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ソウルマン

イエズス会の傀儡であった信長

「信長と十字架」<天下布武>の真実を追う
第一部
立花京子



2004年の書である。この書を読むきっかけは、「何故、戦国時代にキリシタン大名があんなにたくさんいたのだろう?」との疑問を持ち、調べるうちに「キリシタン大名を操っていたイエズス会こそが、本能寺の変の黒幕である」と感じるようになり、「私と同様の結論を提示していると思われる」この書の存在を知り、強い関心を持ったからです。大作であるので、二編に分けて記す。
以下、引用開始。



*清原頼業(きよはらのよりなり)が頼朝の間接的ブレーンとみてよいことを確認したうえで、信長の場合に戻ることにしよう。
頼業を中興の祖と仰ぐ清原家は、その後、明経道の家として連綿とつづく。そして、信長より十五年前に生まれたのが、清原枝賢(しげかた)である。
・・・・・(中略)・・・・・
清原家は、中原家など他の明法家の衰微するなかで、一子相伝の伝統を守って、半ば独占的に、家業である儒学、法学、政治学の伝統を継いできたのであった。
とすると、源頼朝の「天下草創」概念と同一である、信長のスローガン「天下布武」を考案できるのは、枝賢をおいて他にいないことが推測される。
天下布武印の考案者は宗恩沢彦(そうおんたくげん)であるとして流布された伝説は、枝賢を表面に出しては都合の悪いことから起こった説と、私は考える。なぜ都合が悪いかは、枝賢がキリシタンであったからとみられるが、それについては後述することとしたい。

*ここで、清原枝賢と信長の間に立つ人物が必要となってこよう。
考えられるのは、清原枝賢の従弟にあたり、覚慶(義昭)を救出して信長を義昭供奉に誘いこんだ、あの細川藤孝しかいない。
藤孝は、枝賢の祖父である清原宣賢の娘を母とし、三淵晴員(みつぶちはるかず)を父として、信長と同年の天文三年(1534)に生まれた。実は、将軍足利義晴(よしはる)が実父であったとの説があるが、それは、「綿考輯録」でさまざまな記録類を挙げて主張されていることから事実とみることにしたい。
・・・・・(中略)・・・・・
その藤孝が、義輝横死の後は、覚慶救出に謀略をめぐらし、救出後は、信長の援助上洛の確約取りつけにも奔走して、ついには、義昭に供奉しての上洛まで成就させたのであった。
とすれば、信長の上洛を正当化させるスローガン作成に知恵を絞るのは当然であったし、そのために、近親者であり師匠でもあった枝賢の学問に頼ったことは、自然の成りゆきとみられる。
源頼朝の政策考案者の根源であった清原頼業の学問は、その血を受けた清原枝賢と細川藤孝によって、信長を媒体としてみごとに花開いた。
このように、「天下草創」から「天下布武」を誕生させたのは、清原家の血脈であったと考えることができる。


*永禄六年(1563)に来日した、ローマ・カトリックの一派イエズス会のルイス・フロイスが、同会の活動をまとめた「日本史」3によれば、比叡山の僧徒が、京都で布教の足場を築き定住のきざしをみせはじめたイエズス会と、バテレンのガスパル・ビレラの活動に恐れを抱いて、松永久秀にバテレン追放を迫った。
久秀は、無下に追放できないでいたが、その友人で文武に秀でている結城山城守忠正と、日ごろ古典を講義していた清原枝賢は、バテレンと数日間宗論を交わしたところ、二人とも聴聞したことを完全に理解したので、キリシタンになったという。
・・・・・(中略)・・・・・
この枝賢の人脈に連なる、細川藤孝の嫡子忠興(ただおき)は、後に、ローマ字の印をつくるほどに、キリシタン、バテレンに共感を抱くようになる。前述の枝賢娘の伊与局が、明智光秀の娘玉子(たまこ)を導き、「ガラシャ」という洗礼名によって受洗させた、熱心なキリシタン「マリア」であったことは有名である。

