聖徳太子は蘇我入鹿であり、蘇我善徳であり、スサノオと関係している - 関裕二

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聖徳太子は蘇我入鹿であり、蘇我善徳であり、スサノオと関係している

「聖徳太子は蘇我入鹿である」関裕二



1991年の書である。「歴史書とはその時代の権力者の存在理由を明らかにすることであり、自らの、そして先祖の偉大な功績を後世の人々に伝えたいという、権力者の欲求を満たす目的で編纂されたものであるため、「古事記」「日本書紀」の作者が作為をもってその記述内容をわからなくしてしまった、という前提に立ってみたら、古代史の多くの謎が解けるのではないか。」との視点で、古代史の謎に迫った著者のデビュー作である。
以下、一部引用。



*あまり知られていないことなのだが、天皇家の「皇祖心(こうそしん)」として崇められている天照大神(以下・アマテラス)の鎮座する伊勢神宮は、古代より天皇がほとんど参拝していない。正史である「日本書紀」のなかで初めて伊勢行幸をした天皇は持統天皇であるが、じつはこのとき、その当時中納言であった大三輪朝臣高市麻呂(おおみわのあそみたけちまろ)という人物が、冠位をなげうってまでその行動を諫めている。古代日本の中心である奈良盆地においてアマテラスを祀る神社といえば、三輪山のふもとにある桧原(ひばら)神社(元伊勢)という社をつくることもできぬほど質素なものであった。また、初代大和王朝であり、天孫族東遷の立役者でもある神武天皇を祀る場というものは、じつは明治時代に橿原神宮ができるまでは、なかったのが実状である。
いったい、それはなぜだろうか。

*アマテラスが高天原の統治を任されたのとは裏腹に、その後のスサノオは悪行がおさまらず、ついに怒ったアマテラスは、天の岩戸に隠れてしまった。けっきょくスサノオは高天原の問題児として、出雲の国へ追放され、そこでの八岐の大蛇の退治などの活躍譚と末裔たちが高天原の神々に屈服する過程が出雲神話という形になった。
このアマテラスとスサノオという相反する性格の二神は、あまりに白黒がつきすぎ、図式化されすぎている。
・・・・・(中略)・・・・・
さらにおかしなことに、「日本書紀」のなかで徹底的に醜い存在としてあつかっていたスサノオを中心とした出雲系の神々を困ったことに、当時の大和朝廷が手厚く祀っていた。
しかもそれは古代に限らない。明治天皇が初めて京都から東京に遷ったときに、まっ先に訪れた神社が高天原系の神社ではなく、出雲系の武蔵国の一の宮にあたる大宮氷川神社であったのだ。
とすれば、先ほどの神話におけるアマテラス=高天原系(天孫族)と、スサノオ=出雲系(出雲族)との間における、あれほどまでにはっきりとした勧善懲悪の図式というものと、現実に天皇家が敬い祀る、神々としての出雲族とはいったい何を意味するのか。

*この「先代旧事本紀」の記述を信じるならば、蘇我氏の母系の祖は物部氏であり、しかも孝元天皇の血を引き継いでいるということになる。しかもこの伝承を「日本書紀」は無視し、物部氏の伝承にのみ書かれていたということに大きな意味がある。
つまり「日本書紀」がいうように、物部氏と蘇我氏とが敵対関係にあって、しかも蘇我氏の素性も定かでないのであれば、物部氏にしてみれば、なにも無理をして自分たちの血筋に蘇我氏を組み入れる必要がないのだし、ひいては蘇我氏が天皇家の血をひいていることを蘇我氏になりかわって主張する必要などどこにもない。とすれば、蘇我氏が物部氏の血をひいていたという物部氏の伝承は、むしろ信憑性を増してくる。
この推論が成り立つとするならば、「日本書紀」によって、物部氏と蘇我氏の親密さというものが歴史から抹殺されたといえるだろうし、その両家が親密であったことが、(あくまで「日本書紀」編纂における)朝廷にとって都合の悪いことだったという疑いが強くなってくる。
その都合の悪かったことが何であったかを、今はまだ指摘する段階ではないが、ここで気になるのは、七世紀、物部氏と蘇我氏の橋渡し役を演じたであろう物部守屋の姪、鎌姫大刀自連公の存在である。
「先代旧事本紀」によれば、この女人は、ちょうど隋から裴世清が来日するそのとき、政局に重大な発言権を持っていたように記されているから、この人事に聖徳太子が大いにかかわっていたであろうことは、想像に難くない。したがって、この物部系の女人を通じて、物部氏、蘇我氏、聖徳太子という大きな歴史の謎が結びついてきた可能性は高い。
蛇足になるかもしれてないが、鎌姫大刀自連公について少し気になるのは、聖徳太子の妃のひとりで、山背大兄王の母である、刀自古郎女(とじこのいらつめ)に名前がよく似ていることである。
さらにこのように系図にしてみると、聖徳太子と蘇我馬子は「馬」で共通し、その妻は「刀自」で共通していることがわかる。

