「あの戦争は、「彼ら」の傀儡である日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミが「彼ら」の指示に従って演出した「さる芝居」であった」by ソウルマン - 広瀬隆
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「あの戦争は、「彼ら」の傀儡である日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミが「彼ら」の指示に従って演出した「さる芝居」であった」by ソウルマン

「持丸長者[国家狂乱篇]~日本を動かした怪物たち」③ 広瀬隆


前回に続く。以下、一部引用する。


*初代満鉄総裁・後藤新平から、敗戦を迎えて悲惨な戦後処理を任された最後の17代目満鉄総裁・山本元幹(もとき)まで、どのような人間が満鉄総裁をつとめたか。
・・・・・(中略)・・・・・
満鉄創立者・児玉源太郎、三井家、住友家、岩崎家(三菱)はもとより、膨大な数の持丸長者と、藤田伝三郎、松形正義、広田弘穀、三井の大番頭・中上川(なかみがわ)彦次郎~池田成彬たち、財閥と政府の代表者が顔を出す。つまりは財閥の広げた巨大な人脈によって、満鉄が間接的に運営されていたのだ。

*張作霖爆殺をそそのかした黒幕が、田中義一内閣の事実上の外相だった外務政務次官の森恪(つとむ)であった。この男が、「満州の利権者は日本である」と主張して、積極的に軍事介入を推し進めたことはよく知られている。森恪は、ただの政治家ではない。父が山本条太郎と親しかったため三井物産に入社し、条太郎の部下となった森が、上海支店から北京南東の天津支店長となった。当時の天津は、世界の列強が中国進出の最大の拠点として治外法権の租界(外国人居留地)を構え、大いに栄えた都市であった。そこで力を蓄えた森は、満州の撫順炭鉱近くの塔連炭鉱に鉱業権を得て、次々と事業を興してかなりの事業家となり、三井党と呼ばれる政友会に入党して政界に進出していった。ここで政党に莫大な献金をして衆議院議員に当選したが、汚れた金を正解にばらまいて出世したことが発覚し、議会で満鉄事件と呼ばれる疑獄で厳しく追及を受けた一人である。
森の妻・栄枝が、住友商事創立者で住友総本店理事という財閥代表者の山下芳太郎(よしたろう)の妻、千代の妹だったばかりか、この姉妹は、3代目三井の大番頭・益田孝の妹・益田繁子の娘でもあった。彼の出世がこの二大財閥の最高幹部とまったく無縁であるはずがない。つまり森が主張した「満州の利権者は日本である」を言い換えれば、「満州の利権者は日本の財閥である」と主張し、それによって日本軍による満州支配の国策が内密に定められた。やがてこの思想が軍部に結実して、張作霖爆殺事件が起こされたわけである。山本条太郎は、かつての部下に裏切られたのである。
張作霖爆殺の首謀者である河本大作も、妻が東洋紡績社長の長者と、薩摩が生んだ鉱山王・五代友厚に連なる一族であり、このあと満州事変を拡大する関東軍司令官・本庄繁がその河本大作と一族であった。当時中心となった人物の誰を調べても、こうした係累がすぐに発見される。

