天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが、大嘗祭の本質であった - 関裕二

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天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが、大嘗祭の本質であった

「消された王権・物部氏の謎」オニの系譜から解く古代史 第二部
関裕二



前回に続く。

*吉野裕子氏は、「大嘗祭」(弘文堂)のなかで、大嘗祭が“蛇の呪文”に彩られていること、この信仰の原型が物部氏のものに似ていて、しかも物部氏が重用されていることについて、「物部氏の祭祀そのものが天皇家によって踏襲されたことも考えられる。この場合も、祖神の蛇の呪力を担うものとしての物部氏に対する記憶は、そのまま祭祀における物部氏の重用につながるのである」とされるが、残念ながら、これだけで大嘗祭と物部氏の関係のすべてを語ったことにはならないと思う。
というのも、天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが、大嘗祭の本質であった気配が濃厚だからである

*そもそも伊勢神宮は、皇祖神で女神の天照大神を祀る日本最高の神社と考えられてきた。その一方で、吉野裕子氏は、先述の「大嘗祭」のなかで、次のように述べている。
古くは伊勢神宮の祭神は蛇体の大祖先神で、天照大神はその神妻で大神を祀る最高の巫女であった。しかし時代が降るにつれて、祀るものから祀られるものに変身し、伊勢神宮の祭神となったのである
とされ、また、“伊勢”には天皇家進出以前の土着の男性太陽信仰があって、この祭祀形態を天皇家が踏襲したのではないかとする説が有力視されている。
この土着の男性の太陽神こそ、ニギハヤヒ(大物主神)であった可能性が高いと思われるのは、ニギハヤヒの正式な諡号(しごう)が“天照国照彦天火明櫛魂饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)”で、太陽神を意味する“天照”の二文字が冠せられていること、さらには吉野氏の指摘される“蛇体”の大祖先神がそのまま大物主神を祀る“三輪山”に当てはまるからである
大神神社の神が“蛇”であったことは、「日本書紀」雄略天皇七年の条にも明記されている。
そこには、三輪の神の姿を見たいと雄略が願い、三輪の“蛇”が捕らえられたという説話があり
今日でも大神神社には、蛇の好物の卵が供えられている。
先述の原田氏は、やはり神社伝承からニギハヤヒ(大物主神)は太陽神であったと考えておられるが、大物主神の祀られる三輪山が古代太陽信仰のメッカだったとする説が最近有力になりつつあり、日本の本来の太陽神は、どうも物部氏の祖・ニギハヤヒであったらしい。
こうして見てくると、伊勢神宮の心の御柱は、“陽”を象徴する柱、すなわちそれは男根や蛇であったことがわかる。そしてもちろん、隠された正体は、太陽神・大物主神であろう。
そこで大嘗祭で祀られる正体不明の神に視点を移せば、ここにも大物主神の亡霊が現れてくることに気づかれるはずだ。
大嘗祭のなかで天皇が神に食事を供し、みずからも食す秘儀は、神武天皇のとり行なった祭祀や伊勢神宮、心の御柱祭祀とまったく共通であり、正体を抹殺された神の名は、やはり大物主神であったことになる。
そして、天皇家最大の祭りの主祭神を公にできない理由があったとすれば、ここに、天皇家の“王”としての威厳、正統性を覆しかねない問題が潜んでいるからと考えられるのである。すなわちそれは、“ヤマト”という国の成り立ちの根幹にかかわる重大事であろう。
天皇家の祖神に屈服し国を譲り渡した出雲神、かたや神武天皇の威に圧倒され国を禅譲した物部氏、このような「日本書紀」の示した明確な図式でさえ疑わざるをえない。天皇家が“モノ(鬼)”どもを支配するどころか、実際には重視し祀っていたことと明らかに矛盾するからである。
すでに述べられたように、“モノ”は、鬼であると同時に神でもあった。この”モノ“の主・大物主神は、鬼の主であると同時に神の主であり事実天皇家はまるで震え上がるかのように出雲神を敬い、この伝統は天皇家の“裏”の祭祀として引き継がれていったのである。
とするならば、ヤマト朝廷成立=神武東征は、天皇家の一方的な侵略ではなく、この時点で、鬼(大物主神)と神(天皇家)の間には、「日本書紀」や通説では語られなかった、もっと違うかたちの関係が結ばれていたと考えられるのである。

*「古事記」の神話には、大物主神や事代主(ことしろぬし)神らが天皇家(天津神)に恭順の意を示すなか、ひとり建御名方(たけみなかた)のみが出雲国譲りに最後まで抵抗し、ついに出雲を追われ東国に逃れたと記録されている。
建御名方は信州諏訪まで落ち延び、二度とこの地を離れないことを条件に除名されたのである。
ちなみに、この神が諏訪大社の主祭神となって多大な信仰を集めたのは、中世武神としての性格を強めたことが大きな理由の一つだが、信州地方には、武神となる以前の古代の伝承が多く残されている。そしてこれらの伝承には、この神が開拓神、農業神、水難鎮護の神であったという共通のテーマが流れている。
すなわち、それまで手のつけられなかった湿地帯や湖であったところを干拓し、水田を広げ土着の人々と融合していったというのである。

「日本書紀」の記述に従えば、ニギハヤヒがヤマトの大王になるきっかけは、土着の首長・長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶ったことだったが、この長髄彦がそもそも蝦夷であったとする説がある。
たとえば「白鳥伝説」(集英社文庫)の谷川健一氏は、“すねが長い”という修辞語は、蝦夷特有のものであったと指摘する。八掬脛(やつかはぎ・八握り=約80センチのすねをもった人)という、やはり長いすねを表す修辞語が、土蜘蛛とよばれる夷狄(いてき)に対して使われているのは、先住民(縄文人)の手足が長いという身体的特徴を誇張した蔑称と考えられたのである。
実際、「日本書紀」のなかで、九州から東へ向かった神武天皇の一行が、ヤマトのまつろわぬ者どもをさして、“エミシ”とよんでいることからも、長髄彦が“蝦夷”ととらえられていたことは確かである。とするならば、物部氏は建御名方が東国へ逃亡する以前から、すでに蝦夷との関係をもち、しかも蝦夷たちの手で擁立されていたことになる。

*日本土着の縄文人は、弥生時代以降に流入した渡来人と比較すると、丸顔で手足が長く、体毛が濃いという身体的特徴をもっていたが、出雲神たちも、あたかも縄文的体質をもっていたかのように語られることが少なくなかった。
すなわち、出雲神には“八束鬚(やつかひげ)”という他には見られない独自の修辞語があって、これは体毛の濃かった縄文人の身体的特徴そのものとする説がある。ヤマトの蝦夷の首長・長髄彦が縄文人の体質“長いすね”を名として与えられたのとまったく同じ意味をもっていると考えられるのである。
また、他の拙著で繰り返し述べているように、出雲地方の方言が蝦夷の本拠地、東北地方と似かよっていること、出雲神たちが非農耕民の信仰を集める例が多いことなど、出雲や物部を縄文的とみなせる傍証は数多く存在するのである。




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