「大化改新(乙巳の変)も、明治維新も、実行犯の背後には外国勢力がいたんですよ! これ、今も同じですよね(爆)」byソウルマン - 歴史・宗教
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「大化改新(乙巳の変)も、明治維新も、実行犯の背後には外国勢力がいたんですよ! これ、今も同じですよね(爆)」byソウルマン

「日本の歴史3飛鳥の朝廷」⑥井上光貞


前回に続く。以下、一部引用する。


*日本は百済と親しく交わっていたから海外の新情勢はすぐと伝え知ったであろう。しかし、崇峻朝の朝廷は、この情勢のもとで、歴代永年の悲願であった、任那回復を一挙に成就させようとした。『書紀』によれば天皇は、その4年(591)群臣に任那再建をはかった。群臣はみなこれにしたがったので朝廷は、物部氏追討の軍に武勲をあげた紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね)らを大将軍とする、二万余の軍を筑紫に駐屯させ、一方、吉士金(きしのかね)を新羅に、吉士木蓮子(いたび)を任那につかわして、「任那の事」を詰問せしめたという。この使節がそのあとどうなったかは知れないが、軍隊はしばらく筑紫に駐屯したままであった。翌592年、崇峻天皇が殺害されたときも、朝廷は駅使(はいま)を筑紫にやって、「内の乱れに依って外の事を、怠るな」といましめたといわれ、集結からかぞえて4年目、推古朝の3年(595)に、ようやく軍を解き、将軍らは大和にひきあげたという。
日本はどうして、この時点で、新羅にたいする強硬外交の手をうったのであろうか。それは、蘇我馬子が朝廷に独裁権力をにぎった結果、永年の懸案を自分の手で一挙に解決しようと思ったからであろう。既述のように隋帝国が出現すると、高句麗・百済はすぐとこれに通じたが、新羅はまだうごかなかった。日本は隋帝国出現後の朝鮮諸国の動揺の機をとらえて、軍を筑紫におくり、新羅を威嚇して任那の権益を回復しようとしたのであろう。

*日本はその2年あとの推古8年(600)、ふたたび新羅にたいする強硬外交をうちだした。『書紀』によると、その直接の原因は、新羅が任那領を侵したことにあった。そこでこの年の春、朝廷には強硬論が台頭し、境部臣(さかいべのおみ)らを将軍とする「万余衆」が、このたびは外交折衝ぬきで、海をわたった。この境部臣(さかいべのおみ)が摩理勢(まりせ)か雄麻呂(おまろ)か、それとも他の人かよくわからないが、いずれにしても蘇我氏の一族である。
・・・・・(中略)・・・・・
日本が一方では新羅に軍事行動をとりながら、他方では隋に使節をやったのは同じ新羅問題でも、前のときとはちがって、隋による冊封(さくほう)体制が新羅にもおよんでいたからに相違いない。対新羅問題の解決には、新羅王が皇帝と仰ぐ、隋文帝との交渉を必要としたのである。日本の使者はこうして、過去百年ぶりに中国の本土をふんだ。

*裴世清(はいせいせい)は推古朝16年(608)の8月から1月ほどのあいだ飛鳥の都に滞在したのであるが丈六光背銘によれば、前々年につくりおわった飛鳥寺金堂の丈六(じょうろく)釈迦像なども見物したようである。
朝廷ではこの間、留学生の派遣の議がもちあがった。やがてえらばれたのは、『書紀』によると、
・・・・・(中略)・・・・・
の八人であった。
これらの顔ぶれはいずれも帰化人で、東漢直(やまとのあやのあたい)氏が一人、漢人(あやひと)が三人、新漢人(いまきのあやひと)も三人、それに奈羅訳語(ならのおさ)である。東漢直(やまとのあやのあたい)氏は「雄略天皇とその時代」の章でみたように、百済を経由して渡来した中国系帰化人の氏族で、五世紀末から六世紀にかけて、多数の漢部(漢人)を管理し、蘇我氏とむすぶ有力な豪族になっていた。
・・・・・(中略)・・・・・
かれらは、入隋ののち、たいていは20年以上中国に留学し、帰国ののちは、それぞれの分野で指導力をふるい、高向玄理(たかむこのくろまろ)・僧旻(みん)・南淵請安などは大化改新のブレインとさえなった。





