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ソウルマン

「欽明天皇当時の大和朝廷で新羅系の蘇我稲目が活躍した時代、表向きは新羅系の蘇我氏や天皇が権力を持っていたように見せかけて、その実体は中国系の東漢(やまとのあや)氏をはじめ漢人が実権を握っていた?」byソウルマン

「日本の歴史3飛鳥の朝廷」③井上光貞


前回に続く。以下、一部引用する。


*蘇我氏の起源については、葛城氏との関係を無視することができない。というのは、推古紀32年条には蘇我馬子が推古天皇に向かって、葛城県(あがた)は、自分の「本居(うぶすな)」で、それによって「姓名(かばね)」をなしているから、自分にたまわりたい、と奏言したと書いている。葛城県がどうして馬子の「本居」とされるのか。それは、蘇我氏が葛城氏の支流であった、もしくはそう称していた、とみるときにもっともしぜんに理解されるところであろう。
・・・・・(中略)・・・・・
また孝元(こうげん)記の建内宿禰(たけのうちのすくね)系譜では、宿禰に9人の子をあげているが、そのうちに蘇賀石川宿禰と葛城長江曽都毘古(ながえそつびこ)らがある。

*蘇我稲目は満智宿禰(まちのすくね)の孫、雄略朝の新羅将軍の一人、韓子(からこ)宿禰の子にあたる高麗(こま)という人の子だと『公卿補任(くぎょうぶにん)』にみえているが、稲目は中央政局におどりでたのは、継体天皇崩後の皇位継承の争いではなかろうか。このとき継体がいったん即位させたという安閑は即位できず、反対派が手白香(たしらかの)皇女の生んだ欽明をかついで対立した。このとき、稲目は、欽明擁立派の一人としてたちあらわれたのだと思われる。

*蘇我稲目が朝廷に勢力を伸ばしていたころ、政治の中心はどこにあったろうか。
・・・・・(中略)・・・・・
まず継体は磐余(いわれ・桜井市池之内辺)玉穂宮でなくなったのであるが、安閑は勾金橋(まがりのかなはし)宮で即位したという。金橋はもと金橋村といった橿原市曲川(まわりかわ)町の金橋の付近にちがいなく、それは、大和八木駅辺から、西方に3キロほどの地にある。また、宣化は皇居を檜隈慮入野(ひのくまいおいりの)宮においたというが、檜隈は既述のように東漢(やまとのあや)氏の本拠地である。東漢(やまとのあや)氏の一族と漢人は本拠を中心に広い範囲に集住したが、いまもし、同氏のまつった檜隈於美阿志(おみあし)神社をその中心とみなすならば、ここは大和八木駅南方、やや東によった5キロの地にある。

*欽明天皇の檜隈坂合陵とみなされる見瀬丸山古墳は、その規模からみても、欽明朝のもつ史的意義を、象徴的にあらわしているかにみえる。しかも欽明とその妃にあたる、稲目の二人の娘堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ)とのあいだには、用明・崇峻・推古の3人の天皇が生まれたので、この陵の権威は、いやがうえにも高められた。『書紀』によると、推古朝の20年には堅塩媛が欽明陵に合葬されて盛大な儀がいとなまれ、28年には墳丘にさざれいしを葺き、域(めぐり)外に土を積み、その上に氏ごとの大柱をたてさせた。その際、倭漢(やまとのあや・東漢)坂上直(さかのうえのあたい)のそれがもっとも大きかったというが、ここにもまた、蘇我氏と東漢(やまとのあや)氏の浅からぬ関係をうかがうことができる。
・・・・・(中略)・・・・・
しかし、それより注目すべきは、稲目の活躍した時代の政治の中心が、東漢(やまとのあや)氏をはじめ漢人の古くから根を張っていた檜隈近傍にうつった、ということである。




(管理人)
葛城氏をウィキで見てみる。



葛城氏(かつらぎうじ/かずらきうじ)は、「葛城」を氏の名とする氏族。
古墳時代、大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置いていた有力な古代在地豪族。武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔とされる。

