15歳の少年が新しい天皇になる。孝明天皇に比べてはるかに影響力を行使しやすかろうから、将軍の権力を強めることになろう。 by ハリー・スミス・パークス
「幕末維新を動かした8人の外国人」小島英記
2016年の書である。
幕末維新の日本に強い影響力を持った8人の外国人について、人物ごとに章を分けて記されている。
著者の主観はほとんど記されておらず、無味乾燥な印象を受けるが、個別の文章を掘り下げることで「明治維新の真実」が見えてくる。
パークスとサトウの章の中から特に気になった箇所を一部引用する。
<ハリー・スミス・パークス>
*長崎領事代理のガウアーの報告によれば、そのころ、長崎に長州の伊藤俊輔と井上聞多が薩摩藩士と称してあらわれ、薩摩藩家老の小松帯刀の庇護で同藩邸に滞在、「薩摩藩は、来るべき長州征討に関して、表面上は幕府に協力的な態度をとっているが、実際は長州藩擁護のために全力をつくしている」。長州藩が薩摩藩の名を借りてグラバー商会から多量の武器を買い付けていることを知り、イギリスはいちはやく薩長接近を嗅ぎつけた。
*慶応二年(1866年)1月21日、薩長連合の密約が成立する。
・・・・・(中略)・・・・・
3月中旬、パークスは英国商人トーマス・グラバーの介在で、薩摩側から鹿児島訪問の招待を打診された。「私は関税の改訂交渉が終わり次第、(中略)長崎に出かけるつもりだが、長崎滞在中、薩摩、それにできれば他の1,2の大名を訪問する機会をえたいと願っている」。
・・・・・(中略)・・・・・
パークスは5月21日、横浜を発ち、27日に長崎到着。ここで、あらためて薩摩藩主の招待状がとどき、薩摩藩家老の新納刑部(にいろぎょうぶ)が訪問した。クラレンドン外相あてに「これは、われわれが日本と条約を締結して以来、幕府の職についていない一大名が、外国公使と個人的な交際をもとうとみずからすすんで申し出た最初の例である」。しかも薩英戦争の相手だから注目すべきだった。
各藩主に訪問の意向を告げる手紙を出すと、2,3の大名から後日、喜んでパークスを受け入れるという了解を得たが、宇和島藩の代表だけが、ただちにこの機会を利用したいとの意向を表明した。長州も藩議としてパークスとの会見を決定し、第二次長州戦争にそなえてイギリスとの接近を強く望み、高杉晋作と伊藤俊輔が訪問した。
6月14日夕、長崎を発つ。第二次長州戦争の勃発を知る。
・・・・・(中略)・・・・・
17日朝、藩主島津茂久は、キング提督とパークスを旗艦上に訪ね、夏の別邸(磯別邸)に案内、島津久光に紹介して宴席でもてなす。
・・・・・(中略)・・・・・
6月20日夜か翌朝に鹿児島を去ったが、出航に際し、島津久光はパークスの手をとって別れを惜しみ、航海の安全を祝し、再会を期して手を分かったという。
*パークスによれば、「長州軍の成功は、その兵士が、戦っている対手方よりもよい武器をもっているという事実に帰せられるところが大きい」。
*この旅行でのサトウの行動は次章でくわしく述べるが、大坂で薩摩の西郷吉之助と会い、自分の『英国策論』をぶって、大いに西郷を煽ったのが注目される。サトウの主張は「将軍は大領主のひとりという本来の地位に引き下がるべきであり、将軍に替わって、天皇を元首とする諸大名の連合体が支配権力の座につくべきである」というもので、パークスの与知らぬうちに出回り、幕府、討幕派いずれの陣営でもよく読まれていた。イギリス公使館の一吏員としては大きく中立性を逸脱した行為である。
*12月25日、天皇が36歳で死去(間もなく孝明と諡(おくりな)される)。慶応3年(1867年)1月5日、天皇崩御の知らせが老中からパークスに届けられ、「15歳の少年が新しい天皇になる。孝明天皇に比べてはるかに影響力を行使しやすかろうから、将軍の権力を強めることになろう」と予測した。
*パークスは、慶喜の権力復活に対する強い意欲を懸念する。
「疑いもなく御門(みかど)は大君(たいくん)よりはるかに高位にあり、大君が保持する一切の権威は御門から授けられ、大君の行為を支配しているのは御門であることに、われわれは決定的な証拠をいくつもにぎっている」「大君が実際に保持していない権力をあたかも保持しているかのごとくにいいはやすのは、大君の地位強化にはならず、逆に弱めることになる。わたしは、大君がこの国の政治体制にふさわしい仕方で統治を行なう意志をかためることが、かえって大君政府の立場を強化することになると思う」。それは「御門の優位と権威をはっきりと承認し、かつ大名たちの意見を代議機関に反映させることである」。
*17日、新政権は布告を発し、対外関係は今後、開国和親の方針をつらぬくと初めて明言した。外国交際は万国公法をもって取り扱うと付言し、神戸事件の処置がその適用第一号となる。朝廷はそれまでの「攘夷」策を、神戸事件のどさくさに紛れて、そっと「開国和親」に方向転換させたのである。
