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ソウルマン

憲法を変えようとしている勢力は、あの戦争の演出に一役買った役者の末裔である「現代の役者」であり、“悪魔の僕”であることをお忘れなく!

「持丸長者[国家狂乱篇]~日本を動かした怪物たち」④(最終回) 広瀬隆


前回に続く。以下、一部引用する。



*さきほど、日本が最も危険な道を歩んだ時代に、軍需産業に融資をおこなった興銀総裁・河上弘一を紹介した。出自は、山口県の岩国藩士・河上又三郎の孫にあたる。又三郎のもう一人の孫が、日本におけるマルクス主義経済理論の先駆的な指導者であった。満州事変の翌年に共産党に入党し、1933年には治安維持法で検挙され、懲役5年の刑で投獄された文学者の河上肇(はじめ)である。興銀総裁と共産主義者は、従兄弟であった

*南京を攻略した翌年、1938年1月15日の大本営連絡会議で中国との和平交渉が議題になるが、近衛文麿首相・広田弘毅外相・杉山元陸相・米内光政海相が和平に反対し、翌日、近衛が「以後蒋介石を交渉相手としない」旨を宣言して大戦争に突入した。ほどなく4月1日に近衛内閣が打ち出したのが、「国家総動員法」であった。続いて2年後の1940年10月12日に、やはり近衛文麿によって生み出されたのが、図12で「国家総動員法」から新体制運動を経て生み出された「大政翼賛会」である。このつながりが最も固い結び目であり、この二つが、全体主義を支える二本の屋台骨となった。
国家総動員法の言葉から受ける印象は、国民が根こそぎ戦地に動員される徴兵制のように聞こえるが、これは戦場への動員ではない。軍需産業の工場への動員であった。兵器・弾薬や船舶・航空機の製造はもとより、食糧から医薬品、鉄道・車輌・土木建築・燃料・電力まで、「国民は言われた通りに工場でよく働け」と命ずる条項が連綿と書かれていた。よくこれだけ産業をくわしく規定したものだと思われるほど細かく定めてあり、知恵の足りない軍人がつくったものではない。この法に付随して、膨大な数の関連法が作成された。
明らかに、農商務省叩き上げの商工大臣・吉野信次が立案・作成し、信濃毎日新聞主筆として左翼労働運動を支援してきた近衛内閣書記官長・風見章たち新体制官僚が手を入れたと思われる内容である。茨城県土浦出の風見は、このあと近衛の右腕となって大政翼賛会を生み出し、総務に就任するが、戦後は日本社会党左派に入党し、原水禁運動の主導者となる。右翼軍部だけが全体主義をつくったのではない。左翼の頭脳がそこに参加したのだ。
吉野信次は前章に述べた大正デモクラシー指導者・吉野作造の弟、つまり鮎川義介の右腕となって満州重工業開発副総裁をつとめる人物で、商工大臣就任の前年、1936年に東北興業の総裁に就任して、日本の東北地方の産業振興の旗振り役をつとめた。この国策会社・東北興業は、ちょうど同じ年から本格化した満蒙開拓団を組織するため、満州移民の陰の先導機関の役割を果たしたと考えられる。

*国家総動員法に対して、1940年10月12日に発足した大政翼賛会は、実質的に一国一党をめざして既成政党をすべて消滅させ、道府県の支部、市区町村の支部、町内会、隣組を置いて、国民的な精神運動を広げようと企んだ組織活動である。手法の点では、ナチスが一党独裁を成し遂げるのに、青年や少年までグループをつくらせた組織化をそのまま踏襲したものであった
・・・・・(中略)・・・・・
大政翼賛会の総裁は、初代の近衛文麿以下、東条英機、小磯国昭、鈴木貫太郎の歴代総理大臣がつとめた。
大政翼賛の、大政とは天下の政(まつりごと)、翼賛とはツバサのように力を添えて助けること。一体誰の政治を助けるかと言えば、この一カ月後、1940年11月10日の神武天皇即位2600年記念行事と連動していた。その日、日本全国ばかりか、中国の北京、朝鮮の京城、台湾の台北などアジア侵略地の至るところで、「紀元2600年奉祝会祝賀行事」が奉祝会会長・近衛文麿によって開催された。

*近衛文麿がおこなおうとしたことは、第一に、資本主義と議会主義を破壊し第二に、左翼的な共産主義を手段として全体主義国家をつくり、第三に、軍事力によって欧米のアジア進出を排除せよと主張して軍部・国民の喝采を浴び、第四に、天皇が全世界を統治する国家をめざす愛国右翼思想を広めようとしたことである。一体、近衛文麿の頭はどのような細胞で、できていたのであろうか。
近衛文麿と取り巻き官僚、大政翼賛会の全議員および軍部が進めたことは、明白な私有財産制度の否定であった。当時の治安維持法では、私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したる者は、懲役刑に処すと定めていたのだから、特高警察はこの全員を豚箱にほうりこまなければならなかったのである。事実、1941~43年にかけて、企画院と満鉄調査部の関係者が大量に「左翼分子」として検挙される企画院事件と調査部事件が起こっているが、まず最初に総理大臣を逮捕するべきであっただろう






