西郷隆盛は、「イルミナティ」という言葉を知らなかったとしても、「イルミナティ」の悪魔性を肌で感じていた。フリーメーソンになることで得られる「自己の利益」を拒否し、日本やアジアのためにイルミナティ悪魔勢力と命懸けで戦った本物の英雄である - 歴史・宗教
FC2ブログ

嘘八百のこの世界

この世界の真実を追究して行くための読後評を中心に書いていきます

HOME プロフィール 真実を追究するマロン

ソウルマンの娘のマロンです。お散歩大好きです。 

最新記事 最新コメント 月別アーカイブ カテゴリ
ランキング
にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 ポチッと押してもらえると、明日への活力となります↑
ロック
頭脳警察、PANTA
RCサクセション、忌野清志郎
ブラック・ミュージック
広告

西郷隆盛は、「イルミナティ」という言葉を知らなかったとしても、「イルミナティ」の悪魔性を肌で感じていた。フリーメーソンになることで得られる「自己の利益」を拒否し、日本やアジアのためにイルミナティ悪魔勢力と命懸けで戦った本物の英雄である

「大西郷という虚像(「明治維新という過ち」完結篇)」原田伊織


2016年の書である。
前回に続き、著者の書を読んだ。以下、一部引用する。



*この年の8月、下関に入港したイギリス軍艦バロッサ号を桂小五郎が表敬訪問し、その翌日、桂がボーイズ艦長とイギリス公使館員ラウダーを自宅に招いたことが分かっている。この時、桂は長州藩下関奉行の立場にあった。桂はボーイズ艦長に重大な“お願い事”をする。
長州は、久坂に引っ張られるようにして無謀な攘夷活動として関門海峡を通過する外国船を、問答無用の天誅と同じような形で砲撃した。そして、4カ国連合艦隊の報復を受け、藩内の砲台はすべて破壊または使用不能にされた。その時の休戦協定に、今後決して新しい砲台を築かないこと、旧砲台の修繕を禁止することが定められていた。桂は、イギリス軍艦のボーイズ艦長に、決してイギリスを砲撃することはなく、幕府を攻撃する目的のためだけのものという条件を付けてこの協定の定めを一時的に解除し、大砲を設置させてくれと嘆願したのである。桂は、幕府との戦闘が終わったら破壊してもいいとさえ申し出ている。
・・・・・(中略)・・・・・
ところで、桂が卑屈とも思えるような嘆願を行っていた頃、イギリスの長崎領事ガウアーが本国のラッセル外相に興味ある報告を行っている(『遠い崖~アーネスト・サトウ日記抄~』萩原延壽 朝日新聞出版)。前年、イギリスから帰国した伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が薩摩藩家老小松帯刀の庇護を受け、薩摩藩士として薩摩藩邸に滞在しているというのである。
表の歴史では、この時点ではまだ薩摩・長州は互いに敵であったはずである。しかし、実際には既に長州は、薩摩藩名義でグラバー商会から大量の武器を買い付けていたのだ。薩摩藩は、表向きはこれから始まる第二次長州攻撃に消極的ながら参加、協力しようとしている。しかし、裏ではイギリスと共に長州支援に乗り出していたのである。政局の主導権争いで対立していた二つの藩を結びつけたのも、グラバー商会である。口先の「勤皇」「尊皇」などクソ喰らえというのが、イギリス派である薩摩をリードし始めた西郷たちの本音であったということだ。

