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ソウルマン

出口王仁三郎→日月神示→スウェーデンボルグ→ニューエイジ・フリーメーソン

「天の叡智」日月神示 ミクロの道は悪を抱き参らせてこそ進む
中矢伸一





2009年の書である。
大本教及び日月神示関連、非常に怪しさを感じていたが、以前から気にはなっていたので、本書及び出口王仁三郎に関連する書を読んでみました。これらに関することを記しておきます。まず、大本教、出口王仁三郎、岡本天明について、ウィキより抜粋します。


(大本教)
大本(おおもと)は、1892年(明治25年)、出口なおに降りた国祖・国常立尊の神示を立教の原点とする教派神道系の教団である。俗に「大本教」と呼ばれているが、正確には“教”を付けない。
前記の通り1892年(明治25年)、霊能者出口なおに、「うしとらのこんじん」と名乗る神が憑る。(数年を経て出口王仁三郎の審神者により、この神が国祖国常立尊であると告げられる)。1898年(明治31年)出口なおと出口王仁三郎が出会い、教団組織を作ることになる。王仁三郎は、出口なおの娘婿として養子となった。やがて戦前の日本において、有数の巨大教団へと発展した。
出口なおには、厳霊・国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)による直接内流によって伝えられた。
出口王仁三郎には、主に豊雲野尊、小松林命などの瑞霊系の神懸りによって、神示が直接内流として伝えられていたが、出口なおの昇天後には厳霊の神懸りも加わると共に、主神の神霊も本格的に神懸るようになり、『霊界物語』の口述が開始されることになった。
戦前、政府から二度の弾圧を受け、組織と施設に潰滅的な被害を受けた。

