ワールドカップに向ける情熱のほんの一部だけでも「戦後日本史の真実」を理解する方向に向けてもらいたい - 歴史・宗教
FC2ブログ

嘘八百のこの世界

この世界の真実を追究して行くための読後評を中心に書いていきます

HOME プロフィール 真実を追究するマロン

ソウルマンの娘のマロンです。お散歩大好きです。 

最新記事 最新コメント 月別アーカイブ カテゴリ
ランキング
にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 ポチッと押してもらえると、明日への活力となります↑
ロック
頭脳警察、PANTA
RCサクセション、忌野清志郎
ブラック・ミュージック
広告

ワールドカップに向ける情熱のほんの一部だけでも「戦後日本史の真実」を理解する方向に向けてもらいたい

「戦後日本史の真実を探る」


ワールドカップもいいけれど、「日本を愛する若者」は、「あの戦争の真実」は勿論のこと、「戦後日本史の真実」を知らなすぎるのではないのだろうか。

「戦後日本史の真実」を理解していなければ、いつまでたっても「彼ら」悪魔勢力に操られるままであり、“無知なシープル”から脱却することができないだろう。

ワールドカップに向ける情熱のほんの一部だけでも「戦後日本史の真実」を理解する方向に向けてもらいたい。

「戦後日本史の真実」を理解していなければ、「現代日本の真実」が見えてこない。

「悪魔の計画の出所」が見えてこない。

「安倍や日本会議の“特殊な思考”の出所」が見えてこない。

「奴らがこの国を再び戦争に巻き込もうと画策している理由」が見えてこない。

“知らない間に”平和憲法が破壊され、“知らない間に”徴兵制が成立し、“知らない間に”戦争で殺されて、あの世で初めて“知って”も手遅れであるのだ・・・

そうならないためにも、「戦後日本史の真実」を正しく理解することは大変重要である。

「戦後日本史の真実」を理解するために、そのキーマンであった人物を改めて見てみる。
ともに「右翼」「フィクサー」「CIAエージェント」であった人物である。
はい、児玉誉士夫と笹川良一である。

まずは、児玉誉士夫から(ウィキより抜粋)



児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年(明治44年)2月18日 - 1984年(昭和59年)1月17日)は、日本の右翼運動家。CIAエージェントであったという。暴力団・錦政会顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した。三男はTBSサービス社長の児玉守弘

戸籍上は、福島県安達郡本宮町(現本宮市)中条45番地に生まれた。父の酉四郎の旧姓は山田といい、上杉家の家臣であった山田彦右衛門の子兵太夫が丹羽長重に仕え、以降、兵蔵-為貞-貞常-為英-為栄-為芳と続いた。祖父山田兵太夫は明治維新後、二本松の副参事になったが、父の代になって、同じ二本松藩の御典医児玉家から望まれて養子となったため、児玉姓にかわった]。ただし、これらの家系は後に児玉誉士夫自身によって作られた「設定」のようである。実際のところ、児玉誉士夫の出自は全く不明である。

最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏と津久井龍雄ら高畠素之門下によって創設された急進的な右翼団体「建国会」(会長は上杉慎吉、顧問に頭山)に加わった。すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。
その後、建国会を脱退した津久井の急進愛国党を経て1931年に津久井と狩野敏がつくった全日本愛国者共同闘争協議会に参加。そこで国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし投獄された。
1932年に釈放され、満州に渡り、大川周明門下の笠木良明ら率いる大雄峯会に参加。同年、帰国すると「独立青年社」を設立。頭山満の三男頭山秀三が主宰する天行会と共に、陸軍特別大演習に随行する斎藤首相や閣僚を暗殺し発電所を破壊して停電を起こすことで皇道派のクーデターを誘発しようと計画(天行会・独立青年者事件)。発覚して、3年半の懲役刑を受けた。その後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党に参加。
1937年、外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察。1938年、海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。
1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川の紹介で採用され、海軍航空本部の嘱託となった。ここで源田実と知り合い、戦後に源田が児玉に瀬島龍三を紹介した。1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。この縁で上海に児玉機関と呼ばれる店を出した。これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど、1億7500万ドル相当の資金を有するに至ったと言われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた

1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨プリズンに送られた。その間、ジャパン・ロビーの暗躍により右翼をパージするSCAPの方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「逆コース」を走るようになった。1948年12月24日に釈放されるが、そこでCIAに協力するようになったかが今でも議論されている。確かなのは、拘留中に昭和通商との関係を暴かれていたことと、釈放後も続く調査で吉田彦太郎が児玉機関の所有した国内鉱山を明らかにしていること、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析していることである。この間に公職追放となった。