読者諸兄のみならず多くの日本人は、対立関係にあった薩摩・長州を結びつけたのは坂本龍馬であると信じているかも知れないが、俗にいう「薩長同盟」の成立は、翌年1月末とされている。つまり、俊輔や聞多が薩摩藩士として走り回っていた半年後のことになる。
先にはっきり述べておかなければならないことだが、軍事的な同盟を結んだかのようにいわれている「薩長同盟」なるものは存在しない。今では学者の世界でさえ「薩長同盟」という言葉を使う方は少数派になりつつある。
・・・・・(中略)・・・・・
この慶応元(1865)年の夏には、不審な出来事がいろいろ起きている。7月に長崎で伊藤俊輔、井上聞多が、グラバー商会から大量のミニエー銃、ゲベール銃を買い付けている。総計8千挺といわれているが、1挺10両としても8万両である。この頃、果たして密輸銃が1挺10両で買えたかどうか。
更に、鈴木壮一氏が『開国の真実』(かんき出版)の中で興味ある指摘をされている。この時、グラバーが聞多たちに対して、100万ドルの融資(信用供与)を申し出たというのだ。そして、この時期のグラバー商会の決算書によれば、同社はジャーディン・マセソン社に38万ドルの負債を抱えており、債務過多に陥っていたというのである。つまり、100万ドルという巨額の資金を用意できるはずがないのだ。

ここで再び、久坂たちの外国船砲撃事件が浮上する。この賠償金は幕府が支払うことになったが、その第一回分50万ドルが支払われたのが、同じ7月なのだ。
この二つの事実を結びつける直接証拠はない。しかし、こればかりは結びつかない方がおかしいのではないか。傍証といえるだろうが、この直前4月のこと、幕府もグラバー商会から大砲25門と砲弾を購入し、6万ドルといわれるその手付金を支払った。グラバー商会は、この金を薩摩藩に回してしまったことが後に判明している。更に後のことだが、グラバー商会は幕府から金だけを受け取り、注文された大砲をなかなか幕府に引き渡さなかったこともある。グラバーとは、このような悪質な「死の商人」であり、グラバー商会とは、清国に対するジャーディン・マセソン社と同じように、反日商社であったことは明白である。薩摩・長州は、その反日商社に武器を頼ったのである。
・・・・・(中略)・・・・・
こういう環境の中で、グラバーは如何にして長州の密貿易を助けようとしたのか。
根本的な問題として、長州は金をもっていないのだ。公使パークスを巻き込んで幕府の金を長州へ回すなどという手法には継続性がない。何せ密輸入しているのは、日本の中央政権を倒すための高価な武器である。
そこでグラバーが考えついたのが、薩摩を絡めた三角取引である。グラバー商会がジャーディン・マセソン社から仕入れた武器は、薩摩が購入したという形を採る。薩摩は、これを長州に回す。資金のない長州は、武器代金を米で薩摩に支払う。慢性的に米が不足していた薩摩は、長州から米を購入したことになる。長州は武器を、薩摩は米を、グラバーは現金を得て、これで三者の利益が見事に成立するのだ。
米は、通商条約によって輸出禁止品目になっており、少なくとも長州の違法行為は表向きは回避できることになる。薩摩の武器密輸入は、今に始まったことではない。

ただ、一つ新たな課題が生じたとすれば、それは長州の米の輸送及びその他の薩長間の往来、薩長と「グラバー商会とのやり取りである。このために必要となり、登場したのが坂本龍馬の「亀山社中」である。
坂本は薩摩藩が面倒をみていた男で、薩摩藩が長崎で買い入れた船や武器、産品を薩摩へ運ぶ下請け業者のような仕事をして、月々給金をもらって生活していた。グラバーの考案した三角取引によって、この男はグラバー商会の下請け業者として薩摩・長州にとっても必要な存在となったのである。薩摩藩小松帯刀にしてみれば、当てがあったわけではないが、飼っておいてよかったという思いであったろう。
グラバーのやっていることは、明白な国際条約違反であるが、この違法行為を成立させるために「亀山社中」も存在し得たということができる。
「亀山社中」は、司馬遼太郎氏の小説の影響もあって、我が国初の商社だとか、先駆的な企業の原型などと麗しく語られてきたが、実態はグラバー商会の意向に沿って動く、薩摩・長州の密貿易システムに組み込まれた徒党の集団に過ぎない





(管理人)
以上長文になったが、非常に重要な箇所なので、引用させていただいた。
前々から気づいていたことではあるが、この文章は、ある重要な史実を解明するヒントとなった。
何のことかと言えば、「下関“八百長”戦争」の証明である。
それでは、下関戦争が八百長であったことを証明します。
まずは、ウィキで「下関戦争」を見てみる(抜粋)。