*かつて製紙業界では、大川平三郎の樺太工業と、藤原銀次郎の王子製紙が熾烈な戦いを演じたが、その時、日本興業銀行総裁・結城豊太郎と、三井財閥の大番頭・池田成彬が介入して、両者の合併を勧めた。
・・・・・(中略)・・・・・
藤原銀次郎はその後、1943年11月から翌年7月まで東条内閣の国務大臣をつとめ、東条退陣後、引き続いて小磯国昭内閣の軍需大臣をつとめた。死者3万人余りを出したインド北東部でのインパール作戦、戦死者2万8千人余りのサイパン島玉砕、戦死者47万5千人を出したフィリピン戦は、いずれも藤原が閣僚時代に起こった悲劇であった。このように藤原は、実業家の顔と、政治家の顔を持っていた。そして三井の大番頭・中上川(なかみがわ)彦次郎の遠戚であった。
池田成彬の場合は、早くから三井の大番頭・中上川(なかみがわ)彦次郎の女婿(むすめむこ)という強力な家族関係があった。その上で、池田は三井銀行の事実上のトップとして、この最大財閥の産業を動かし、昭和2年恐慌のなかで鈴木商店つぶしに成功した。なおまた彼は、三井を退任後、公的な職務権限では、日銀総裁として、あるいは大蔵大臣として、政府資金を自由に動かすことができた。そうして結果的には、第一の自分の人生を満たしたわけである。
この池田の複雑な役回りは、日中戦争において、露骨に認められた。1937年7月7日の盧溝橋事件によって、日本と中国が全面的な戦争に突入したとき、日本が植民地として支配していた満州の金融を動かす日本興業銀行(興銀)の役割は、きわめて重かった。興銀が巨額の資金を調達して、急いで軍需産業にまわさなければ、満州国を出て中国全土を徘徊する関東軍の軍人たちは、兵器を手にできなかったからである。
・・・・・(中略)・・・・・
池田成彬は、実はこの年の2月9日に日銀総裁に就任して、こうした事態を予測して軍需産業への金融に積極的な政策を打ち出していた。そこで、7月7日に盧溝橋事件が発生すると、ただちに公定歩合を引き下げ、社債担保ないし社債前貸手形担保手形割引制度を実施した。名称を聞いても、金融機関につとめない人間にとっては意味不明の制度だが、要するに金利を引き下げ、しかも借金の手形を振り出す担保の範囲を広げて、金を借りやすくしたのである。そのため興銀は、11月までに1億2千2百万円という巨額の資金を手にすることができた。結果、興銀に資金を求めた軍需会社が、その融資を受けられ、軍需産業の工場が活況を呈した。
・・・・・(中略)・・・・・
そのとき池田は三井の大番頭として、先に述べたような慈善事業を装いながら後年の軍部クーデター、2.26事件の首謀者として処刑される北一輝を通じて、右翼に多額の献金をしていた。その手引きをしたのは、三井財閥首脳だった有賀長文(ながふみ)とされている。
・・・・・(中略)・・・・・
その池田が三井を退任して日銀総裁に就任したのは、大蔵大臣・結城豊太郎の要請によるものであった。もと日銀の大阪支店長だった結城豊太郎は、高橋是清と井上準之助の推挙によって安田財閥の番頭にのし上がった人物であり、しかも大臣就任前に結城は、1930年から日中戦争開始の年、1937年2月2日まで、軍需産業の資金源である興銀の総裁であった。

*興銀の融資先は、中島飛行機を筆頭に、もっぱら新興財閥に対して重点的に向けられていた。五大新興財閥と呼ばれてきた日産・日窒・森・日曹・理研に、ここでは、中島飛行機と石原産業を併せて、新興財閥として合算してある。これら7社は、軍需産業に特化していたと同時に、植民地を荒らしまわった最大の集団であった。
興銀総裁・結城豊太郎が国策にしたがって軍需産業に対する融資を強めた時代に、ちょうどこれらの新興コンツェルンが次々と形成されたため、両者の結びつきは、親子のように強固であった。
・・・・・(中略)・・・・・
ここで日銀総裁・池田成彬が興銀に有利な制度をもうけたことは先に述べた。続いて、池田に代って結城が日銀総裁となり、時の第一次近衛文麿内閣の大蔵大臣・賀屋興宣(かやおきのり)のもとで、9月10日に臨時資金調整法が公布され、日中戦争(条文では支那事変)のため、すべての金融機関の資金の貸出と、事業者の資金の借入は主務大臣の認可を受けなければならない、と定め、月末までにこれを施行した。その一方でこの法は、第6条に、興銀はそれまでの興銀法の制限を超えて債権を発行でき、政府はその興銀発行債券の元本の償還と利息の支払いを保証するとし、第9条に「時局に緊要なる事業(戦争)」を優遇することを謳った。要するに、興銀による軍需産業への融資を最優先すると法で定めたのである。
これによって、「政府=軍部」が銀行資金の融資先を支配する戦時金融統制の基礎が築かれ、これが、『興銀史』に出てくる命令融資の母体となったのである。こうして資金の裏付けを得た軍部と軍需産業は、日本軍が中国戦線への増派を次々と決定し、無謀きわまる日中戦争の拡大へと、駒を進めていった。





(管理人)
ここで紹介された主要な人物をウィキで見てみる。



森恪(つとむ)