<アーネスト・メイソン・サトウ>
*サトウの主張(引用者註:『英国策論』のこと)は、討幕派にとっては願ってもないものだった。彼と直接関わった西郷吉之助も井上馨も伊藤博文も伊達宗城も後藤象二郎も、そのほか多くの人々も、「天皇を元首とする諸大名の連合体」による議会制度を、めざすべき政体と確信した。サトウは明治維新への青写真を広げてみせたのである。もちろん、革命の勢いはサトウの構想をはるかに超えて、諸大名というものを版籍奉還、廃藩置県によって駆逐し、維新をになった下級武士による中央集権国家にしていくのである。
*慶喜の外国公使謁見の問題が本格化してきた。江戸にもどったサトウは二等書記官ミットフォードと慶応3年(1867年)1月3日、情報収集のため大坂に発つ。天皇崩御の報が老中からパークスにとどくのが1月5日。サトウは兵庫に着いて知る。
・・・・・(中略)・・・・・
西郷がサトウを訪ねる。「西郷らは我々と将軍の和解について、大いに不満であった。私は革命の機会を逸すべきではないと、西郷に説いた」。パークスと小松、西郷、吉井ら薩摩側の会見が、サトウがきっかけで4月10日に実現する。
・・・・・(中略)・・・・・
サトウは薩摩の新納刑部を4度も訪ねる。新納は「大隈守(島津久光)が水腫のため大坂で治療中、越前(松平慶水)も帰国、宇和島(伊達宗城)も近く京都を去る予定」と教える。サトウは「彼らは屈服する意志を固めたらしい」と思う。下級武士らによる討幕運動の新しい進展を、サトウに接触した誰もがもらさなかった。
9月3日、海援隊の佐々木栄と橋本久太夫の訊問が行われた。「才谷氏(龍馬)も叱りつけてやった。彼は明らかに我々のいい分を馬鹿にして、我々の出す質問に声を立てて笑ったからである。しかし、私に叱りつけられてから、彼は悪魔のような恐ろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」。龍馬の怒りがよく分かる。
・・・・・(中略)・・・・・
10月21日深夜、外国奉行の石川利政がパークスを訪ね、大政奉還を伝えた。
・・・・・(中略)・・・・・
サトウの日記に「私が長崎で知った土佐の男、才谷梅太郎(坂本龍馬)が、数日前、京都の下宿先で、まったく氏名不詳の男に殺害された」(中略)とある。
(管理人)
本書の中で私が一番注目していた人物はグラバーだった。
しかし結果としてここで引用した文章は、パークスとサトウに関する章からとなった。
グラバーが坂本龍馬をはじめとした明治維新に関わる人物を背後で操っていたということは私の中では常識であったため、それを示す箇所については何も驚きがなかったことがグラバーに関する章から引用しなかった最大の理由かもしれない。
パークスとサトウについてはこれまであまり調べていなかったが、本書を読んでこの二人が明治維新に大きく関わっていたことを改めて確信した。
実際問題、外国人の工作員がグラバーだけであったなら、これだけの工作を実現させることは不可能であっただろう。
パークスとサトウとグラバーは、密接に繋がっていたのである。
パークスとグラバーの関係は、ウィキを見れば一目瞭然です。
サー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes、CGMG、KCB、1828年2月24日 - 1885年3月22日)は、英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務めた。
1866年(慶応2年)、米仏蘭とともに幕府と改税約書に調印。グラバーの仲介で鹿児島を訪問、薩摩藩主・島津茂久(島津忠義)、その父・島津久光のほかに西郷隆盛・寺島宗則と会見した。第二次長州征伐勃発直後、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩の桂小五郎・伊藤博文らと、小倉で幕府老中小笠原長行と会談し、両者の調停をはかるが失敗した。その後、宇和島藩を訪問し、前藩主・伊達宗城らに会った。年末、公使館を横浜から江戸の泉岳寺前に移転した。
長女マリオン(Marion, 1860-1949) - ジャーディン・マセソンの大班となったジェームズ・ジョンストン・ケズウィックと1884年に結婚。
三女フランセス(Frances, 1866-1966) - ジャーデン・マセソン初代日本支店長ウィリアム・ケズウィック(姉マリオンの夫の兄)の孫チャールズ・ディクソンと結婚。
パークスの娘二人がジャーディン・マセソン関係者と結婚していますね。
ジャーディン・マセソンの長崎代理人がグラバーでした。
はい、パークスとグラバーを操っていたのはジャーディン・マセソンでした。
ジャーディン・マセソンを操っていたのはロスチャイルドでした。