(出口王仁三郎)
出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年旧7月12日) - 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。もう一人の教祖は出口なお(直)(肩書きは「開祖」)。
出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる[1]。強烈な個性と魅力とカリスマを持ち、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた[2]。その一方で実像をとらえることが難しく、奔放な言動により敵対者から多くの非難を浴びる[3]。その評価は現在でも定まっていない[4]。国家神道の権威と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として大日本帝国政府の徹底的な弾圧を受け、王仁三郎も7年近く拘束された[5]。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも、まもなく病により死去した。彼の思想と布教方法は戦後の新興宗教に大きな影響を与えた[6]。
1923年(大正12年)9月の関東大震災では、中国新宗教団体「道院(世界紅卍字会)」(中国版赤十字)が来日して救援活動を行い、同時に王仁三郎と大本に接触した[126]。同種性を感じた王仁三郎は、信者の日野強(退役陸軍大佐・探検家・作家)の影響も受け、大陸への関心を強めていた[127]。1924年(大正13年)2月13日、第一次大本事件による責付出獄中に「神の国を建設して失業問題と食料問題を解決する」という構想により、植芝盛平(合気道創設者)、松村真澄(法学士)、名田音吉(理髪師)を連れて日本を出奔し、関係者を仰天させる[128]。腹心には遺書「錦の土産」の中で『東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり、事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁三十年の夢今や正に醒めんとす』と目的を明かした[129]。2月15日、モンゴル地方に到着すると、盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動する[130]。日本陸軍特務機関が仲介に入り、張作霖から内外蒙古の匪賊討伐委任状を貰い受けた上で義勇軍を編成[131]。ダライ・ラマやスサノオを名乗ると、チンギス・ハーンになぞらえエルサレムを目指して進軍した[132][133]。だが張は、王仁三郎達が全モンゴルの統一と独立を目指していることを知って怒り、討伐軍を派遣した[134]。6月20日、パインタラ(現在の通遼市)にて王仁三郎一行と盧は捕虜となる[135]。盧は処刑され、王仁三郎も銃殺されそうになり、覚悟を決め辞世の歌を詠む(パインタラの法難)[136]。処刑直前に日本領事館(日本軍)の介入で解放され、植芝らと共に帰国することが出来た[137]。入蒙の目的が布教目的だったことは認められたが、治安を乱す恐れがあるとして3年間の在留禁止処分が下った[138]。
1924年(大正13年)7月25日に下関に到着すると逮捕され大阪刑務所におくられるが、3ヶ月で釈放された[139]。彼の冒険談は関東大震災後の鬱屈した人々に快哉をもって迎えられた[140]。1929年(昭和4年)10月、出口すみ(澄)と共に世界紅卍字会の協力を得て朝鮮・満州の布教に努めた[141]。抗日運動が激しさを増していたが、夫妻は熱烈な歓迎を受けたと伝えられる[142]。国内での活動が制限される中、王仁三郎はアジアでの活動を重視して中国の軍閥や日本の右翼頭山満や内田良平と関係を結び、北京に「世界宗教連合会」を設立した[143]。続いて「人類愛善会」を発起、これらの動きは第一大本事件と満蒙での失敗から、実際の権力ではなく思想・信仰における改革への方針転換とされる[144]。特に満州に対しては、世界紅卍字会と提携して積極的に進出した[145]。また中国大陸だけでなく、教団内に「大本開栄社」を設立して、日本の委任統治領となった南洋諸島への布教を行った[146]。アジア、南北アメリカ、ヨーロッパにも進出し、各国の宗教団体・心霊主義団体と連携する[147]。宗教活動が制限されたソビエト連邦にも働きかけを行っている[148]。大本と王仁三郎は民族主義(天皇中心主義・日本至上主義)と世界宗教性の振れ幅が大きく[149]、対応に苦慮した日本政府は警戒を強めていく[150]。
1930年代初頭は満州事変が勃発して中国大陸への軍事進出が本格化、世界大恐慌による大不況、国際連盟の脱退、国内では五・一五事件や右翼団体の蜂起が相次いで発生するなど、不安定な時代だった[151]。大本は1930年(昭和5年)3月8日-5月6日まで京都岡崎公園で開催された大宗教博覧会に参加、大成功を収める[152]。さらに日本全国・沖縄・朝鮮半島・台湾で作品展や講演会、映画上映を行い、大本のイメージ向上に成功した[153]。廃刊になった大正日日新聞にかわり、日刊誌「北国夕刊新聞」(金沢)、「丹州時報(舞鶴)」、「東京毎夕新聞」を買収、人類愛善新聞や街頭演説・講演会で活発に宣伝する[154]。王仁三郎は時代の流れを掴むことに長け、メディアを積極的に利用・活用して成功を収めた破天荒で多才な教祖と言える[155]。