*今まで、架空の神話であり、おとぎ話としてのみ受けとめられ、歴史としてまともに取りあつかわれなかった神代の世界。そのすがたが明らかにされたことによって、われわれは神武天皇以後の大和朝廷というものが、じつは九州王朝(天皇家)と出雲王朝(物部氏・蘇我氏)の連合国家であることを知った。
連合体制がいつまで続いたのかは何もわからない。連合国家だったという事実は「日本書紀」によって抹殺されているからだ。
・・・・・(中略)・・・・・
かりに物部氏を出雲王朝の末裔とするならば、彼らが最も大きな打撃を受けたであろう事件は、蘇我馬子や聖徳太子とのあいだに起きた宗教戦争であったと考えられる。「日本書紀」には、守屋の一族はたしかにそこで滅び去ったとある。だが、先にあげた物部氏の伝承「先代旧事本紀」は、両者のあいだの一時的な対立はみとめるものの、大々的な戦争があったことは沈黙を守っている。しかも敵方の蘇我氏が出雲王朝の末裔であることさえ暴露しているのである。さらに「先代旧事本紀」は、蘇我馬子の妻が物部の出で、その息子が入鹿であり、入鹿は「日本書紀」によれば、物部氏の母の財力によって威を得ていたため、物部大臣とさえ呼ばれていたという。

*この「元興寺縁起」に登場する馬屋門皇子が俗にいう、「日本書紀」よってつくられた聖徳太子だとすれば、それとは別に聡耳皇子とよばれる、これまた聖徳太子とされる人物が実在したことがここで暴露されている。
しかもその人物は「大々王」にとって「わが子」であり、その母は物部氏出身の母をもち、元興寺を起こす処を見定め、完成させた、という。
これはだれか。
その答えは「元興寺縁起」をしめくくる文章のなかにこっそりと挿入されていた。
「推古天皇は池辺天皇の子・等与刀弥々(とよとみみ)大王(聖徳太子)、および蘇我馬子に仏法の隆盛を促し、また、蘇我馬子の長子・蘇我善徳を頭にして、もって元興を建てさせた」
蘇我善徳。
彼こそ、ニギハヤヒとならび、「日本書紀」「古事記」が全力をかたむけてこの世から抹殺しようとした男の名。そして、大々王の子であり、大王=天皇として君臨していた聖徳太子の素顔である。
・・・・・(中略)・・・・・
さらに「先代旧事本紀」を思い出していただきたいのであるが、そのなかに物部鎌姫大刀自(もののべのかまひめおおとじ)と嶋大臣(しまのおおおみ・蘇我馬子)との間にできた子が豊浦大臣(とゆらのおおおみ)で、その名を入鹿といったと書いてあるのだ。
しかも入鹿の別名は、君大郎(「藤氏家伝」)、宗我大郎(「藤氏家伝」)、林大郎(「法王帝説」)、蘇我臣入鹿時人称太郎是也(「聖徳太子伝暦」)とあって、長子としてあつかっているのを考え合わせると、なんと善徳という人物と入鹿は、奇妙なことに、ここでぴったりと重なってしまうのだ。

