「笑うなら とことん笑え ホトトギス」byソウルマン - 歴史・宗教
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嘘八百のこの世界

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「笑うなら とことん笑え ホトトギス」byソウルマン

「日本の歴史3飛鳥の朝廷」④井上光貞


前回に続く。以下、一部引用する。


*日本では540年、欽明が即位し、大伴金村、蘇我稲目はもとのごとく大臣・大連、あらたに物部尾輿(おこし)が大連となった。欽明天皇は難波祝津(なにわのはふりつ)宮で諸臣(まえつきみたち)に任那(みまな)のことを議したが、このとき、物部尾輿が金村の外交の失敗を弾劾した。そのため金村は失脚し、尾輿はまた、いま任那復興のために軍をおこすことの不得策を説いたことは前にふれたとおりである。それでは、軍隊の発遣を思いとどまった日本は、どのようにして任那諸国を新羅の南進政策からまもることができるのだろうか。それは、これまでのように軍事力を背景として自力で任那諸国をまもることではなくて、百済の聖王にそのことを請け負ってもらうことにあった。それは、『書紀』の欽明紀2年から9年へかけての、「百済本記」にもとづいて書かれたと推定されている、詳細な記録的記事にはっきりとうかがわれる。
このくわしい記事の要点をひろってみると、任那「日本府」(日本の出先機関。もっとも「日本府」という呼称はのちに日本号を用いてから以後のものであろう)は、安羅(あら)におかれ、このころ、的臣(いくはのおみ)・吉備臣らがその大官の任にあり、その下には多くの官人がおかれていた。

*『三国史記』によると、548年、高句麗陽原(ようげん)王は、濊(わい)兵6千を以て百済の独山城に攻めこんだ。独山城は『書紀』の欽明紀9年条には馬津城(ましんのさし)とみえ、もと孤山(こさん)県ともいった忠清南道礼山の地であり、百済の新都の北方、50キロほどのところである。攻撃をうけた聖王は、ただちに新羅の真興王に救援をもとめ、真興王はすぐとこれにこたえて将軍朱珍をおくったので、高句麗の独山城攻撃は失敗におわった。
・・・・・(中略)・・・・・
『書紀』によるとこれよりさき、高句麗が百済をおそう気配の段階で、早くも百済は日本に使者をつかわして援軍をもとめてきたので、欽明9年(548)、ふたたび軍の派遣を百済に約束した。しかし、そのうち百済は新羅と提携して勝ちいくさになったためか、また使者をよこして要求をとり下げたばかりではなく、高句麗の南下もじつは、「日本府」と安羅が高句麗に通謀して百済をおそわせたものであると非難してきた。そこで翌549年、日本は軍の派遣をやめたことを百済につげて、ただ武器と麦種の援助にとどめたという。任那「日本府」が高句麗をそそのかしたというのが、事実であるかどうか明らかではない。しかしおおいにありそうなことではある。というのは、「日本府」のとくに親新羅派は、百済に手を焼いていたからである。百済が北方に大軍をおくっているうちに、任那の地をすこしでも奪回しようという日本の意図を、みぬいていたためかもしれない。

*高句麗の来朝にたいして朝廷がかくもていねいにむかえたのには、これまで直接に接したことのない北方の大国をむかえいれる緊張感もはたらいていたであろうが、この未知の大国との国交によって、新羅の威圧を牽制する意図もはたらいてはいなかったであろうか。朝廷はこの国交で、東漢氏(やまとのあやうじ)直糠児(あたいあらこ)、と葛城直難波(あたいなにわ)を越(こし)にやって国使をむかえさせ、相楽館での接待には東漢坂上直子麻呂(あたいこまろ)・錦部首大石(にしごりのおびとおおいし)をあたらせた。これら蘇我氏ととくに関係深い人々を起用したうらには、門脇禎二もいうように、蘇我氏―この時期は馬子―がとくに積極的であったことをしめすものかもしれない。
しかし、高句麗の国使のあいだに争いがおこり、大使は何者かに殺された。それは来着のはじめ、副使がその調(みつき)を道君(みちのきみ)に授け、副使がその露顕をおそれたためとも、大使が朝廷に無礼であったためともいうが、そこにはまた、高句麗との国交を危ぶむ諸氏族や、帰化系氏族の動向もからんではいなかったろうか。
はたして翌573年、高句麗使人がまた越に漂着したときには、朝廷は度重なる来航に高句麗の本意を疑って、使者は越にとどめたまま饗応の議もおこなわず、吉備海部直(きびのあまべのあたい)難波・大嶋首磐日(おおしまのおびといわひ)らを送使として、本国に送還することにした。しかも船が港をたつと、難波はひそかに高句麗人二人を殺して海に沈め、自分は別船に乗じて日本に引きあげるという事件がおこった。磐日らは使者をおくって高句麗に達し、高句麗王は厚くこれをもてなしたが、殺害の件はだまっておけなかった。翌年、高句麗使人が磐日をおくって日本をおとずれ、朝廷に抗議を申しいれた。朝廷はそこで難波を処罰してそれにこたえたという。こうして5年におよぶ使節問題はおわりをつげている。




