大化改新の実態は、ようやくその全貌を見せ始めたのである。
それは「日本書紀」のいうような「正義の戦い」などではなく、蘇我氏が中心となって推し進められた改革事業に対する「改革潰し」だったのである。
5世紀にはじまった部民制(べみんせい)は、やがて屯倉制(みやけせい)へと移行した。さらに、聖徳太子は、中国大陸に完成しつつあった律令制の導入を目論み、新たな政治システムへの道が開かれたのである。もちろん、聖徳太子が目指したものは、屯倉制の整備を急いだ蘇我氏の思惑を継承したものであった。しかもそれは、王権の強化が真の目的ではなく、合議制による中央政府の強化以外の何物でもなかった。
ところが、百済の衰弱が、思わぬ波紋を投げかけた。守旧派の中大兄皇子と百済王・豊璋
(ほうしょう・中臣鎌足)が、百済遠征に否定的な蘇我政権打倒を目論んだからである。結果、改革派の巨魁(きょかい)・蘇我入鹿は暗殺され、蘇我入鹿の遺志を引き継いだ孝徳天皇も、中大兄皇子が岡本で展開したゲリラ戦、度重なる要人暗殺によって、失意の中、憤死するのである。
いっぽう、孝徳天皇亡き後、即位した斉明天皇のもとで、中大兄皇子は民衆の非難を横目に、「岡本宮」周辺の防御を固めたうえで、百済遠征を強行する。しかし、誰もが予想したとおり、日本は唐と新羅の連合軍の前に、大敗北を喫し、亡国の危機さえ味わったのである。
百済が滅亡すると、百済王豊璋の子・藤原不比等は、日本での生き残りを賭け、最後の「蘇我」潰しに走ったのである。その結果、朝堂はほぼ藤原氏によって独占され、藤原不比等の孫・藤原仲麻呂(恵美押勝・えみのおしかつ。706~764)は、自らの館で養子のように飼い慣らした人物を天皇に推し立て(淳仁じゅんにん天皇)、天皇に「父」と呼ばせている。挙げ句の果てに、自らを皇帝になぞらえ、完璧な独裁体制を構築するにいたる。
この後、藤原氏は律令制度の致命的な欠陥を放置し、その欠陥を利用して領土を広げていった。それが荘園であり、律令制度の理念を根本的に否定する行為にほかならない。この結果、国家財政は藤原氏によってまかなわれる形で進められたほどであった。藤原氏は「日本」を私物化することにも成功してしまうのである。
また、日本でもっとも皇族を殺している豪族といえば蘇我氏を想像しがちだが、実際には藤原氏であり、彼らは天皇家をただたんに食いものにし、自家の繁栄だけを追い求めたのである。
平安時代の藤原氏の天下の後にやってくる中世が日本のルネッサンスといわれるのは、このような藤原暗黒時代から解放されたからであり、ほぼ同時に聖徳太子信仰が隆盛するのにも、理由がないわけではなかったのである



(管理人)
今回も著者独自の歴史考察が繰り広げられていた。「王陵の谷」の記述は、「日本書紀」が蘇我氏、物部氏の出自を隠蔽していた事実を明らかにするさらなる証拠となるだろう。恵善(えぜん・物部守屋の娘)が出家したとの記述からも、例の蘇我氏(仏教)と物部氏(神道)が戦ったという宗教戦争というやつも疑ってかかったほうがいいだろう。
何で神道勢力といわれる物部守屋の娘が出家するんだ!
私は十分理解しているつもりだが、蘇我氏も物部氏も、その出自は出雲であり、新羅であり、さらにはニギハヤヒであり、さらに突き詰めるとユダヤ、そしてレプティリアンにたどり着く可能性が高いと思う。

大化改新・乙巳の変の背景も、単なる人的確執が原因ではなく、「全方位的外交を進めていた蘇我氏の外交政策に反対する百済勢力である中臣鎌足と中大兄皇子が巻き起こしたクーデターである」ということが、その後起こされた白村江の戦い及び、当時の朝鮮半島の勢力争いを振り返ってみればよく分かることだ。

しかし私が気になったことは、蘇我氏を悪者に仕立てた日本書紀の偽装工作を著者は糾弾しているのだが、従来著者が唱えた「聖徳太子は蘇我入鹿である」説を本書では封印しているところである。私はこの説は十分説得力のあるものだと思っているが、蘇我入鹿に対する謀略には触れながら、何故かこの説は封印しているのが納得できなかった。著者の考えが変わったのだろうか?それとも何らかの圧力がかかっているのだろうか?