1954年には、河野一郎を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自民党になった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した
岸首相の第1次FX問題をめぐる汚職を社会党の今澄勇が追及していた時には等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及をやめるように説得した。しかし、今澄が聞き入れないため、身上調書を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。児玉は東京スポーツを所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。

日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をした。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸信介首相は自民党の木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉はその世話役も務めた。
1962年(昭和37年)の夏頃から、「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という構想のもと、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局、同会は結成されなかった。しかし、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らの同意を取り付けていた。昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃」を実現させた。

1967年7月、笹川良一の肝煎りで、「第一回アジア反共連盟結成準備会」が開催された。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。
1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。
児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる朴正煕とは満州人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。


ロッキード裁判[編集]

しかし1976年(昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後、三木武夫首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」を起こし、床についた。
しかし、間もなく児玉は脱税と外為法違反で在宅起訴され、裁判に臨むことになった。1977年(昭和52年)6月に一度公判に出廷した後は病気と称して自宅を離れなかった。元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され、1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出された。児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして没し、裁判は打ち切りとなった。





児玉誉士夫に触れると、これまで当ブログで暴いてきた「日本の闇」と繋がってくる。
この闇はあまりに深いのだが、とりあえずここではロッキード事件を見てみる。




http://www.twitlonger.com/show/n_1sou8hq
ロッキード事件で田中角栄元首相が人物破壊工作の標的にされた。

田中首相は米国を頭越しに中国と国交を回復した。

このことについて、米国のニクソン大統領の補佐官であったキッシンジャーが

“Of all the treacherous sons of bitches, the Japs take the cake.”