今まで「日本書紀」によって前代未聞の大悪人とされ、聖者である聖徳太子の一族を滅ぼしたとされる蘇我入鹿こそが、飛鳥の聖者、聖徳太子その人であったことになるのだ。

*仮に、大化改新当時、私見どおり、二朝並立という状態にあったのならば、先にみた現為明神御八嶋国天皇は、中大兄皇子の母・皇極天皇(斉明天皇)であった疑いが強い。
そこで、この人物に注目すると、興味深い事実が浮かびあがってくる。
斉明天皇二年の記述である。
「この年、飛鳥の岡本に、宮の地を定めた。(中略)ついに宮を建て、斉明天皇は遷られた。名づけて後飛鳥岡本宮(のちあすかおかもとのみや)という。
田身嶺(たむのみね)をぐるりと囲む垣をつくった。田身は山の名である。これを「たむ」という。また、嶺の上の二本の槻(つき)の樹のほとりに、高殿(たかどの)を建てた。これを名づけて両槻宮(ふたつきのみや)とした。または、天宮(あまつみや)といった」
ここに出てくる斉明天皇の宮・後岡本宮は、夫の舒明天皇の岡本宮の跡地である。どこにあったのかというと、定かなことはわからず、古くは飛鳥の東側の岡寺付近と考えられていたが、最近では「岡」とは、飛鳥の中心、雷岡を指すのではないかとする説が有力である。
ただし、私には、先の「日本書紀」の文面をすなおに読めば、旧説の方が正しいと思われる。その宮は多武峰に「周れる垣を以てす」とあるのだから、ここにいう飛鳥の岡本宮が、田身嶺=多武峰(とうのみね)につくられたと考えられる。また、岡寺が多武峰の中腹にあることを思うと、岡本宮は岡寺あるいは多武峰周辺にあった方が自然であろう。・・・・・(中略)・・・・・
この山に中臣(藤原)鎌足を祀った談山(だんざん)神社がある。この神社の名は、鎌足が中大兄皇子と蘇我入鹿を滅ぼすために談じ合った山という故事からつけられた。
・・・・・(中略)・・・・・
かたや蘇我善徳を中心とする出雲王朝は、大陸との往来に便のよい難波への遷都を計画し、この世の天寿国の実現へ、あと一歩のところのせまりつつあった。
中大兄皇子と中臣鎌足は起死回生の最後のチャンスとして、難波遷都直前の一瞬にすべてをかけた。それが聖者善徳暗殺だったのである。

*ところで、これはあくまでひとつの推論にすぎないのだが、入鹿暗殺の直後の古人大兄皇子のことば「韓人、鞍作臣を殺しつ」の「韓人」は、「日本書紀」の注では「韓政」を意味するとされていることは先に述べたが、もしすなおに皇子のことばを信じて、入鹿=善徳の殺人現場に「韓人」がいたとするならば、その人物を特定することができるであろうか。
・・・・・(中略)・・・・・
ほかの史料を漁ってもこれといった決定的な説は導き出せないのだが、「法隆寺資材帳」に残った妙な一節によると、持統天皇七年(693)のこと、法隆寺や飛鳥寺の三人の僧が、父母の報恩のために観世音菩薩像をつくり、この小さな善根を積むことで、迷いのない浄土へ行かれるよう願ったとあり、さらに、
「族は大原の博士、百済に王として在りし、此の土に王の姓なり」
とあり、この三僧の父は、もと百済の王で、日本に帰化してからは大原の博士と呼ばれたというのである。博士というのは中国では、儒教の教官であるとともに、皇帝の諮問に応じ、民政の教化にあたるなど、国政にもたずさわる存在であった。したがって、孝徳朝における、国博士高向玄理のような存在とみて間違いあるまい。いわば天皇にとってのブレーン的存在と解釈していいだろう。
大原というのはどこで、その博士とはいったいだれなのか。
現在の明日香村小原(おはら)はその昔、大原と書いた。飛鳥坐(あすかにいます)神社の社を右に入ってしばらく行くと、道の右手に藤原鎌足の母と伝えられる大伴夫人の墓があり、その少し先の左手の小じんまりした神社が「大原神社大神宮」である。
この地は、中臣鎌足誕生地と伝えられ、その石標には、大織冠誕生旧蹟とある。さらにその長子である定恵はこの地にて百済人に毒殺されたという。
中臣鎌足が大原に縁が深かったことはたしかであり、逆に大原といえば鎌足以外の人物を想像することはできない。
もし鎌足が百済王の末裔で、大原博士とよばれ、中大兄皇子の懐刀として入鹿=善徳暗殺を実行したのだとすれば、この時代の多くの謎が解けてしまうような気がするのだが、いかがだろうか。