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-703.html
明治維新こそ「彼ら」の「彼ら」による「彼ら」のための日本支配体制が確立された「日本転覆クーデター」なのです
「幕末・明治維新の真相、歴史の裏舞台に“貢献”したフリーメーソン・工作員の正体を暴く①(坂本龍馬編)」
そして気になったのは、新納刑部という人物です。
パークスも面会しているし、サトウは4度も面会しているというのである。
ウィキで見てみる。
新納 中三(にいろ ちゅうぞう/なかぞう)は、江戸時代末期(幕末)の武士。薩摩藩家老。通称の刑部でも知られる。字は久脩。諱が中三。維新後、七等判事、奄美大島島司。
島津斉彬・茂久の2代に仕え、始め軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用。文久2年(1862年)には軍役奉行となる。翌年7月に起きた薩英戦争で兵制改革の実績を発揮し、賞賛された。慶応元年(1865年)には藩大目付に昇進。薩摩藩が藩費で派遣した密航留学生を五代友厚・松木弘安と共に引率して薩摩藩遣英使節団としてイギリスに渡航。変名を石垣鋭之助と称した。その後フランス、プロイセン、オランダ、ベルギーを歴訪・視察した。ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)のモンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、ブリュッセルにおいて薩摩藩とモンブランの商社設立契約を結んだ。また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して、翌慶応2年(1866年)に帰国した。
帰国した年、勝手方家老に昇進して開成所を所管。また同年、子・竹之助をフランスへ留学させている。藩政においては、先述のパリ万博準備等外交事務を担当した。戊辰戦争時には京都にあり、明治維新後の新藩政において再び大目付となって藩政改革に尽力した。
新納刑部は五代らとともにヨーロッパに留学しているのみならず、息子までフランスに留学させているのである。
島津斉彬・茂久の2代に仕え、始め軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用しているのも、「偶然」とは思えません。
フリーメーソンであったかどうかは知らないが、明治維新のキーマンであったことは間違いないだろう。
さらに本書には、「明治維新の基本指針がどこから生まれたのか」という問いの答えが暴かれていた。
はい、「天皇を中心とした国家を成立させるという明治国家の骨格ともいえる重要指針が、日本人が生み出した発想ではなくサトウが記した「英国策論」から来ている」という“恐るべき真実”が暴かれているのである。
ここに大日本帝国なるものがキッチュであることが証明されているのである。
「英国策論」をウィキで見てみる。
英国策論(えいこく さくろん)とは、アーネスト・サトウが1866年に無題・無署名でジャパン・タイムスに寄稿した3つの記事を和訳したものである。「英国策論」と名付けられ、広く読まれた。イギリスの対日政策を示すものとみなされ、明治維新に大きな影響を与えた。
『英国策論』の骨子は以下の通り。
1. 将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
2. 独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
3. 現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
サトウは「この文章を蜂須賀斉裕(徳島藩主)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。翌年、私が会った諸大名の家臣たちは、私のことをその写本を通じて知っており、好意を寄せてくれた。しまいには、その日本文が英人サトウの『英国策論』、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、 大坂や京都の全ての書店で発売されることになった。これは、勤皇、佐幕の両党からイギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは私の知ったことではなかった。」と述べている。 実際、西郷隆盛らは、それが英国の公式な政策であるかのごとく語っていたと言われている。
大日本帝国がキッチュであるとともに、明治天皇そのものがキッチュなのである。
天皇がキッチュでなければ、朝廷がそれまでの「攘夷」策を「開国和親」に方向転換させるわけがないのだ!