「汚い裏切り者どものなかで、よりによって日本人野郎がケーキを横取りした」

と述べている。

キッシンジャーは1971年7月9日に極秘に訪中し、周恩来首相と会談。

ニクソン大統領の訪中を固めた。

ニクソン大統領は1971年7月15日に訪中計画を公表、72年2月に訪中を実現した。

このなかで、1972年7月に首相に就任した田中角栄は9月に訪中して日中国交正常化を実現した。

キッシンジャーは8月に訪日して田中首相に国交正常化延期を要請するが田中首相が一蹴。

そして、田中首相の訪中直前の8月末にハワイで行われた日米首脳会談の直前に、

キッシンジャーはバンカー駐南越大使と会談して、上記の発言を示した。

田中角栄氏が米国による人物破壊工作の標的にされる背景のひとつになった事案である。


ロッキード事件の本質は、

日本の政治権力が

米国の政治権力と結託して、

メディアを総動員して

違法かつ憲法違反の行動を強行することにより、

政治的敵対者を抹殺したところにある。

ロッキード事件の実質的な首謀者は、

田中角栄の敵対者であった三木武夫首相

ロッキード事件の陰の主役であった中曽根康弘氏

そして、田中角栄を人物破壊する意思を有した米国

の三者であり、

これに加担したのが、

検察

裁判所

マスメディア

である。

この図式は、日本における主要な人物破壊工作に共通して見られるものだ。



平野貞夫氏の著書は、ロッキード事件で

児玉誉士夫に対する証人喚問が行われなかった真相を明らかにしている。

1974年2月にアメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会が、

ロッキード社による航空機売り込みを目的とする他国への工作資金提供が明らかにされた。

ここからロッキード事件が表面化する。

日本への資金提供の中核は児玉誉士夫に対する21億円の資金提供であり、

日本の国会は児玉誉士夫らに対する証人喚問を決めた。

ところが、現実には児玉誉士夫は登院せず、証人喚問が行われなかった。

その結果として、小佐野賢治氏ルートにだけ焦点が当てられることになったが、

児玉誉士夫ルートの中核が中曽根康弘氏、小佐野ルートの中核が田中角栄であった。

中曽根康弘氏は三木武夫政権下で自民党幹事長職にあり、

ロッキード事件は児玉―中曽根ルートを封印し、

小佐野-田中ルートにだけ絞り込まれるかたちで進展したのである。



しかし、米国から持ち込まれた資料に田中角栄の名は存在しなかった。

田中角栄元首相の立件は不可能な状況であった。

この状況下で、日本の行政、司法権力は、日本国憲法、各種法令に違反するかたちで、

ロッキード社のコーチャン氏に対する嘱託尋問調書を入手して、

これだけを根拠に田中角栄氏を逮捕、起訴して葬ったのである。


田中元首相が有罪とされた根拠はコーチャンの嘱託尋問調書しかない。

1976年6月28日、カリフォルニア中央地区連邦地裁がコーチャンに対する証人尋問を行った。

しかし、外国の裁判所に依頼して証人尋問することは、法律に規定の無い違法措置である。

そして、この尋問は被疑者である田中角栄元首相や弁護人を立ち会わせることもない、

基本的人権を無視したものであった。

さらに、違法行為が明らかになっても免訴することについて、日本の最高裁が不起訴宣明を出した。

嘱託尋問は日本の最高裁による「不起訴宣明書」交付によって実現し、その調書が提出されたのである。

三木内閣と最高裁が一体になって憲法と法律を踏みにじる行為を実行し、

法理的に不可能な田中角栄逮捕、起訴を実現したのである。


他方で、事件の本来の中核である児玉-中曽根ルートの解明は、

児玉誉士夫に対する証人喚問が実現しなかったことを契機に、闇に葬られた。


その証人喚問不能を「創作」したのが、

東京女子医大の喜多村孝一教授

による

フェノバールとセルシン

注射である。







どうやら、児玉誉士夫は口封じされたようである・・・



http://gekkan-nippon.com/?p=9317
天野惠市 児玉誉士夫の口を封じた薬物注射

児玉誉士夫に薬物が注射された事実
―― 天野さんは『新潮45』(2001年4月号)に「児玉誉士夫の『喚問回避』に手を汚した東京女子医大」という手記を寄せられています。その中で、児玉誉士夫は重症脳梗塞による意識障害のために国会の証人喚問に応じられないとされたが、児玉の意識障害の原因は、児玉の主治医だった東京女子医大教授の喜多村孝一が薬物を注射したことだと暴露されています。この点について改めて教えていただけますか。
天野 順を追ってお話ししましょう。昭和51年2月5日、朝日新聞の報道により、米国のロッキード社が児玉誉士夫に21億円もの不正な政治献金を行っていたことが明らかになりました。このお金は児玉を通じて政界にも流れた疑いがありました。そこで、国会はロッキード事件の真相を解明するために、児玉の証人喚問を決定したのです。
 ところが、この証人喚問は実現しませんでした。それは、児玉の主治医である喜多村孝一が国会に、「児玉誉士夫は脳血栓による脳梗塞の急性悪化状態にある」という診断書を提出したからです。
 しかし、その数日前には、児玉はゴルフをしており、ゴルフ場内のレストランで支払いレシートが見つかったと言われていました。もしこれが事実であれば、喜多村の診断書は嘘ということになります。国会はその真偽を確かめるべく、独自に医師団を結成し、児玉邸に派遣することにしました。
 ところが、国会医師団の診断結果は驚くべきものでした。児玉は実際に重症の意識障害下にあり、証人喚問は不可能ということになったのです。つまり、喜多村の診断書の内容は正しいということになりました。
 しかし、これには裏がありました。国会医師団が児玉邸に行ったのは2月16日の午後10時頃です。実はその数時間前に、喜多村が先回りして児玉邸に赴き、児玉にフェノバールとセルシンを注射していたのです。
 フェノバールは強力な睡眠剤であり、どうしても眠れない患者や、てんかん発作が起きた患者などに使用する薬です。また、全身麻酔をかかりやすくするための前投薬としても使用されます。セルシンも同じく強力な睡眠剤で、患者が興奮状態で手に負えない場合などに使用されます。これらを同時に使用すれば、昏睡状態が生じ、数時間は当然口も利けなくなります。
 これらの注射によって生じる昏睡状態は、重症脳梗塞による意識障害と酷似しています。もちろん血液や尿を採取すれば、薬物の存在を確認することはできます。しかし、国会医師団はまさか児玉にこのような注射が意図的に打たれているとは思わなかったのでしょう。それ故、彼らが児玉の症状がこのような注射によるものだと見抜けなかったとしても無理はありません。