人類愛善会活動やエスペラント運動を通じて満州国を筆頭に海外進出を行う一方、王仁三郎は国民の愛国意識のたかまりを背景に大本の右翼化・愛国化を進める[156]。大本信者を中核とする昭和青年会や昭和坤生会は各地で防空運動を展開し、愛国団体として注目された[157]。1934年(昭和9年)7月22日、王仁三郎は九段会館において精神運動団体「昭和神聖会」を結成し、より大規模な運動に乗り出していった(王仁三郎は統管)[158]。昭和神聖会の発会式には後藤文雄内務大臣、文部大臣、農林大臣、衆議院議長、陸海軍高級将校、大学教授など政財界の指導者層が参加した[159]。この他、石原莞爾や板垣征四郎といった急進派の陸軍将校や久原房之助(政治家)も王仁三郎の信奉者であり、或いは影響を受けている[160]。王仁三郎は大本の指導を日出麿に委任すると、昭和神聖会を指揮するため東京・四谷に移った[161]。農村救済運動を筆頭に、国内外の問題について政府の対応を批判[162]。岡田内閣の打倒さえ訴えたという[163]。さらに「尋仁(世界紅卍字会の檀訓による命名)」と記した制服を着用、東京駅から皇居まで900人を従えて行進を行う[164]。美濃部達吉らが唱えた天皇機関説に対しては「神聖皇道」の観点から厳しい批判を加えた[165]。彼は『わが道は 野火のもえたる 如くなり 風吹くたびにひろがりて行く』と詠った[166]。国家権力を意図的に挑発するような王仁三郎の行動は現代でも解釈が難しく、真意は今もって不明である[167]。逮捕直前、大規模弾圧を予期したかのような指示を周囲に与えた[168]。王仁三郎の肩書きは、大本教主輔、昭和神聖会統管、昭和青年会、昭和坤生会、更始会、明光会、人類愛善会、大日本武道宣揚会、エスペラント普及会、ローマ字普及会、それぞれの総裁であった[169]。
1935年(昭和10年)1月に、昭和神聖会は皇族を主班とする皇族内閣の創設を天皇に直接請願する署名を集める[170]。革命の気運に恐怖した日本政府は王仁三郎と母体である大本を治安維持法によって徹底排除することを意図した[171]。さらに『大本神諭』や『霊界物語』で唱えられた大本の神話・教義が天皇(現人神、天皇制)の権威や正統性を脅かしかねないという宗教的な理由が存在した[172]。同年12月8日、政府は第二次大本事件によって苛烈な攻撃を加えた[173]。唐沢俊樹内務省警保局長は大本を地上から抹殺する方針である事を各方面に指令している[174]。王仁三郎は松江市島根別院で拘束された[175]。夫妻以下幹部達は治安維持法違反と不敬罪で逮捕され、毎日新聞や朝日新聞などの大手マスコミも大本を「邪教」と断定する[176]。裁判前にも関わらず、政府は亀山城址にあった神殿をダイナマイトで爆破し、綾部や地方の施設も全て破壊、財産も安価で処分した[177]。人類愛善会など大本関連団体も解散や活動停止に追い込まれる[178]。出版物も全て発行禁止処分となっている[179]。孤立無援の王仁三郎は「道鏡以来の逆賊」と糾弾されて特別高等警察により拷問めいた取調べを受けたが[180]、裁判では悠然と反論し、時に裁判長を唸らせることもあった[181]。また満州国指導者層は鈴木検事(大本事件担当)が「紅卍会と大本は極めて密接。満州国の大本教勢力は侮りがたい」と報告したように王仁三郎に同情的であり、支援の手をさしのべている[182]。だが王仁三郎の後継者と目された出口日出麿は拷問により廃人同然となり、起訴61名中16名が死亡した[183]。1940年(昭和15年)2月29日の第一審は幹部全員が有罪で、王仁三郎は無期懲役という判決だった[184]。1942年(昭和17年)7月31日の第二審判決では高野綱雄裁判長は判決文の中で「大本は宇宙観・神観・人生観等理路整然たる教義を持つ宗教である」として、重大な意味を持つ治安維持法については全員無罪の判決を言い渡した[185]。不敬罪の懲役5年(最高刑)は残ったものの、6年8ヶ月(2453日)ぶりに71歳で保釈出所となった[186]。不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、1945年(昭和20年)10月17日、敗戦による大赦令で無効になった[187]。1947年(昭和22年)10月に刑法が改正され、不敬罪は消滅した。
保釈後、関係の弁護士たちが国家に対する損害賠償請求の訴訟について打ち合わせると、王仁三郎は言下に「今度の事件は神様の摂理だ。わしはありがたいと思っている。今更過ぎ去ったことをかれこれ言い、当局の不当をならしてみて何になる。賠償を求めて敗戦後の国民の膏血を絞るようなことをしてはならぬ」と述べた。また「大事な神の経綸なのじゃ。この大本は、今度の戦争にぜんぜん関係がなかったという証拠を神がお残し下さったのじゃ。戦争の時には戦争に協力し、平和の時には平和を説くというような矛盾した宗教団体では、世界平和の礎にはならん。しかし、日本が戦争している時に、日本の土地に生まれた者が戦争に強力せぬでは、国家も社会も承知せぬ。それでは世界恒久平和という神の目的がつぶれますから、戦争に協力できぬ処へお引き上げになったのが、今度の大本事件の一番大きな意義だ。これは大事なことだよ」と述べた。この王仁三郎の発言により、国家に対して一切の賠償を求めないことになり、これを伝え聞いた人々が「ほんとうの宗教家ということが始めてわかった」と感嘆したエピソードがある[188]。
平塚らいてうは大本信者の姉を持ち、大本に興味を持っていた[251]。らいてうは教団誌「人類愛善新聞 昭和7年8月上旬号」の寄稿記事で『霊界物語』とエマヌエル・スヴェーデンボリの関係性を指摘し、「出口聖師のあのつかみ所なき大きな人格に私共とて同様に世人も、もっと信頼を置いてよいのではないかと考えてゐる次第で御座います」と述べる[252]。大戦中、らいてうは王仁三郎の予言を信じて東京から疎開、戦後も大本関係者と交流を続けた[253]。

