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ソウルマン

全ての戦争は創作されたものである

「日支闘争計画書の存在を知らない大多数の日本人は危険である」




前にも記事にしたが、「彼ら」の行動計画に沿って操作されたニュースがマスゴミによって流されている↓

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140129-00000110-san-pol
尖閣領空侵犯にマニュアル空自初、強制着陸の方法規定
産経新聞 1月29日(水)7時55分配信


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140129-00000008-rcdc-cn&pos=3
中国空母の戦力は最大でも米国空母の3分の1、弱小国にしか効果なし―米専門家
Record China 1月29日(水)7時10分配信


http://www.afpbb.com/articles/-/3007338
日中外交問題、両国がドイツを引き合いに
2014年01月27日 17:38 発信地:北京/中国




皆さん、私が何を言わんかとしていることは、十分お分かりですよね。
「彼ら」は、「彼ら」の傀儡である日中の政治家やデマ宣伝部隊であるマスゴミを使役して、日中八百長戦争、そして第三次八百長世界大戦を引き起こそうとしています。
「彼ら」の陰謀を打ち破るには、過去の歴史を正しく理解しなければなりません。
皆さんは、「日支闘争計画書」の存在をご存知でしょうか?
大変重要な計画書であるにも関わらず、大多数の日本人は、この計画書の内容どころか名称も聞いたことがないのではないでしょうか。
簡単に説明します。「日支闘争計画書」とは、1918年9月、モスクワのユダヤ・イルミナティ大会で採択された日本滅亡の包囲撃滅化戦計画書のことです。日本のみならず東アジアをユダヤの完全支配下に置く目標を遂行するために、日本と中国を戦わせ、最終段階で共産ロシアとアメリカが日本に最後の止めを刺すに至る行動プログラムです。この計画書に従って日本は無謀な戦争に追いこめられ、何万という罪なき人々が殺されました。
そうです。この計画書の通りに「彼ら」は日中八百長戦争を創作したのです。
「軍部が暴走したため、誰も止めることができなかった」という通説は、全くの偽情報です。

一部では、「軍部等に入り込んでいた共産化した人間が日本を戦争に参加させ、その結果として敗戦に導き、敗戦後の日本を共産主義国にすることが目的で、自ら負けるために戦争を起こした。そして、その日本内部の共産主義者を操っていたのはソ連であった。昭和天皇は戦争に反対していた。」と主張して、“これが太平洋戦争の真実である”と、信じ込んでいる方がいるようですが、「この説はある意味正解ですが、根本的に間違っている」と、私は思います。
正しいと思われるのは、「実際に共産主義思想を持った勢力が軍関係者等に存在し、そういった勢力が日本破壊工作を実際に行なっていた」ということです。
誤っているのは、このブログでは何度も述べていますが、「共産主義も資本主義も「彼ら・イルミナティ」が創作した魔術の一種であり、実際はソ連もアメリカも「彼ら・同一勢力」によって支配されていた」ということと、「日本国内における「彼ら」の最大のエージェントが誰であったか」ということを、全く理解されていないことです。
歴史通でかなり核心に近いところまで迫られている方はよく見かけますが、そういった歴史通の方が誤りやすいのは、「西洋秘密結社の存在を全く理解しないで、国家間及びイデオロギーのみで歴史・戦争を理解しようとしている」ことにあると、私は感じます。
「国と国の戦い」、「資本主義と共産主義の戦い」という範囲のみで歴史・戦争をとらえると、間違った方向に行ってしまうと思います。

最後に「日支闘争計画書及びその裏舞台」を解説したブログ記事及び、『戦争プロパガンダ10の法則』、「第二次日支闘争計画書」を計画していると思われる面々を紹介する。
「彼ら」の“昔ながらの古臭い陰謀”に嵌って、皆さんや、皆さんの大事な人が八百長戦争で殺されてしまわないように、しっかりと目を見張っておいて下さい。
「彼ら」は決して、自らは戦争に参加しません。遠目で人の死を観察しながら金品を漁るのです。
決して、騙されてはいけません。





http://rekishijyoho.seesaa.net/article/20953026.html
(歴史情報研究所)さん

2006年07月18日
開戦工作――ゾルゲ事件の失われた環(ミッシングリンク)その1

 本稿は『国際ユダヤ人・改訂版』(ヘンリー・フォード著、島講一訳、歴史情報研究所)の「編・訳者後書」の一部をご紹介するもので、3回にわたってお送りします。(島講一)