下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末に長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。
歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い。今日では1863年のことを下関事件、1864年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している。また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、1863年のことを「下関事件」、1864年のことを「下関戦争」と呼んで区別している教科書もある。

孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束した。幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。

• 前段: 文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。約半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。
• 後段: 元治1年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
• 攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。
• 攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を発見。総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。


馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。

長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通航不能となっていた。これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。アジアにおいて最も有力な戦力を有するのはイギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げており、海峡封鎖でもイギリス船が直接被害を受けていないこともあって、本国では多額の戦費のかかる武力行使には消極的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。
だが、駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。元治元年(1864年)2月に幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきていた。
日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意した。オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し4月に四国連合による武力行使が決定された。オールコックは本国に下関を攻撃する旨の書簡を送る。だが、本国外務省は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的でこれを否認する旨の訓示を日本へ送る。この当時はイギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかり、訓示が到着したのは攻撃実行後となり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められることになった。
イギリスに留学していた長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による下関攻撃が近いことを知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途についた。イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れた事を現地で知った二人は戦争をしても絶対に勝てないことを実感していた。
伊藤と井上は三カ月かかって6月10日に横浜に到着。オールコックに面会して藩主を説得することを約束した。オールコックもこれを承知し、二人を軍艦に乗せて、アーネスト・サトウを伴わせて豊後国姫島まで送り、長州へ帰させた。二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩では依然として強硬論が中心であり、徒労に終わった。
6月19日、四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達する。
なお、艦隊の出発前に、フランスから幕府の外交使節団(横浜鎖港談判使節団)が帰国したが、使節がフランスと取り交わしたパリ約定には関門海峡を3ヶ月以内に通行可能にする条項が含まれていた。オールコックは、幕府がこの約定を批准することにより、四国連合からフランスが脱落することを恐れたが、幕府は約定の内容を不満として批准は行わなかった。結果、攻撃は予定通り実施されることとなった。

8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れたと述べている。
18日に下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。
ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになった。
これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能なこともあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまでという名目であった。

禁門の変の勝利を受けて幕府は長州藩への攻撃の準備に取りかかった(第一次長州征伐)。京都と下関との二度の敗戦で戦う余力のない長州藩では保守派(俗論党)が主導権を握り、11月に禁門の変の責任者を処罰して幕府に謝罪恭順した。
12月、この俗論党政権に対して高杉晋作が奇兵隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。翌慶応元年(1865年)に高杉らは内戦に勝利し、倒幕派が長州藩の主導権を握るようになる。
下関戦争の敗戦を受けて長州藩は攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動をおし進めることになる。
なお、オールコックの手元には届かなかったが、イギリス政府は日本における軍事行動を禁止する訓令をすでに出していた。下関戦争は結果としてこの訓令に背いたことになり、その責任を問われてオールコックは駐日公使を解任され、本国に召喚された(1864年12月25日離日)。

長州藩との講和談判によって、300万ドルもの巨額の賠償金は幕府に請求されることになった。イギリスはこれを交渉材料にフランス・オランダと共に将軍徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し、幕府に安政五カ国条約の勅許と賠償金の減額と引換に兵庫の早期開港を迫ったが(兵庫開港要求事件)、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れた。幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年(1874年)までに分割で支払った。
明治16年(1883年)2月23日、チェスター・アーサーアメリカ大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル87セント)の日本への返還を決裁した。300万ドルの賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、アメリカは合計で78万5000ドルを得ていた。
実際のアメリカの損失は、
1. アメリカ船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル
2. 長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル
3. 水夫への危険手当2000ドル
だった。





ところで、大変重要なことをお伝えします。

下関戦争は、長州ファイブがイギリス留学に行く直前に勃発しました!

