最澄も日蓮もわからなかった「法華経の真実」
太田龍、 船井幸雄
2007年の対談書である。
この共通点のなさそうな両者の対談が成立したのは、太田氏がデヴィッド・アイクの「大いなる秘密」を対訳していたことに、船井氏が強い関心を示していたことにあるようです。
そういったことや本書のタイトルからみても、本書の結論は「人類支配者の正体はレプティリアンである」といったことだろうと推測されますが、実際はそうでもありませんでした(笑)。複数回に分けて記します。
以下、一部引用します。
(太田)
*ところで、私は若い頃から「法華経」と「古事記」を座右の書にしてきました。その「法華経」が問題です。松居桃樓(まついとうる)という作家がいます。父は松居松翁という明治大正時代の歌舞伎の原作者として有名でした。桃樓はその息子です。彼は本当の法華経を解釈しようということで、「法華経幻想」という本を書いています。彼の法華経解釈によれば、「そもそも宇宙には知的文明が生まれたり滅びたり、無限に生死をくり返している」というのです。そして知的文明が究極のところに達すると、それは理想的なあるべき宇宙文明に達していった。しかしそれがまた滅びて新しい文明が生まれていく。しかしあるべきでない欠陥のある文明も生まれてくるというのです。そういうような尺度で文明を見て、あるべき姿を教えたのが「法華経」だという解釈なのです。
松居桃樓は「いのちきわみなし~法華経幻想」という本で次のように言っています。
~ところが、法華経を書いた人はねえ、いまから2千年も昔に、その問題と真正面から取り組んでいるんだ。つまり、「無限に続く時間と空間の中に天体が存在するはずだ」ということをまず第一に思い浮かべた。そして、「無数の天体の中に、もし仮に、最も理想的な知的生物が存在したとしたら、その最高の知的生物が最後に把握する究極の真理とは何か」ということを追求しているんだ。
・・・・・(中略)・・・・・
「仏がこの世に出現する目的はただ一つしかない」ということ。(中略)それは「どうしたら、すべての生き物が、仏と同じ境地になれるか」ということを教えるためだという。言い換えれば、「この世の中の、生きとし生けるものすべてが、仏になれる可能性をもっている」ということを、教えたいからこそ、仏は、この世に出現するのだ。~
(「いのちきわみなし~法華経幻想」ミネルヴァ書房/絶版より)
実際、私ももう一度「法華経」を読んで見ると、荒唐無稽な話がやたら出てくるのです。
いままでの僧侶による解釈ではとてもわからない。だからインドでも法華経は結局、法華経そのものが消えて、法華経を支持する教団もインドには出てこない。中国に行って天台大師が仏教の経典を全部整理して、法華経が最高のものだとしているわけですが、法華経の内容は天台大師にもよくわからないのです。
だから中国では法華経も消え、法華経の教団も消えてしまった。日本に来て、天台大師のお説をそのまま最澄がいただいて天台宗をつくるわけです。しかし天台宗でも法華経の中身はわからない。日蓮が出てきて法華経を深く信仰して教団をつくりましたが、その日蓮にも法華経の考え方がよくわからないわけです。
日蓮宗でも「法華経」を読むとき、「方便品(ほうべんぼん)」といって、方便で一般の人にもわからせようという部分が多いのです。さらに、「如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)」というところだけ、つまり如来の寿量は無限なのだと言っている部分だけ一生懸命詠んで、あとはわからないことにしています。
だから、私は松居桃樓によって初めて法華経の真実の姿が明らかにされたと思っています。
あいにく松居の書は忘れられて30年くらい過ぎています。
松居桃樓は「法華経」の主意は、「宇宙と我、天体と我は一体であるという悟りを開くことだ」としています。それはいまの地球文明の前後に無数の知的文明が生起しているところから解き明かしていくのです。インドではそういう悟りというものが経典になって出てきましたが、その後現代に至るまでインドでも中国でも日本でも、それを解釈する、理解する次元に人類が到達しないままいまに至っているのです。