●日中・日米開戦工作

 ゾルゲ事件というのは、日米戦争開始前、日本政府の機密事項や日本の国内情勢、駐日ドイツ大使館の機密などをソ連に通報したかどで、昭和16(1941)年1月に日本国内に潜伏する売国奴が一斉に摘発され、その首魁リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実(ほつみ)が処刑された有名なスパイ事件である。ゾルゲと尾崎以外にも、犬養健(衆議院議員)、西園寺公一(前外務省嘱託)、中西功(満鉄調査部、のち参議院議員)らが検挙された。

 戦前に愛国者が中心になって創設したユダヤ問題研究機関の国際政経学会に参画し、このゾルゲ事件を目の当たりにし、徹底究明された方がいらっしゃる。右翼の巨頭・頭山満の師匠にあたる愛国陣営の総帥・末永節先生の秘書を務めていた渡部悌治翁である。
 翁の著書『攘夷の流れ』(私家本、平成4年)を読むと、そこには次のような背景があったと記されている。

西紀1918(大正7)年1月3日より約1カ月前の9月19日、モスクワにおいてユダヤとボリシェビーキとの合同会議が開かれた際、そこで決議された事項の中に、日支を闘争に導くための日支闘争計画案なるものがあった。その内容を要約すると、直ちに日本と中国との内部破壊を図るとともに、中国に反日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連と特にアメリカとを干渉させる戦争にまで発展させて日本を倒し、それとともに欧州に社会革命を起こさせる第2次の世界大戦を計画するというものであった(76ページ)

 1918年1月3日はドイツがアメリカに講和を申し入れた日であり、連合軍とドイツがフランスのコンピエーニュで休戦協定を締結し、第1次世界大戦が終結したのは、その約1カ月後の11月11日のことであるから、9月19日にはまだ戦争は終わっていない。そのときすでに次の世界大戦が計画されていたというのである。実に日米開戦をさかのぼること23年前のことである

 その後の推移は、言うまでもなく、歴史が示すとおりであるが、では、この「日支闘争計画」案の布石は具体的にどのように打たれていったのだろうか。渡部翁によれば、その実施機関としてまず太平洋問題調査会(IPR)が設立されたという。

『上海時代(上)』(松本重治著、中公新書)には、IPRの第1回会議が大正14(1925)年に、第2回会議が昭和2年に、いずれもハワイのホノルルで開催されたと書かれている。日支および日米開戦の実施計画を練り上げる日米英中を中心とした売国奴たちによる作戦会議である。この2度の会議に、日本からは沢柳政太郎が団長として、ほかに鶴見祐輔、高石真五郎、高木八尺らが出席したが、年表をみると、その間の大正15年4月6日に日本支部が設立されたことがわかる。昭和4年には、京都で3回目の会議が行なわれることになった。その様子を『上海時代』から引用しておこう。

「会議は都ホテルで開催されたが、招請された国々は、アメリカ、イギリス、中国、カナダのほかに、ハワイ、フィリピンのグループもあり、ソ連、フランスのオブザーヴァーもいた。代表の一人小松喬さんが、会議のロジスティックスすなわち、宿泊、設営一般の事務をとりしきっておられたが、会議の内容の実体たるプログラム面の仕事の采配をした幹事役は、同じ代表の高木先生と斎藤惣一さん(日本YMCA総主事)とであった。日本代表は、団長が新渡戸稲造先生、それに松岡洋右、頭本元貞、岩本裕吉、金井清、前田多門、鶴見祐輔、高柳賢三、高石真五郎、信夫淳平、蝋山政道、松田竹千代(まだ政治家にならないで、大阪のセツルメントをやっていた社会福祉事業家として、すでに有名になっていた)、それから那須皓その他の諸先輩であった。日本代表団のセクレタリーとしては、松方三郎、浦松佐美太郎、私の三人が選ばれ、その一段下積みの仕事、すなわち、ステンシル・ボーイとして謄写版刷りをやっていたのが前田陽一、岩永信吉、斎藤勇一の諸君であった。どういう意味か、白洲次郎君が、正式の代表ではなかったが、友人関係にあった英国代表の数人を接待しながら、彼らと話をしていたように覚えている」(23~24ページ)