改めて、下関戦争の開戦日は。


https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89_%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9%E3%81%AE%E6%94%98%E5%A4%B7%E6%B1%BA%E8%A1%8C

攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を発見。総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。



長州ファイブの出港日時は?(ウィキより抜粋)

5月12日(6月27日)、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で横浜を出港し、上海に向かう。このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶことを恐れ、志道家を離別している。




ともに1863年の出来事であるのは言うまでもありません。
グラバーは、アメリカ船を砲撃した同じ長州藩の人間をイギリス留学させることに協力したのです。

それもアメリカ船が砲撃された2日後に・・・

「グラバーはイギリス人だからアメリカのことは関係ない」などと思っていたら、大間違いです。
イギリスもアメリカも同じフリーメーソン繋がりなのです。
いくら今まで“仲良く”長州ファイブのイギリス留学を進めていたグラバーも、同時期に同じ長州藩によるアメリカ船の砲撃を知れば、「お前ら、なんちゅうことをするんや!
それもワシらがお前らのイギリス留学の準備を進めてやっているさなかに!もうお前らは信用できん。留学は取りやめじゃ!」と叫ぶでしょう。

まぁ、グラバーが大阪弁を話すわけはありませんが(笑)

分かりますよね。

長州藩に“わざと” アメリカ船を砲撃させたのです。
そして、被害を受けた“フリ”をしたのです。


この時既に長州ファイブを留学させるほど“仲良くなった”イギリスと長州なのですから、“お芝居”を演じさせることぐらいは朝飯前だったでしょう。
ウィキには「下関戦争の敗戦後、長州は攘夷が無理であることを悟り、イギリスに接近し、倒幕に動いた」と書かれているが、長州ファイブを留学させていることから分かるように、下関戦争以前から、長州とイギリスは“大の仲良し”だったのです。

そして、巨額の賠償金を幕府が支払わされています。

長州ファイブの留学費用も、幕府から得た賠償金から捻出する計画だったんでしょう。
長州ファイブをフリーメーソンにさせて傀儡として操ることで日本を強奪する・・・

全てが計画通りです・・・


次に、下記ブログ記事より一部転載します。


(飛耳長目 国際紛争の心理)さん
https://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/15142175.html?__ysp=44OQ44Ot44OD44K15Y%2B3IOahguWwj%2BS6lOmDjg%3D%3D

1865年4月、アメリカの国旗を掲げたモニター号は、村田蔵六(大村益次郎)を上海に連れて行き、船舶売却、武器購入を手伝う。
65年4月17日(旧暦3月22日)、薩摩藩は、幕府の許可を受けることなく、留学生15名を英国へ送った。五代、松木、新納など。グラバーの斡旋。

65年4月30日付(元治2年4月6日)伊藤と井上からサトウへの手紙。長州藩も学び始めたとの記載。
1865年4月17日(元治2年3月22日) 長崎代理領事AAJガウアーによると、高杉と伊藤がイギリス商船ユニオン号に便乗し、ヨーロッパ人に扮装して、3月21日に長崎着、英国領事館に逗留。グラバーやラウダーから、二人の洋行中止を忠告。
4月22日 グラバー商会のサツマ号が長崎から上海に向かうとき、下関経由。
65年6月26日付 サトウ(薩藤懇之助という署名)から伊藤宛の手紙。
第2次長州戦争のために、幕府側から5万1千人が江戸を発ったこと、下関沖の英国軍艦1隻は徳川に加勢するためではないこと、他国商船から長州藩が物資を買うことは何ら問題ないことなど(武器密輸入)。
6月、パークス公使、日本赴任のため長崎に滞在中に、各藩と面会。
横浜に向かう途中の下関に停泊中、レパード号を訪ねてきた長州藩士(桂小五郎、伊藤俊輔、井上聞多など)と面会。このときは、伊藤らは下関開港の意向を否定。
65年8月19日、バロッサ号が下関定期視察。8月23日、鈴尾、桂が来艦。返礼として翌日ボーイズ艦長が上陸、桂の私邸に招かれたとき、協定中の一項目(大砲を設置しない)の一時停止を求められる。ボーイズが託され、桂小五郎からパークスへの手紙、鈴尾から4カ国代表宛の手紙(のち返却)。
7月、ロンドンの松木ら、オリファント、レイヤードなどに働きかける。これが、ラッセル外相の8月23日付訓令に影響。
9月、二人の長州藩士(伊藤俊輔と井上聞多)が薩摩藩士と称して長崎の薩摩藩家老小松の庇護の下に、当地の同藩邸に滞在。グラバー商会から、大量の武器を買い付け。
65年10月、五代才助がベルギーでモンブランと商社設立。
10月26日、パークスは、ロッシュ、ポルスブルックと会談し、4カ国艦隊で兵庫沖に進出の同意をとる。
65年11月1日、酒井の反対を押して兵庫沖へ3カ国の艦隊9隻で出発。
9日、薩摩の胡蝶丸の船長と部下が兵庫沖の英国艦隊に来艦(実際は西郷の指示)。サトウが鹿児島にいたことを覚えていた。
11月12日 シーボルトとサトウ、薩摩船の胡蝶丸を訪問。有川船長。春山副船長と会う。





