三輪山の神は、神武東征はおろか、出雲の国譲り以前にヤマトにいた
1998年の書である。「古事記」「日本書紀」で「鬼」と烙印を押された古代最大の豪族・物部氏と、「神」格化された天皇家との不思議な関係を手がかりに、その謎解きに挑んだ内容である。以下、一部引用する。複数回に分けて記す。
*天皇家の祭祀形態の不可解さは、祀る対象“出雲”がまつろわぬ鬼とみなされていたことにある。
出雲神が鬼であったことは、いくつかの例から割り出すことができる。
たとえば、出雲を代表する神の一人、大物主神は葦原醜男(あしはらしこお)ともよばれ、この二つの名のなかに、“鬼”を示す言葉が隠されている。
鬼が“オニ”と読まれるようになったのは平安朝以降で、それまでは鬼は“モノ”“シコ”といい習わされていた。したがって、大物主神の“モノ”、葦原醜男の“シコ”は、鬼そのものであった可能性が高いのである。
大和最大の聖地・三輪山の神は、蛇とも雷ともいわれ、大物主神と同体とされるが、雷といえば虎のパンツをはいて太鼓を打ち鳴らす典型的な鬼の姿を思い浮かべるように、古代、雷は祟りをもたらす鬼として恐れられていた。
したがって、三輪の雷神・大物主神は、鬼であったことになる。
*七世紀後半に誕生し、形だけは江戸時代まで残った律令制度は、基本的に土地の私有を認めず、すべての人民と土地は一度天皇家のもとに集められ、再度分配するというシステムであった。
この制度は誕生したとき、すでに破綻が生じ、荘園などの私有地が激増し、制度の理念は失われてゆくが、最大の土地保有者=時の権力者(平安時代は藤原氏)の私財で国家が運営された点や、土地に定着した農耕民から税を吸いとり国家の骨組みをつくるという点では、江戸時代へと通じる社会制度となっていった。
したがって、この枠組みのなかで最も下層に位置するのは、土地に定着せず遍歴漂泊し、私有を知らず、私的隷属を嫌った芸能民、勧進(かんじん・物乞い)、遊女、あるいは鋳物師(いものし)、木地屋(盆や椀を作る人)、薬売りなどの商工民、職人などといった非農耕民なのであった。そして、これらの人々が“無縁”の人々なのである。
すなわち、農耕民でもなく定着民でもない彼らは、農耕民を中心として回る社会から絶縁していたのであり、さらには律令という枠にとらわれることのない人々なのであった。
権力者にとって、このような漂白の民はじつに厄介な人々であった。主をもたず、流浪する彼らに税を強要することが困難だったからである。しかも彼らのしたたかさは、俗世間を嘲笑うかのように、天皇家との強い関係を維持していたことにある。
彼らは通行の自由、税や諸役(えき)の免除、私的隷属からの解放という特権を天皇から引き出させ、さらに神社や天皇に供御(くご・飲食物等)を献ずる“特権”までもっていたのである。
被支配者であり、支配システムの最下層に位置する“無縁”の人々が、なぜ頂点にある“天皇”と直接つながっていったのであろうか。
その理由は、天皇が律令のなかで、律令の枠からはずされて特別の存在であったことと無関係ではなさそうなのだ。天皇は税をとられず、世のあらゆる罪と罰を免れた。すなわち、“律令”という法体系のもとで、天皇と無縁の人々はまったく同様の処遇を受けていたことになる。
つまり、彼らは法律上人間扱いを受けず、そういう意味でどちらも表の社会から忌避された人々なのであった。したがって彼らは裏側の社会で結びつき、独自の闇の世界を構築していった気配が強いのである。
*“鬼”と“無縁”、どちらも天皇をめぐる同一の法則によって日本の歴史の裏側を支配し、うごめいていた可能性が出てくるばかりか、なぜ天皇家がつぶされることなくいままでつづいたのか、という問いに対する一つの答えであるように思えるからである。