*イエズス会のバテレンと結託したポルトガル商人は、天文中期に、まず、大友宗麟を仲間に引き入れる。
天文末期には、宗麟は、鉄砲をはじめとする多額の献上品を介して足利義輝を援助して、その帰洛を実現させる。さらに、豊後府内に滞在するポルトガル商人は、堺の日本人商人と結びついて、宗麟の将軍支援を仲介する。
その功績により、宗麟は、周辺国の守護職を次々に手に入れて領国を拡大し、ポルトガル商人の貿易活動に貢献する。
京都周辺では、堺商人の協力により、イエズス会に共鳴する公家や武士、すなわち清原枝賢・吉田兼右・結城忠正があらわれる。潜在キリシタンの彼らは、永禄元年(1558)ころには、一つのグループを形成して、幕府権力の回復を試みる義輝を支援する。

これらの協力によって、永禄元年十一月に京都に戻り、地位を回復した義輝は、永禄二年六月から四年にかけて、長尾景虎その他の大名に鉄砲を与え、彼らの軍事行動を支援する。同時に、彼らに忠誠を誓わせて、幕府権威と権力の再興、および、強化をはかる。
そして、京都での布教の下地ができあがった、永禄二年十一月末に、バテレンのビレラが入京し、翌年の夏ごろに、義輝から布教許可を得て、京都での活動を開始する。
こうしてみると、帰洛を実現した義輝の背後で、南欧勢力に傾倒し深く結びついた宗麟の力が、いかに大きかったかがわかってくる。宗麟は、当時の日本政治の舞台廻し役であった。
ここで、「天下布武」の理念を形成した織田信長のブレーンは、宗麟と間接的に結びついたイエズス会協力者グループであった、とみなさざるをえない事態となった。

綸旨を否定したり、天皇の嘆願を無視したりする行為に加えて、“王法仏法は車の両輪”といわれ、朝廷と同位に位置づけられていた延暦寺を焼き払うことは、とりもなおさず、天皇権威の積極的な侵害に他ならない。
信長のキリシタン保護は、旧秩序の破壊と同一行動となっていたことを認識すべきである。
さらに、フロイスは、「(信長が)仏僧や神、仏の寺社に対して特別の権勢と異常な憎悪を抱いていたことは、彼の治世の間における行動が顕著に物語るとおりである」と記して、延暦寺をはじめとして東大寺、石山本願寺、天王寺、播磨の書写山、槙尾寺(まきのおでら)、上京の全寺社、住吉神社、堺と兵庫の諸寺院、近江の百済寺、伊勢と河内の一向宗、根来宗(ねごろしゅう)というように、信長による寺社攻撃を列記している。ここでの記述によれば、東大寺焼き打ちも信長の行為となっている。
また、別の箇所では、「デウスは、なんらキリシタンが策略を弄する(必要が)ないように、また(イエズス)会員(である我ら)が異教徒たちから恨まれることもないようにと、信長を仏僧たち(に対する)鞭に起用し、(彼をして)比叡山の大学を含めた多数の寺院を破壊せしめ給うた」とも記述している(「日本史」1)。
従来、比叡山焼き打ちをはじめとする寺社攻撃は、イエズス会の布教と連動した仏教弾圧としては認識されていなかった。


*大友宗麟へのバテレンからの武器供与は、史料的に明らかである。
天文二十一年(1552)八月十九日、豊後に到着したバテレンのバルタザール・ガーゴは、インド副王からの贈りものとして「非常に美しい武器、その他の進物」を携えて訪れ、宗麟に領内での布教許可を願った。(「日本史」6)
・・・・・(中略)・・・・・
また、宗麟は、永禄十年九月十五日付けで前述のカルネイロ司教に宛てて、「山口の国王、すなわち毛利元就に対して自分が勝利を博するためには、貴下の援助により、硝石の日本輸入は、自分以外の者にはいっさい禁止されたい」と要請する書簡を出している(「日本史」7)。
当時、火薬製造に欠くことのできない硝石の大部分は輸入に頼っていた。司教がその輸入独占の取りはからいを、宗麟から依頼されていたということは、イエズス会が貿易に関与していたばかりでなく、宗麟の軍事行動をも援助していた証拠となる。