王仁三郎は教典『霊界物語』第64巻で日ユ同祖論を論じ、「王仁はユダヤのことを悪く書いたことはない」「ユダヤは神の選民、日本は天孫民族で直系。ユダヤは三分の一は良いので三分の二は○いので、之がフリーメンソンをやってゐるのである。今の戦いは之がやってゐる。イスラエルの十二の氏族は選ばれたのや。一番いいのが日本へ来てゐるので日本民族や」「ユダヤが暫く世界を統一する。それから○○の番だ」と語る[297]。王仁三郎の日猶同祖論は、後発の日月神示や宇田川豊弘の日本エホバ教団(昭和25年)等に影響を与えた[298]。

仁三郎は鎮魂帰法を広めた霊能力者であるが、病気治療という点では民間療法の域を出ない[371]。その半面、時代に対する予知と警告に関しては突出した力を発揮する[372]。彼は言霊学の権威であり、言霊を利用して度々予言を行った[373]。明治末期 - 大正初期の『いろは歌』『大本神歌』『瑞能神歌』にアメリカ合衆国との総力戦(太平洋戦争)やB-29爆撃機による空襲を示唆する予言がある[374]。大正8年5月の京都日出新聞に京都府警と王仁三郎の応答が公開され、王仁三郎は世界大戦で日本が占領されると述べる[375]。第二次大本事件における裁判(昭和13年8月10-11日)でも、戦争で外国が東京を攻める・東京は空襲を受けてススキノになると証言し、公判記録にも残っている[376]。他に1921年(大正10年)の原敬首相暗殺、関東大震災も予言した[377]。特に関東大震災は、なお(直)の筆先に「東京は焼け野が原になるぞよ」との文章があり、相乗して王仁三郎と大本への熱狂的支持に転化した[378]。1931年(昭和6年)9月8日、「10日後に事件が起こり神界の経綸が実現の緒につく」と述べ9月15日に柳条湖事件が勃発、さらに「西暦1931=皇紀2591はイクサハジメ・ジゴクハジメ」と述べていたため、大きな反響を呼んだ[379]。王仁三郎は日本軍・右翼団体・中国宗教界と親交が深く、事前に情報を得ていた可能性がある[380]。また王仁三郎に超常的な力があると信じた陸軍参謀が、満州支配に王仁三郎の力を利用しようと『文藝春秋』昭和7年1月号で公言したこともある[381]。
王仁三郎は度々警察に拘留されたが、第一次大本事件や蒙古遭難事件では126日間拘束されている[382]。大正10年2月12日に拘束され、蒙古事件後の7月26日に収監されるまで1260日であり、このため大本事件をヨハネの黙示録になぞらえる珍説もある[383]。ただし王仁三郎も霊界物語第36巻余白歌で「千二百六十日の間月汚す六百六十六匹のけもの」と詠い、別の著作でも獣の数字について言及した[384]。1942年8月7日に仮釈放された際、「わたしが出た日から日本の負け始めや」と家族に語った[385]。同日、米軍はガダルカナル島に上陸、ガダルカナル島の戦いが始まる[386]。尋ねてくる者に様々な予言を行った[387]。「昭和暦十八年の元旦は 五十年準備の充てる日にぞある/昭和十八年の年より三千年の いよいよ経綸の幕は上がれり」と詠い、早くから日本の敗戦を予言[388]。「大本は日本の雛型、日本は世界の雛型。日本がやられて武装解除されれば、いずれ世界も武装解除される」と述べる[389]。広島市への原爆投下やソ連軍の満州侵攻、千島列島や台湾の領土喪失も警告[390]、鈴木貫太郎総理大臣について「日本は鈴木野(すすきの)になる」「日本はなごうは鈴(つづ)木貫太郎(かんだろう)」と冗談にした[391]。予言が的中したことに感嘆する者も多かったが、弟子に「ワシは、神さんの予言が中らぬよう中らぬようと努めてきたのやが……」と嘆息している[392]
。本当の火の雨はこれからとも語る[393]。側近によれば、次の大戦は中東が導火線になる宗教戦争と告げ「原爆を投下させない為に死後も活動する」と述べた[394]。王仁三郎の危機的予言は「みろくの世」という理想世界が出現するにあたって起きる大変動(大峠)を比喩したものであり、王仁三郎の活動により、大難(ノアの洪水)のような大災害を、小難(飢饉・病気・戦争)という人類の力が及ぶものに祀り変えて乗り切るという終末と再生観である[395]。
また戦争に関するものだけでなく、携帯電話やリニアモーターカーなど未来技術についても言及している[396]。予言は多くの人を惹きつけたが、同時に詐欺師や邪教という非難の要因ともなった[397]。松本健一は「カリスマを予言者、救世主、超能力者とみるのは、その支配圏内の信者たちである。しかし、その支配圏外にいるものにとっては、かれは山師、大ほら吹き、精神異常者としかみえないのだ。」と論じた[398]。

(岡本天明)
岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は画家、神道家、また、神典研究家である。岡山県倉敷市玉島出身。本名は信之、天明は「雅号」である。
信之は幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり(霊視能力)、聞こえたり(霊聴能力)と霊能力を持っている子供だったという(岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)(参)。また、絵が得意で17歳の頃に神戸三宮で絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本教と出会ったのは1920年(大正9年)で天明が22歳の時だった。
1944年(昭和19年)に千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天之日津久神社を参拝する。その直後、同神社の社務所で大本系の関連啓示となる『日月神示』(別名:『ひふみ神示』、『一二三神示』)を自動書記する。 この自動書記現象は約17年間にわたって続き後に全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられた。なお書かれた文体は漢数字とカナ文字と記号などからなり、書記した天明自身、当初はまったく読めなかったといわれる。その後、仲間の神典研究家や霊能者の協力のもと少しずつ解読が進み天明亡き後も妻の 岡本三典の研究と努力で、一部を除きかなりの巻が解読されたと言われている。一方では日月神示の読み方や解読は8通り有るといわれ、その内の1つ、2つに成功したとの認識が関係者の間では一般的である


