スサノオ、ニギハヤヒ、物部氏、聖徳太子、天武天皇の関連性 - 関裕二

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スサノオ、ニギハヤヒ、物部氏、聖徳太子、天武天皇の関連性

「天武天皇 隠された正体」関裕二


1991年の書である。前回取り上げた「聖徳太子は蘇我入鹿である」の続編である。
「古代史に燦然とその姿を登場させた天智天皇と天武天皇~両雄の骨肉の争いは、やがて壬申の乱へと進んでいく。この争乱によって、天智の弟とされる天武は、天智の子・大友皇子と皇位継承をめぐって争い、最終的に天智王朝を奪ったとされている。だが、近年、壬申の乱や天武の実像について、数々の疑問が投げかけられはじめた。そこで、壬申の乱に登場する人々の足跡をあらためて追い直したところ、天武と蘇我一族が、意外な事実関係で結びついていることに気づいたのである。さらにこの乱を追求していく過程で、通説とは異なる天武の実像が浮上してきた。天武本人の編纂とされてきた「日本書紀」にすら明記されなかった天武の前半生が、はっきりとつかめたのである。」とのことで、壬申の乱及び、天武天皇の真相に迫っている。以下、一部引用する。



*大和王朝の初代天皇は、天照大神(以下アマテラス)を皇祖とする神武天皇であった。九州の日向(ひむか・現在の宮崎県)から大和に向かった神武は、大和地方の豪族長髓彦(ながすねひこ)の激しい抵抗にあい苦戦するが、ついにこれを平定し、王朝を開いた。
じつは、この「日本書紀」の神武天皇東征説話には、大和朝廷の成立以前の実体を浮かび上がらせる重大なヒントが隠されている。というのも、神武天皇が大和に入る前に、すでにその地で王として君臨していた人物がいたと明記してあるからだ。その王の名を饒速日(にぎはやひ・以下ニギハヤヒ)といい、「日本書紀」は、神武に抵抗した長髓彦がニギハヤヒを大王として仰いでいたこと、ニギハヤヒが「天神」の子であること、そしてニギハヤヒが物部氏の祖であることを記している。
この記述は、古代史を根本からくつがえす重要な示唆をわれわれに与えてくれる。なぜならば、いままでたんなる一豪族とみなされてきた物部氏が、じつは神武東征以前の大和の王だった可能性が出てくるからである。少なくとも、その事実を「日本書紀」は否定していない。「事不虚」、つまり、ウソではない、といっていることからもわかる。
では、この謎の人物「ニギハヤヒ」とはいったい何者なのか?そして「日本書紀」は、なぜ大和の王だったニギハヤヒについて、多くを語ろうとしなかったのか?
・・・・・(中略)・・・・・
「古事記」や「日本書紀」のなかであれだけけなしている神々を、その裏では丁重に祀り上げているこの事実の裏には、いったいなにが隠されているのだろう。
その謎をみごとに解き明かした人物がいた。故原田常治氏である。氏は日本の古代史というものが、「古事記」や「日本書紀」に書かれた内容だけを根拠に推論していくには限界があることに気づき、“神社伝承”を駆使したユニークな方法で、これらの謎を解いていった。
その結果、いままで神話の世界の話として、歴史の世界から無視されていたスサノオやアマテラスといった神々が実在していたと氏は断言したのである。
スサノオは大和朝廷が成立する以前に出雲を治めていた王、つまり出雲王朝の始祖であり、アマテラスは現在の宮崎県にあった九州王朝の始祖であったというのだ。
さらに原田氏の指摘は重要な点は、スサノオの息子ニギハヤヒの実像を掘り出したことである。このニギハヤヒこそが、じつは大和朝廷の始祖として歴代の天皇によって崇められた日本の古来の太陽神だったのだ。その名は、天照国照彦火明奇櫛玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこほあかりくしみかだまにぎはやひのみこと)という。
「日本書紀」は、ニギハヤヒがスサノオの子であることを巧妙なトリックでおおい隠し、さらにはスサノオの子孫が物部氏であることも、同時に歴史から抹殺したのである。
・・・・・(中略)・・・・・
そして、いままで単なる天皇家のお家騒動としてとらえられてきた壬申の乱も、本当のところは、出雲王朝と九州王朝の長年にわたる葛藤が、ついには大々的な武力衝突にまで発展したということにほかならない。この乱によって政権を勝ち取った天武天皇は、出雲王朝最後の大王として飛鳥の地に君臨したのである。
やがて、天武とその子大津皇子(おおつのみこ)の死とともに指導者を失った出雲王朝は衰退し、この二朝間の争いは幕を閉じることになる。そして最終的に勝者となった九州王朝は、巨大で強力な仇敵であった出雲王朝とその一族の影を消し去り、九州王朝こそが唯一正統なる王朝であることを後世に知らすべく、策謀をめぐらしていくのである。
その手段として巧みに利用されたのが、皮肉なことに、天武が編纂を命じたといわれる「日本書紀」であった。この一冊の書物のなかに、敗者たちは長い時間真実の姿を知らせるすべもなく閉じこめられていく。