(編集部註①)児玉誉士夫の証人喚問をめぐる主な動き
・2月5日   ロッキード事件が発覚
・2月10日 児玉の証人喚問が決定
・2月12日 喜多村が記者会見で、児玉の証人喚問は不可能と発表
・2月14日 喜多村が国会に児玉は脳梗塞だとする診断書を提出
・2月16日 国会医師団が児玉を診断、証人喚問は不可能と結論
児玉が脳梗塞ではないと確信した理由
―― 天野さんはどのようにして喜多村が注射を打ったことを知ったのですか。
天野 喜多村本人が私にそう言ったからです。2月16日の午前中、私は東京女子医大の脳神経センター外来室で患者を診ていました。午前の診療を終え、これから昼食だという時に、私の外来診察室2番に隣接した外来診察室1番の喜多村の診察室から、喜多村の大きな声が聞こえてきました。喜多村は何やらただならぬ様子で往診の準備をしているようでした。
 私が「何をされるのですか」と尋ねたところ、喜多村は「これから児玉様のお宅へ行ってくる」と言いました。喜多村は児玉を呼ぶ際、必ず「児玉様」と呼んでいました。
 しかし、報道では、近く国会医師団が児玉邸に派遣されると言われていました。「国会医師団が児玉邸に派遣されると言われているのに、何のために行くのですか」と問うと、「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、フェノバールとセルシンを打ちにいく」と言うのです。……





ロッキード事件の真犯人は・・・

http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-2475.html
フォード大統領に私の親書を渡してほしい。そして、『よろしく頼む』と伝えてほしい。
「瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人」鬼塚英昭


私はあるルートで妙なことを聞いた。それは、三木武夫首相が天皇に呼び出されたとき、天皇は首相に次のように言ったのだ。
「どうしても田中角栄を逮捕してほしい。彼は、私のファミリーのスキャンダルを種に脅しをかけた。私は彼を赦せないのだ」
三木武夫首相はフォード親書について説明した後だった。「どうすればいいのでしょうか」と三木は天皇に尋ねた。天皇は答えた。
「フォード大統領に私の親書を渡してほしい。そして、『よろしく頼む』と伝えてほしい」


私は天皇のスキャンダルが何であったかは書かないことにする。しかし、私は、あの時のあの場を決して忘れられない。あの時以来、私は三木・フォード会話の内容について調査してきた。しかし、新資料は出てこなかった。宅見勝について書かれた本を探し出しているうちに田原総一朗と田中森一の『検察を支配する「悪魔」』(2007年)を読み、ロッキード事件について田中森一(元特捜検事)が次のように語っているのを知った。

ロッキード事件に関わっていたわけではないので、詳しいことはわかりませんが、検察内部で先輩たちから聞くところによると、時の権力が全面的にバックアップしてくれたので、非常にやりやすかったそうです。
主任検事だった吉永祐介あたりに言わせると、「あんな簡単でやりやすい事件はなかった」-。
普通、大物政治家に絡む事件では、邪魔が入るものですが、それがないどころか、予算はふんだんにくれるは、いろいろと便宜を図ってくれるわです。三木武夫総理を筆頭に、政府が全面的に協力して、お膳立てをしてくれた。





次に、児玉誉士夫を操っていた笹川良一を見てみる(ウィキより抜粋)。



笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5月4日 - 1995年〈平成7年〉7月18日)は、大正・昭和時代の日本の政治運動家、社会奉仕活動家。大阪府三島郡豊川村小野原(現・箕面市小野原)出身。

国粋大衆党総裁、国際勝共連合名誉会長、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(現・公益財団法人日本財団)会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。称号は箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者

第二次世界大戦前の笹川は、自分を「大衆右翼」と位置づけベニート・ムッソリーニを崇拝、大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。強硬外交を主張しつつ日本社会へのファシズムの浸透に注力したが、大東亜戦争(太平洋戦争)遂行には否定的であった。
第二次世界大戦後は、連合国によりA級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈放される。戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことが証明されたことなどから有罪認定はされていない。
なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者及びその家族との書簡は笹川の没後に公表された。
巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与。モーターボート競走の収益金で造船の振興をすすめ、更に福祉方面の公共事業を助成する財団法人日本船舶振興会(現:公益財団法人日本財団)を創設した。
株式取引に長け、姪婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して事態を乗り切ることに成功している。1974年(昭和49年)、アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えている。
またマスコミからは、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、「右翼のドン」と呼ばれた。CIAエージェントであったとも報じられている。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な慈善事業等や歴史学者による検証により、その功罪と評価は徐々にながら中和されつつある傾向がある。
1925年(大正14年)、父の遺産を元手に豊川村の村会議員に立候補し、当選して政治活動を始める。芸能事務所経営を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。  