(管理人)
任那をウィキで見て引用しようと思ったが、やめておく。
理由は、その存在を含めて、その実体に関する意見は十人十色であり、全く持ってまとまりがなく、引用しても意味がないと感じたからである。
いやはや困ったものである。
本書を読んだ感想としては、任那は明らかに存在しており、基本的には当時の大和朝廷の管轄下にあったことは間違いないと感じる。
先日「雄略天皇は吉備上道臣田狭(たさ)を任那に左遷してその美人妻を奪いとった」と紹介したように、大和朝廷は地方豪族に命じて任那を統治しようとしていたようである。
大和朝廷の管轄下にあった任那だが、欽明天皇の時代は蘇我稲目の力が強く、蘇我氏が新羅系であったため、任那は大和朝廷の管轄下にあったといっても、実質上、新羅の管轄下にあったとするべきではないだろうか。
蘇我氏も中国系の東漢氏の支配下にあった可能性が高いので、さらに言えば、「中国の支配下にあった新羅系の大和朝廷の管轄下にあった任那」というのが正しいのかもしれない。
私はこの説を取り立てて深く調べたわけではない。
あくまでも私の思い付きであることを、もう一度言っておく。
しかし、こんなことを言っているのは世界中で私ぐらいだろう。
自分でもいい根性していると思う(笑)
ここで一句。

笑うなら とことん笑え ホトトギス

似たような俳句は聞いたような気がするが、この俳句は歴史上のどの人物も歌ってはいないだろう(笑)

早速ではあるが、この説、ちょっと間違ってそうだ。
本書には「軍隊の発遣を思いとどまった日本は、どのようにして任那諸国を新羅の南進政策からまもることができるのだろうか。それは、これまでのように軍事力を背景として自力で任那諸国をまもることではなくて、百済の聖王にそのことを請け負ってもらうことにあった」と記されている。新羅系であったはずの欽明天皇の大和朝廷が新羅から任那を守るための対策を考えていたようなのだ。

「アンタ新羅系なのに新羅の攻撃を恐れてどうすんねん!」ちゅーことである(爆)

新羅系といっても、別に新羅直属というわけではなく、あくまでも当時は日本という国家であったということで、単独国家として任那に日本府を置いていた、ということなのか?

ちょっとこんがらがってきたが、この記述が正しいのか、本書の記述が間違っているのか、判読することは至難の業である。

至難の業なので話を変える(笑)

本書の「高句麗が百済をおそう気配の段階で、早くも百済は日本に使者をつかわして援軍をもとめてきたので、欽明9年(548)、ふたたび軍の派遣を百済に約束した。しかし、そのうち百済は新羅と提携して勝ちいくさになったためか、また使者をよこして要求をとり下げたばかりではなく、高句麗の南下もじつは、「日本府」と安羅が高句麗に通謀して百済をおそわせたものであると非難してきた」という記述は面白い。

「日本は高句麗と共謀して百済を攻撃しようとしていた」というのである。
これが本当なら、当時の大和朝廷はかなりのやり手であったということだ(笑)

この記述に対して著者は「任那「日本府」が高句麗をそそのかしたというのが、事実であるかどうか明らかではない。しかしおおいにありそうなことではある。というのは、「日本府」のとくに親新羅派は、百済に手を焼いていたからである。百済が北方に大軍をおくっているうちに、任那の地をすこしでも奪回しようという日本の意図を、みぬいていたためかもしれない」と書いている。

親新羅派というのは、蘇我氏及び欽明天皇のことだろう。
当時の大和朝廷の中心勢力である。
この記述から見ると、やはり当時の大和朝廷は新羅系だろう。

つまり、「大和朝廷が任那が新羅に攻撃されることを心配していた」という記述こそがガセじゃないのだろうか?

またもや話は変わるが、「高句麗から使者が来朝したが、その使者を暗殺した」という趣旨の本書の記述には驚かされた。

この史実、日本人のほとんどが知らないんじゃないのだろうか?

学校教育が教える古代日本史は、仏教伝来と大化の改新ぐらいのものである。
それも内容はうわべだけかつ嘘だらけである。

実行犯である吉備海部直(きびのあまべのあたい)難波は、最終的には処罰されたとのことである。
この事件も大和朝廷の謀略だったんじゃないのだろうか?
大和朝廷の命令で高句麗の使者を暗殺させたくせに、吉備海部直(きびのあまべのあたい)難波が独断で行ったことにさせられて処罰したのだろう。
こうやって吉備王朝は消滅に追い込まれてしまったのだろう。
悪い奴だぜ大和朝廷!

それにしても、古代の日本史は闇だらけである。
「暗殺と謀略に彩られた日本古代史」といっても過言ではないだろう。
そのへんのミステリー小説顔負けである。





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