葛城氏の始祖である葛城襲津彦(そつひこ)は、『古事記』には武内宿禰(孝元天皇の曾孫)の子の1人で、玉手臣・的臣(いくはのおみ)などの祖とされる。母は葛城国造の荒田彦の娘・葛比売。襲津彦以降の氏人としては、葦田宿禰・玉田宿禰・円大臣・蟻臣の名が知られ、その系譜は断片的に復元可能である(系図参照)。 ただ玉田宿禰については、『日本書紀』允恭紀が襲津彦の孫とする一方、雄略紀では子としていてる。 同様に円大臣についても、『公卿補任』は玉田宿禰の子とするが、『紀氏家牒』には葦田宿禰の子であることを示唆した記述があって、やはり互いに矛盾している。
神功皇后の母である葛城高顙媛も葛城系の支族であり始祖とする記述等も見受けられる。なお近年、葛城氏を北部の葦田宿禰系(葦田宿禰 ─ 蟻臣)と南部の玉田宿禰系(玉田宿禰 ─ 円大臣)の2系統に峻別して考える見解もある。

葛城氏の特徴として、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。また、仁徳天皇に葛城部の設置を要請している。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を儲けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。
当時の王権基盤は未熟な段階にあり、大王の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったことを考慮すれば、直木孝次郎の説くように、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと表現出来る。

『書紀』によれば、允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。 これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。
ところが安康天皇3年(456年)8月、天皇が暗殺され、円大臣がその下手人である眉輪王を自宅に匿う事件が起きた。大泊瀬皇子(後の雄略)の軍によって宅を包囲された大臣は、王の引き渡しを拒否し、娘と「葛城の宅七区」(記に「五処の屯宅」)とを献上して贖罪を請うたが、皇子はこれを許さず、宅に火を放って円大臣・眉輪王らを焼殺した。
安康暗殺の背景に葛城氏が直接関与していた可能性も指摘されているが、生前の安康は押磐皇子に後事を託そうとしていたという記述(雄略即位前紀)からすれば、むしろ安康(允恭系)と押磐皇子(履中系)・葛城氏との間には王位継承に関する妥協が成立していて、このことに強く反発した大泊瀬皇子が安康を含む敵対勢力の一掃に踏み切ったと解釈することも出来る。
研究者の中には、一連の政変で滅びたのは玉田宿禰系のみであって、葦田宿禰系は5世紀末までしばらく勢力を存続させていたと主張する議論もみられる。
応神天皇や仁徳天皇を含めた履中系の天皇は、外戚の葛城氏がその王統を支えており、葛城氏と婚姻を結んでいた吉備上道臣も含めて、畿内と吉備は連合共存の関係にあり、履中系の天皇の支持勢力となっていた。 しかし、吉備氏と葛城氏の結合は、葛城氏と血縁関係が遠い允恭系の天皇にとって脅威であった。そのため、允恭は葛城氏や吉備上道臣への牽制のために玉田宿禰を謀殺し、雄略天皇は円大臣を誅殺し葛城氏を没落させ、吉備下道前津屋をはじめとした吉備下道臣一族を滅ぼした。上道臣は雄略天皇のこの動きに不満を募らせたが、雄略天皇は吉備上道田狭を誅殺して上道臣を牽制した。 それに対して吉備稚媛や星川皇子、残された吉備氏は反乱を起こしたが、新興の軍事氏族である大伴氏や物部氏によって鎮圧された。