(管理人)
興銀総裁(河上弘一)と共産主義者(河上肇)は、従兄弟であった。
「この事実は、決して「偶然」ではない」と、私は感じる。
まさに「右も左も根は同じ」である。
河上 肇をウィキで見てみる。



河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者である。京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン32年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー『貧乏物語』の他に、『第二貧乏物語』『資本論入門』の著作がある。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。福田徳三とは終生のライバルであった。
山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれる。祖母に溺愛され、わがままに育ったという。山口尋常中学校卒業ののち、1898年に山口高等学校法科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学。その時、故郷では見ることの出来なかった東京の貧富の差に大変なショックを受ける。その後、キリスト教者内村鑑三に大きな影響を受け、また足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『東京毎日新聞』に「特志な大学生」であると報ぜられた。1902年(明治35年)大学を卒業。その後国家学会雑誌に投稿するようになり、人々の幸福に経済学をもって貢献しよう、と考えるようになる。1903年(明治36年)東京帝国大学農科大学実科講師に就任。その後専修学校、台湾協会専門学校、学習院などの講師を兼任し、読売新聞に経済記事を執筆。1905年(明治38年)、教職を辞し、無我愛を主張する伊藤証信の「無我苑」の生活に入るが、間もなく脱退し、読売新聞社に入る





「日本共産党の党員となった」こと、「『資本論』やコミンテルン32年テーゼの翻訳をした」こと、「キリスト教者内村鑑三に大きな影響を受けた」こと、「読売新聞社に入社した」こと、これらも「偶然」とはとても思えない。
ひょっとしたら当の本人は気づいていなかったかもしれないが、すべては仕組まれていたのだろう。
「彼ら」は同じ家系から「右のエージェント」と「左のエージェント」を育成し、戦争を演出したのだろう。
戦争を演出するには「右のエージェント」だけでは不可能であるのだ。

河上 肇以外の「左のエージェント」の一人が近衛文麿であった。
ただし、近衛文麿の場合は「限りなく右に近い左のエージェント」ではあったが。
「国家総動員法」と「大政翼賛会」という全体主義を支える二本の屋台骨の創設に深く関わったのが、「左のエージェント」である近衛文麿であった。
ただ私が言いたいのは、「近衛文麿はあくまでも役者の一人であって、近衛を操っていた黒幕は別にいた」ということだ。
近衛文麿はA級戦犯扱いとなって服毒自殺したことになっているが、「知りすぎていた男」として闇に葬られたのかもしれない。
何を知りすぎていたかって?

あの戦争が八百長であったことに決まっているでしょう。

「「大政翼賛会」の手法がナチスが一党独裁を成し遂げるのに、青年や少年までグループをつくらせた組織化をそのまま踏襲したものであった」とのことだが、これは一つの証明となる。
何の証明かって?

ナチスのファシズムも、日本のファシズムも、同じ勢力によってハンドリングされたものだってことの証明です。

その勢力が何者であるかということは、説明不要ですよね。

これまで何度も書いてきましたが、戦争というものは、ある勢力の演出によって起こされる「さる芝居」なんですよ。
その「さる芝居」を成就させるために、細かい演出が設定されているのです。
その一つが「ファシズムと自由主義の対立」であり、
「共産主義と民主主義の対立」であり、
「宗教対立」であり、
「テロとの戦い」であるのだ。

「さる芝居」を成就させるためには、様々な配役が必要となる。
役者の一人がヒトラーであり、スターリンであり、チャーチルであり、ルーズヴェルトであり、孫文であり、毛沢東であり、河上弘一であり、河上肇であり、岸信介であり、鮎川義介であり、吉田茂であり、白洲次郎であり、近衛文麿であったのだ。

「さる芝居」は現在も続いており、汚れた役者は途切れることがない。
役者の一人がゴルバチョフであり、ブッシュであり、ビン・ラディンであり、オバマであり、トランプであり、習近平であり、北のカリアゲ君であり、安倍であり、アホウであり、ハシシタなのだ。

配役名を挙げるときりがないのでこれぐらいにしておく。
著者は「あの戦争の真相」を正しく理解されていないようだが(書けないだけなのかもしれないが)、本書には「あの戦争の真相」を暴くヒントが膨大に散りばめられていた。
私がここで引用した文章は本書の膨大な情報のほんの一部であるため、詳細はご自身の目で確認されることをお勧めします。
本書が発売された当時は、「あの戦争の真相」を理解していなかったためこれらのヒントを見すごしていたが、今では十分に理解できるようになった。

ところで、開戦直前の1940年当時、「紀元2600年奉祝会祝賀行事」が大々的に行われていたとのことである。

「“皇室万歳番組で溢れかえっている”令和元年の今の時代と似通っている」と感じるのは、私だけだろうか?

祝賀ムードもいいが、その背後に良からぬ企みが存在していないかどうか、我々は細心の注意を払うべきだろう。

これが「歴史に学ぶ」ということである。

憲法を変えようとしている勢力は、あの戦争の演出に一役買った役者の末裔である「現代の役者」であり、“悪魔の僕”であることをお忘れなく!




評点:90点







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