孝明天皇の息子であるはずの明治天皇が、“絶対的攘夷論者”であった父親・孝明天皇の意に背いて「開国和親」に方向転換させるわけがないのだ!
サトウが「英国策論」で天皇中心国家を唱え、実際に明治政府がそうなった本当の理由は、「キッチュ天皇を据え置くことで自分たちが間接支配しやすい体制を築くこと」にあったのだ!
もっと分かりやすい言葉で言いましょう。
満州国が実際は日本の傀儡国家であったことは、皆さんもご存じですよね。
明治維新以来この国は、満州国に似たような存在になったのである。
明治維新以来この国は、「彼ら」の傀儡国家になったのである!
独立国のような体裁に見せかけておいて、
「傀儡国家・大日本帝国」が捏造されたのである!
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
天皇史そして日本史の真実
「天皇破壊史」太田龍
サトウは龍馬を叱りつけたそうですね。
ここに幕末維新の登場人物の力関係が読み取れます。
龍馬よりもサトウの方が「攘夷」じゃなくて「上位」の立場だったという力関係が。
龍馬はサトウにこのように叱られたのかな?
傀儡の分際で俺の質問を笑うとは、貴様は何様のつもりだ!
お前を消そうと思ったら、いつでも消せるんだぞ!
龍馬が叱られた後、ほどなくして大政奉還が成立し、
龍馬は暗殺されてしまうのである・・・
評点:70点
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2016年の書である。
幕末維新の日本に強い影響力を持った8人の外国人について、人物ごとに章を分けて記されている。
著者の主観はほとんど記されておらず、無味乾燥な印象を受けるが、個別の文章を掘り下げることで「明治維新の真実」が見えてくる。
パークスとサトウの章の中から特に気になった箇所を一部引用する。
<ハリー・スミス・パークス>
*長崎領事代理のガウアーの報告によれば、そのころ、長崎に長州の伊藤俊輔と井上聞多が薩摩藩士と称してあらわれ、薩摩藩家老の小松帯刀の庇護で同藩邸に滞在、「薩摩藩は、来るべき長州征討に関して、表面上は幕府に協力的な態度をとっているが、実際は長州藩擁護のために全力をつくしている」。長州藩が薩摩藩の名を借りてグラバー商会から多量の武器を買い付けていることを知り、イギリスはいちはやく薩長接近を嗅ぎつけた。
*慶応二年(1866年)1月21日、薩長連合の密約が成立する。
・・・・・(中略)・・・・・
3月中旬、パークスは英国商人トーマス・グラバーの介在で、薩摩側から鹿児島訪問の招待を打診された。「私は関税の改訂交渉が終わり次第、(中略)長崎に出かけるつもりだが、長崎滞在中、薩摩、それにできれば他の1,2の大名を訪問する機会をえたいと願っている」。
・・・・・(中略)・・・・・
パークスは5月21日、横浜を発ち、27日に長崎到着。ここで、あらためて薩摩藩主の招待状がとどき、薩摩藩家老の新納刑部(にいろぎょうぶ)が訪問した。クラレンドン外相あてに「これは、われわれが日本と条約を締結して以来、幕府の職についていない一大名が、外国公使と個人的な交際をもとうとみずからすすんで申し出た最初の例である」。しかも薩英戦争の相手だから注目すべきだった。
各藩主に訪問の意向を告げる手紙を出すと、2,3の大名から後日、喜んでパークスを受け入れるという了解を得たが、宇和島藩の代表だけが、ただちにこの機会を利用したいとの意向を表明した。長州も藩議としてパークスとの会見を決定し、第二次長州戦争にそなえてイギリスとの接近を強く望み、高杉晋作と伊藤俊輔が訪問した。
6月14日夕、長崎を発つ。第二次長州戦争の勃発を知る。
・・・・・(中略)・・・・・
17日朝、藩主島津茂久は、キング提督とパークスを旗艦上に訪ね、夏の別邸(磯別邸)に案内、島津久光に紹介して宴席でもてなす。
・・・・・(中略)・・・・・
6月20日夜か翌朝に鹿児島を去ったが、出航に際し、島津久光はパークスの手をとって別れを惜しみ、航海の安全を祝し、再会を期して手を分かったという。
*パークスによれば、「長州軍の成功は、その兵士が、戦っている対手方よりもよい武器をもっているという事実に帰せられるところが大きい」。