(管理人)
なんとなく見えてきたような気がする。

学校教育が教えない大和朝廷の真実が。

遣隋使の真実が。

大化改新の真実が。

蘇我氏は新羅系であったが、決して新羅の支配下ではなかった。
それどころか、当時の大和朝廷は新羅よりも力があったようである。
大和朝廷は頻繁に新羅に軍事行動をとっているのだ。
任那が新羅に侵攻したのが理由のようだが、基本的に、大和朝廷は新羅よりも強国であったようだ。
隋による冊封(さくほう)体制が新羅にもおよんでいたため、大和朝廷は単独で新羅を攻めることはせず、隋にお伺いを立てるようになったのだろう。
新羅の後ろ盾に隋がいる以上、そのようなことを単独ですると隋の怒りを買い、隋に攻めてこられる可能性が高くなるからだ。
それで遣隋使が始まり、隋に忠義を尽くすようになったのだろう。
大和朝廷は隋のご機嫌をとりながら、反面、新羅には強硬姿勢をとっていたのである。
基本的には朝鮮国家の中では百済よりであったのだ。
以前の私はこのように思っていた。

「蘇我氏が新羅系だから、蘇我氏が権勢を握っていた時代の大和朝廷は新羅寄りの政治を行っていた。しかし大化改新によって百済系の中大兄皇子らが蘇我氏を打ち倒し、大和朝廷は百済系の政治体制になった」と。

どうやら、この考えは間違っていたようだ。
蘇我氏が権力を握っていた時代から、大和朝廷は百済と親しい関係にあったようだ。

大化改新(乙巳の変)の真実は、「百済系の中大兄皇子らが新羅系の蘇我氏を打ち倒した」のではなかったのである。

大和朝廷は朝鮮国家と常に関係を持っていたが、主従関係のようなものではなく、どちらかといえば、大和朝廷の方が力を持っていたようである。
ただ、中国は明らかに大和朝廷よりも強国であった。
そして、本書には決定的なことが記されていた。

「隋への留学生として派遣された8人が、すべて百済を経由して渡来した中国系帰化人の氏族であった」と。「その中には南淵請安も含まれていた」と。

やはり当時の大和朝廷を支配していたのは、蘇我氏以外では中国系帰化人だったのだ。

南淵請安をウィキで見てみる。



南淵 請安(みなぶち の しょうあん、生没年不詳)は飛鳥時代の学問僧。大和国高市郡南淵村(現在の奈良県の飛鳥川上流の明日香村稲渕)に住んだ南淵漢人(みなみぶちのあやひと)と称される漢系渡来氏族出身の知識人。
608年(推古天皇16年)、遣隋使小野妹子に従い高向玄理、僧旻ら8人の留学生、留学僧の一人として隋へ留学する。32年間、隋の滅亡(618年)から唐の建国の過程を見聞して、640年(舒明天皇12年)に高向玄理とともに帰国。隋・唐の学問知識を日本に伝え、開塾した。
中大兄皇子と中臣鎌足は請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の計画を練ったと伝えられる。請安が伝えた知識が大化の改新に与えた影響は大きいが、彼自身が新政府に加わった痕跡はなく、死去した時期はそれ以前であるとする説がある。



はい、「中大兄皇子と中臣鎌足は請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の計画を練ったと伝えられる」人物である。
なんかこれ、八百長明治維新のときの高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋らに良からぬ思想を吹き込んだ吉田松陰に似ているな(笑)
吉田松陰が吹き込んだ思想は、「自分たちが権力を握るためには都合の悪い現勢力の支配者は消し去って良し」という思想である。
そして、吉田松陰が吹き込んだ思想の背後には外国人フリーメーソンがいるわけである。
幕府のトップも外国人フリーメーソンの支配下にあるわけだから、簡単に革命が起こせたというわけである。要するに、八百長だから(笑)
はい皆さん、もう分かりましたよね。

大化改新(乙巳の変)の黒幕は、中国系帰化人だったんですよ。

フリーメーソンではないようですが(笑)、中国系帰化人が中大兄皇子と中臣鎌足を操っていたんですよ。
中臣鎌足については自身が中国系の可能性がありますが、その話は置いておきます。

大化改新(乙巳の変)で蘇我氏が殺された理由は、先日紹介した記事に記したように、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を蘇我馬子が殺した事件に対する報復である可能性が高いでしょう。

大化改新(乙巳の変)も、明治維新も、実行犯の背後には外国勢力がいたんですよ!
これ、今も同じですよね(爆)





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