以上、引用終了。
要するに、岡本天明が神憑りによって書いたとされる「日月神示」は、大本教と関連しているのである。本書より、気になった箇所を引用する。


「悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。善に向かって働いても、善はビクともせんのぢゃ。ビクつくのは、悪に引き込まれるのは、己に悪あるからぞ。合わせ鏡と申してあろうが。悪の気断ちて下されと申しておろう。心の鏡の凸凹なくなれば、悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。悪あればこそ向上するのであるぞ。悔い改め得て弥栄するのであるぞ」(「白銀の巻」第四帖)
悪は神の働きの一つであって、悪を殺したり、排除したりすることは、神を殺し、神を排除することにつながる。しかし、自分自身は、悪の気を断ち、一切を浄化していくように努力を重ねなければならない。


これは一体どういうことだろうか。「心の鏡の凸凹なくなれば、悪うつらないのざ。」というのは、「心を落ち着けておけば、心に悪は宿らず、善の気持になれる」と、説いているように聞こえる。しかし、「悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。悪あればこそ向上するのであるぞ。悔い改め得て弥栄するのであるぞ」とは何を言わんとしているのだろう。「悪がないと力がない。悪があれば向上する。」というのは、「悪の道へ進まねば、力がつかない。いったんは悪の道に進み、悔い改めることが大事である。つまり、一度は非行に走って力をつけなさい。それから、悔い改めるのが一番である」との教えだろうか。実に、一風変わった教えである。

それから、宗教によくある下記の超常現象的行為を否定している。


1、 病気治しや除霊を主とした奇跡的行為
2、 御利益を与えるというおかげ信仰的行為
3、 予知能力を駆使した予言的行為
4、 守護霊や前世鑑定などの霊視的行為
5、 念の力などを利用した物理的行為
のことである。

1の例を挙げる。

「死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。奇跡を見せ、病気を治してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。それのみで道を説いてはならんぞ。そんなことくらいでマコトのホッコン改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。今までの宗教は滅びると申してあろうが。滅びる宗教に致して下さるなよ」

2の例を挙げる。
「神は人民を根本から、永遠の意味で良くしようと、マコトの喜びを与えようとしているのぢゃ。局部的、瞬間的に見て判らんこと多いぞ。おかげは、すぐにはないと思え。すぐのおかげは下級霊。眉にツバせよ、考えよ」

4の例を挙げる。
「霊眼(れいがん)で見たり霊耳(れいじ)で聞いたりすることは間違い多いぞ。心せよ」
「ウヨウヨしている霊ガカリにまだ、だまされて御座る人民多いのう。何と申したら判るのであるか、奇跡を求めたり、我れ善しのおかげを求めたり、下級な動物のイレモノとなっているから、囚われているから、だまされるのぢゃ。霊媒の行いをよく見ればすぐ判るでないか。早う目覚めよ。因縁とは申しながら可哀想なから、くどう申して聞かせているのであるぞ。マコトの道にかえれよ」


宗教であるのにも係わらず、他宗教の“洗脳トリック”を見事に否定しているのだ。
確かに、医者にサジを投げられた人がその教えで病気が治ったり、予言がズバリ的中したり、霊媒から“神のお告げ”を授かったりすると、コロッとその宗教に傾倒してしまう、というのは理解できる気がする。
御利益というやつも、「賽銭をした者や、えびっさんの笹を買った者にだけ、経済的利益が与えられる」というのも変な話である。神が善なる存在であるのならば、裕福な人間よりも、賽銭をすることもできないような貧しい人を救うのが本当の善なる神ではないだろうか。
こういった御利益の矛盾や、多くの人が“宗教のマジック”に嵌ってしまう事例を悉く否定しているところは私の考えと相通じるところである。
しかし、この日月神示の教えなるものは本当の善なる神の教えなのだろうか?
神憑りも否定しているが、そもそも日月神示の教えなるものも、神憑りが元であったはずである。この書には、「そもそも真の神なる存在が、人間に直接“憑かる”などということは、法則上絶対に起こり得ない。霊媒体質の人が、「自分には偉い神様が憑かられた」と思っていたものは、ほとんどが動物霊である」と、述べられているが、岡本天明に神憑った霊は本当に神なのか?動物霊でないという証明はどこに存在するのか?
さらに、日月神示自体、岡本天明が書いた文体は漢数字とカナ文字と記号などから成り立っているので、このユニークな語調による文面は解読文書となるのである。
本当にここに書かれている通りに書かれていたのだろうか?もちろん、偽りは無いだろうが、人間のすることだから、誤訳もあるかもしれないと思う。
そして、著者はこのように述べている。