森 恪(もり かく、1882年(明治16年)2月28日 - 1932年(昭和7年)12月11日)は、昭和戦前期の日本の政治家、衆議院議員。名の「恪」を「かく」と読むのは有職読みで、本来の読みは「つとむ」。
「東洋のセシル・ローズ」を自認した帝国主義者。軍部と提携し、日本の中国侵出に大きな役割を果たした。
父と旧知の仲であった三井物産上海支店長で、後年、立憲政友会幹事長、南満州鉄道総裁を歴任する山本条太郎の縁故で、同支店支那修業生として中国に渡る。上海支店社員時代に中国語(北京語、広東語)、英語に通じたほか、日露戦争では、東シナ海洋上を接近するバルチック艦隊の航跡をいち早く発見、打電して、日本海海戦の勝利に民間から貢献した。また、辛亥革命では孫文に対し革命資金の斡旋を行った。三井物産天津支店長を経て、1916年(大正5年)に上仲尚明と共に塔連炭砿鉱業権を得ると、翌1917年(大正6年)より東洋炭砿、小田原紡績、東洋藍業、東洋製鉄など次々と事業を興して事業家となった。
1918年(大正7年)に政友会に入党して政界に進出、党に多額の献金(推定5万円)をする。1920年(大正9年)に三井物産を退社し、政友会公認で神奈川県第7区(足柄上郡・足柄下郡)から第14回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。選挙に多額の資金をつぎ込み、金の出所をめぐり「満鉄事件」といわれる疑獄事件に発展している。この疑惑がたたり、次の第15回衆議院議員総選挙では落選する。
田中義一首相が外務大臣を兼摂(兼任)したため、森は政務次官ながら事実上の外相として辣腕を振るう。田中政権下で対中国強硬外交を強力に推進し、山東出兵、東方会議開催などに奔走した。また、満蒙を中国本土から分離することを目論み、張作霖爆殺事件にも関係を取りざたされた。
1932年(昭和7年)5月15日の五・一五事件では、会心の笑みを漏らした様子が語られている。同年7月に発病。12月11日、持病の喘息に肺炎を併発し、滞在先の鎌倉海浜ホテルにて十河信二と鳩山一郎・薫夫妻に看取られ死去。享年50。



河本大作

河本 大作(こうもと だいさく、1883年(明治16年)1月24日 - 1955年(昭和30年)8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の計画立案者として言われ知られているが、極東国際軍事裁判や南京軍事法廷で事件の証人として呼ばれた事も尋問された事も無い。
1928年(昭和3年)6月4日、蒋介石の北伐の圧迫を受け北京から満州に帰還する途上にあった張作霖は、奉天近郊の南満州鉄道線路上で殺害された(張作霖爆殺事件)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の犯行の可能性も指摘され満州某重大事件と呼称されていたが、その後の調査で関東軍高級参謀の河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉及び朝鮮軍から分遣されていた桐原貞寿工兵中尉らを使用して実行したと判明した。
事件当初から関東軍の関与は噂されており、奉天総領事から外相宛の報告では、現地の日本人記者の中に関東軍の仕業であると考えるものも多かったと記されている。河本自身は、事件の数ヶ月前に東京の知人宛に送った手紙において、「張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し支えないじゃないか。今度という今度はぜひやるよ。……僕は唯唯満蒙に血の雨を降らすことのみが希望」と書き記している。関東軍司令官の村岡長太郎は支那駐屯軍に張作霖を抹殺させる工作を行うよう竹下義晴中佐に内命を下していたが、河本はこれを押しとどめ自身の計画を実行した。
この事件の処理を巡って、当時首相の田中義一は当初日本軍が関与した可能性があり事実ならは厳正に対処すると昭和天皇に報告したが後の報告では隠蔽を図ったため、昭和天皇の怒りを買い、内閣の総辞職につなかった。河本は軍法会議にかけられることはなく1929年(昭和4年)4月に予備役に編入されるという人事上の軽い処置に留まり、事件はもみ消された。この処置に対して、松井石根陸軍大将は反対し最後まで首謀者である河本の厳罰を要求し続けた。
なお、ロシア人歴史作家のドミトリー・プロホロフは、張作霖爆殺事件は河本が首謀ではなく、GRUが首謀したものと主張している。
1955年(昭和30年)8月25日、河本は収容所にて病死した



藤原銀次郎

藤原 銀次郎(ふじわら ぎんじろう/ふじはら ぎんじろう)、明治2年6月17日(1869年7月25日) - 昭和35年(1960年)3月17日)は、日本の実業家、政治家。東京府平民。
戦前の三井財閥の中心人物の一人で、富岡製糸場支配人から王子製紙(初代)の社長を務め「製紙王」といわれた。その後貴族院議員に勅選され、貴族院廃止まで在任。米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任した。
1895年(明治28年)、同郷で慶應義塾の先輩に当たる鈴木梅四郎に勧められて三井銀行に入社する。同期には後に蔵相となる池田成彬がいる。
1929年(昭和4年)、貴族院勅選議員に勅任される。1933年(昭和8年)には王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社合併を実現させ、資本金1億5000万円、日本国内の市場占有率(シェア)8割以上を持つ巨大製紙企業を出現せしめた。藤原は新生王子製紙の社長に就任し「製紙王」の異名を取るようになる。
1940年(昭和15年)、米内光政内閣の商工大臣に就任する。1941年(昭和16年)、産業設備営団総裁、1942年(昭和17年)、海軍軍政顧問、内閣顧問を経て、1943年(昭和18年)、東條英機内閣の国務大臣に就任する。1944年(昭和19年)、東條内閣が倒れ小磯國昭内閣が発足すると軍需大臣に転じる。
戦後、東條・小磯両内閣で閣僚を務めたことから連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯容疑で出頭命令を受け巣鴨プリズンに収監されるが、間もなく不起訴となっている。
1960年(昭和35年)3月17日、脳軟化症にともなう合併症のため死去。90歳。叙正三位、叙勲一等旭日大綬章。