権力者がいかに天皇家をけむたく思っても、この神の一族の背後には、“無縁”の人々というとらえどころのない鬼、闇の勢力が控えていたのである。したがって、天皇をつぶすにはまず裏社会を壊滅させる必要があり、となれば、目に見えぬ敵を相手にするような事態に陥り、収拾のつかない羽目に陥るのは必定(ひつじょう)であった(ちなみに、この闇の社会を本気でつぶしにかかった人物は、歴史上、織田信長ひとりと考えられる。ただ多大の犠牲を払いながら、野望は完璧になし遂げられたわけではない)。
逆に被支配者“無縁”の人々から見れば、みずからの自由な活動が“天皇”という権威を根拠にしているのだから、彼らにとって“天皇”はかけがえのない存在なのであった。
したがって、彼らがすすんで天皇をつぶそうなどと考えるはずがなく、日本に市民革命という一神教的で独善的な“正義”がなかったのは、あるいはこのような経緯が背景にあったからかもしれない。
*ここで子どもじみた問いかけが許されるならば、そもそも出雲地方の神々が、なぜヤマトの地で大きな顔をしていられるのかという疑問が浮かぶのである。しかも彼らは、天皇家よりも先にヤマトに来ていたという。
・・・・・(中略)・・・・・
ところが、ヤマトの出雲神の本拠地ともいうべき三輪山周辺には、このような証言をくつがえすような伝承が残っている。それは、
「三輪山の神が天皇家よりも先」
だというのである。だからこそ、地元の人々はいまだに三輪山の神を最も重視している。
・・・・・(中略)・・・・・
「日本書紀」神代上第八段一書第六には、出雲建国中の大己貴神(おおむちのかみ・大国主神)に起きた珍事として、次のような伝承を残している。
大己貴神が出雲をめぐっているとき、海に怪しげな光が照ったかと思うと、忽然と浮かび上がる者がいて、大己貴神に向かって、
「もし私がいなければ、おまえは国を平らぐことはできまい。私がいるからこそ、大きな国をつくることができるのだ」
というので、
「それではおまえはだれだ」
と問うと、
「吾(あ)は汝の幸魂奇魂(さきたまくしだま)である。」
と答える。すると大己貴神は、
「そのとおりです。あなたは私の幸魂奇魂です。いまどこに住みたいと思いますか」
と尋ねた。
「吾はヤマトの三輪山に住みたい」
というので、ヤマトに宮を建てて住まわしたが、この神こそ、いまいう大三輪の神であったという。
これが三輪山の神の祀られる経緯を描いた神話なのである。この証言を素直に信じるならば、三輪山の神は、神武東征はおろか、出雲の国譲り以前にヤマトにいたことになる。
それだけではない。崇神天皇8年12月の条には、やはり天皇家よりも三輪が先であったことが暴露されている。大物主神を祀る三輪の地から神酒が天皇に献上されたときの歌として、次の一首がある。
此の神酒は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久 幾久
<現代訳>此の神酒は私の神酒ではない。倭の国を造成された大物主神がお作りになった神酒である。幾世までも久しく栄えよ栄えよ。(日本古典文学大系「日本書紀、・上」岩波書店)
ここで注目していただきたいのは、“ヤマト成す”である。「日本書紀」の神話に従えば、出雲神がつくった国を、けっしてヤマトとはよんでいなかった。それはたんに“国”であったり“出雲国”あるいは“葦原中国(あしはらのなかつくに)”なのである。ところが、この歌のなかで大物主神は“ヤマトを建国”したと称えられ、先の神話のなかで、大物主神の幸魂奇魂は、出雲国からヤマトへ移住したと記されていたことと符合するのである。
ここで思い出されるのが、神武天皇の正妃のことなのである。
「日本書紀」は、ヤマトを征服した神武天皇が、なぜか出雲の神の娘を娶ったと証言している。その記述があまりに唐突で荒唐無稽だったために、これまでほとんど顧みられなかったが、もし“出雲”が天皇家よりも先にヤマトにいたのならば、“神話”は一転、史実であった可能性を帯びてくるのではあるまいか。土着の首長から女人をもらうことで王権を安定させることは、よくあることだからである。