 ちなみに冒頭でご紹介した日米欧三極委員会は、昨今の極東情勢を考える(新たな日支・日米闘争計画が発動されているように思われる)と、太平洋問題調査会の現代版と見てほぼ間違いないだろう。

 このあと、太平洋問題調査会は昭和6(1931)年に上海で第4回会議を、昭和8年にカナダのバンフで第5回会議を開くが、第3回の京都会議と第5回のバンフ会議には「ゾルゲ事件のバックとなった男であり、コミンテルン・ソ連スパイであったオーエン・ラティモア」(『攘夷の流れ』77ページ)も参加している。


『上海時代』の著者、松本重治はラティモアとの関係を次のように得々と述べているが、「語るに落つ」とはまさにこのことを言うのであろう。

「オーウェン・ラティモーアに会ったのは、上海が初めてではなく、東京であった。1929年の初秋、ラティモーアは夫婦で、その年から翌30年にかけて満州にある諸民族、ことに蒙古人の文化人類学的現地調査をくわだて、米国からの途中、日本に立ち寄ったのであった。松方三郎、浦松佐美太郎の両君らと一緒にラティモーア夫婦を囲んで葵坂の元の華族会館でランチを共にした」
(164ページ)

●IPRと日本人

 ところで、ゾルゲ事件の主役の1人、尾崎秀実は、上海会議の前年の昭和5年にアグネス・スメドレーを介してゾルゲとすでに会っており、昭和11(1936)年に米国のヨセミテで開かれた太平洋問題調査会の第6回会議に日本側委員として出席しているが、前出の『絹と武士』(文藝春秋社)にその一端が記されている。

「1901年、京都で生まれた長男〔牛場〕友彦は次男の道雄と共に神戸の祖父母の許で育てられたので、アメリカから夏休み毎に訪れていたいとこ、つまり私の母や伯父と幼年時代を共に過ごした。家族の間ではトモと呼ばれた友彦は第一高等学校を経て東京帝国大学に学び、卒業後は英国に留学、オックスフォード大学で1925年から29年まで学び、哲学、政治、経済の3分野を専攻し、優秀な成績で卒業している。オックスフォード時代、友彦は英語を完全にマスターし、当時留学していた松方三郎、松本重治などとも親しく交わった。……重治や三郎への友情を通して、先に友彦はIPR(太平洋問題調査会)に関心をもつようになり、1936年にはヨセミテで開催された会議に出席したのだが、この会議では姉や私も、近衛の長男、文隆や『最後の元老』〔西園寺公望〕の孫、西園寺公一などと共に書記を務めたことは『はじめに』で述べた通りである。近衛は古い貴族の血をひく公一に興味を抱き、その結果、友彦も彼に注目した。友彦は、公一の将来にとって有益になるであろうと往きの船や会議中の宿泊で旧友尾崎秀実と同室させることを思いついた。尾崎はかつて一高時代友彦の同級であり、1928年から32年にかけて朝日新聞の特派員として上海に駐在した経験から中国通として知られていた。……友彦がヨセミテで公一と尾崎を同室にさせたことが、のちに若い西園寺を共産主義へ走らせるきっかけになったことは当然考えられることである」(395~399ページ)

 国際情勢・歴史分析に定評があり、すでに日本でも『三百人委員会』(KKベストセラーズ刊)など数冊の著者が邦訳されている米国在住のジョン・コールマン博士は、小論文で「1920年代のオックスフォード大学とケンブリッジ大学は共産主義という疫病神の温床だった」(「英国諜報部のソ連への浸透」1983年)と指摘し、