その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援、1931年(昭和6年)には右翼団体・国粋大衆党を結成し総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいたこともある。イタリアの指導者であるベニート・ムッソリーニの崇拝者であり、ムッソリーニ率いるファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイ・川島芳子との交際があったと噂されている。本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。のちに、多田駿の指示があってか、暗殺の危険を感じた川島が里見甫などに相談した結果、笹川の元に身を寄せたこともあり、一方で、党総裁の笹川も、そんな川島の国民的知名度や人気にあやかろうとしていたともされている。
1935年(昭和10年)に大阪鉄道の買占めの際に、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕された。大阪刑務所に約4年間収監されたが最終的には無罪となり、釈放されている。その後、1939年(昭和14年)には飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の山本五十六の後援があった
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では、戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢のため非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や岸信介、安岡正篤とも親交があったとされる
1945年(昭和20年)には、日本を占領下に置いた連合国指令によりA級戦犯容疑者として12月1日に逮捕命令が出て、12月11日に巣鴨プリズンに入獄したが、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった(翌年には公職追放を受ける)。
戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢であったことや、その後連合国の主要国であるアメリカの方針が180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する方針変換となったため(いわゆる逆コース)、1948年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党をさらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。
笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念、「日本が親米反共の道を選ぶべきこと」、「日本同胞を餓死から救わねばならぬこと」、「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。
この日記によると獄中の笹川は、東條英機に対して「あなたの死刑は確実だから、この戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよ」と説いている。また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。
1952年(昭和27年)に社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、1955年(昭和30年)には同連合会の会長に就任した。当初は赤字続きだったために廃止論が出されたが、笹川は赤字が続いていた自治体には私財を投じる一方で「競艇はやがて収益が出て、社会に大きく貢献する」と反論していた。1960年前後に競艇で収益が出るようになると、管轄官庁の運輸省が全モ連を特殊法人化して監督権限を強めて人事任命権や収入の国庫納入化を模索するが、笹川は自分が私財を投じたから競艇が成長したと反論。更に競艇の収益を活用する受け皿組織として1962年(昭和37年)に日本船舶振興会(現在の正式名称は日本財団)を創設し、会長などを務めた。そして、特殊法人化に距離を置く運輸官僚らに要職を用意したり、運輸省関連団体に寄付行為を行うなどして運輸省による監督権限強化論を押さえることで、競艇ビジネスが笹川一族の同族経営の色が深まることになった。
慈善事業の中には日本各地に『B&G(Blue sea & Green land)海洋センター』名の体育館等のスポーツ施設を整備(設置者はブルーシー・アンド・グリーンランド財団)したり、アフリカにおける緑の革命プロジェクトにおいて日本からのODAを補完してアフリカ諸国の食糧増産に貢献したり、全日本空手道連盟会長や少林寺拳法世界連合総裁を務めたり、一人一派で流派が乱立していた詩吟関係の団体を纏め上げて、日本吟剣詩舞振興会会長を務めたり、宇宙科学博覧会協会の総裁を務めるなどの活動があった。また、国際親善並びに少年の体力向上及び人格の陶冶に寄与することを目的に佐川急便の佐川清と少年軟式野球国際交流協会を設立した。
中でも特筆されるのは、WHOの天然痘根絶事業に対する巨額の資金協力(民間団体としては世界一)と、ハンセン病患者の救済である。ハンセン病のワクチン改良にはワクチン接種の第一号被験者となり、(財)笹川記念保健協力財団を作って会長として各国のハンセン病院を慰問して回った。
1979年、パリの国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)本部で行われた会議「平和フォーラム」にて、笹川はユネスコに100万ドルを寄付する旨の提案を行った。その際、「私は戦争犯罪人として投獄されました。〔…〕私は獄中で悔い改め、平和のために尽くすことを決意しました」と述べた。
統一教会とはある時期まで協力関係にあり、1963年(昭和38年)には、統一教会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一教会が1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体国際勝共連合では、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪化したためか、1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。
蒋介石との世界反共連盟設立や文鮮明との国際勝共連合創設など日本の代表的な反共主義者だったにも関わらず、1972年(昭和47年)9月の日中国交正常化以後は競艇で得た収益金の一部を、中国国民党と対立する中国共産党が支配する中華人民共和国への支援に回すなどして中国共産党の指導者である鄧小平とも親交を結んだ

なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、仏教系の新宗教・辯天宗の信徒総代になっている。また、山口組三代目・田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、暴力団の仲裁役を務めた。ロッキード事件が騒がれるとロッキード副社長と会った事実などが明らかになるが、笹川は「会ったことがあるが疑惑はない」と反論し、実際にそれ以上の追及はされていない