*この旅行でのサトウの行動は次章でくわしく述べるが、大坂で薩摩の西郷吉之助と会い、自分の『英国策論』をぶって、大いに西郷を煽ったのが注目される。サトウの主張は「将軍は大領主のひとりという本来の地位に引き下がるべきであり、将軍に替わって、天皇を元首とする諸大名の連合体が支配権力の座につくべきである」というもので、パークスの与知らぬうちに出回り、幕府、討幕派いずれの陣営でもよく読まれていた。イギリス公使館の一吏員としては大きく中立性を逸脱した行為である。
*12月25日、天皇が36歳で死去(間もなく孝明と諡(おくりな)される)。慶応3年(1867年)1月5日、天皇崩御の知らせが老中からパークスに届けられ、「15歳の少年が新しい天皇になる。孝明天皇に比べてはるかに影響力を行使しやすかろうから、将軍の権力を強めることになろう」と予測した。
*パークスは、慶喜の権力復活に対する強い意欲を懸念する。
「疑いもなく御門(みかど)は大君(たいくん)よりはるかに高位にあり、大君が保持する一切の権威は御門から授けられ、大君の行為を支配しているのは御門であることに、われわれは決定的な証拠をいくつもにぎっている」「大君が実際に保持していない権力をあたかも保持しているかのごとくにいいはやすのは、大君の地位強化にはならず、逆に弱めることになる。わたしは、大君がこの国の政治体制にふさわしい仕方で統治を行なう意志をかためることが、かえって大君政府の立場を強化することになると思う」。それは「御門の優位と権威をはっきりと承認し、かつ大名たちの意見を代議機関に反映させることである」。
*17日、新政権は布告を発し、対外関係は今後、開国和親の方針をつらぬくと初めて明言した。外国交際は万国公法をもって取り扱うと付言し、神戸事件の処置がその適用第一号となる。朝廷はそれまでの「攘夷」策を、神戸事件のどさくさに紛れて、そっと「開国和親」に方向転換させたのである。
<アーネスト・メイソン・サトウ>
*サトウの主張(引用者註:『英国策論』のこと)は、討幕派にとっては願ってもないものだった。彼と直接関わった西郷吉之助も井上馨も伊藤博文も伊達宗城も後藤象二郎も、そのほか多くの人々も、「天皇を元首とする諸大名の連合体」による議会制度を、めざすべき政体と確信した。サトウは明治維新への青写真を広げてみせたのである。もちろん、革命の勢いはサトウの構想をはるかに超えて、諸大名というものを版籍奉還、廃藩置県によって駆逐し、維新をになった下級武士による中央集権国家にしていくのである。
*慶喜の外国公使謁見の問題が本格化してきた。江戸にもどったサトウは二等書記官ミットフォードと慶応3年(1867年)1月3日、情報収集のため大坂に発つ。天皇崩御の報が老中からパークスにとどくのが1月5日。サトウは兵庫に着いて知る。
・・・・・(中略)・・・・・
西郷がサトウを訪ねる。「西郷らは我々と将軍の和解について、大いに不満であった。私は革命の機会を逸すべきではないと、西郷に説いた」。パークスと小松、西郷、吉井ら薩摩側の会見が、サトウがきっかけで4月10日に実現する。
・・・・・(中略)・・・・・
サトウは薩摩の新納刑部を4度も訪ねる。新納は「大隈守(島津久光)が水腫のため大坂で治療中、越前(松平慶水)も帰国、宇和島(伊達宗城)も近く京都を去る予定」と教える。サトウは「彼らは屈服する意志を固めたらしい」と思う。下級武士らによる討幕運動の新しい進展を、サトウに接触した誰もがもらさなかった。
9月3日、海援隊の佐々木栄と橋本久太夫の訊問が行われた。「才谷氏(龍馬)も叱りつけてやった。彼は明らかに我々のいい分を馬鹿にして、我々の出す質問に声を立てて笑ったからである。しかし、私に叱りつけられてから、彼は悪魔のような恐ろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」。龍馬の怒りがよく分かる。
・・・・・(中略)・・・・・
10月21日深夜、外国奉行の石川利政がパークスを訪ね、大政奉還を伝えた。
・・・・・(中略)・・・・・
サトウの日記に「私が長崎で知った土佐の男、才谷梅太郎(坂本龍馬)が、数日前、京都の下宿先で、まったく氏名不詳の男に殺害された」(中略)とある。
(管理人)
本書の中で私が一番注目していた人物はグラバーだった。
しかし結果としてここで引用した文章は、パークスとサトウに関する章からとなった。