「アメリカは1940年にアメリカ大使館が『危険』と思われる外国人共産主義者のリストを英国に提供している。このリストに、上海時代からのロジャー・ホリスの友人ゲルハルト・アイスラー〔米国共産党の秘密党首(1935~47)〕、ロバート・クチンスキーとその娘、つまり赤軍の歴史にもっとも光彩を添えるスパイとなったソニアが記載されていた。クチンスキーは英国で3カ月間拘禁されたが、非常に奇妙なことに、釈放されている。この〝難民〟一家が加えた危害はおそらくはかり知れないものがあったであろう。……
 ホリスとソニアの物語は上海から始まる。英国国教会(聖公会)の聖職者の息子だったホリスは、オックスフォードの学業を中途で放棄した。理由は不明だが、突然オックスフォードを離れ、家族と別れて上海に赴いたのである。それまで中国に関心を向けたことはなかったのに、オックスフォードを卒業するまで待てなかったのだ。彼は両親に上海でジャーナリストの仕事に就く予定だと語っている。そして、これがホリスのもっとも奇妙な部分であるが、どういうわけか、上海で、献身的な共産主義者の仲間と偶然出会ったのである。このグループの指導者は、非常に活動的なアメリカの共産主義者アグネス・スメドレーであった。彼女は新しく到着したホリス、ソニアと親しくなった。スメドレーとソニアの友情がとりわけ親密だったことは注目に値する。せんさく好きな目から逃れるために、スメドレーは安全な外国人租界に献身的な共産主義者たちのためのサロンを開いた。彼女は急進的なコミンテルン(世界に革命を広げるための共産主義組織)のメンバーで、経験も豊富であった。彼女はボルシェヴィキ革命のすべてのモスクワ会議と記念祭に出席していた」

 と記している。
 かくして、スメドレー、尾崎秀実、ゾルゲ、ホリス、ソニアらが1930年代の魔都・上海で出会い、気脈を通じ、その先鋒が日本の政治中枢部に深く突き刺さり、日支・日米闘争計画に従って、日本は、対中戦争へ、対米戦争へ、そして敗戦へと誘導されていくのである。(続く)




http://www.ohtaryu.jp/blog/2601-2700/j-1233850615.html?searched=%E6%9D%8E%E9%B5%AC&advsearch=oneword&highlight=ajaxSearch_highlight+ajaxSearch_highlight1
(週間日本新聞・太田龍の時事寸評)さん

第二次日本闘争計画についての、
一月二十八日、日本義塾公開講義での質問にお答えする。


平成二十一年(二〇〇九年)二月五日(木)
(第二千六百八十九回)
〇一月二十八日の日本義塾公開講義のあと、次のような質問が出された。
一九一八年の日支闘争計画に基づき、一九一九年三月モスクワでコミンテルン
(第3インター)創立大会が開かれ、中国の反日、抗日闘争計画が決定され、
二ヶ月後の五四運動(天安門広場)から抗日、反日運動が、今日まで継続して
いる、と見てよいのでしょうか?
人民解放軍の将軍たちの日本攻撃、日本亡国発言が多々聞かれることから、
中国の反日侵略戦争が始まるかそれとも中国の経済崩壊と内乱、自滅に進むのか
極どい状況に見られるのですが。
〇この質問は、当日、お答えする時間がなかった。
〇ところで、昨日(H21,2,4)発売された「週刊新潮」は、
時効と成った、朝日新聞支局襲撃と、朝日記者二名殺傷事件は、
〇実は、駐日アメリカ大使館の職員によって、演出され、日本の右翼が五億円の
かねを供給されて、実行したものである。
との記事を公表した。
〇これは、朝日新聞の中共寄りの報道姿勢に対する政治的攻撃であると。
〇これは、何を意味するか。
〇筆者は、十年以上前から、   
〇ユダヤ、フリーメーソン、イルミナティ、NWOは米中共同して
日本を占領分割支配する作戦を進めている、と警告して来た。
〇つまり、日本の滅亡、亡国である。
〇既に、十年以上前、二十年以内に日本と言う国家は消滅する、
との李鵬中共首相(当時)によって、予告されていたプログラムの実現だった。