児玉や笹川が満州に関係していたことが分かれば、岸との関係も見えてきますね。
ということは、安倍との繋がりも見えてきますね。
当然、統一教との繋がりも。



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-1010.html
「彼ら」が本当にされて困ることは何か?(「あやつり人形」PANTA)
「恐るべき“あやつり人形”の系譜、岸信介から安倍晋三へ」


岸は首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満州人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織する。

日韓両国の反共産主義政策を推進する過程で、1968年、韓国の朴正煕政権の支援を受けて統一教会の教祖、文鮮明が国際勝共連合をソウルで結成、岸信介は日本での設立に児玉誉士夫、笹川良一と共に協力した。
尚、統一教会の下部組織に属する国際勝共連合は、右翼の政治団体として、総務省に登録している日本最大の右翼団体である。

正力松太郎などとともに米国中央情報局(CIA)から資金提供を受けていたとされる。2007年に米国務省が日本を反共の砦とするべく岸信介内閣、池田勇人内閣および旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し内政干渉していたことを公式に認めている。

国際勝共連合を通じて統一教会教祖文鮮明との交遊は晩年まで続いた。1974年(昭和49年)5月7日、東京の帝国ホテルで開催された文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」では、岸が名誉実行委員長となっている。1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際、米国で脱税被疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送った。
東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の岸邸隣に世界基督教統一神霊協会(統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「国際勝共連合」本部に足を運んだ。






「北朝鮮の真実」についても以前記事にしていますが、この人物も関係しているようです。
こんな系図や記事が出回っています。



http://blog-imgs-63.fc2.com/a/i/o/aioi/20140321232813510.png


http://pocop0c0.blog.fc2.com/blog-entry-1211.html?sp
笹川良一(韓国籍文堯)の弟の畑中理(はたなかおさむ金策キム・チャク)は金正日の父であり金正恩(ジョンウンコ)の爺!

ジョンウンコと安ほ倍(李晋三)と朴小泉純一郎とアホー太郎と喜朗とオウム韓国ヤクザ文笹川と文児玉誉士夫と文松井一郎と韓国マフィア文橋下徹とウン小池らはグルであることが判明しました

ほぼ予想通りですが
ジョンウンコが笹川良一(韓国籍文堯)の親戚だったのにはびっくりですね


この連中に関わると非常に危険です! 

鬼一郎の子が笹川良一と陸軍中野学校出身で北朝鮮残置謀者となった畑中理(金策)

金正日の母親は金正淑(キムジョンスク)ですが、父親は金日成ではなく金策(畑中理)です。


北朝鮮を建国したと言われる故金日成(キム、イルソン)国家主席は、抗日独立戦争の英雄4人を合体して作り上げた単なる偶像です。

横田めぐみは北朝鮮国家安全保安部局長

ちなみに
横田早紀江は日本の天皇を殺した伊藤博文が扶育した李垠(イウン日本軍中将)の娘

笹川良一(韓国籍文堯)の子分が児玉誉士夫松井橋下なので それぞれ
文児玉誉士夫 文松井一郎 文橋下徹 にすればわかりやすくなるでしょう


児玉ファイルによると児玉らは3兆円近く強奪したとされ たぶん南京大虐殺もやっていると思われる
ちなみに児玉の子分の稲川角二が暴力団(小泉)稲川会を作った
この稲川会はユダヤブッシュと資本提携している

ちなみに
笹川や児玉誉士夫には橋下と同じように朝鮮半島に親戚がいるようです







笹川良一は、あの「ちきゅう」や山下センセイにも関係しているようです・・・



(さてはてメモ帳)さん
https://blog.goo.ne.jp/beingtt/e/c434e271ab268e42106af2ac3e730fc5/?img=b78be95df20e4573cfcfbd2b885b8c27
山下俊一と日本財団(笹川財団) ほか

恨日プロトコール + 日本の恩人?
http://satehate.exblog.jp/18384632/ でのリンクより

第三国人のパチンコ業界 2012年08月30日
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/289079637.html

 日本財団なるバクチの売り上げで慈善運動などを支援している組織の理事長をやっていたのが、笹川良一の娘・曾野綾子であった。


笹川良一の本名は「文 尭」である。



朝鮮では同じ苗字は同族だから、あの文鮮明と親戚になる。統一協会を日本に入れたのも笹川と言われる。

 笹川も在日で、彼が日本船舶振興会を私物化して、巨額の利益を生むようにしていった。バクチの目くらましに日本財団をつくっただけのことである。日本財団なんかから援助をもらおうとする人の魂胆がわからぬ。