(太田)
*ご存知かどうか、坂元邁(つとむ)という1925年生まれで84年に亡くなっている、在野の科学者がいました。坂元邁は「UFOは第二の黒船だ」「マイナスの化学」「自然科学上の世界観を変えろ」「地球維新」「世界維新」などの書を書いています。75年頃までこうした問題を追い詰めていって、「自然には創造のエネルギーと破壊のエネルギーとの二つがある。しかし西洋のいまの自然科学は破壊のエネルギーだけを研究の対象にしている」という疑問を提示しました。
・・・・・(中略)・・・・・
そこで、創造エネルギーのほうを自然科学の研究対象にすべきだと、坂元さんは唱えたわけです。宗教にも「創造の宗教」と「破壊の宗教」とがある。創造の宗教というのは、天地万物を創り出すエネルギーを神様として崇拝する宗教です。もうひとつの破壊の宗教というのは、創られたものを破壊するエネルギー、それを神様として崇める宗教だと規定しました。だから「宗教」にも創造の宗教と破壊の宗教とがあって、「科学」にも創造の科学と破壊の科学とがあるというのです。
ところがいまの西洋の科学は破壊の科学で、創造の宗教のほうもこれは迷信だとして、破壊の宗教だけにしているのがいまの西洋の正体だと言っています。するといまの西洋というのは破壊の科学と破壊の宗教とが一体になっているから、破壊のエネルギーと速度は非常な勢いで加速してくるわけです。この誤りを正せるのは東洋であり、日本人でしかないと坂元さんは指摘しています。・・・・・(中略)・・・・・
私はその後、いろいろ調査していくと、西洋にはれっきとした破壊の宗教があります。破壊の宗教というのは、坂元さんが表面的にみたように、一般人はそんな宗教には怖くて寄り付かないです。破壊の宗教を表面に立てているのが秘密結社なのです。西洋の歴史は超太古まで遡っても西洋の本体を構築しているものは秘密結社なのです。
西洋の秘密結社のイデオロギーがなにかというと、「破壊の科学」と「破壊の宗教」なのです。世界の人におおっぴらに言えないように秘密にしているわけです。ただ単に秘密にしているわけではなく、理由があって秘密にしているのです。
だから「破壊の宗教」というのは、破壊のエネルギーを凝縮した人格的なものを悪魔として崇拝します。悪魔は聖書では「ルシファー」と名づけられています。ルシファーは日本語では悪魔大王と呼ばれています。悪魔大王を崇拝するなど普通の人は怖くて近づきません。
秘密結社はそれを非常に長いこと継続して行なっています。
(船井)
*さらに、「日本人」に関して最近わかったのは、古墳時代の日本人というのは遺伝子を調べると「YAP」という特殊な遺伝子を持っていたということです。この「YAP」遺伝子を持っている民族は、今のところ日本人しかいないそうです。「YAP」遺伝子にはプラス(+)とマイナス(-)遺伝子があり、縄文人はYAP(+)、弥生人には(-)が多いとされています。現在の日本人は「YAP(-)」を持っています。
この「YAP(-)」の遺伝子を持つ民族が大陸から海を越えて侵攻し、一気に九州を支配した後、卑弥呼の邪馬台国に攻め込んだとも考えられますが、私はちょっと違うという意見です。ともかく彼らは前方後円墳という巨大な古墳をつくったために、古墳人と呼ばれています。すでにこの古墳人が「YAP(-)」遺伝子を持っていたようです。
おもしろい話をします。1947年7月2日、アメリカのニューメキシコ州ロズウェルで、UFOが墜落するという前代未聞の事件が起こりました。このとき墜落したUFOの3人の搭乗者の遺体を調べると、その3人の飛行士の身体に「YAP(-)」遺伝子が含まれていたというのです。
その人たちがいったいどこから来たか?いまのところ、それはアルザル人といってプラズマに囲まれた別次元の空間からと考えられているのです。地底に別空間がある。そこに存在するアルザル人は日本人のなれの果てだとも考えられるから楽しいことです。
(太田)
*中国の圧力、影響下で、日本人の言葉を確立せざるを得ない立場に置かされて、古墳時代以降、日本的なものとして国家を確立したのが天武天皇だったろうと私は思います。先述したように天武天皇は壬申の乱の後、五つのことを決めました。
