「「リンカーン暗殺」も、「ケネディ暗殺」も、「孝明天皇弑逆」も、「FRB創設」も、「タイタニック」も、「すべての八百長戦争」も、「原爆投下」も、「911」も、「311」も、「コロナ詐欺」も、すべて主犯はこの勢力が行っていたのである」byソウルマン - 歴史・宗教
fc2ブログ

嘘八百のこの世界

この世界の真実を追究して行くための読後評を中心に書いていきます

HOME プロフィール 真実を追究するマロン

ソウルマンの娘のマロンです。お散歩大好きです。 

最新記事 最新コメント
月別アーカイブ カテゴリ
ランキング
にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 ポチッと押してもらえると、明日への活力となります↑
ロック
頭脳警察、PANTA
RCサクセション、忌野清志郎
ブラック・ミュージック
広告

「「リンカーン暗殺」も、「ケネディ暗殺」も、「孝明天皇弑逆」も、「FRB創設」も、「タイタニック」も、「すべての八百長戦争」も、「原爆投下」も、「911」も、「311」も、「コロナ詐欺」も、すべて主犯はこの勢力が行っていたのである」byソウルマン

「明智光秀が信長に謀叛を起こした本当の理由は?能はユダヤ由来?」


かなり昔の講演会の動画のようだが、思った以上に面白かったので紹介する。


宇野正美 古代ユダヤ 丹波と秦氏



気になったことを記しおく。
八上城や波多野氏について調べていたら、あることに気づいた。
それは、この記事に記されていた箇所にあった。


https://jocr.jp/raditopi/2020/08/25/125188/



明智光秀は、八上城城主であった波多野秀治を降伏させるために、「信長に謝りに行ったら許してもらえる」と語って波多野秀治を説得し、信長のもとに連れて行った。しかし、信長は波多野秀治を許さずに殺してしまった。それに対して怒った波多野秀治の家臣が、人質として差し出していた明智光秀の母親を殺した」と。

私は、「これが明智光秀が信長に謀叛を起こした最大の理由である」と悟った。

恐らく明智光秀は、「波多野秀治を私のもとに連れてくれば許してやるから、波多野秀治を安心させるためにお前の母親を人質に差し出せ」と信長に言われたのでしょう。
その約束があったから、明智光秀は自分の母親を人質に差し出したのでしょう。
だけどその約束は反故にされた。信長は波多野秀治を殺害した。
そして母親は、代わりに殺されてしまった。

これでは明智光秀が「信長を殺してやる」と思うようになったのも、うなずけます。
このような裏切りをされては、君主もクソもありません。
自分が蹴られたぐらいのことなら我慢できても、これだけは許せないでしょう。
信長は、家来に殺されても仕方ないことをしていたのです。
はっきり言って、自業自得です。
このような明智光秀の感情を利用したのが秀吉であり、黒田官兵衛であり、その背後にいたのがイエズス会だったのでしょう。

だけどこういった史実を、何故かNHK等の「表の歴史」は隠蔽しているようです。
昨年のNHK大河ドラマでも一切報じられなかったはずです。
何故でしょう?
このことは、それほど隠しておかなければならないほどの史実とは思えないのですが。

ひょっとしてこの事件には、「彼ら」が触れられたくないことがあるのでしょうか?

それは私が思うに、宇野正美氏が動画で語っていたように、
「波多野=ユダヤの末裔」という“隠された事実”にあるのではないのでしょうか?

イエズス会はキリスト教を装っていますが、実際はユダヤ教です。
自分たちと同じユダヤを殺した信長を、許せなかったのではないのでしょうか?
これが「イエズス会が明智光秀を使って信長を殺した最大の動機」ではないのでしょうか?

「これが真実だ」とまでは言い張るつもりはありませんが、NHKをはじめとした「表の歴史」がこの史実を隠蔽していることから、このように感じました。


次に能について書きます。
能が能と呼ばれるようになったのは明治以降であり、それまでは猿楽と呼ばれていた。
猿楽をウィキより抜粋する。



猿楽(さるがく、猿樂)は、室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。
(南方)中国大陸から伝わった散楽が申楽(猿楽)のはじまりと考えられている。申楽(猿楽)・能楽の始祖とされる秦河勝が「六十六番の物まね」を創作して紫宸殿にて上宮太子(聖徳太子)の前で舞わせたものが「申楽」のはじまりであると風姿花伝に記されている。
朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を図った。
延暦元年(782年)、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止される。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていった。
鎌倉時代には平安時代に成立した初期の申楽とは異なる芸態の申楽が出現した。現行の翁に相当する翁申楽である。永仁5年(1297年)に書かれた『普通唱導集』では、もっぱら翁申楽について言及しており当時の申楽が翁申楽を本芸としていたことを物語っている。
翁申楽は寺社の法会や祭礼に取り入れられたため、申楽は寺社との結びつきを強め、座を組織して公演を催す集団も各地に現れた。
座のなかでも、とくに大和申楽の四座、近江猿楽六座が名高い。もともと申楽(猿楽)は大和において「七道の者」であった。漂泊の白拍子、神子、鉢叩、猿引きらとともに下層の賤民であり同じ賤民階級の声聞師の配下にあった。室町時代には、鎌倉時代の猿楽が発展し観阿弥や世阿弥らの登場によって現在の能楽とほぼ同等の芸能としての申楽(猿楽)が形作られる。
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて同業組合としての座が生まれ、寺社の保護を受けるようになる。それが鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての動乱期を経て室町時代に入る頃になると、これに代わって武家が田楽を保護するようになり、それとともに衣装や小道具・舞台も豪華なものになっていった。このような状況の中、大和申楽の一座である結崎座より観阿弥が現れ、旋律に富んだ白拍子の舞である曲舞などを導入して、従来の申楽に大きな革新をもたらした。
永和元年(1375年)、室町幕府の三代将軍足利義満は、京都の今熊野において、観阿弥とその息子の世阿弥による申楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座を庇護した。