〇李鵬発言は、
中共と米国共通のアジェンダにもとづくものであり、
〇言うまでもなくこれは、
一九一八年九月の、「日支闘争計画」の延長線上のものである。
〇我々は、平成三年以後。
十七年に亘って、ユダヤフリーメーソンイルミナティのこの「日誌闘争計画」
の陰謀について、我々の力の及ぶ限り、日本民族有志に警告して来たが、
〇誰一人、日本人は耳を貸そうとしない!!
〇第二次日支闘争計画とは、
第二次米中の日本挟み撃ち作戦である。
〇これが要点である。
〇つまり、「日米同盟」は、米国(イルミナティ)による日本人皆殺し戦争の
政治的、軍事的、経済的武器であることを日本民族有志は気付かなければならない。
(了)

【注】
◎従って、日本に於ける「日米同盟」主義者は、
中共に日本を売り渡す、親中共主義の売国奴と同じく、日本人皆殺し路線の手先
危険な売国奴集団である、としなければならない。




http://06020596.at.webry.info/201302/article_7.html
(狼たちは知っている)さん

『戦争プロパガンダ10の法則』 彼らは、テレビで見たことしか信じないのだ
<< 作成日時 : 2013/02/10 17:08 >>
※ 戦争プロパガンダ10の法則。。。

(ブリキソ之【豆】)

http://d.hatena.ne.jp/burikiso/20120924/1348456502



『戦争プロパガンダ10の法則』


(1) 我々は戦争をしたくない。


(2) しかし、敵側が一方的に戦争を望んだ。


(3) 敵の指導者は悪魔のような人間だ。


(4) 我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う。


(5) 我々も誤って犠牲を出すことがある。

だが、敵はわざと残虐行為におよんでいる。


(6) 敵は卑劣な戦略や兵器を用いている


(7) 我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。


(8) 芸術家や知識人もこの戦いを支持している。


(9) 我々の大義は神聖なものである。


(10) この戦いに疑問を投げかける者は裏切り者である。




『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社)より

アンヌ・モレリ Anne Mbrelli

歴史学者。ブリュッセル自由大学歴史批評学教授。

歴史批評を近代メディアに適用し、

世論を特定の方向に誘導するからくりを体系的に分析。


第一次大戦中にイギリスで平和主義を貫いた

ボンソンビーの著書『戦時の嘘』に基づき、

その当時、人々を戦争に駆り立てたプロパガンダの法則が、

現在もやはり、同じように人々を欺くために

使用されているということを、さまざまな実例を挙げながら、

展開したものである。



戦争があるたびに、まったく同じプロパガンダが繰り返され、

世論が操作されてきた。

戦争が終わると、世論は騙されていたことに気付く。
引用者注:大多数は気付いていないと思います。)

しかし、次の戦争がはじまると、

また同じプロパガンダに騙されてしまう。

今度こそ、プロパガンダは本物だと信じてしまうからだ。



第一次大戦、第二次大戦から湾岸戦争、コソボ紛争、

イラク戦争まで10の法則が交戦国双方で

どの様に使われて来たかを解説している


「現代人は、かつてのように何でもかんでも

信じてしまうわけではない。

彼らは、テレビで見たことしか信じないのだ



このアンヌ・モレリの戦争プロパガンダ10の法則は、

戦前の日本に典型的に見出されるが

今現在の日本でも十分に通用する。


9・11時件以後のアメリカは

『戦争プロパガンダ10の法則』の見本市のような凄まじい有様である。






「第二次日支闘争計画書」を計画していると思われる面々↓
http://www.nikkei-events.jp/csis/profile.html#02



ソウルマン
Posted byソウルマン

Comments 2

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山縣幹夫

大切なこと

とても、とても大切なことを書いてくださいました。有難うございます。
 なお、『攘夷の流れ』の「1918(大正7)年1月3日」は
「10月3日」の誤りです。

2014/07/20 (Sun) 15:15

ソウルマン

Re: 大切なこと

山縣幹夫 さん

コメント有り難う御座います。

> とても、とても大切なことを書いてくださいました。有難うございます。

有り難う御座います。
本当に現在、知っておかなければならないことだと思います。

>  なお、『攘夷の流れ』の「1918(大正7)年1月3日」は
> 「10月3日」の誤りです。

文脈からみても、ご指摘のとおりではないかと思われますが、
引用サイトさんを尊重し、訂正はしないでおきます。

2014/07/21 (Mon) 08:27