この世の究極の存在として、創造神がある。創造神に準ずるものとして、大神がある。大神の次には神が来る。神の次に神霊が、続いて霊が、そして最後に人である。
・・・・・(中略)・・・・・
神霊とは、天人や天使たちを含む高級神霊たちを言う。われわれからすれば、まさに神様と呼んでも差し支えないくらいの、尊い方々である。
世に数多(あまた)はびこる霊能者のなかで、神との交流がはかれる人は、ほとんど皆無に等しい。もし万に一つでも本当に神との交流が出来るという人がいるとしても、それは神の御意志を、高級神霊が媒介役として働かれて、その人に伝達しているのである。これは、日月神示を降ろした岡本天明の場合でも同様である(日月神示を伝達した神霊は、日天使(にってんし)・若姫君命(わかひめぎみのみこと)と言われている)。
・・・・・(中略)・・・・・
神の上には、大神の坐します領域がある。いわゆる国常立大神(くにとこたちのおおかみ)や天照大神、素盞嗚尊(すさのおのみこと)といった、本体の大神様の住む段階である。
こうした大神から神、神霊を通じて現界にまで意志の伝達が起こる際、人間界に伝達の労をはかるのは神霊であるが、この場合の神霊は大神と同一となるために、国常立尊(くにとこたちのみこと)の直言と言っても誤りではない、ということになる。
・・・・・(中略)・・・・・
「神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人のもつそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである」


以上、引用終了。
なるほど、日月神示を伝達した神霊は、日天使(にってんし)・若姫君命(わかひめぎみのみこと)だとのことである。そして、最高神である大神は国常立大神(くにとこたちのおおかみ)や天照大神、素盞嗚尊(すさのおのみこと)であると述べている。
これについても異議がある。
以前、日本書紀に記されている素盞嗚尊(すさのおのみこと)は乱暴狼藉を働く悪役のように扱われている一方、天照大神は善良な神のように扱われていることに時の権力者の歴史操作があるといった関裕二氏の書を紹介したが、そのことに触れていない。さらに、関氏は、天照大神は女性神ではなく男性神であるということ主張しているが、同じく、こういったことに全く触れていない。
「神霊は大神と同一となるために、国常立尊(くにとこたちのみこと)の直言と言っても誤りではない」というのなら、この三神を大神であり、最高神であると語るというのであれば、最高神なるものが、こういった歴史の真実を偽った教えを伝えるわけがないだろう。
この日月神示を伝達した神霊なるものの正体に疑問を持たざるを得ない。

さらに疑問に感じたのは、スウェーデンボルグに関する引用が頻繁に出てくるところである。
なんと、スウェーデンボルグの教えと日月神示の教えが非常に似通っていることを、ことさらに強調している箇所が多数記されているのである。
その例の一部を引用する。


霊界には、地上界のような時間・空間の概念が無いという。
・・・・・(中略)・・・・・
この霊界の時空論も、スウェーデンボルグと日月神示が、共通して説いていることである。

スウェーデンボルグは、霊界における時間・空間について多くのことを述べているが、その意味するところは、日月神示と寸分違うところはない。それは、次に挙げるような、日月神示に示された記述をみるだけでも明らかである。
「霊神に空間はない。それは、その内にある情動によって定まるが故である。また、その理によって一定せる方位もない。また、時間もなく、ただ情動の変化があるのみである」(「地震の巻」第一帖)
・・・・・(中略)・・・・・
スウェーデンボルグはこのことを、より明確に語っている。
・・・・・(中略)・・・・・
「霊界では、人は他の者に会いたいと切にのぞみさえするなら、その者の前に現れるのである。なぜなら彼はその者に会いたいと切望することによって、その者を思いのなかで見、その者の状態に自分自身を置くからであるが、反対に他の者に反感を抱くなら、その者から遠ざかってしまうのである」(1949)


以上、引用終了。
ここに記したのは、ほんの一例であって、いかにスウェーデンボルグと日月神示の共通点を「これこそ、死後の世界の真実である」と言わんばかりに繰り返し、多数の事例を挙げているのである。はたして、このスウェーデンボルグとは一体どういった人物なのだろう。
ウィキより見てみる。


エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)はスウェーデン王国出身の科学者・神学者・神秘主義思想家。スヱデンボルグとも。しかし多くはスウェーデンボルグと表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。
父イェスペル・スヴェードバリ(Jesper Swedberg)は、ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した人物である。その次男としてストックホルムで生まれる。11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなど頻繁にでかける。
1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。神秘主義者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。
スヴェーデンボリが生前公開しなかった『霊界日記』において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり[1]、ダビデを「ドラゴン」と呼び彼も地獄に堕ちているとしたり[2]、同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張した。
スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を1757年に目撃した、と主張した。然し現実世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため、「安直である」と彼を批判する声もある。
スウェーデンボリによる霊界の描写は、現代人に起こる臨死体験と共通点が多いとされる。両者に共通する点は、広大なトンネルを抜ける体験や光体験、人生回顧や時空を超えた領域を訪れる体験などである。
また、ヘレン・ケラーは「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」と発言し、他に影響を受けた著名人としては、ゲーテ、オノレ・ド・バルザック、フョードル・ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドガー・アラン・ポー、ストリントベリ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスなど挙げられ、特にバルザックは、その母親ともに熱心なスヴェーデンボリ神学の読者であった。
ニューエイジ運動関係者、神道系の信者ら[7]の中にある程度の支持者層があり、その経典中で言及されることも多く、キリスト教関係者では、内村鑑三もスヴェーデンボリの著作物を読んでいる。
一方で、東京神学校助教授・牧師の尾形守は、『ニューエイジムーブメントの危険』の中で、キリスト教的には異端、思想的にはニューエイジムーブメントのはしりとしてスヴェーデンボリの千里眼事件を批判的に紹介し[8]、「霊だからといって、みな信じてはいけません、それが神からのものかどうか試しなさい」(Ⅰヨハネ4‐1)、「あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。」(レビ記19・31)等、新約聖書の字句を引用して、こうした傾向全体をキリスト教的には不健全で危険な発想と評し、悪霊による影響の可能性を指摘している。[9]
また、米国の福音派キリスト教弁護団体であるCARMは、スヴェーデンボリを危険な非キリスト教的神秘主義であると評し、その特徴として、三位一体やキリスト教で言う聖霊の働き、キリストの十字架の贖罪の否定を挙げている。[10]
なお、思想体系としての現代への影響を見るなら、このスヴェーデンボリとメスメルの思想を背景として、19世紀にはスピリチュアル思想が起こり、これはブラヴァツキー夫人の霊媒論や神智学と相互に影響を授受し合いながら、現代のさまざまなオカルトや新しい宗教の源泉となった。[11]また、フリーメーソンリーの友愛組合の一つとして、スウェーデンボルグ儀礼が存在する。これはスヴェーデンボリの教えを基に設立された、とされており、その組織は徒弟、職工仲間、新しい親方、光輝な神智論者、青の兄弟、赤の兄弟、の計6つの位階からなる。[17] (なお、現代のジェネラルチャーチにおいても、最高聖職者(第三位階)は赤のストールを身に着け、次点の者(第二位階)は青のストールを、それに次ぐ司祭(第一位階)は白のストールを身に着ける。[18])
1773年、マーカス・デ・ソーンによってアヴィニョンに設立され、当初は当時のフリーメーソンリーの悪評に対する権利を主張する目的を持った政治色のある組織であったが[19]、最初の10年のうちに廃れてしまった。
1870年になるとこの儀礼はヘルメス主義組織として復活したが、1908年頃には次第に衰退をしていった。[20] が、1982年にこの儀礼の免状は、大英博物館の居室において、英国メーソンのデズモンド・バークによって、メーソンの作家であるミカエル・モラマルコに伝達され、彼はそれをアンティコ・リコ・ノアチタというイタリア儀礼の伝統の復古したような形に再編集した。
またスウェーデンにおいても、スヴェーデンボリの思想は、セーデルマンランド男爵に大きな影響を与え、彼は現地のフリーメーソンリー(Svenska Frimurare Orden)のグランドマスターとして、独自の位階制度を作り、その儀典を執筆した。



