「蝙蝠男の定例記者会見」=「蝙蝠男と記者クラブの猿芝居」
「『i -新聞記者ドキュメント-』を観て」
先日、映画『i -新聞記者ドキュメント-』を観てきたので、感想を書いておきます。
主演は望月衣塑子(東京新聞社会部記者)であるが、もう一人の主演は蝙蝠男であった。
この二人のバトルが中心となっていた。
映画を観た人なら誰もが感じたことだと思う。
それは、「蝙蝠男の定例記者会見というものがいかに酷いものなのか」ということである。
まさに「蝙蝠男と記者クラブの猿芝居」である。
型通りの蝙蝠男の会見に一切つっこんだ質問をしようとしない記者クラブという名の似非ジャーナリストどもを見るにつけ、この国にジャーナリズムなるものがほとんど存在していないことを改めて感じさせられる。
まともな質問をしているのは望月衣塑子だけである。
その望月衣塑子の質問でさえ、私から見たら大した質問とは思えない。
その大した内容とは思えない望月衣塑子の質問を遮ろうとする蝙蝠男の後ろに控えている蝙蝠男の手下(名前は知らない)の何とあさましいことか。
自分は「仕事」で望月衣塑子の質問の邪魔をしているつもりなのだろうが、自分が情けないとは思わないのだろうか?
それとも、既にマトモな人間としての感情を失ってしまっているので、良心の呵責など全く感じないのだろうか?
こんなことをして家族を養っているのかもしれないが、こんな親を持った子供が可哀想である。
自分の親から善悪の教えを学ぶことが出来ない子供が憐れである。
ところで、この映画の企画・製作者である河村光庸が「若者は新聞をもっと見てほしい」と語っているが、このような猿芝居を演じている記者クラブを平気で内部に構成し、どーでもいい記事しか書いていない(いや、書こうとさえしない)新聞を読めとは、あまりにマスゴミに対する知識がないか、ブラックジョークのつもりの発言なのかが判別できない。
通常の「どーでもいい内容を伴わない国策映画」と比べたら、この映画は数段優れており、政権を批判している姿勢は十分評価できるのだが、私の目から見たらまだまだ物足りないと感じてしまった。
それは何かと訊かれたら、私がいつもブログで書いているようなことを一切追及していないことにある。
ここにご訪問いただいている方なら説明不要だと思うが、例を挙げれば、特別会計の問題であり、発展途上国へのODAに莫大な血税がノーチェックで使われている問題であり、水道民営化の問題であり、不正選挙問題であり、遺伝子組み換え食品の問題であり、日米貿易協定承認の問題であり、これらの“国民が知るべき問題”を隠蔽するためのスピンとして「桜を見る会」の問題が使われているという問題であり、言い出したらきりがない。
ワクチン等の医療詐欺の問題、人工地震の問題、八百長戦争の問題などは追及できるわけがないのは分かっているので、元から期待していない。
映画の最後に、戦後のフランスでナチス政権側に立っていた人が1万人殺されたことを伝えるナレーションが流された。
「問題なのは右でも左でもない。社会問題に無関心なi(=私(たち))に問題があるのだ)」という映画の主張が分からないわけではない。
「確かに悪いのは何も政権だけではなく、無関心な個々の一般大衆にある」というのも間違いではないだろう。
私も、いつもブログで“騙され続けている無知な大衆”を批判している。
但し、本当に悪いのは悪の限りを尽くしている政権やマスゴミ等の売国奴連中(=チーム・イルミナティ)であり、その売国奴連中(=チーム・イルミナティ)をコントロールしている外国勢力(=「彼ら」)であるのだ。
このようなことは、これまで何度も書いてきた。
映画の主張にある通り、「ナチスが悪いのではなくナチスに寝返ったフランス人を同じフランス人が憎しみの感情から戦後殺害に至ったことの方が問題である。右や左が悪いのではなく人間の狂気性にこそ問題があるのではないか」といった主張は分かるが(映画製作者がこのように考えているかは定かではないが)、これとてこの世界の真相に気づいた人間ならば、こう言うだろう。
「ナチスも反ナチスも同じ勢力が作り上げたものである」
「戦争は八百長である」「右も左も根は同じなのだ」と。
かなり辛口なことを書いてしまったが、この映画が大変優れたドキュメンタリーであることに間違いはありません。
政権も望月衣塑子及び東京新聞以外の大手メディアもきっちりと批判しており、製作者の勇気ある行動は讃えたいと思う。
まだ観られていない方は、劇場で観賞されることを強くお勧めします。
ポチッと押してもらえると、明日への活力となります
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先日、映画『i -新聞記者ドキュメント-』を観てきたので、感想を書いておきます。
主演は望月衣塑子(東京新聞社会部記者)であるが、もう一人の主演は蝙蝠男であった。
この二人のバトルが中心となっていた。
映画を観た人なら誰もが感じたことだと思う。
それは、「蝙蝠男の定例記者会見というものがいかに酷いものなのか」ということである。
まさに「蝙蝠男と記者クラブの猿芝居」である。
型通りの蝙蝠男の会見に一切つっこんだ質問をしようとしない記者クラブという名の似非ジャーナリストどもを見るにつけ、この国にジャーナリズムなるものがほとんど存在していないことを改めて感じさせられる。
まともな質問をしているのは望月衣塑子だけである。
その望月衣塑子の質問でさえ、私から見たら大した質問とは思えない。
その大した内容とは思えない望月衣塑子の質問を遮ろうとする蝙蝠男の後ろに控えている蝙蝠男の手下(名前は知らない)の何とあさましいことか。
自分は「仕事」で望月衣塑子の質問の邪魔をしているつもりなのだろうが、自分が情けないとは思わないのだろうか?
