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ソウルマン

イエズス会から日本を救った秀吉

「信長と十字架」<天下布武>の真実を追う
第二部
立花京子



第一部は、信長とイエズス会・南欧勢力との関係、そして、それらを結びつける公家・武士勢力・大友宗麟や堺商人について記した箇所が中心となったが、第二部では、いよいよ、最大の関心事である「本能寺の変の黒幕」に迫っていく内容となる。
以下、引用開始。



*京都馬揃えは、華々しく行なわれた。
天覧にそなえたからには、主賓は当然、天皇であるべきである。だが実はそうではなく、主賓は、イエズス会巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノであった。
天正七年(1579)七月、口之津に上陸したヴァリニャーノは、有馬領、大村領を経て、翌八年八月には豊後府内に入り、大友宗麟のもとでミサを行い、臼杵に新設した修練院の開院式で講演したり、イエズス会の協議会を開くなど布教、視察活動を行なった後、フロイスらを伴って、九年二月四日に堺に向けて府内を船出した。その第一の目的は、京都およびその周辺での視察と、安土での協議会開催にあった。
・・・・・(中略)・・・・・
晴れがましき信長の姿をみて真に満足したのは、フロイスらイエズス会士を引きつれて、特設の桟敷に招待されていた、ヴァリニャーノであったろう。
信長は信長で、自己の保持する軍事力をスポンサーである彼らに披瀝できたことに、大きな喜びを感じたはずである。
このような形の馬揃えの行事は前例がなく、おそらく中世南欧における、王を歓待するための騎士のページェントを模倣した可能性が大である。
・・・・・(中略)・・・・・
信長がヴァリニャーノをそこまで接待しなければならなかった理由は、彼の巡察師としての職務と、前章で成立したとみなされる、あの新大命題を考えると明らかである。
「イエズス会のための仏教への鞭」であり、「イエズス会のために立ち上がった」武将であった信長は、イエズス会からの援助によって全国制覇を遂行していたからこそ、同会の布教状況を視察するヴァリニャーノに、全国制覇のそれまでの達成度を報告しなければならなかったのである。
京都馬揃えは、ヴァリニャーノへの全国制覇の事業報告の一つであった。それゆえに、ヴァリニャーノが訪れた天正九年(1581)にのみ行なわれたのである。

*勧修寺晴豊の日記の脱漏部分と判明した「天正十年夏記」の記述にしたがって、本能寺の変の経過をたどり、問題点を究明していくとしよう。
「天正十年夏記」には、天正十年(1582)六月二日の未明に、家来の袖岡越中(そでおかえっちゅう)により、光秀が本能寺に取りかかり焼き打ちにしていることを告げられ、誠仁親王のいる二条御所へと駆けつけたことや、運よく知り合いの光秀家臣井上という者に出会えて御所のなかに入ったこと、そこには織田信忠と村井貞勝父子がなだれこみ、親王の座所の場にいた貞勝に、親王と晴豊の妹「お阿茶々の局晴子」をはじめとした親王一家の脱出を掛けあった有様などが、生々しく記述されている。
・・・・・(中略)・・・・・
「天正十年夏記」の記述をよく読むと、不審な点がある。前述したように、信長への気がかり、驚き、光秀に対する怒りなどがまったくみられない。そればかりか、本能寺の変直後の大混乱の洛中にあって、近衛邸では酒宴が開かれていた。
本能寺の変から五日後の六月七日に、近衛前久は子息である信輔(のぶすけ)のもとへ出かけ、酒樽を進上し、そこに晴豊も加わり盃をもらっていた。十一日にも晴豊は、祖父で前権大納言の勧修寺尹豊(ただとよ)とともに東坊城家(ひがしぼうじょうけ)に出かけ、医師の半井通仙(なからいつうせん)、中納言烏丸光宣(からすまるみつのぶ)が集まり、酒宴が開かれて、参加者は大酒に浸っていた。
これらの公家たちの行動は、およそ信長の悲劇に哀悼の心をもっていたようにはみられない。むしろ、祝宴を開いていたとみなしてよい。


*本能寺の変の勃発によって危機を脱出し、変の直後に主犯者光秀の行為を祝い、さらに、その抵抗者との戦いに一体となる意志を表明した朝廷は、確信犯的に本能寺の変に関与していたととらえるべきであろう。
六月十七日に、光秀の片腕である斉藤内蔵助利三(としみつ)が堅田で捕縛されて、京中を車で引きまわされたとき、その光景をみた晴豊が日記に書いた言葉は、「彼などは信長打ちの談合の衆である」というものであった。
この言葉は、また不自然な感想ではなかろうか。通常、逃亡していた極悪犯人が逮捕されたなら、「あの悪事を働いた者が捕まった」という感慨をもつのが自然であろう。しかし、晴豊の脳裏のまず上った第一の感想は、利三が「信長打ちの談合の衆」という「談合の衆」、すなわち「信長打倒計画の一員」であったことである。
ということは、晴豊が利三とともに信長打倒計画を話しあった事実があったのであり、ここに親王と一部の公家と討伐者光秀からなる、信長打倒計画の存在を認めざるをえない。
「天皇の静謐」を実現するという、虚偽の「天下布武」をふりかざす信長の討伐を、朝廷は光秀に命じた、という経緯が浮かびあがってきた。