グラバーが坂本龍馬をはじめとした明治維新に関わる人物を背後で操っていたということは私の中では常識であったため、それを示す箇所については何も驚きがなかったことがグラバーに関する章から引用しなかった最大の理由かもしれない。
パークスとサトウについてはこれまであまり調べていなかったが、本書を読んでこの二人が明治維新に大きく関わっていたことを改めて確信した。
実際問題、外国人の工作員がグラバーだけであったなら、これだけの工作を実現させることは不可能であっただろう。
パークスとサトウとグラバーは、密接に繋がっていたのである。
パークスとグラバーの関係は、ウィキを見れば一目瞭然です。
サー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes、CGMG、KCB、1828年2月24日 - 1885年3月22日)は、英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務めた。
1866年(慶応2年)、米仏蘭とともに幕府と改税約書に調印。グラバーの仲介で鹿児島を訪問、薩摩藩主・島津茂久(島津忠義)、その父・島津久光のほかに西郷隆盛・寺島宗則と会見した。第二次長州征伐勃発直後、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩の桂小五郎・伊藤博文らと、小倉で幕府老中小笠原長行と会談し、両者の調停をはかるが失敗した。その後、宇和島藩を訪問し、前藩主・伊達宗城らに会った。年末、公使館を横浜から江戸の泉岳寺前に移転した。
長女マリオン(Marion, 1860-1949) - ジャーディン・マセソンの大班となったジェームズ・ジョンストン・ケズウィックと1884年に結婚。
三女フランセス(Frances, 1866-1966) - ジャーデン・マセソン初代日本支店長ウィリアム・ケズウィック(姉マリオンの夫の兄)の孫チャールズ・ディクソンと結婚。
パークスの娘二人がジャーディン・マセソン関係者と結婚していますね。
ジャーディン・マセソンの長崎代理人がグラバーでした。
はい、パークスとグラバーを操っていたのはジャーディン・マセソンでした。
ジャーディン・マセソンを操っていたのはロスチャイルドでした。
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-703.html
明治維新こそ「彼ら」の「彼ら」による「彼ら」のための日本支配体制が確立された「日本転覆クーデター」なのです
「幕末・明治維新の真相、歴史の裏舞台に“貢献”したフリーメーソン・工作員の正体を暴く①(坂本龍馬編)」
そして気になったのは、新納刑部という人物です。
パークスも面会しているし、サトウは4度も面会しているというのである。
ウィキで見てみる。
新納 中三(にいろ ちゅうぞう/なかぞう)は、江戸時代末期(幕末)の武士。薩摩藩家老。通称の刑部でも知られる。字は久脩。諱が中三。維新後、七等判事、奄美大島島司。
島津斉彬・茂久の2代に仕え、始め軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用。文久2年(1862年)には軍役奉行となる。翌年7月に起きた薩英戦争で兵制改革の実績を発揮し、賞賛された。慶応元年(1865年)には藩大目付に昇進。薩摩藩が藩費で派遣した密航留学生を五代友厚・松木弘安と共に引率して薩摩藩遣英使節団としてイギリスに渡航。変名を石垣鋭之助と称した。その後フランス、プロイセン、オランダ、ベルギーを歴訪・視察した。ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)のモンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、ブリュッセルにおいて薩摩藩とモンブランの商社設立契約を結んだ。また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して、翌慶応2年(1866年)に帰国した。
帰国した年、勝手方家老に昇進して開成所を所管。また同年、子・竹之助をフランスへ留学させている。藩政においては、先述のパリ万博準備等外交事務を担当した。戊辰戦争時には京都にあり、明治維新後の新藩政において再び大目付となって藩政改革に尽力した。