山下俊一と日本財団(笹川財団)/ni0615 2011-08-19 08:14:47
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/ae7acf2b2df17043c27b297f5749239e

福島の原発事故による健康影響をテーマとした「国際専門家会議」が 九月十一、十二の両日、福島市の福島県立医大で開かれる。十六日、 主催する日本財団が発表した。


山下俊一教授と日本財団 あるいは 笹川良一とアーマンド・ハマー&重松逸造とロバート・ゲール=裏IAEAのフィクサーたち
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/3157.html (若干配置換え)

笹川良一 :1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)
アーマンド・ハマー :1898年5月21日 - 1990年12月10日
重松逸造 :1917年(大正6年)11月25日 -
ロバート・ゲール :Robert P. Gale(65)

o 梗概
o 笹川良一と日本船舶振興会(現・日本財団)
o 笹川チェルノブイリ医療協力
o 関係年表(未完)
o (重松談)
o 参考
o 【日本財団・山下俊一側資料】


梗概

チェルノブイリ原発事故を持て余したゴルバチョフは、 ソ連政府の過小被害発表を追認してくれる健康影響調査をIAEAに依頼し、 その一方で、被災住民をなだめるための医療援助を、巨億を自由に動かせるハマーや笹川に依頼した。

そして重松逸造は、IAEAプロジェクトと笹川プロジェクト、 両方のトップ・リーダーとなった。


いわば、重松プロジェクトAと、Bとが、同時並行で動くことになった。

重松AのIAEAプロジェクトは、わずか700人を母数※とする『疫学調査』をさっさと済ませ、 1991年に結論を出してソ連政府の発表にお墨付きを与えた。

重松Bの笹川プロジェクトはその「結論」を踏まえて、5年間の医療援助が遂行された。 …10台のホールボディカウンタと甲状腺エコーを手土産にして。 派遣専門家のリーダーは山下俊一であった。
(※)http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/3123.html#id_0169b699



重松の「疫学専門家」としての実力は、 日本国内で次々と行われた公害訴訟で、「因果関係なし」の証言を行い、 国と企業を擁護したことで良く知られていた。
しかし、チェルノブイリの人々はそれを知らない。 「ヒロシマ・ナガサキ」が最大限利用された。 ハマーやゲールの名が先頭に立ってCIA臭が匂い立つよりは、 「唯一の被爆国」からやって来たといった方が、 被災者には、むろん「人道的」に映る。

げんざい、福島県内で繰り広げられている、 日本財団を後ろ盾とした山下俊一プロジェクトは、 チェルノブイリで遂行されたプロモーションの、 完全な焼き直しremakeといってよい。





http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-367.html
http://blog.goo.ne.jp/luca401/e/f60d7400fc53889a9a960c714cfd4be7
地震が起こる海域に行き掘削活動をすることで名高いちきゅう号を管理しているのは、笹川財団。

笹川財団は、国土交通省の管轄するギャンブル、モーターボート競争を独占経営している。(国土交通省の歴代大臣に注意)

この笹川財団=日本財団=東京財団こそ、郵政民営化で日本を売り飛ばした竹中平蔵の所属していた団体であり、民主党の『事業仕分け』を企画し、震災対策関連の予算を大幅に削除した組織。

先日、大阪市長戦で大勝した橋下知事もまた、笹川財団=日本財団=東京財団の支援をうけているそうだ。マスコミが橋下徹氏の動向を取り上げる、そのやり方は、かつて小泉純一郎氏が持ち上げられたのと非常に似ている。マスコミ=彼ら わかりやすい図式である。ともにある意味で被差別の出身であるふたりの出自をかんがえたとき わたしは偶然の一致かとすこし怖い気がする。