羽柴秀吉により、朝廷の信長打倒計画への関与が不問に付されたことは、実は朝廷にとって大きな代償を払う原因となるのであった。
その贖いは、意外にはやくやってきた。
坂本をめざす明智光秀を追って、六月十四日に秀吉と織田信孝が、京都南方の塔の森まで来たところ、伝奏の勧修寺晴豊と広橋兼勝が、雨と戦災の惨禍のなかに、正親町天皇、誠仁親王からの勅使として待っていた。彼らは、秀吉と信孝に太刀を手渡した。二人は「一段はやばやとかたしけない」と、馬から降りて拝領した。「天正十年夏記」に記してある一場面である。
勅使が秀吉と信孝に太刀を授与するというのは、きわめて異例な行為であった。
しかし、この朝廷側の行為によって、秀吉は、他の信長家臣を抜きんでて信孝と同等の地位に立ち、朝敵討伐者という認定を受けたのである。朝敵とは、もちろん光秀である。
つい七日前には、信長を朝敵として討った光秀は、この時点で瞬時に朝敵に転落したのだ。
このとき、父の敵として謀反人光秀を討つ正当性が十分にあった信孝には、光秀が朝敵と指定される必要はなかった。
通常の理解としては、秀吉が他の信長臣下を抜きんでたのは、六月二十七日の清洲会議で織田信忠の遺児三法師丸を抱えたときとされているが、それより十三日も前の、まだ光秀の安否がさだかでない時点で、それはすでに決定されていたのである。
それを可能としたのが、朝廷と光秀との一体化を隠蔽した秀吉に対して、朝廷が払った代償の成果であったことは明らかである。それ以外には、天皇と親王が、秀吉にこれほどの恩恵を施す理由はないであろう。
秀吉は、この後、天正十年(1582)十月に大徳寺で、勅命により信長葬儀を挙行した。
翌天正十一年五月、やはり太刀を下賜されて柴田勝家を朝敵に認定させ、勝家を討ち果たした。
さらに、天正十二年十一月の従三位権大納言への任官をはじめとして、天正十三年七月に関白、天正十四年十二月に太政大臣への任官を達成するというように、朝廷権威を最大限に利用して、秀吉は自己の権力を確立していった。

秀吉の中国大返しは、秀吉が事前に本能寺の変を察知していたからこそ可能であった、とみる見解が多い。毛利氏との和睦の成功もうまくできすぎている。
・・・・・(中略)・・・・・
天正九年(1581)四月、本能寺の変の計画が練られていた可能性の高い天の橋立での連歌会に参加していた津田宗及が、同年四、六、十二月に秀吉と会っていたことからも、秀吉が事前に変を察知する機会はあったといえる。
宗及が本能寺の変の仕掛けに関わっていたことは確かであろう。

*キリシタンといえば、高山右近について「日本史」5の叙述は、意外なことを述べている。本能寺の変当日、安土の教会にいたオルガンティーノが、右近の留守を守る高槻城の家臣に、明智光秀に味方しないように強く働きかけていた。
・・・・・(中略)・・・・・
ここで判明した点がいくつかある。オルガンティーノは変後に坂本城まで出かけて光秀の子息に会うほどに明智一族と親しかったこと、光秀はバテレンと右近が味方であることを疑わなかったこと、右近とその家臣は最初から光秀に反することを決めていたこと、バテレンが右近の家族と留守の部下が光秀と同一行動を取らぬようにはからったこと、である。
とすれば、光秀の誤算の原因には、バテレンの暗躍があったといえよう。
一方、右近が光秀とともに戦わないことをはやい時期に決めていたのを、バテレンが熟知していたのも不審である。

*前述のように、朝廷は本能寺の変に関与していながら、実力の点から真の黒幕にはなりえなかった。
天正九年(1581)四月からの津田宗及の活動と、羽柴秀吉の中国大返しの計画性から、秀吉が変を事前に了解していたことが推定できた。しかし、秀吉も変の全企画を立案したとみるには、その形跡が皆無に近いことから、無理がある。
これらの不審点を整合的に解決するには、イエズス会が信長の抹殺を計画して、朝廷をして明智光秀に信長討伐命令を下すように仕むけ、光秀に信長を討たせ、かつ秀吉に光秀を討つように準備させていた、とみないかぎり完結しないであろう。
イエズス会にとって、不適当となった信長に代わる「イエズス会のために立ち上がる武将」を決定したのが、本能寺の変であったといえる。
本能寺の変は、イエズス会にとって、首のすげかえであったに違いない。

