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ソウルマン

戦後初の首相は戦時中からフリーメーソンだった!

「フリーメーソンの占領革命・白い神々」第二部
犬塚きよ子





前回に続く。



ロンドン条約の批准に関して、統帥権干犯問題もからんで、軍事参議官会議、枢密院会議などで長い審議を重ねた揚げ句、表面海軍側も諒承したという形式で、全会一致の無条件無警告で批准しかるべしと議決された。
この結果に対して、金子堅太郎枢密顧問の御礼言上のため面接したキャッスル米大使は、おどろくべき発言をしたと伝えられている。それは、
今回の日本政府の勇気ある決断によって、軍縮案が無事実施することになったことに、心からお礼を申し上げます。それもこれも、幣原外相が私たち相互のメーソン兄弟としての信義によって最後の請訓への回答案を示し、メーソンの世界平和達成に協力して下さったからと理解しています
との意味の一節があったからである。
驚愕した金子伯は直ちに幣原外相に面詰したところ、外相は土下座して謝罪し、三日間、病気と称して引きこもったという。
東郷元帥はじめ海軍首脳は、この軍縮条約の発動により、「1937年以後海軍力が日本を引きはなす米国の対日政策は苛酷になり、日米決戦の危機を迎える」という危機感を抱くにいたった。
案の定、第二章以下くどいほど述べたように、1937年、8年から軍縮によって弱くなった日本に対して、英米の反日政策は猖獗(しょうけつ)をきわめ、「大東亜戦争」への危険な坂道をころげおちることになった


マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、連合軍総司令部(G・H・Q)を東京に設置するとほとんど同時に、東久邇宮内閣は瓦壊(がかい)し、戦時中から英米の意中にあったと考えられるフリーメーソン員幣原の内閣が誕生したいうまでもなく、これはロンドン軍縮会議の際、幣原外相が統帥権を犯してまでメーソンの「世界平和のため」という名分を貫いた功労によって、ついに獲得した首相の座であろう
幣原内閣は、昭和20年10月から翌21年5月まで、わずか7ヶ月の短命であったが、日本の旧体制を根本から破壊し、新憲法草案、6・3・3・4制教育法の制定、天皇の人間宣言など、マッカーサーの理想とするフリーメーソン的新体制の基礎はすべてこの内閣で築き上げられている

*また、米国務省へのマ元帥のメッセージには、彼の憲法草案とメーソンリーとの関係を匂わすような一節もある。それは、
「初期の段階から1946年3月4日、幣原内閣の草案ができるまで私はひんぱんに大臣たちと個人的に会った。私は彼らにこの憲法改革に必要な啓蒙的諸原則につき説明をしたし、また、連合国側の一般政策~ことに米政府の具体的な方針の中に、これらの諸原則を取り込んでいく必要があることを理解されるためであった。」
筆者が傍点をつけた「啓蒙的諸原則」というのは、フリーメーソンリーの基本となった啓蒙主義Illuminism思想であって、17世紀のイギリスで発生した市民革命の過程で用意された市民革命の実践的原理である。暗い中世的、封建的世界を教育によって啓発して明るい理性的な世界に改革しようという宗教、哲学、文学、社会科学など精神活動の全般におよぶ多彩な思想運動であった。
当時の先進国英国に発生し、ニュートン、ロックなどが師となった啓蒙主義は、ドイツのイルミナチ結社をへてフランスに侵入すると、ヴォルテール、モンテスキュー、コンドルセー、デイヅロー、エルヴェシウス、ダランベルト等、有名なサロン思想家が飛びついて、オルレアン公ルイ・フィリップを大棟梁にしたフランスメーソン結社大東社となり、ルイ王朝を倒すことを目的とし、民衆煽動の天才革命家ミラボーを抱きこむことになった。
ミラボーはイルミナチ結社研究のためドイツに行く、革命の戦術指導精神を得て帰仏すると、啓蒙思想者群(百科全書群)に働きかけて、「自由、平等、友愛」のスローガンでつくった下地を利用して革命煽動の第一線に立ち上がったのである。
フランス第一革命の中心になったジャコバン党本部は、実にフランス大東社と同じ建物にあった事実は、すでに有名なことである
革命とフリーメーソン(仏語=フランマソン)の関係は長く秘密にされていたが、20世紀に入ると、むしろ一部を世界に誇示するほうがメ-ソンの勢力を知らしめるのに得策ということになって、1901年4月発行のメーソン機関新聞「アカシア紙」(第65号)に、
1789年の革命は、フランマソンの教義を具体化せんとする試みであり、憲法制定国民大会会員中には多数の結社員がいたこと、またこの結社員が大会に当たり、ブルトンクラブ、憲法協会、ジャコバン党を創設したことなどは、すべてマソンの範にのっとり、しばしば公会、秘密会を開いたこと、秘密会には結社員のみに入場を許した。」
などを発表した。このあとをうけて、仏大東社も、
「フランマソンは実際に1789年の革命を準備し、かつわれらの主義たる自由、平等、四海兄弟をもって革命の方式たらしめたのである」
と公式に声明し、革命とメーソンとの密接な関係を自ら立証している。現在の日本メーソン員もこれを誇りとして声明している。