*奈良県橿原市小綱(しょうこ)町に「小綱の大日堂」と親しまれている普賢寺(ふけんじ)。鎌倉時代の大日如来坐像が安置されているのが、その名の由来のようだが、その境内に入鹿の邸宅跡とされる入鹿神社がある。門脇禎二氏の「蘇我入鹿」には、
「「日本書紀」に悪逆ぶりを記された入鹿であるのに、邸宅の伝承と神社が在しつづけたことは、それだけで無視し難い気がする。そういえば、石鳥居にもどこにも入鹿神社の社名を示す文字も標識も何一つ無いことが、かえって後世になっても入鹿を祀りつづけることへの憚りを思わせるものである」
という指摘がある。
そしてこの神社の説明板にも不可思議な表記がある。
「入鹿神社本殿一棟
当社は廃普賢寺の東南部の一段高い所に向かって建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。祭神は、素戔鳴(スサノオ)尊と入鹿大臣の両柱を合祀している
また、寺の入口の路地のわきにある道標のような石碑には、側面に、
「蘇我入鹿公御舊跡」
とあり、正面には、
「聖徳太子御自作大日如来仏起山普賢寺」
と刻まれていた。

なおつけ足すならば、この一帯の人々は、つい数十年前までは多武峰の集落に敵愾心(てきがいしん)をもちつづけていたらしく、けっして婚姻関係を結ばなかったという。
どうやら歴史の因縁とは、そう簡単に消えないものらしく、人間のやっかいな習性のひとつかもしれない。しかし、だからといって、それを無意味なものと、一蹴するつもりは、さらさらないのではあるが・・・・・・。





管理人)
前回の「八切史観」にも驚かされたが、今回の「関史観」も、八切氏に負けないぐらいの衝撃的な内容であった。両史観は、「古事記」「日本書紀」が、藤原氏による偽歴史書であり、全く別の角度で調べないと真実の歴史を知ることはできない、との点では一致するが、内容的にはかなり異なっているようだ。

中大兄皇子については、八切氏は百済系としているが、関氏は特に記してないので、古代日本系との認識であるだろう。
藤原鎌足については、八切氏は中国系・吉備王朝で、郭務悰であるとしているが、関氏は百済系の王の末裔としている。
蘇我氏については、八切氏は新羅系としているが、関氏は出雲系としている。

私が思うに、藤原鎌足については、関氏が述べているように、大原神社にゆかりのある点からは百済系の可能性が高そうだが、八切氏の「藤は唐」「藤原京は桃源郷」「漢字は唐字」との説も実に説得力があると思うので、中国人説も信憑性が高いと思う。関氏は論点の根拠を明示しているが、八切氏は明示していないところに難がある。「藤原鎌足=郭務悰」の根拠を明示してもらいたいものだが、著者は他界しているので、それも無理な注文である。
中大兄皇子については、百済系であると思う。藤原鎌足が百済系なら、同郷ということで、大化改新(乙巳の変)を共謀したのも理解できる。藤原鎌足が中国系なら、中大兄皇子が利用されたのであろう。
蘇我氏については、新羅から出雲に渡ってきたのだと思う。

先日、「陰陽師Ⅱ」をテレビで観たが、「大和王朝に滅ぼされた出雲王朝の末裔が鬼・怨霊となって、京の都を襲いに来る」といった内容であった。まさに、この書が暴いていることを土台に映画化しているところは評価したいと思う。また、この映画は、「大和王朝が出雲王朝を滅ぼしたことのみならず、外国勢力(唐や百済)が日本を侵略し、日本原住民を虐殺したことを暗に伝えているのだ」と感じた。
藤原氏は、蘇我入鹿(=聖徳太子)を暗殺したのみならず、徹底的に悪人に仕立て上げ、自らの政権を美化した。そして、聖徳太子の虚像を世に広めることによって、歴史の真実を見えにくくさせ、蘇我氏と物部氏と出雲族の繋がりを隠し通した。さらに、実在した出雲王国及び元祖天皇家を神話の世界に封じ込め、「アマテラスは善で、スサノオは悪」といったスリコミを「古事記」「日本書紀」を使って二十一世紀の未来人に至るまで洗脳した。
藤原氏が、百済人であるか、中国人であるか、はたまたユダヤ人であるかは定かでない。ただし、藤原氏が、「御用作家を使って歴史を偽造し、日本原住民を虐殺した」というのは、紛れも無い、許しがたい事実である。