引用した本書の文章とこのブログ記事を合わせれば、より真実が見えてきます。
「下関に入港したイギリス軍艦バロッサ号を桂小五郎が表敬訪問し、その翌日、桂がボーイズ艦長とイギリス公使館員ラウダーを自宅に招いた」のは、1865年8月でした。
同年9月、「二人の長州藩士(伊藤俊輔と井上聞多)が薩摩藩士と称して長崎の薩摩藩家老小松の庇護の下に、当地の同藩邸に滞在。グラバー商会から、大量の武器を買い付け」をします。
明らかに、薩長同盟(1866年3月)以前に薩摩と長州は繋がっています。

1866年に坂本龍馬の仲介で成立した薩長同盟なんて、嘘八百です!

幕府からせしめた賠償金を元手に(?)グラバーから大量の最新の武器を買い付けた長州は、第二次長州征討で幕府に勝利します。
というか、幕府の責任者に西郷が選ばれていることから、この戦争も八百長くさいのです。

ちなみにサトウとシーボルトが繋がっていることから、シーボルトも「彼ら」の一味であった可能性が高いですね。

ところで、同時期に発生した(させた?)生麦事件と薩英戦争も“やらせ”のように思えます。
こちらも最終的な賠償金は幕府が支払わされています。



(生麦事件)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
折しも将軍徳川家茂は上洛中であり、滞京中の老中格小笠原長行が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたることとなった。賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾するが、水野忠徳らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決する。しかし、攘夷の勅命を帯びて将軍後見職・徳川慶喜が京都から戻り、道中より賠償金支払い拒否を命じたため事態は流動化し、支払い期日の前日(5月2日)になって支払い延期が外国側に通告された。これにニールは激怒、彼は艦隊に戦闘の準備を命じ、横浜では緊張が高まった。
再び江戸で開かれた評議においては、水戸藩の介入もあって逆に支払い拒否が決定されるが、5月8日、小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じた。翌9日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。一方、横浜に滞在していた慶喜は小笠原と入れ違いに江戸に戻っており、小笠原との間に賠償金支払いを巡って黙契が存在していたという説がある。小笠原は、賠償金支払いを済ませたのち再度上京の途に就くが、大坂において老中を罷免された。
幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。しかし交渉は不調であり、7月2日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した。
10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。薩摩藩は幕府から借りた2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。


(薩英戦争)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89
島津家は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されず。
イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。





イギリスは“実行犯”であるはずの薩摩には寛大だが、幕府には厳しいようですナ。
生麦事件は“やらせ”でなかったとしても、幕府から賠償金を得られたことで味を占めた「彼ら」は、下関戦争を「計画」するヒントにした可能性が高そうです。

こうやって幕府を弱体化させることによって倒幕を成功させ、長州・薩摩を傀儡として操る“フリーメーソン傀儡国家ジャパン”が誕生するのです。


「グラバー・長州・薩摩の三角取引と、その下請け業者であった亀山社中」に関する情報も、貴重なものでした。
亀山社中は語られているような“我が国初の商社”なんてご立派なものではありません。
実体は、グラバーをはじめとしたフリーメーソン人脈に操られた坂本龍馬に、日本売国を目的として作らせた「不正武器密貿易集団」に過ぎないのです。
坂本龍馬については、以前、記事にしています。




http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-703.html
明治維新こそ「彼ら」の「彼ら」による「彼ら」のための日本支配体制が確立された「日本転覆クーデター」なのです
「幕末・明治維新の真相、歴史の裏舞台に“貢献”したフリーメーソン・工作員の正体を暴く①(坂本龍馬編)」






