蘇我馬子の呼びかけで物部守屋の殺害に加わった泊瀬部(はつせべ)皇子(のちの崇峻天皇)。崇峻天皇を東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて殺害し、その東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)も殺害した蘇我馬子。 - 歴史・宗教
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蘇我馬子の呼びかけで物部守屋の殺害に加わった泊瀬部(はつせべ)皇子(のちの崇峻天皇)。崇峻天皇を東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて殺害し、その東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)も殺害した蘇我馬子。

「日本の歴史3飛鳥の朝廷」⑤井上光貞

前回に続く。以下、一部引用する。


*聖徳太子の父の用明は、すでに述べたように、蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)を母とし、太子が生まれた翌年、同じく堅塩媛の娘であり、太子の叔母にあたる豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が敏達の皇后となり、天皇家のおもしであった。太子は新興の蘇我氏の世界に生いたち、蘇我氏が物部氏をこえて安定した勢力をきずきあげるなかで成人したのである。
・・・・・(中略)・・・・・
用明天皇は即位の翌年4月、不幸な生涯をおわった。翌月、物部守屋は、穴穂部皇子の即位を実現しようとはかり、さらに武備をかためたが、一方、馬子は6月になって、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の詔をださせ、佐伯連丹生手(さえきのむらじにうて)らに命じて、穴穂部皇子の宮をおそわせた。皇子は楼(たかどの)の上ってかくれたが、つきおとされ、さらにのがれようとして殺害された。
馬子は7月にはいると、諸皇子および群臣によびかけ、守屋討伐の軍をおこすことをはかった。このとき、これにこたえたという皇子の名として、泊瀬部(はつせべ)皇子、竹田皇子、厩戸(うまやど)皇子、難波皇子、春日皇子の5人の名があげられている、泊瀬部(はつせべ)皇子は欽明と小姉君(おあねのきみ)のあいだに生まれ、穴穂部皇子の同母弟にあたる人で、のちの崇峻天皇である。

*崇峻天皇の即位とともに、蘇我大臣馬子がただひとりの独裁体制が成立した。馬子は覇権を握ると、ただちに新しい政策を展開した。その一つは仏教の興隆政策であり、もう一つは、新羅遠征であった。しかしそのことは、あとであらためて考えることとして、政治情勢をつづけてみていくと、崇峻即位第五年目にまた異常の事態が勃発した。
その年、猪を天皇に献上するものがあったが、天皇は、「この猪の頸(くび)をきるように、いつかいやな男の首を切りたいものだ」といい、多くの兵をあつめて、ことをおこす気配をしめした。蘇我馬子はこれを聞いて、自分をきらっているのだと思い、軍勢をあつめ、先手をうって天皇を殺そうとはかるようになった。翌月、馬子は東国の調(みつき)の頁(たてまつ)られる日だといつわって、天皇をその儀式の場に誘いだした。そして部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を殺させたのである。馬子はそのあと、駒が、天皇につかえていた蘇我河上娘(かわかみのいらつめ)を、ひそかに自分の妻としていたことを発見した。馬子はそれを理由にしてこの下手人を抹殺してしまった。
この事件は、朝廷に独裁権力を発揮できるようになった蘇我馬子にたいする、崇峻天皇の感情的なにくしみからおこったものである。したがって馬子は崇峻を殺すことによって、みずから皇位につこうという野心をおこしたとみることはできない。しかし、皇位継承上の争いがいくどもつづけられたうえに天皇の暗殺さえおこったことは朝廷に不安をまきおこした。そこで「群臣」は、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)に即位を請うことになった。姫はこれを固辞したが、群臣も三たび即位を要請した。こうして豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)は天皇の位につき、豊浦(とゆら)宮で即位した。いうまでもなく推古女帝である。




(管理人)
何度も書いているが、古代日本史は「暗殺・謀略だらけの古代天皇家に纏わる黒歴史」でした。本書の引用箇所が分かりにくいので、穴穂部皇子をウィキで見て確認しよう。