*「日本書紀」天智八年(669)、是歳条に気になる記述がある。
それによると、朝廷は河内直鯨(かわちのあたいくじら)を唐に遣わし、そして唐からは二千人の使者が日本にやってきたという。唐からの二千人にのぼる使者とは、いったいなんの目的があって来日したのだろうか。
一説によると、白村江の戦いにおいて捕虜となった日本人を返しにきたのだろうともいわれ、またいっぽう、天智十年(671)十一月に、同じく郭務悰が二千人を引き連れて来日した記事の重複であろうという意見もある。
天智八年(669)は前述したように、新羅が半島独立をめざして唐と戦争状態に入った年である。しかし、この年の「日本書紀」の外交記事のなかで、唐からの使者に関する記事は、これ以外にまったくみられない。
唐が日本をもっとも必要としはじめたこの年に、この使者が来日していないとは考えられない。むしろ日本に対して執拗に働きかけがあって当然のことだろう。
問題は、なぜ二千人にものぼる使節団を唐が送ってきたかということだ。当然これは軍隊としか考えられない。それでは唐はなにを目的として、日本に軍勢を送る必要があったのか。
それは、法隆寺・斑鳩寺を中心とした都の周辺に、反唐・親新羅勢力が盤踞(ばんきょ)していたからである。

極東アジアにおいて、同盟できる陸続きの国をいっさい失った唐にすれば、半島の統一をめざす新羅を圧迫するには、日本の協力がぜひとも必要だった。親唐派に転向した天智が、都の周辺で「反覇権主義」の不満分子が騒いでいると唐に報告すれば、唐もあわてて兵を送ったことだろう。
いっぽうの天智は、新羅による反唐の旗揚げを利用し、唐の軍事力を背景に国内では出雲勢力の一掃を、そして百済の再興をもくろんだにちがいない。

そして、この推論を確定的にしたのが郭務悰らの二度目の来朝記事である。
「日本書紀」によると、天智十年(671)十一月に来日した唐の使者二千人は、その翌年の天武元年五月に帰っていったという。この半年間の滞在中、二千人の人々はなにをしていたのか。じつは、なにもしていなかったのだ。それでは、彼らはなにを目的に日本にやって来たのか。問題はそのタイミングである。
壬申の乱の直前、天武が天智天皇のもとを去り、吉野にこもったのが天智十年十月。唐の二千人が来日したのが同十一月。天智崩御が同十二月。そして、翌年の天武元年五月に唐の使者は日本を離れた。そして同六月、壬申の乱勃発。
つまり、唐の二千人の滞在と天武の吉野での隠遁生活の期間が、ピッタリ一致するのだ。この符号は、はたして偶然なのであろうか。いや天智の病状の悪化を聞きつけた唐が、反唐・親新羅政策を打ち出していた天武の動きを牽制するためにやってきたとみるのが自然であろう。
要するに、天智八年、同十年と二回にわたる唐からの二千人の使者は、どちらも天智天皇の政策に反発する勢力を牽制するために来日していたのだ。