本書の内容からはかなり逸脱した記事となったが、下関戦争と薩英戦争についてはいずれ記事にしようと思っていたので、いい機会となった。
そろそろ本書の主題に入ろうと思う。
タイトルを見て分かるように、本書は西郷隆盛について批判的に書かれている。
西郷についての著者の判断は、ある意味では正しいだろうが、ある意味では間違っているだろう。
著者は、あらゆる点で西郷を批判しているのだが、その中でも赤報隊のテロ工作活動に西郷が関与していたという指摘が一番気になった。
「赤報隊は、岩倉の了承を得て、西郷が組織した」「赤報隊は、江戸で放火・略奪・強姦といった蛮行を繰り返し、必ず薩摩藩邸に逃げ込んだ」と、指摘している。
改めて、赤報隊をウィキで見てみる。



赤報隊(せきほうたい)は、江戸時代後期の幕末に結成された草莽隊で、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。
薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て、慶応4年1月8日(1868年2月1日)に近江国松尾山[要曖昧さ回避]の金剛輪寺において結成される。隊長は相楽総三で、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主として擁立する。隊の名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられた。一番隊、二番隊、三番隊で構成されていた。
相楽総三は、薩摩藩邸の浪士隊の総裁として、下野や相模、江戸市内において旧幕府軍に対する挑発的行為として工作活動などを行い、これが戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽・伏見の戦いのきっかけにもなった。




赤報隊の悪行に西郷がどこまで関わっていたかは定かではないが、関わっていたのは事実だろう。そのことで著者が西郷を批判するのも筋が通っているだろう。
これらのテロに堪忍袋の緒が切れた幕府勢力は(大政奉還後ではあるが)、江戸藩邸の焼き討ち事件を起こし、鳥羽・伏見の戦い(これも八百長だけどね)を起こすきっかけとなったのである。
すべての事件の本当の黒幕は、「彼ら」である。

この件に限らず、この頃の西郷は、岩倉、木戸、伊藤、大久保らとともに「彼ら」の傀儡として倒幕工作に関わっていたのは間違いない。
新聞・テレビが絶賛する、明治維新に関わった“偉人”たちの誰もが、「彼ら」の手先であったことは、疑いようがない事実である。
例の「語られている史実」にも、当然、西郷は、直接ではないにしても関わっている。
これらの事実を根拠として西郷が批判されても仕方ないのであるが、「西郷が西郷であらしめたのは、その晩年にある」と私は思う。
著者は、「征韓論の真実」及び「西南戦争の真実」を理解していない。
戊辰戦争の頃までの西郷は、岩倉、木戸、伊藤、大久保らとともに「彼ら」の傀儡に過ぎなかったであろう。
しかし晩年の西郷は、明らかに岩倉、木戸、伊藤、大久保らとは異なる存在であった。
岩倉は別にして、恐らく木戸、伊藤、大久保らも、当初は自分たちが「彼ら」(「彼ら」の存在をどこまで理解していたかは別として)の傀儡に過ぎないことを理解できていなかったのではないだろうか。
下級身分からの脱出を願い、幕府の横暴を正し、本当の意味での「人民の国家」を建設したかったのではないのだろうか。
その目的のためには天皇でさえ弑逆することも辞さず、と思ったのではないのだろうか。
勿論、そんな暴挙は許されるわけはないのだが、「自己の利益の追求」ではなく「日本国民全体のため」だとの想いゆえであれば、百歩譲って理解できなくもない。
西郷も、当初はこのような想いだったのではないのだろうか。
その“大志”を成就させるために、「彼ら」の力を少し利用したのである、と。
しかし利用したのは西郷ら維新勢力ではなく、「彼ら」の方であった。
木戸、伊藤、大久保らはそのことに気づいても、態度を改めなかった。
「自分たちが利用されているとしても、利用されることで自分たちは“立派”な地位に就けるし、“金持ち”になれるし、“幸せ”になれるじゃないか」と思い、国民の生活そっちのけで私利私欲に走り、日本古来の伝統文化を捨て去り、単純に西洋を模倣する国家運営に終始し、国是であった鎖国を取っ払い、他国に侵略戦争を仕掛ける“戦争大好き国家”を生み出していったのである。
偽りの天皇絶対主義を国民に強制することと引き換えに。