最後に以前にも触れたが、中臣(藤原)鎌足の正体についての現在の私の考察を記しておく。私も中臣鎌足については、著者の主張している通り、百済王・豊璋であったのが正解であると思う。しかし、その後に変遷があったと感じる。
それは下記の通りである。

645年に中大兄皇子と中臣鎌足(=百済王・豊璋)によって大化改新・乙巳の変が起こされ、親百済政権となる。

663年に白村江の戦いに日本は百済救援に参加するが、唐・新羅に完敗する。

669年に唐の将軍・郭務悰(かくむそう)が来日する。同年、中臣鎌足が死亡する。

671年に郭務悰が2000人の兵とともに再来日する。同年、天智天皇(=中大兄皇子)が死亡する。

以上の歴史年表から推察すると、百済勢力が大化改新を起こして、百済救援の白村江の戦いに参戦するが敗れ、唐の占領軍として郭務悰が来日する。そして郭務悰は中臣鎌足を殺害し、自ら藤原鎌足となる。671年に郭務悰(=藤原鎌足)は2000人の大軍で再来日する。そして天智天皇を殺す。こうして唐に歯向かった百済勢力を倒して、新羅勢力である天武天皇を傀儡とする。しかし、天武崩御後、新羅と敵対関係となった唐は、天智天皇の娘である(ということは百済勢力)持統を天皇とし、自らの血族である藤原家を中心とした唐・百済連合政権使って、日本を傀儡支配する。

以上、私の独断と偏見に基づいた歴史考察である。
イルミの傘下である歴史学会のお偉方は「とんでもない!」と一蹴するだろうが、少なくとも、「彼ら」の息がかかった“偽造まみれの歴史考察”よりは真実に近いと思われますが・・・。
皆さんはどう思われますでしょうか?
信じるか信じないかはあなた次第です(笑)。


評点:60点


(参考過去記事)
藤原氏(郭務悰)に支配された縄文日本原始住民
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-30.html

聖徳太子は蘇我入鹿であり、蘇我善徳であり、スサノオと関係している
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-31.html

スサノオ、ニギハヤヒ、物部氏、聖徳太子、天武天皇の関連性
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-37.html

645年、蘇我氏のみならず歴史まで「むし殺した」藤原氏
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-213.html





大化改新の謎―闇に葬られた衝撃の真相 (PHP文庫)大化改新の謎―闇に葬られた衝撃の真相 (PHP文庫)
(2002/07)
関 裕二

商品詳細を見る




もくじ  3kaku_s_L.png 太田龍
もくじ  3kaku_s_L.png 鬼塚英昭
もくじ  3kaku_s_L.png 人類の起源
もくじ  3kaku_s_L.png 日本人のルーツ
もくじ  3kaku_s_L.png サム・クック
もくじ  3kaku_s_L.png サム&デイヴ
もくじ  3kaku_s_L.png アル・グリーン
もくじ  3kaku_s_L.png オル・ダラ
もくじ  3kaku_s_L.png タジ・マハール
もくじ  3kaku_s_L.png プリンス
もくじ  3kaku_s_L.png ニーナ・シモン
もくじ  3kaku_s_L.png トム・ウェイツ
もくじ  3kaku_s_L.png ライ・クーダー
もくじ  3kaku_s_L.png ザ・ドアーズ
もくじ  3kaku_s_L.png レゲエ・スカ
もくじ  3kaku_s_L.png ブルース
もくじ  3kaku_s_L.png ロック
もくじ  3kaku_s_L.png オールディーズ
もくじ  3kaku_s_L.png クラシック
もくじ  3kaku_s_L.png 替え歌
もくじ  3kaku_s_L.png 頭脳警察・PANTA
もくじ  3kaku_s_L.png amazarashi
もくじ  3kaku_s_L.png スピッツ
もくじ  3kaku_s_L.png マネー詐欺
もくじ  3kaku_s_L.png マスゴミ
もくじ  3kaku_s_L.png 不正選挙
もくじ  3kaku_s_L.png 歴史・宗教
もくじ  3kaku_s_L.png 戦争
もくじ  3kaku_s_L.png 原発・放射能
もくじ  3kaku_s_L.png 旅行記
もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
【「The Ties That Bind 」Bruce Springsteen 】へ  【「Lust For Life」IGGY POP】へ

~ Comment ~

NoTitle

神武以前なら山本健造氏の「明らかにされた神武以前」や弟子の中西正矢氏の「古事記は出雲が書いた」山本貴美子氏の「裏古事記」いずれも福来出版等が参考になりました。先祖を調べていたら、北家の藤原道隆、その三男の伊周の家司をしているので不信に思いました。臣下に下っているからです。そこで藤原の出自を疑う様になりました。蘇我は會尸茂李の娘と大国主との間の子供の子孫ですから、物部とは、親戚です。突然出現した鎌足と天智天皇は、何者なのか気味悪いです。
  • #220 宇摩志麻遅命の子孫 
  • URL 
  • 2014.12/30 00:14 
  •  ▲EntryTop 