やはりこの二人を調べると、これまで当ブログで暴いてきた「日本の闇」「世界の闇」が次々と浮かびあがってきますよね。

ロッキード事件、右翼ごっこ、思想ごっこ、満州、麻薬、八百長戦争、統一教、ワクチン、北朝鮮、原発、ちきゅうetc

この二人に関係してくる人物は、中曽根、安倍、松井、橋下、竹中、山下etc

これらの人物を操っているのが誰であるかは、皆さん、ご理解いただいていますよね。

「児玉も笹川もCIAだから、CIAだ!」なんて単純思考はしないでくださいね。

「CIAを支配しているのは誰か?」といった思考で考えてくださいね。

「黒幕はアメリカだ!」なんて単純思考も勘弁してくださいね。

もう一度言います。

「ワールドカップに向ける情熱のほんの一部だけでも「戦後日本史の真実」を理解する方向に向けてもらいたい」と。

八百長戦争で殺されてしまう前に・・・

そして、さらに理解してください。

「ワールドカップも「彼ら」の「国民総白痴化計画」の一環に過ぎない」ということを。

「この「計画」は日本内のみでの「計画」ではなく、「世界的な計画」である」ということを・・・






ポチッと押してもらえると、明日への活力となります
にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村

COMMENT

>私はあるルートで妙なことを聞いた。それは、三木武夫首相が天皇に呼び出されたとき、天皇は首相に次のように言ったのだ。
>「どうしても田中角栄を逮捕してほしい。彼は、私のファミリーのスキャンダルを種に脅しをかけた。私は彼を赦せないのだ」
>三木武夫首相はフォード親書について説明した後だった。「どうすればいいのでしょうか」と三木は天皇に尋ねた。天皇は答えた。
>「フォード大統領に私の親書を渡してほしい。そして、『よろしく頼む』と伝えてほしい」

これについては、Youtubeで『太田龍 二・二六事件の真相、全面開示』と検索して下さい。

この動画が どんな内容かというと、
『昭和天皇・裕仁はイルミナティの操り人形で、日本を戦争へと追いやった戦犯だ』
という事です。

この動画、結構 色んな所が消されちゃってるけど、それだけヤバイ動画だという事です。

おそらく角栄は、昭和天皇・裕仁に対し
「お前の所為で、どれだけの日本国民が死んだと思ってるんだ!」
「お前の正体を国民にバラされたく無ければ、ゴールデンリリー(皇室の持ってる、秘密の資金。第二次大戦中に、アジア各国から収奪した金)を渡せ!」
とでも言ったのでしょう。

Re: タイトルなし

> >私はあるルートで妙なことを聞いた。それは、三木武夫首相が天皇に呼び出されたとき、天皇は首相に次のように言ったのだ。
> >「どうしても田中角栄を逮捕してほしい。彼は、私のファミリーのスキャンダルを種に脅しをかけた。私は彼を赦せないのだ」
> >三木武夫首相はフォード親書について説明した後だった。「どうすればいいのでしょうか」と三木は天皇に尋ねた。天皇は答えた。
> >「フォード大統領に私の親書を渡してほしい。そして、『よろしく頼む』と伝えてほしい」
>
> これについては、Youtubeで『太田龍 二・二六事件の真相、全面開示』と検索して下さい。
>
> この動画が どんな内容かというと、
> 『昭和天皇・裕仁はイルミナティの操り人形で、日本を戦争へと追いやった戦犯だ』
> という事です。
>
> この動画、結構 色んな所が消されちゃってるけど、それだけヤバイ動画だという事です。
>
> おそらく角栄は、昭和天皇・裕仁に対し
> 「お前の所為で、どれだけの日本国民が死んだと思ってるんだ!」
> 「お前の正体を国民にバラされたく無ければ、ゴールデンリリー(皇室の持ってる、秘密の資金。第二次大戦中に、アジア各国から収奪した金)を渡せ!」
> とでも言ったのでしょう。



コメントどーもです。

これですよね。
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-300.html

EDIT COMMENT

非公開コメント

テンプレート説明

このテンプレートは、プラグイン1・2・3に対応しています。
背景はスライドショーになっています。

◎プラグイン説明

最上部のメニューバーがプラグイン1です。マウスオーバーで展開するメニューになっていますので、お好みでプラグインを設定してください。「HOME」のような普通のリンクも置けます。
←のエリアがプラグイン2です。有効範囲幅は180pxです。
このエリアがプラグイン3です。有効範囲幅は540pxです。
サイズの大きなプラグインに適しています。

※最上部メニューバーの上に隙間がある方

最上部のメニューバーの上にFC2検索バー用のスペースを設けています。
検索バーを表示しない設定にしている方は、cssの最上部メニュー.MegaMenuの中にあるtop:27pxをtop:0に変更してください。

◎背景スライドショー説明

random : 1, // ランダム 0:オフ 1:オン
transition : 1, // 0:単純画像切替 1:フェード 2~7:移動 8:ページ更新毎に切り替え
transition_speed : 1000, // 画像間の切替時間
slide_interval : 3000, // 1枚毎の画像停止時間
slides : [
{ image : '画像URL' } // 画像の追加・削除はここ

★テンプレート名で検索すると、作者のブログにより詳しい説明があるかも知れません。