・・・・・(中略)・・・・・
細川藤孝・吉田兼見・高山右近・津田宗及・楠長諳というイエズス会に密着し、かつ信長のブレーンと認められる面々がすぐさま秀吉に従属したという不審な行動の謎は、以上のイエズス会黒幕説ですべて説明が可能である




(管理人)
いやはや、恐れ入りました。よくぞここまで「信長と本能寺の変の真実」を解明してくれました。これだけの名著であるにもかかわらず、アマゾンの書評では評価の低いコメントが多い。イエズス会勢力の走狗か、学校教育の洗脳が相当ひどいのか、単なるバカなのか、いずれかであろう。ある程度の知性の持ち主であるならば、この書の秀逸性は理解できるはずである。
著者は東京教育大学理学修士(数学)とのことで、本来、戦国史は専門外であったようであり、この書を書いたのもほとんど独学のようで、ある程度年齢を重ねてから著したようである。本当に著者の努力には頭が下がる思いだが、逆に言うと、「歴史分野の権威と言われる先生方は、今まで何を調べていたのだ」と言いたい。あっ!すみません。「東大教授を始め、イルミナティの傀儡である大先生方の仕事は、<歴史を偽る>ことだ」ということを、すっかり忘れてました(笑)。

整理すると、信長を支援していたのはイエズス会・南欧勢力であり、鉄砲及び経済的支援を信長に与えることによって信長を操っていた、とのことである。延暦寺を始め、多数の寺社の破壊も、信長を通してイエズス会が指令していたのだ。
イエズス会と信長の間に入っていたのが、大友宗麟を中心とするキリシタン大名、津田宗及を中心とする堺商人、清原枝賢や細川藤孝を中心とするキリシタン公家・武将、といったところである。
そして、本能寺の変の計画に関わった人物は、上記に加えて、勧修寺晴豊や広橋兼勝や正親町天皇や誠仁親王といった朝廷勢力、そして、最大の利益受益者である秀吉である。明智光秀は利用されたに過ぎない。これらの人脈間を渡り歩き、実際に“工作”を行なった人物は、津田宗及であったと思われる。

イエズス会・南欧勢力が信長を見切った理由は、フロイスの「日本史」に、「信長は安土山に総見寺(そうけんじ)と称する寺院を建立し、寺院の一番高い所に盆山という石を神体として安置し、彼の誕生日に同寺と神体を礼拝しに来るように命じた。」とあるように、著者曰く「イエズス会の援助を受けて全国制覇にここまで成功したのに、独力で達成したかのように傲慢になり、イエズス会への服従を拒否するようになったので殺害した。」とのことだろう。

著書には触れられていないが、本能寺の変の計画に加わった人物として、私は来年のNHK大河ドラマの主人公である「黒田孝高(官兵衛)」が怪しいと思っている。
彼はキリシタン大名であり、秀吉が本能寺の変を知った時の傍にいた人物とされていること、秀吉は黒田孝高を家康以上に恐れていた、等の理由から、なんらかの形で変に関わっていたとしか思えない。
中国大返しにしても、柴田勝家が変を知ったのが五日後であったのだが、秀吉が知ったのは、なんと、変の翌日であったというのは話がうまく出来過ぎている、としか思えない。

ただ、私は秀吉のことはあまり悪く言いたくない。確かに、秀吉もイエズス会にかつぎだされて権力を握った可能性が高いと思うが、秀吉は後に、バテレン追放を行なっている。
秀吉は、イエズス会にはっきりと「ノー」と言ったのだ。そもそも学校教育では、秀吉が行なったバテレン追放を、一方的に秀吉に非があるとばかりの論調で、「キリシタン迫害」と教えているが、歴史捏造も程々にして欲しいものである。秀吉が、何故にバテレン追放を行なったかは教科書には記されていない。その真相は、「バテレンが、多数の神社仏閣を破壊し、人間の役に立つ牛や馬を食料にし、そして何万人という日本人を、奴隷として海外に売り飛ばしていることに対して、怒りを表明し、従わないバテレン及びキリシタン勢力に対して対抗措置を執った」ということなのだ。実際に、人身売買を執り行ったのは、大友宗麟らのキリシタン大名である。彼らは、その代償として硝石を手に入れ、武力と金品とその地位をつかんだ、最低の売国奴なのだ。
これが、イエズス会(実際はキリスト教の皮をかぶったユダヤ・カバラ教組織)から日本に伝わった「キリスト教」の真実である。

コロンブスから始まったスペイン・ポルトガルの白人勢力は、アメリカ大陸の先住民族であるインディオを、数年のうちに、その民族が滅ぼされるほどに殺しまくった。コロンブスの残虐行為からみると、ヒトラーのホロコーストなど、子供騙しといっても過言ではないだろう。
秀吉が間抜けな殿様で、イエズス会の言いなりで有り続けていたなら、「日本人という人種は絶滅していたかもしれない」というのは、決して、大袈裟な架空の話では無い。我々は、秀吉に感謝しなければならないのである。


評点:100点

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