最後に、入鹿神社の箇所で、「スサノオと蘇我入鹿(=聖徳太子)が共に祀られている」との表記は、蘇我氏と出雲族の繋がりを示す証拠となるであろう。そして、「この一帯の人々は、つい数十年前までは、多武峰の集落に敵愾心をもちつづけたとのことで、決して婚姻関係をもとうとしなかった」との文章には、強烈な印象を覚えた。
権力者である藤原氏は、御用作家や御用学者を使って、いくらでも歴史を偽造することは出来たであろう。しかし、虐げられた民衆の声を全く消し去ることは出来なかったのだ。
一度、入鹿神社やこの書に記載されていた神社・仏閣に改めて訪ねてみたい気になった。


評点:90点

COMMENT

家康が知っていた古代史

最近珍しい書籍を教えてもらいました、ご存知かもしれませんが、紹介したいのですが。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て30年ほど滞在し、日本語教科書を作るため、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。特に銀山開発には家康はスペインからの技術者導入のために尽力しています。スペイン国王からは難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
興味深いことに、この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、この頃あった、古代からの日本の歴史についての考を知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され其の後に慶雲以後の大和年号が続きます。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本語研究書と見做され、日本大文典の倭国年号のこの内容は、実物を手に取った人にしか分からない状態になっています、ウィキなどにも倭国年号の存在は記載されていませんので、ぜひ一度手にとってご覧いただければ幸いです。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年「日本紀」 を普通これは「日本書紀」と読み替える約束ですが、読み替えられない、別物という論証がされています。
宜しくお願いします。

Re: 家康が知っていた古代史

いしやまさん

こんにちは
貴重な情報有難うございます。
また、そのうち読んで見ようと思います。

ただ、ジョアン・ロドリゲス→イエズス会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%82%B9

倉西裕子→赤十字
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E8%A5%BF%E8%A3%95%E5%AD%90

とのことなので、「彼ら」の走狗のような気がしますので
少し気が重いです(笑)。
読んでもいないのに予想がつきますが、
イエズス会やキリシタンや赤十字や記紀については
悪く書かれてないであろう、ということが予想できてしまいます(笑)。
何故に歴史家なる人物が、一般人が関係しないはずの赤十字と関わっているのでしょうか?
偏見が強くてすみません(笑)。

古代史は石渡信一郎からだ

【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

こんばんは

初めまして。母方の家系が須賀原なのですが、加賀の前田家の娘が嫁いで来ています。前田氏は、菅原道真の子孫と言っていますが、違うと言われてますね。それで、前田氏が越前府中に居た時からの付き合いがあったらしく、加賀に移った時も付いて行ったそうです。前田利常?の娘が嫁いで来た後、福井に戻ったみたいです。両替商の時に、松平家への貸した金が返って来ず、木材で誤魔化され、木材店を営むようになりました。はっきりした祖先は、江戸初期までで、それ以前は分かっておりません。
有名な菅原と違う家系かも知れませんが、可能性もあると思います。住友財閥の蘇我理右衛門のご先祖が福井県丸岡町出身である事からも、ちょっと期待しています。
母方の曾祖父が牧野で、牧野もまた蘇我の子孫です。
何か、お分りでしたら教えて頂けますでしょうか? いきなりのコメント失礼しました。

Re: こんばんは

こんばんは

はじめまして。
物凄い家系をお持ちでいらっしゃいますね。
それも、遡れば蘇我氏に行き着くんですね・・・。
一般の日本人は、せいぜい江戸末期までしか先祖のことなど分からないでしょう。
申し訳ないですが、私にはそのあたりの知識はありません。
逆に蘇我氏がどういった経由で前田家になっていったのかをお分かりでしたら、教えていただけたら有難いです。
ただ今ふと思ったんですが、菅原道真を祭った天満宮には牛が祭られてますよね。
あれは私が思うにミトラ教から来ているのでは、と感じているのです。
「蘇我氏は出雲経由の新羅出身、さらに元をたどればペルシャやユダヤが起源なのでは?宗教はマニ教経由のミトラ教が起源なのでは?」と、感じてしまいました。

ご参考にはならんでしょうな(笑)

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