結城豊太郎

結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、1877年(明治10年)5月24日 - 1951年(昭和26年)8月1日)は、日本の銀行家、大蔵大臣・日本銀行総裁、第5代日本商工会議所会頭を歴任。
1904年(明治37年)1月7日、高橋是清の推薦で日本銀行入行。本店検査局、日銀ニューヨーク代理店監督役付、京都支店長、総裁秘書役、大阪支店長などを歴任。1919年(大正8年)8月、井上準之助総裁の推薦で理事に就任、大阪支店長兼務。
だが旧知で引き立て役だった安田善次郎の不慮の死をきっかけに日銀を退職し、1921年(大正10年)11月28日に安田保善社の専務理事に就任、同年12月には安田銀行の副頭取も兼ねる。1926年(大正15年)1月には、安田学園理事長にも就任した。また善次郎の遺志を引き継ぎ、東大安田講堂を完成させた。
1929年(昭和4年)3月、欧米視察からの帰国後に安田を退社し、産業調査会を設立。1930年(昭和5年)9月に日本興業銀行第6代総裁に就任した後、1936年(昭和11年)11月10日設立の商工組合中央金庫初代理事長となる。
翌1937年(昭和12年)1月に日本商工会議所第5代会頭に就任し、2月2日には林銑十郎内閣の大蔵大臣兼拓務大臣兼企画庁総裁に就任し、同年5月31日には貴族院勅選議員に勅任された。だが林内閣はわずか4ヶ月で崩壊し、続く近衛文麿内閣でも蔵相留任を要請されたが断っている。また同年7月27日から1944年(昭和19年)3月18日まで病弱だった池田成彬のあとを受けて第15代日本銀行総裁を務めた。
1946年(昭和21年)3月20日、貴族院議員を辞職。その後、1948年(昭和23年)4月には三重県津市結城神社の第20代宮司となっている。1951年(昭和26年)8月1日死去。享年74。




池田成彬

池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日(1867年8月15日) - 昭和25年(1950年)10月9日)は、戦前の政治家、財界人。第14代日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣、内閣参議(第一次近衛内閣・平沼内閣・第2次近衛内閣)、枢密顧問官(東條内閣)、三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総帥)を歴任。平沼内閣が潰れると、元老・西園寺公望から首相打診があったが陸軍が阿部信行を推したため立ち消えとなり「幻の首相」となった。
大学予備門の受験勉強のために、知人に慶應義塾別科を勧められて入学。1888年(明治21年)7月、慶應義塾別科を卒業後、大学部が設立されることを聞き、東京帝大の受験から転換し、その後約1年半イギリス人に付いて英学の個人授業を受け、1890年(明治23年)1月、新設された大学部理財科(現在の慶應義塾大学経済学部)に入学。入学前から英語を学んでいたことが幸いし、ハーバード大学からの派遣教師・アーサー・ナップと慶應義塾より推薦され渡米、1895年(明治28年)に5年間の留学生活を終えて帰国。渡米中は小幡篤次郎・門野幾之進の書簡の往復をする。帰国後、福澤諭吉の主宰する『時事新報社』に論説委員として入社したが、3週間で辞める。
同年12月には中上川彦次郎が改革を断行していた三井銀行に入行。調査係を振り出しに大阪支店勤務、足利支店長。コール制度や大阪市債の引き受け、銀行間の預金協定など新機軸を次々に打ち出していく。1898年(明治31年)欧米出張を命ぜられ、銀行業務の近代化について学ぶ。明治33年(1900年)本店に転勤し、営業部次長。1904年(明治37年)に営業部長となる。その間に、三井財閥の実力者、中上川彦次郎の長女・艶と結婚する。
三井を退職した翌1937年(昭和12年)、第14代日本銀行総裁に就任した。同年10月15日に近衛文麿に請われ、内閣参議となる。平沼騏一郎の下でも内閣参議として政界に参加した。更に同年、政府に請われ大蔵省顧問、北支那開発株式会社及び、中支那振興会社の創立委員となる。1938年(昭和13年)5月26日から1939年(昭和14年)1月5日まで第1次近衛内閣で大蔵大臣兼商工大臣を務め、宇垣一成の外交政策と池田の財政経済政策にもとづいて近衛新体制運動の牽引役となる。この頃首相候補にも名前があがったが、帝国陸軍の反発で立ち消えになっている。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終後、同年12月には戦犯容疑を受け、同年12月にA級戦犯容疑者に指定されるが、1946年(昭和21年)5月に指定解除され容疑は晴れる。公職追放となり大磯に引きこもり隠遁、三井財閥に対する影響力を喪失した。
近所に住む吉田茂首相が財政や人事についてしばしば池田に相談に来ており、戦前の池田の秘書だった泉山三六を蔵相に推薦した。1950年(昭和25年)腸潰瘍のため神奈川県の自宅にて死去。享年83。
長女の敏子は岩崎隆弥に嫁いだ。二男の池田潔は英文学者、評論家、慶應義塾大学名誉教授。妹婿に加藤武男(元三菱銀行頭取)と宇佐美勝夫(元東京府知事)が、甥に宇佐美洵(元日本銀行総裁)、宇佐美毅(元宮内庁長官)などがいる。長男は戦没、弟の宏平は日本海海戦で戦死した海軍中尉である。