以上、引用終了。
はい!皆さん、理解できましたでしょうか。スウェーデンボルグなるものは、ニューエイジ思想の源流といってもいい存在であり、スピリチュアル思想なるものもここから発生しているのです。そして、あのブラヴァッキー夫人、神智学、アレイスター・クローリーにも影響を与えているのです。明らかな偽キリスト教徒であり、完全なるイルミナティ、フリーメーソンなのです。
そういった人間の思想と類似していることを、これ程までに強調する日月神示なるものは何者なのでしょうか?
後は、皆さん、好き勝手に判断して下さい。創価学会やオウムや統一教の信者に、いくら説明しても、信じ込んでいる神なり教祖なり信条は絶対的なものであり、洗脳から離れることは至難の業だと思います。
出口王仁三郎は、戦争や原爆投下のことを予言していたとのことだが、「彼ら」のお仲間の一員であり、ヨハンセングループや白洲次郎のように、事前に「彼ら」の行動計画を教えてもらっていたと考えたら、真相が理解できるのではないでしょうか。
デヴィッド・アイクは言ってます。「宗教と科学はイルミナティの二大洗脳手段である」と。
最後に、ご丁寧にも神棚購入のアドバイスをしてくれている箇所があったので、引用しておきます(笑)
一番、役に立つ箇所かもしれませんヨ(笑)


神棚は、仏壇と比較しても手頃な値段で手に入る。大型スーパーでも売られているが、細かく見ると粗雑な作りをしていることが多く、神具・仏具の専門店での購入をおすすめしたい。伊勢神宮などへ行くと立派な神棚も売られている。



評点:10点

ソウルマン
Posted byソウルマン

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城之内早奈子

梅が咲き始めましたね

はじめまして。もう早いもので梅が咲き始めましたね桜が満開になる日が待ち遠しいですね。大本教がある程度の教義らしきものを備える事ができたのはひとえに出口王仁三郎の創作による腕前のお陰でしょうね。出口なおさん一人だったら大本教は出来なかったと思いますよ。教団では神意を伝えるものが「お筆先」であるとし出口なおさんの最初の筆先があったのは明治25年ですね。しかし大正8年の京都府警の調査報告書によると警察が捜査した際その現物が出てこなかったのです。その点を出口王仁三郎さんに尋問すると 「筆先の原稿を作る時に年月日と組立を出口なおに尋ねながら書いたのであるから誌上の稿になった物と同じお筆先は実際にはありません」と答えてます。つまり大本教団の根本教典である『大本神諭』は神の言葉でも何でもない出口王仁三郎さんの創作によって出来た物だったのです。騙されないで下さいね。また大本教では「たとえ肉体が滅んでも霊魂は不滅であり霊魂は死後も意志・感情・知性を備えて霊的働きをする存在である」 と言ってますがこれはまさに外道の迷妄ですよ。仏教ではこうした思想を「常見(じょうけ ん)」と言い霊魂や霊界といった存在を否定します。仏教では一切の生命・生物の死後の生命は法界(ほうかい)に冥伏(みょうぶ く)し過去世(前世)の業因(ごういん)によって縁に触れてそれぞれの運命・境遇に生まれてくると説いています。 大本教や世間で言う「霊魂不滅論」などはこの因縁の大原理によって変相流転(へんそうるてん)する生命の一面をわずかに垣間見たものに過ぎません。 その一面をもって「これが真実である」とするならば仏教から見れば低劣な教理でありいい加減で詐欺紛いなのですよ。それに出口王仁三郎さんは「胎教の必要性」について警察に問われた時に 「必要やとも。妊娠したらすぐに妊婦の部屋は綺麗にして綺麗な絵をかけておくと綺麗な子ができる。妊娠中に妊婦が火事を見ると本当に子供にア ザができる」 と答えています。だが実際にはそうなりません。物事というのは全て原因があって結果があるという因果応報が当たり前の道理です。それなのにこの出口王仁三郎さんの因果応報を無視したデタラメないい加減な発言は困りますね。このような俗人を聖師と呼び救世主神・ みろく様とするのが大本教ですよ。このような詐欺で可笑しい大本教を信じても誰一人として救われませんよ。それに神がかりは精神分裂と同じなのです。新興宗教に多く見られる神がかり信仰ですがこの「神がかり」というのは何だと思いますか?精神医学ではこの神がかりというものを「憑依妄想 (ひょういもうそう)」と言い、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」と言ってます。もし皆さんの家族がこのような状態になって「私は神のお告げを受けた」などと言い出したらどうしますか?普通は「早く病院に連れて行かなきゃ!」と大騒ぎするでしょう。それを「神のお告げを受けたとは何と素晴らし いわ」と信じる方がどうかしてます。出口なおさんが最初に神がかった時に彼女を座敷牢に閉じ込めた親族の行動も当然の対応です。このような精神錯乱や精神分裂の妄想が出発となってる大本教では救われませんよ あなたがもし大本教を信じてるならば大本教を辞めて近くの日蓮正宗の寺へ行き住職を訪ねて正しい信心を始めて下さいね。お待ちしてます。

2016/03/04 (Fri) 18:09