それとも、既にマトモな人間としての感情を失ってしまっているので、良心の呵責など全く感じないのだろうか?
こんなことをして家族を養っているのかもしれないが、こんな親を持った子供が可哀想である。
自分の親から善悪の教えを学ぶことが出来ない子供が憐れである。
ところで、この映画の企画・製作者である河村光庸が「若者は新聞をもっと見てほしい」と語っているが、このような猿芝居を演じている記者クラブを平気で内部に構成し、どーでもいい記事しか書いていない(いや、書こうとさえしない)新聞を読めとは、あまりにマスゴミに対する知識がないか、ブラックジョークのつもりの発言なのかが判別できない。
通常の「どーでもいい内容を伴わない国策映画」と比べたら、この映画は数段優れており、政権を批判している姿勢は十分評価できるのだが、私の目から見たらまだまだ物足りないと感じてしまった。
それは何かと訊かれたら、私がいつもブログで書いているようなことを一切追及していないことにある。
ここにご訪問いただいている方なら説明不要だと思うが、例を挙げれば、特別会計の問題であり、発展途上国へのODAに莫大な血税がノーチェックで使われている問題であり、水道民営化の問題であり、不正選挙問題であり、遺伝子組み換え食品の問題であり、日米貿易協定承認の問題であり、これらの“国民が知るべき問題”を隠蔽するためのスピンとして「桜を見る会」の問題が使われているという問題であり、言い出したらきりがない。
ワクチン等の医療詐欺の問題、人工地震の問題、八百長戦争の問題などは追及できるわけがないのは分かっているので、元から期待していない。
映画の最後に、戦後のフランスでナチス政権側に立っていた人が1万人殺されたことを伝えるナレーションが流された。
「問題なのは右でも左でもない。社会問題に無関心なi(=私(たち))に問題があるのだ)」という映画の主張が分からないわけではない。
「確かに悪いのは何も政権だけではなく、無関心な個々の一般大衆にある」というのも間違いではないだろう。
私も、いつもブログで“騙され続けている無知な大衆”を批判している。
但し、本当に悪いのは悪の限りを尽くしている政権やマスゴミ等の売国奴連中(=チーム・イルミナティ)であり、その売国奴連中(=チーム・イルミナティ)をコントロールしている外国勢力(=「彼ら」)であるのだ。
このようなことは、これまで何度も書いてきた。
映画の主張にある通り、「ナチスが悪いのではなくナチスに寝返ったフランス人を同じフランス人が憎しみの感情から戦後殺害に至ったことの方が問題である。右や左が悪いのではなく人間の狂気性にこそ問題があるのではないか」といった主張は分かるが(映画製作者がこのように考えているかは定かではないが)、これとてこの世界の真相に気づいた人間ならば、こう言うだろう。
「ナチスも反ナチスも同じ勢力が作り上げたものである」
「戦争は八百長である」「右も左も根は同じなのだ」と。
かなり辛口なことを書いてしまったが、この映画が大変優れたドキュメンタリーであることに間違いはありません。
政権も望月衣塑子及び東京新聞以外の大手メディアもきっちりと批判しており、製作者の勇気ある行動は讃えたいと思う。
まだ観られていない方は、劇場で観賞されることを強くお勧めします。
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