蘇我氏は葛城氏の政治力や経済力、対朝鮮の外交ポストや渡来人との関係(4世紀から5世紀にかけて、葛城には葛城襲津彦が捕虜とした渡来人が居住しており製鉄作業に従事していた)、また大王家との婚姻関係などを継承したと考えられる。葛城氏は5世紀には皇后や妃、高い地位に上る人物を輩出し、対朝鮮半島関係(軍事行動と外交交渉)を担っていたという伝承を持っていた。これらが全て史実を伝えたものとは言えないが、葛城地方を地盤とした集団が5世紀の頃に大きな勢力を持っていたことは、複数の古墳や豪族居館の遺跡から容易に推測できる。しかし、玉田宿禰が允恭天皇に、円大臣が雄略天皇に滅ぼされている上に、6世紀において、5世紀に活躍した葛城氏の末裔と見られる人物は葛城烏那羅のみで、ほとんど姿を見せなくなってしまっている。考古学的見地からも、5世紀後半の新庄屋敷山古墳を最後として葛城地域に大型前方後円墳の築造は見られなくなる。持統天皇が691年に「其の祖等の墓記」を上進するように命じ、これが『日本書紀』の原史料になったのであるが、葛城氏はこの中に含まれていない。それにもかかわらずら葛城氏の氏族伝承や王統譜が『日本書紀』に記されているのは、葛城氏の後裔が存在していて、彼らが史料を提供したのであると推測でき、その集団こそが蘇我氏であったと考えられる。そして、葛城氏として残った者が僅かであったので、それらは顕著な活動を残すことができず、あたかも葛城氏が没落したかのように見えたのであると考えられる。
なお、『聖徳太子伝暦』では、聖徳太子が葛城寺を「蘇我葛木臣」に賜ったとされている。




葛城氏と蘇我氏の関係を、こちらのサイトからも引用する。


https://www.rekishijin.com/19662
蘇我氏は大和国高市(たけち)郡曾我(そが)を本拠とする豪族であったが、葛城一帯を基盤とした同祖同族の葛城(かづらき)氏の血脈を受け継いで豪族として自立した。それは蘇我氏の初代・稲目(いなめ)が葛城氏の女性を妻に迎え、馬子(うまこ)という後継者をもうけたことに始まる。馬子は葛城氏と蘇我氏をともに継承するという絶大な地位と権力を生まれながらに手にしていたわけである。




このサイトは「蘇我稲目が葛城氏の女性と婚姻したことが原因で蘇我氏と葛城氏は関係した」と記しているが、本書には「また孝元(こうげん)記の建内宿禰(たけのうちのすくね)系譜では、宿禰に9人の子をあげているが、そのうちに蘇賀石川宿禰と葛城長江曽都毘古(ながえそつびこ)らがある」と記されている。
恐らく蘇我稲目が葛城氏の女性と婚姻したことが原因ではなく、それ以前から蘇我氏と葛城氏が繋がっていたと思って間違いないだろう。
そして、本書に「蘇我稲目は満智宿禰(まちのすくね)の孫、雄略朝の新羅将軍の一人、韓子(からこ)宿禰の子にあたる高麗(こま)という人の子だと『公卿補任(くぎょうぶにん)』にみえている」と記されているように、蘇我氏は新羅の系統であるようだ。
しかも「欽明とその妃にあたる、稲目の二人の娘堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ)とのあいだには、用明・崇峻・推古の3人の天皇が生まれた」のであるのだから、天皇家は新羅の系統であることがここに証明されている。
さらに重要なのは、本書の「しかし、それより注目すべきは、稲目の活躍した時代の政治の中心が、東漢(やまとのあや)氏をはじめ漢人の古くから根を張っていた檜隈近傍にうつった、ということである」という記述である。
「新羅系の蘇我稲目が活躍した時代に、欽明天皇は政治の中心が、東漢(やまとのあや)氏をはじめ漢人の古くから根を張っていた檜隈近傍にうつした」のである。
この記述から、私は、以下のように察した。

欽明天皇当時の大和朝廷で新羅系の蘇我稲目が活躍した時代、蘇我氏は、事実上、中国系の東漢(やまとのあや)氏の支配下にあった。

だから欽明天皇は、政治の中心を、東漢(やまとのあや)氏をはじめ漢人の古くから根を張っていた檜隈近傍にうつしたのだ。

表向きは新羅系の蘇我氏や天皇が権力を持っていたように見せかけて、その実体は中国系の東漢(やまとのあや)氏をはじめ漢人が実権を握っていた。

表向きは首相や大統領が実権を握っているように見せかけて、実際の権力者は陰に隠れて首相や大統領を支配している今の時代と同じ構造である。

あくまでも私の思い付きであることを、あらかじめ断わっておきます。
でも、こんな説を唱えたのは、恐らく私だけでしょう。
信じるか信じないかはあなた次第です(爆)




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