秦河勝が能楽の始祖とされているようだ。
「能=ユダヤ発祥」のようですね。

次に、観阿弥について記しておきます。ウィキより抜粋する。




観阿弥(かんあみ/かんなみ 觀阿彌陀仏 正慶2年/元弘3年(1333年) - 至徳元年/元中元年5月19日(1384年6月8日))は日本の南北朝時代から室町時代にかけての申楽師。息子の世阿弥とともに、いわゆる能を大成した人物である。
観阿弥は、はじめ興福寺、春日神社などの神事能に奉仕する大和猿楽四座の結崎座の一員として、大和および、近隣の各地で活躍していたが、1370年代ごろから自らの一座を率い醍醐寺での演能など、京都周辺へも進出していった。
当時都では猿楽より田楽のほうが評価が高く、足利尊氏などの権力者も田楽を後援していた。ところが、1375年(永和元年 1374年説もあり)に京都新熊野神社で観阿弥が息子の世阿弥とともに演じた猿楽能を足利義満が見物、以降、将軍はじめ有力武家、公家らの愛顧を得、観阿弥が率いる観世一座は幕府のお抱え的存在とみなされるようになる。
観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。
また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。
一方、1962年(昭和37年)三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。




観阿弥は楠木正成の甥であるかもしれない。
ということは、南朝支援勢力である。

世阿弥について記しておく。ウィキより抜粋する。



世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和申楽結崎座の申楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに申楽(猿楽とも。現在の能また歌舞伎の祖形ともいう)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに申楽を深化させていった。
義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。
1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。





「将軍足利義教は、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を奪った」とのことであるが、「元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用した」ということなので、宇野正美氏が「世阿弥が南朝を支援した楠木正成の血筋だから、佐渡に流刑されたのでは?」という説は間違いだろう。
何故なら、音阿弥は観阿弥の孫であり、世阿弥と同様に楠木正成の血筋であるからだ。
楠木正成の血筋を問題視したのなら、音阿弥も弾圧されているはずである。







私は、基本的に「日ユ同祖論」の支持者ではない。
むしろ、この説に異議を唱えている方である。
この説を支持するということは、基本的に「ユダヤは優れた良い民族である。日本民族にはその優れた民族の血が入っているので優秀なのだ」といった考えの支持者が多いような気がする。
そのような「ユダヤ肯定論」には、どうしても違和感を覚えてしまうのである。

何故かというと、過去から現在に至るまで、この世界の悪事を仕組んできた中心は、ユダヤ勢力であることは、間違いのない事実なのである。

分かりやすく言えば、「リンカーン暗殺」も、「ケネディ暗殺」も、「孝明天皇弑逆」も、「FRB創設」も、「タイタニック」も、「すべての八百長戦争」も、「原爆投下」も、「911」も、「311」も、「コロナ詐欺」も、すべて主犯はこの勢力が行っていたのである。
実際の実行部隊はその手下が行っていたが。

そういったこいつら悪魔勢力の悪事を無視して、単に「ユダヤは優れた良い民族である。日本民族にはその優れた民族の血が入っているので優秀なのだ」といった考えを持つことは大変危険であると、感じざるを得ないのである。

ただ悪事を行っているのは基本的に「偽ユダヤ」であるので、「悪いのはユダヤだ」と決めつけてしまうのは、これまた「彼ら」の罠に嵌ってしまうことになるため、そこの線引きは注意しないといけないだろう。

そうは言っても、古代ユダヤの血筋が日本人に残っており、古代ユダヤが残した文化・伝統・風習が深く日本に残っていることは、紛れもない事実であるだろう。
古代ユダヤが日本に来ていなかったなら、今の日本の文化は成り立っていなかったことでしょう。日本の伝統文化・技術と思われているあらゆるもの、神社も、相撲も、祭りも、能も、土木技術も、天皇家も、ユダヤ由来であることは間違いないだろう。

こんなこと書くと「なんやかんや言っておきながら、アンタはやっぱり「日ユ同祖論」の支持者やねんな」と思われそうだが、もう一度「そうではない」と念を押しておきます(笑)
「私が叩いているのは、ユダヤではなく偽ユダヤ(=「彼ら」)である」ことも、併せて念を押しておきます。

でも、「明治維新を起こした勢力が北朝天皇を弑逆し、偽物南朝天皇にすげ替え、“南朝が正当である”と唱えたこと」は事実であるし、「秦氏=南朝」が事実だとしたならば、「ユダヤって一体何者やねん?」と思わざるを得ません。

さらに言えば、「悪いのはユダヤ教なの?」「悪いのはユダヤ教というよりも、古代バビロン由来のタルムードの教えじゃないのか?」とも思っています。
さらにさらに言えば「ユダヤ人以外をゴイムと呼んで蔑んでいるのは、ユダヤ教の教えなのかタルムードの教えなのかどっちやねん?」とも思っています。

「ユダヤの闇」は根が深いようです。




ポチッと押してもらえると、明日への活力となります
にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村

COMMENT

背景

じっくり記事を読みたいのに、背景の切り替わりがウザくて辟易してます。

写真が上手なのはわかったので、
なんとかなりませんか~??

EDIT COMMENT

非公開コメント