*そこで「日本書紀」を読み返すと、興味深い証言が残されていたことに気づく。神武東征以前、ヤマトの地にはすでに天皇家とは別の王権が確立されていたというのである。
「日本書紀」の記述によれば、神武天皇が九州の地から東征するに際し、すでにヤマトにはニギハヤヒなる人物が降り立っていて、王として君臨していたと明記されている。
それでは、ニギハヤヒは出雲と何かしらの関係をもっていたのだろうか。しばらく、ニギハヤヒと神武東征の経緯に注目してみたい。
さて、ニギハヤヒはヤマト土着の首長。長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶ることでヤマトに融合し、武力を使わずに王権を手に入れたらしい。ところが、せっかくヤマトを建国したニギハヤヒは、神武天皇が東征して来ると、これを迎え入れる姿勢を見せるのである。ただ、ヤマト土着の長髄彦が神武のヤマト入りを拒絶し、徹底抗戦に出たため、神武天皇はあっけなく敗れ、紀伊半島を大きく迂回し、熊野方面からのヤマト入りへと作戦を変更せざるをえない状況に追い込まれたのだった。
そこでニギハヤヒ(子のウマシマチともいわれる)はやむなく長髄彦を殺し、神武受け入れのかたちを整えたというのである。
このように、神武天皇のヤマト入り=ヤマト朝廷の成立は、ニギハヤヒの活躍なしには考えられなかったわけだが、「日本書紀」は、このニギハヤヒが物部氏の祖であることを伝えている。七世紀、蘇我氏との間に宗教戦争をひき起こしたあの物部氏である。
「日本書紀」はこの一族が天津神であって、天皇家と遠い縁で結ばれていたとほのめかすが、不思議なのは、彼らが“神”の一族ではなく、逆に“鬼”の一族だったことにある。
*ここであらためて述べておかなくてはならないのは、“モノノベ”の“モノ”が、古代、“神と鬼”双方を表していたことである。
これは多神教・アニミズムからの流れであり、神は宇宙そのものという発想から導き出された宗教観でもあった。神は人に恵みをもたらす一方で、時に怒り、災害をもたらす。
このような神の両面性を、神道では和魂、荒魂とも表現するが、つまるところ、これは神と鬼なのである。そして、物部氏は“神(モノ)”“鬼(モノ)”双方をあわせもった一族であり、神道の中心に位置していたと考えられる。
このあたりの事情は、物部氏の伝承「先代旧事本紀」にも如実に表れている。
それによると、神武天皇即位に際し、ニギハヤヒの子ウマシマチは、ニギハヤヒから伝わる神宝を献上し、神楯(かむたて)を立てて祝い、さらに、新木(あらき)なども立て、“大神”を宮中に崇め祀ったとある。そして、即位、賀正、建都、踐祚(せんそ)などといった宮中の重要な儀式は、このときに定まった、というのである。
ここで注目されるのは、神道と切っても切れない関係にあった天皇家の多くの儀式が、ウマシマチを中心に定められたということである。そして、これよりも重要なのは、ウマシマチが神武天皇の即位に際し、宮中に祀ったという“大神”の正体にある。
常識で考えれば、この神は皇祖神・天照大神ということになろう。ところが、ヤマトの地で“大神”といえば、三輪山に祀られる大物主神をおいてほかには考えられないのである。“大神”のおわします大神神社は、オオミワと読み大物主神を祀る。
それでは、なぜ、物部系の史書「先代旧事本紀」は、宮中で祀られる大物主神の本名を記さず、あえて“大神”と称したのかといえば、それは歴史の敗者としてのぎりぎりの選択であったろう。
ヤマト朝廷成立直後、宮中に皇祖神ではなく出雲神を祀っていたことを、「日本書紀」は必死に秘匿し、この真相を漏らそうとする者は許されなかったにちがいない。天皇家の正統性が失われかねない重大事だからである。