ここで紹介した人物の共通点は何でしょう。
はい皆さん、分かりますよね。
森恪だけは戦前に亡くなっているので不問にしますが、他のすべての人物が、戦犯として東京裁判で処刑されていないのです。
岸信介と同様に、A級戦犯の容疑をかけられても不起訴となっているのです。
これらの人物は、どう考えても「あの戦争の演出」に大きく関わった人物としか思えませんが、何故か「無罪放免」扱いなのです。
「無罪放免」どころか、その子孫は大学教授や日銀総裁や銀行頭取や東京知事などといった「普通の人」が就くにはかなりハードルの高い職に就いているのです。
「彼ら」に「協力」した人物は、本人のみならずその末裔まで手厚い「ご褒美」が与えられるようです。
本人がどこまで「真実」を教えられていたかは定かではありませんが、結果として、「彼ら」の計画に「協力」したことは間違いありません。
「彼ら」の計画とは何かって?

「太平洋“八百長”戦争計画」に決まっているでしょう。

この計画を成功させるためには、日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミの「協力」が必要でした。
当たり前ですよね。カネがなければ武器兵器は買えませんから。
財閥の支配者は、政治家・軍部の要職にも就いていたようです。
我々は、いつの時代も政治家・軍部のみならず銀行家や財閥に目を光らせておく必要があるのです。


「他人の死と引き換えに財を得るハイエナ野郎」に目を光らせておく必要があるのです。

当時の日本国民は、こういった「彼ら」の協力者である日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミの支配者に踊らされていたのです。

敵はアメリカだけじゃなかったのです。

そして、戦争は「偶然」発生するものではありません。
昔も今も戦争は「計画」に基づいて起こされるものなのです。
「彼ら」の協力者であるマスゴミが喧伝する、「軍部が独走したために歯止めが利かなかった」なんていう“見え透いた嘘”に騙されてはいけません。
著者はあの戦争の真実に気づいていないようですが、私には本書は「あの戦争の真実」を改めて「確認」する貴重な資料となりました。
「あの戦争の真実」とは何かって?

「あの戦争は、「彼ら」の傀儡である日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミが「彼ら」の指示に従って演出した「さる芝居」であった」という真実です。

「日本国民やアジアの人々は、「彼ら」の傀儡である日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミが「彼ら」の指示に従って演出した「さる芝居」によって殺された」という事実です。

だってそうでしょう。
本当にアメリカと日本が敵対していたというのなら、アメリカにとって許しがたき敵国であるはずの日本の「戦争演出者」であった人物を東京裁判で厳しく裁かないはずがないでしょう。
これらの人物が「無罪放免」となった理由を“八百長”戦争以外の理由で説明できる方がおられたら、是非お聞かせ願いたいものです。
ついでにこちらの記事を否定する理由を根拠立てて説明できる方がおられたら、是非お聞かせ願いたいものです。

初めから無理な要望であることは分かっていますが・・・





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https://www.youtube.com/watch?v=1QvCpZRqxqs
これが支配層による口封じの実態です

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