Re: NoTitle

コメント有難うございます。

物凄いご先祖様をお持ちのようですね。

> 神武以前なら山本健造氏の「明らかにされた神武以前」や弟子の中西正矢氏の「古事記は出雲が書いた」山本貴美子氏の「裏古事記」いずれも福来出版等が参考になりました。

山本健造氏関連の書は参考になると思います。私もおいおい読んでみようと思います。
なにせ、他にも気になる関心事が多すぎまして・・・ ・・・。

先祖を調べていたら、北家の藤原道隆、その三男の伊周の家司をしているので不信に思いました。臣下に下っているからです。そこで藤原の出自を疑う様になりました。蘇我は會尸茂李の娘と大国主との間の子供の子孫ですから、物部とは、親戚です。

よく調べられてますね。蘇我氏と物部氏は親族であることは間違いないでしょう。
いくら「記紀が正統だ」と主張する歴史学会が歴史を偽造しようとしても、真実は隠しきれません。


突然出現した鎌足と天智天皇は、何者なのか気味悪いです。

中大兄皇子については、百済系であると思います。
大化の改新時の鎌足については、関氏が主張しているように百済王・豊璋でしょう。私は記事にも書いたように、白村江の戦いで日本が敗れた後、「郭務悰が中臣鎌足を殺害し、自ら藤原鎌足となった」のが正解だと思います。
本物の金日成になりすましてニセモノの「彼ら」の傀儡が北朝鮮を創ったのと同じように・・・ ・・・。

万年属国

「中臣鎌足の起源は韓国ニダー!」
今度は中臣鎌足の韓国起源ですか(笑)
ちなみに百済は日本に人質を差し出していた、日本の属国ね。

白村江の後に唐から日本に占領軍が来た説は度々見るが、日本国内で一戦もしてない事や日本がいつ独立したかにはまったく触れんよな

Re: タイトルなし

> 日本国内で一戦もしてない

何の資料を根拠に書いておられるのか理解不明です。

>日本がいつ独立したか

元から独立などしていないのではないのでしょうか。
日本を支配した外国勢力がそのまま支配し続けているのではないのでしょうか。

NoTitle

歴史に疎く、この記事は半分しか解らない(泣)のですが、法隆寺にあるという頭が人間でない変な像も関係あるのでしょうか?
  • #544 「katsukoのブログ」 
  • URL 
  • 2015.12/06 10:25 
  •  ▲EntryTop 

Re: NoTitle

コメント有難うございます。

> 歴史に疎く、この記事は半分しか解らない(泣)のですが、法隆寺にあるという頭が人間でない変な像も関係あるのでしょうか?

例のシュメールの像とよく似たレティリアン像のことですよね。
この件とこの記事に接点があるかどうかは私には分かりませんが、関係している可能性は十分に考えられるでしょうね。
ただ、こういった遠く離れた摩訶不思議な像が法隆寺に存在するということは、何らかの秘密が隠されているのは間違いないでしょうね。事実は小説より奇なりですね。

NoTitle

蘇我氏がどこから来たのか疑問でしたが、出雲系としたらニギハヤヒの子孫と考えていいのでしょうか。その間に崇神と応神が来ていると思いますが、それらの中で生き延びたということですかね。
中大兄皇子と中臣鎌足については、私見では中の皇子と大臣ということで、済州島に流刑された百済の次男翹岐と沙宅大佐平じゃないかと思います。
またこの二人は、日本の神社に後世、大己貴と少彦名として加えられたやに思います。

Re: NoTitle

まぶさん

> 蘇我氏がどこから来たのか疑問でしたが、出雲系としたらニギハヤヒの子孫と考えていいのでしょうか。その間に崇神と応神が来ていると思いますが、それらの中で生き延びたということですかね。
> 中大兄皇子と中臣鎌足については、私見では中の皇子と大臣ということで、済州島に流刑された百済の次男翹岐と沙宅大佐平じゃないかと思います。
> またこの二人は、日本の神社に後世、大己貴と少彦名として加えられたやに思います。

コメントありがとうございます。

私は、蘇我氏は新羅、出雲系だと思います。
中大兄皇子については百済系だと思いますが、中臣鎌足については記事にした通り、複雑な見解を持っています。
古代史の真相を探るのは、ある意味、楽しい部分もありますよね。
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【「The Ties That Bind 」Bruce Springsteen 】へ
  • 【「Lust For Life」IGGY POP】へ