*斉明天皇即位前紀によれば、斉明天皇は、舒明天皇の皇后となり、天智や天武を産む前に、用明天皇の孫とされる高向王(たかむくのおう)と結ばれ、漢皇子(あやのみこ)を産んだという。
「日本書紀」のこの証言は重要である。なぜならば、用明天皇は妹・推古天皇同様、蘇我色の強い天皇である。その蘇我(出雲)系の天皇の孫と九州系の斉明は、結婚していた過去があるというのだ。
・・・・・(中略)・・・・・
九州王朝の王として多武峰に立てこもっていたにもかかわらず、斉明天皇は出雲王朝の本拠地における高向王との楽しかった生活と、「吾が若き子」漢皇子を思う心でいっぱいだった。そして、その事実を、「日本書紀」があらゆるトリックを使って否定したことには、重大な意味がこめられている。
・・・・・(中略)・・・・・
ところで、死して地獄に堕ちたとされる斉明天皇には、生前、正体不明の化け物がつきまとっていたという話がある。この証言は、数々の文献に記されているだけでなく、四国の神社にも伝わっているぐらいだから、よほど世間に流布していた話だったと思われる。
・・・・・(中略)・・・・・
この化け物がもし豊浦大臣ならば、斉明の葬儀にまで姿をあらわした鬼=豊浦大臣とはいったい何者なのか。そして、斉明にどんな恨みをもっていたのか。また人々はその鬼のなにを恐れたのか・・・・・!?

「日本書紀」によれば、豊浦大臣とは蘇我蝦夷のことをさす。だが、「先代旧事本紀」の伝承から、蘇我入鹿こそ豊浦大臣と呼ばれていたことがわかっている。だとすれば、斉明天皇につきまとう鬼とは、入鹿だったということになる。ところで、大化改新における皇極(斉明)天皇の態度は解せぬ、という意見が一部にある。さらに、そのことが思わぬ憶測を呼び、入鹿と皇極のあいだには男女の結びつきがあったという説さえある。
それはなぜかというと、次のようなやりとりがあったからだ。中大兄皇子に斬りつけられた入鹿は、皇極天皇にこの事態の説明を求めた。すると皇極天皇はあわてふためき、入鹿に対して自分がこの凶行に関与していないことを叫び、さらに中大兄皇子を責めるかのように、その行動を問いただしているのである。そして中大兄皇子が、入鹿には皇室をくつがえす野望があるのだ、と叫ぶように訴えると、皇極天皇は黙ったまま奥にひっこんだといわれている。女帝のうろたえぶりはなにかあるといわざる得ない。
・・・・・(中略)・・・・・
斉明につきまとう鬼をみた時の人々は、迷うことなく入鹿の亡霊であると決めつけた。そして斉明のまわりで人々が多く死ぬのをみて、これこそ入鹿の仕業だと確信する。人々のそのような恐れようからして、「日本書紀」には記されていない裏側で、入鹿と斉明とのあいだに断ち切ることのできない関係があったと考えてよい。

*斉明天皇と蘇我入鹿(高向王)が結ばれていたことが、これで明らかになった。そうなると当然、両者の子・漢皇子なる人物は、どこでなにをしていた者なのかという新たなる疑問が生じてくる。
漢皇子が入鹿の子であるとすれば、それは当然聖徳太子の子供ということになる。それでは、「日本書紀」のなかに聖徳太子の子としての漢皇子に比定しうる人物が実際にいたのだろうか。
・・・・・(中略)・・・・・
私は、この漢皇子こそが、壬申の乱で出雲王朝の絶大なる支持を得た、天武天皇その人ではないかと思うのだ。
それはとりもなおさず、天武が蘇我入鹿の子供であったという事実につながる。そして、入鹿の子が天武だとすると、大化改新から壬申の乱にいたるまでの多くの謎は、一挙にして整然と説明がついてしまうのである。
大化改新で天武が入鹿討伐に参加しなかったのは、天武が入鹿の子供であったからだ。あるいは、白村江の戦で天武の姿がみられなかったのも、天武が入鹿(太子)同様、九州王朝の極端な百済支持に同調できなかったからである。
さらに、天武が尾張氏を筆頭とする出雲系の豪族の絶大なる支持を得ていた壬申の乱において、近江朝の蘇我氏がすべて寝返ったのは、天武が出雲王朝の正統な皇子、つまり大王・入鹿(太子)の子供だったからにほかならない。
天武が九州王朝の持統によって前半生を抹殺されたのも、すべては天武が出雲王朝の大王だったからなのである!