ただ、西郷は違った。

自分は「彼ら」に利用されているだけの人形に過ぎない。
このままではこの国は大変なことになってしまう。
西洋・悪魔勢力に骨の髄から食いつぶされてしまう。
自分が死んでもこの国を、日本国民を、アジアの民を、悪魔勢力から救ってみせる。
そのためにはまず、自分が朝鮮に話し合いに行くんだ。


と、判断したのである。
これが西郷の凄さである。
この西郷の英断を征韓論と偽るとは何たることだ!

著者は、主流の御用歴史作家とは一線を画し、「明治維新の真実」を浮き彫りにしようとしている稀有な作家である。
そのことは、素直に評価したい。
しかし、なんども太田龍氏と比較して申し訳ないが、最終的には寸止めである。
「語られている史実」に少しは触れるが、核心の部分は書かない。
いや、書けないのだろう。
孝明天皇弑逆事件に少し触れているが、明治天皇の入れ替え説には全く触れていない。
グラバーをはじめとした外国勢力と維新勢力の関わりには少し触れているが、深くは追及していない。
勿論、フリーメーソンのことにも触れていない。
恐らく、このあたりの知識が欠落しているのだろう。
歴史にお詳しい“お歴々”は数多存在しているが、フリーメーソン及び国際秘密結社の存在を無視して(知らないで)歴史を語る方が大多数である。
著者もその一人であるようだ。
そのような知識では本当の歴史は見えてこない。
95%は正しくても、5%の最重要箇所を理解しないで(または無視して)導き出した歴史は、「歴史の真実」からかけ離れてしまうのだ。
偉そうなことを言って申し訳ないが、著者には今後、そのあたりの知識を身に着けてもらいたいと思う次第である。
「真実の幕末日本史」を追及しておられるのであれば。

最後に一言、言っておきたい。

西郷隆盛は、「イルミナティ」という言葉を知らなかったとしても、「イルミナティ」の悪魔性を肌で感じていた。フリーメーソンになることで得られる「自己の利益」を拒否し、日本やアジアのためにイルミナティ悪魔勢力と命懸けで戦った本物の英雄である、と。



評点:60点







ポチッと押してもらえると、明日への活力となります
にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村

COMMENT

EDIT COMMENT

非公開コメント

テンプレート説明

このテンプレートは、プラグイン1・2・3に対応しています。
背景はスライドショーになっています。

◎プラグイン説明

最上部のメニューバーがプラグイン1です。マウスオーバーで展開するメニューになっていますので、お好みでプラグインを設定してください。「HOME」のような普通のリンクも置けます。
←のエリアがプラグイン2です。有効範囲幅は180pxです。
このエリアがプラグイン3です。有効範囲幅は540pxです。
サイズの大きなプラグインに適しています。

※最上部メニューバーの上に隙間がある方

最上部のメニューバーの上にFC2検索バー用のスペースを設けています。
検索バーを表示しない設定にしている方は、cssの最上部メニュー.MegaMenuの中にあるtop:27pxをtop:0に変更してください。

◎背景スライドショー説明

random : 1, // ランダム 0:オフ 1:オン
transition : 1, // 0:単純画像切替 1:フェード 2~7:移動 8:ページ更新毎に切り替え
transition_speed : 1000, // 画像間の切替時間
slide_interval : 3000, // 1枚毎の画像停止時間
slides : [
{ image : '画像URL' } // 画像の追加・削除はここ

★テンプレート名で検索すると、作者のブログにより詳しい説明があるかも知れません。