新納刑部は五代らとともにヨーロッパに留学しているのみならず、息子までフランスに留学させているのである。
島津斉彬・茂久の2代に仕え、始め軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用しているのも、「偶然」とは思えません。
フリーメーソンであったかどうかは知らないが、明治維新のキーマンであったことは間違いないだろう。
さらに本書には、「明治維新の基本指針がどこから生まれたのか」という問いの答えが暴かれていた。
はい、「天皇を中心とした国家を成立させるという明治国家の骨格ともいえる重要指針が、日本人が生み出した発想ではなくサトウが記した「英国策論」から来ている」という“恐るべき真実”が暴かれているのである。
ここに大日本帝国なるものがキッチュであることが証明されているのである。
「英国策論」をウィキで見てみる。
英国策論(えいこく さくろん)とは、アーネスト・サトウが1866年に無題・無署名でジャパン・タイムスに寄稿した3つの記事を和訳したものである。「英国策論」と名付けられ、広く読まれた。イギリスの対日政策を示すものとみなされ、明治維新に大きな影響を与えた。
『英国策論』の骨子は以下の通り。
1. 将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
2. 独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
3. 現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
サトウは「この文章を蜂須賀斉裕(徳島藩主)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。翌年、私が会った諸大名の家臣たちは、私のことをその写本を通じて知っており、好意を寄せてくれた。しまいには、その日本文が英人サトウの『英国策論』、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、 大坂や京都の全ての書店で発売されることになった。これは、勤皇、佐幕の両党からイギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは私の知ったことではなかった。」と述べている。 実際、西郷隆盛らは、それが英国の公式な政策であるかのごとく語っていたと言われている。
大日本帝国がキッチュであるとともに、明治天皇そのものがキッチュなのである。
天皇がキッチュでなければ、朝廷がそれまでの「攘夷」策を「開国和親」に方向転換させるわけがないのだ!
孝明天皇の息子であるはずの明治天皇が、“絶対的攘夷論者”であった父親・孝明天皇の意に背いて「開国和親」に方向転換させるわけがないのだ!
サトウが「英国策論」で天皇中心国家を唱え、実際に明治政府がそうなった本当の理由は、「キッチュ天皇を据え置くことで自分たちが間接支配しやすい体制を築くこと」にあったのだ!
もっと分かりやすい言葉で言いましょう。
満州国が実際は日本の傀儡国家であったことは、皆さんもご存じですよね。
明治維新以来この国は、満州国に似たような存在になったのである。
明治維新以来この国は、「彼ら」の傀儡国家になったのである!
独立国のような体裁に見せかけておいて、
「傀儡国家・大日本帝国」が捏造されたのである!
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
天皇史そして日本史の真実
「天皇破壊史」太田龍
サトウは龍馬を叱りつけたそうですね。
ここに幕末維新の登場人物の力関係が読み取れます。
龍馬よりもサトウの方が「攘夷」じゃなくて「上位」の立場だったという力関係が。
龍馬はサトウにこのように叱られたのかな?
傀儡の分際で俺の質問を笑うとは、貴様は何様のつもりだ!
お前を消そうと思ったら、いつでも消せるんだぞ!
龍馬が叱られた後、ほどなくして大政奉還が成立し、
龍馬は暗殺されてしまうのである・・・
評点:70点
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