(管理人)
他作家の説を取り入れながら、自説を展開していく著者の論説は、少々強引なところもあるが、実にご立派である。それから、大化改新、壬申の乱と続いていく古代史の流れは、一筋縄でいくものではなく、複雑怪奇で、さながら火曜サスペンス劇場のようだとも感じた。斉明天皇と蘇我入鹿(=聖徳太子)の関係で例示されるように、大化改新や壬申の乱の実体は、天皇家の複雑な婚姻に関わる裏の血筋が関連しているようである。
しかし、その本質は、唐・百済・新羅といった外国勢力の日本国内における勢力争いによって巻き起こされているのだ。
すべてが著者の説の通りとは、とても思えないが、かなり真実に迫っていると思う。
それにしても、「藤原氏」、「郭務悰」、「聖徳太子」、「物部氏」、「アマテラス」、「スサノオ」、「ニギハヤヒ」・・・と、古代史は謎の部分があまりに多い。そして、その謎を突き詰めていくと、何故かイルミナティとの関連を感じてしまうのは私の考え過ぎだろうか・・・。


評点:80点

COMMENT

大和朝廷は飛騨である

詳細は省きますが、日本人は飛騨に発生し全国へ開拓・防衛の為散らばって行きます。飛騨は大和朝廷の前身です。天照の夫思兼命や重鎮高木命らにより飛騨中の人々を集めた天安川原の会議で①九州を平定する②国を一つにまとめる③飛騨から奈良に大和を遷す事が決定。饒速日命は奈良橿原開拓と大和国の準備に行き、その弟邇邇芸命は九州の海幸・山幸・塩土の3部族平定に高千穂へ大軍を率い遠征(天孫降臨のこと)。饒速日命は橿原で弟邇邇芸命を待ちましたが九州で亡くなり、孫の神武天皇が兄御毛沼命に九州邪馬臺国(ヤマトコクと読む)を任せ橿原の地への帰還を目指します。途中長髄彦の勘違いから兄五瀬命が矢を受け死亡。長スネ彦は兄安日彦と共に津軽五所川原辺りに津軽大和=アラハバキ王国創設。大和は3つあり、奈良橿原が本家、筑紫、津軽は分家。物部氏、印部氏、大伴氏、中臣氏、後の藤原氏など全て飛騨皇統系の子孫。とても書ききれません。飛騨に生命が初めて誕生したのは4億年以上前、人間=日本原人飛騨人は数万年前、天照大神を遡る先祖は35代。天照はBC1頃活躍。飛騨と出雲が2大政権。素戔嗚は出雲へ婿入り。出雲は飛騨が開拓した土地。後に大国主の不祥事で飛騨に返還。これが出雲の国譲り。大国主は飛騨の匠の建てた幽閉所へ幽閉、飛騨の5人が逃げないように監視。途中ですがここまでで話を中断します。延々と続くので書ききれません。飛騨天孫を祀った神社は全国に数知れず。大山祇命、建御雷神、天児屋命、天照大神、素戔嗚尊、邇邇芸命(瓊瓊杵尊)、饒速日命、多紀理姫、市寸島姫、多岐都姫の宗像三姫、厳島神社三姫、天穂日命、五瀬命、神武天皇、加茂命、下照姫などなど全て飛騨皇統系の方々(実在した)。

Re: 大和朝廷は飛騨である

Misaki-1167 さん

長文にわたる古代史解説有り難う御座います。
このへんのことは私は全く理解していませんが、
飛騨高天原日本建国の話には少し関心を持っています。
事実はどうであれ、真相を理解しようとする気持が重要であると感じます。

十神島根之堅洲国は本当か?

 とにかく、出雲安来に繫栄したという物部氏。蘇我氏もそのようにいう。藤原摂関家はこの地を呪われたる地と思っている。このような葦原中国の不確定ぶりや奈良地方が大和という名で称賛されながら、実は伊勢神宮だとか言ったりもするが、出雲大社が最後は勝つのはなぜか?

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