*ルイ16世とともに幽閉され、処刑台上の露と散った悲運の皇后マリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿にあるとき、早くもその裏の動きを洞察して、
フランマソンについてはよくご注意あれ、この悪魔どもは各国において同一の方法をもって同一の目的を達成せんとしています。神よ、願わくはわが祖国および貴方をこの不幸より救いたまえ
と一書を兄弟レオポルト二世に寄せている。
また、プロシアの大臣で、かつてマソン結社員であったハウグワイツ伯も1822年ウエルナの君候会議に送った覚え書の中に、
1788および89年にはじまった戯曲、すなわちフランス革命とその際行なわれた王の殺害、その惨事は、すべてフランマソン結社の最高指導部において議定したことであるのみならず、この結社の事業と宣誓の成果であることについて確信を得た
という有名な章句がある。

<日本人メーソン設立に深くかかわった中心的人物、村山有(たもつ)著「終戦のころ~思い出の人びと」より>

日本人で最初にメーソンの会員になったのは、日英同盟を締結した林 董伯であった
彼は幼くしてヘップバーン夫妻に可愛がられ、英語をよくマスターして、英米人に優るとも劣らないといわれた。その林が駐英大使としてロンドン在任中に、フリーメーソンの高邁なる教義と思想に感激してメーソンとなり、最高の名誉を与えられたのであった。

鳩山一郎氏は好んで「友愛精神」を説いたが、戦前ユダヤ人の秘密結社とか陰謀団体とかいわれていたフリーメーソンが、戦後マッカーサー元帥の肝いりによって日本人にも門戸を開放することになったと聞いて、自分も公職追放で遊んでいるからだだから、ひとつ入会してみようということになって、筆者にフリーメーソンとはいかなるものか説明にきてくれといってきた。
そこで、鳩山氏は追放解除のためにメーソンを利用しようと考えるような方ではなかったから、私は、一日鳩山氏を訪れ、フリーメーソンは自由国家における友愛の結社で、会員相互の兄弟愛による親善機関であると説明し、アメリカではジョージ・ワシントンをはじめ多くの人々がフリーメーソンであり、イギリスでは皇帝がメーソンと友愛の精神に生きていることをお話した。
すると鳩山氏は、フリーメーソンの友愛精神がことのほか気に入ったらしく、「その精神は日本人にも大いに理解させなくてはいかん」と大変な力の入れようだった。そしてやがて総理大臣になると、メーソンの第三階級であるマスターメーソンとなり、薫子夫人といっしょに水交社において、二百人近いメーソンの兄弟から祝福を受けた。このときの集会における鳩山一郎氏のあいさつの要旨は、つぎの通りだった。
「戦後日本における幾多の社会変化がありました。そのなかで世界的友愛結社であるフリーメーソンの門戸が開かれたことは、最も大きな出来事の一つとしてあげなければなりません。而して私は、世界幾多の指導者や元首が対等の資格で会員であるこの友愛結社の一員として、日本グランドロッジの年会に出席して友愛精神をたたえ、ご挨拶を申し上げる機会を与えられたことは、まことの光栄に存じます。
・・・・・(中略)・・・・・
アメリカ建国の父であるジョージ・ワシントンは日本の子供で知らないものはありませんが、彼が偉大なるメーソンであったことを知るものは少ないのであります。ベンジャミン・フランクリンもメーソンでありました。
占領書記から今日にいたるまでのマッカーサー、リッジウェイ、クラーク、ハル、レムニッツァならびにアリソン大使は、いずれもメーソンであります

日本にこの会が結成されて数年を経ていますが、この間に日本語のみの関東ロッジが認められたことを喜ぶものであります。四千年の歴史を有するフリーメーソンが日本で実を結んで、今日にいたったことを誇りに思います。ロッジ育成と友愛精神普及のためにも、日本のメーソン諸君の今後のご協力をお願いして、わたしの挨拶を終わります。」(昭和31年6月5日)



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