一つは、太古からの歴史と歌を編纂するようにという詔勅を出したことです。その後、「万葉集」と「古事記」が編纂されたのです。二つ目は、伊勢神宮の二十年式年遷宮の制度を制定したことです。それから三つ目に、大嘗(おおなめ)祭の制度が制定され、今日までつづいています。四つ目は伊勢神宮の祭主は天皇の皇女を任命するということです。これは途中でおかしくなりました。最後は、「殺生肉食禁断の詔勅」です。
この五つの天武天皇の時代に決められた制度は現在まで、日本の国家の国柄を決めています。こういう国家は世界中どこにも存在しません。
天武天皇はそういう意味で、縄文時代以来の日本の国柄を一つの国際的な場で打ち立てました。自分を国家として主張する、そうした必要性に応じて国家をつくったときに、日本的な国家を建てた人だと思います。天武・持統朝でそういう方向は一応確定されたわけです。そのなかで、天武天皇の「殺生肉食禁断の詔勅」は明治以降、完全に破棄されました。
仏教に対する太政官の布告で、「肉食、妻帯は今後、勝手たるべし」という不精なやり方で、なにも説明しないで禁を解いてしまったからです。西洋から「肉食をせよ」という強い圧力を受けてなんとなくそうなったのではないでしょうか。
(船井)
*ところで、ジョナサン・ウェルズ博士は、ダーウィン理論の柱となっている証拠の多くが虚偽だと明らかになったにもかかわらず、教科書に掲載されつづけている事例を指摘したのです。
例えば、魚やニワトリ、ヒトなど脊椎動物の胚が互いに似ている絵は、それらが共通の先祖からきたことの証拠だと書かれています。ところが、実際に調べて見ると、それらの胚の絵は偽造されたもので、さらにまったく違って見える初期の段階の絵が省かれているのです。人間はどう考えても猿から進化したものではなく、独特の人種なのです。それはたとえば、人間以外の動物は爪や髪の毛が伸びない。だから、まったく違うのです。ということは、もともと人間は地球に存在していなかった。なぜ来たのか?誰が、いつ持ち込んできたかなどが重要な問題になりました。
(太田)
*資本主義というものを正しく全面的に把握すると、一定量の資本が無限に増殖していくというまったく架空の話なのです。その架空の話をあたかも現実であるかのように思い込ませる、そういう魔術のようなものなのです。
資本というのは毎年、何かしらの利潤を積み重ねて価値を増やしていくというシステムです。だから、2000年間継続すると仮定すると、何千個か何万個かの太陽の重さの金塊の量に匹敵するという計算になります。そんなことはありえないわけです。
そういう架空の話を、西洋の偉い人たちが決めたシステムと学問だから、絶対正しいものとして、日本人は明治以降、受けとってきたのです。最近、多くの自民党系とかエコノミストとかが、市場原理主義を崇(たた)え、資本主義以上に良い人間の社会システムは考えられないと言っているのを私はよく耳にします。まったく魔法に浮かされているというようなことなのです。
(太田)
*同様に、共産主義も「共産の主義」ですから、共産ということだけを絶対視するイデオロギーです。しかし「共産」というのは財産を共有するということです。財産を生み出す生産は資本主義のもたらしたものです。共産主義というのは18世紀の末、アダム・ヴァイスハウプト(1748~1830)がイルミナティを創設した時点で、資本主義と共産主義の二本立てで行くことをイルミナティが決めてそれを実行に移したものです。
そのとき、ほとんど同時に、アダム・スミスの「国富論」が出版されます。アダム・スミスの「国富論」は科学的経済学の最初の古典だといわれていますが、この経済学はそれ以前の東洋の経済の考え方とどこが根本的に違うかというと、「富の生産における資源のエネルギーをゼロ」と見るわけです。つまり、資源の価値をゼロとみるわけです。
太陽の光が地球に降り注いで、そのエネルギーが動物や植物の糧になります。ところがアダム・スミスの経済学では太陽のエネルギーを無価値とするわけです。そういうことはまったくありえない話です。だから、共産主義というのは資本主義経済という魔法の枠のなかで踊っているピエロの一種に過ぎません。