穴穂部皇子(あなほべのみこ、生年不詳 - 用明天皇2年6月7日(587年7月17日))は、飛鳥時代の皇族。欽明天皇の皇子。聖徳太子の叔父でもある。
欽明天皇の皇子として誕生。母は蘇我稲目の娘・小姉君。異母兄に敏達天皇と用明天皇など。同母姉に穴穂部間人皇女(用明天皇妃、聖徳太子生母)、同母弟に崇峻天皇。
穴穂部皇子は皇位を望んでおり、敏達天皇14年(585年)8月、兄・敏達天皇が崩御し、殯宮で葬儀が行われた際に「何故に死する王に仕え、生きる王(自分)に仕えないのか」と憤慨した。ところが、同年9月に大臣・蘇我馬子の推す大兄皇子(用明天皇)が即位したため、これに対抗し大連・物部守屋と結んだ。
用明天皇元年(586年)5月、炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯さんと欲し、殯宮に押し入ろうとした。これに対し先帝の寵臣三輪逆は門を閉じて拒み、穴穂部皇子は7度門前で呼んだが、遂に宮に入ることができなかった。穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆は不遜であると相談し、馬子らはこれに同意。守屋は兵を率い(用明天皇の宮のある)磐余の池辺の地で三輪逆を包囲するが、三輪逆は逃れて炊屋姫の後宮に隠れた。しかし、密告により居所を知ると穴穂部皇子は三輪逆とその二人の子を殺すよう守屋に命じ、守屋は兵を率いて向かった。その後、報告を聞こうと守屋のもとへ赴こうとするが、これを知りかけつけた馬子と門前で出会い「王者は刑人に近づくべからず」と諫言されるが、穴穂部皇子は聞き入れようとしなかった。馬子は仕方なくついて行き、磐余に至ったところで再度諫言、穴穂部皇子もこれに従い、胡床に座り守屋を待ち、戻ってきた守屋から三輪逆を斬ったと報告を受けた(或本では、穴穂部皇子自身が射殺した、とある)。なお、馬子は「天下の乱は近い」と嘆くが、守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えている。
用明天皇2年(587年)4月2日、用明天皇は病になり仏法を信奉したいと欲し群臣に諮った。排仏派の守屋は反対したが、崇仏派の馬子は詔を奉じて助けるべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国を連れて来させた。守屋は自分が推していた穴穂部皇子が法師を連れてきたことに大いに怒り睨みつけた。その後、守屋は群臣から命を狙われていると知らされて、別業の阿都(河内国)へ退いた。
同年4月9日、用明天皇は崩御したが、後嗣が定まらず皇位は一時的に空位となった。そのため同年5月、守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようと思い、密使を皇子に送り、遊猟に出ると欺いて淡路へ来るよう願った。これに対し同年6月7日、蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛に速やかに穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺するよう命じた。その日の夜半、佐伯連丹經手らは穴穂部皇子の宮を囲んだ。穴穂部皇子は楼を登ってきた衛士に肩を斬られると、楼から落ちて隣家へ走り入ったが、灯をかかげた衞士らによって探し出され殺害された。なお、翌8日には穴穂部皇子と仲が良かった宅部皇子も誅殺され、同年7月には馬子によって物部守屋も滅ぼされている。




本書及びここに引用した箇所を整理して、「暗殺・謀略だらけの黒歴史」を纏めてみる。


穴穂部皇子は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ・後の推古天皇)を犯そうとしたが、三輪 逆(みわ の さかう)に妨害される。

穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆は不遜であると相談し、馬子らはこれに同意する。

穴穂部皇子は三輪逆とその二人の子を殺すよう守屋に命じ、守屋は三輪逆を斬る。

蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛に速やかに穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺するよう命じ、穴穂部皇子と宅部皇子が殺害される。

蘇我馬子は、泊瀬部(はつせべ)皇子(後の崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸(うまやど)皇子、難波皇子、春日皇子に命じて、物部守屋を殺害する。

蘇我馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻天皇を殺害する。

蘇我馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を殺害する。



これらの事件以前も天皇周辺は暗殺のオンパレードであったことは、前にも触れています。
その後は誰もがご存知の通り、蘇我馬子の孫の蘇我入鹿が中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らの乙巳の変により殺害されるわけである。

恐ろしや、古代日本史はこれだけ「殺し・殺され」の怪奇な出来事が蠢いていた「暗殺・謀略だらけの黒歴史」であったのだ。
権力なんか握ってもなんにもいいことなんかありゃしまへん。
ホンマ天皇になんかなるもんじゃないよ。なれるわけもないけれど(笑)

それと、蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を殺害したとのことから、蘇我氏(=新羅系)は東漢氏(=中国系)の支配下にあったという私の説はちょいと間違っていたようですナ。途中で力関係が変わったのかもしれませんしね。
「暗殺・謀略だらけの黒歴史」は「謎だらけの古代日本史」でもあるようですナ。




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