*イエズス会から信長への武器援助があったという証拠は、現在のところ間接的事例がただ一例あるのみである。
洋暦1584年八月三十一日付け長崎発信イエズス会総長宛てのフロイス書簡写し(「Ⅲ-6」)によれば、天正十二年(1584)、羽柴秀吉が紀伊根来衆を攻める際、小西アゴスチイノ行長が率いた艦隊の船に、「豊後の国王が信長に贈った大砲一門」が、多数のモスケット銃とともに備えてあったという。
イエズス会司教を通して、インド総督に大砲贈与と硝石の独占輸入を要請しているほど、ポルトガル国とイエズス会と懇意な大友宗麟から、信長は大砲を贈られていた。つまり、信長は、間接的にイエズス会から武器援助を受けていたとみるべきである。

*信長は秀吉とともに、金銀を多量に所持し使用していたことが知られているが、両者とも南欧勢力から黄金の供給も受けていたのではないかと疑える。
堺の豪商、津田宗及(つだそうぎゅう)が、天正六年(1578)正月、安土城に信長を訪問したとき、ある一室で黄金一万枚を見たという話(「天王寺屋会記」6)がある。秀吉以前には、金山の採掘はそれほど進んでいなかったにもかかわらず、信長は家臣、使者などに再々黄金を与え、総計すれば、千四百枚を超えていた(「信長公記」)。
フロイスは、信長を日本でもっとも富んでいた人物と評した。その理由として、「多量に所有する金銀以外に、・・・・・インドの高価な品、シナの珍品、朝鮮および遠隔の地方からの美しい品々は、ほとんどすべて彼の掌中に帰したから」と述べている。
この言葉は、輸入品の独占により、信長が経済的に突出していたことを指摘している。せいぜい年貢米と賦課役銭を収入源とする通常の戦国大名では、全国制覇戦を支える軍事費は到底賄えないであろう。
その他、信長にとって、禁裏修理、義昭邸新築、安土城築城など大普請事業の費用も莫大であったはずである。しかし、「信長公記」には、バテレンからの黄金はおろか、援助らしきことは一切記述されていなかった。
それは、秘中の秘であったからと考えられる。「日本史」でも、前述のようにそれをほのめかす記事はあっても、明白に述べた箇所はみあたらない。しかし、信長の全国制覇戦の成功は、黄金の力がなければ達成しなかったし、南欧勢力も援助なしには、信長の協力を期待できないはずである。

信長を大友宗麟と連結させ、信長を全国制覇の舞台に押しだした担い手は、堺の豪商たちであった。
日比屋ディオゴ了珪(りょうけい)とその父親「クンド」と小西ジョウチン立佐が、初期バテレンの入京に協力したことを前述したが、後に今井宗久(そうきゅう)・千利休とともに信長の茶堂となって、その全国制覇活動に協力することになるのが、前述の天王寺屋津田宗及である。
宗及の叔父に、大友宗麟の御用商人となって豊後と堺を頻繁に往復していた天王寺屋道叱(どうしつ)がいた。宗及の茶会記録「天王寺屋会記」の記事をみると、宗及と道叱の、宗麟や豊後商人との動きがみてとれる。
・・・・・(中略)・・・・・
大友宗麟と信長とをつなぐパイプは、堺の日比屋一族と天王寺屋一族であった。
同じく堺の商人今井宗久は、豪商武野紹鷗(たけのじょうおう)の女婿として地歩を築いていた。信長が上洛した直後の永禄十一年十月二日に、信長に降伏した松永久秀とともに、摂津芥川城へ名物の茶器を持参して、信長に献上した。それ以後、堺衆を統率して鉄砲の製造をはじめ、信長に兵糧弾薬を供給した。永禄十二年八月に信長が制圧した但馬の生野銀山に代官を派遣し管理している。
鉄砲といえば、大友氏のもとに鉄砲鍛冶が仕えたのは、弘治二年(1556)のことであった。その後、大友氏は本格的鉄砲生産に入った。永禄七年に毛利軍をむかえ撃った大友軍は、千二百挺の鉄砲を備えていたという(福川一徳氏)。
宗麟は、当時の日本において鉄砲技術の大先覚者であり、豊後府内は、先端技術の拠点であった。
宗久は、当然、堺と豊後を往復する道?などを通じて、宗麟と交流があったであろう。
このような事実を総合すると、信長の登場は、堺商人やバテレンの支援者によって可能となったといえよう。
だからこそ、信長は、将軍足利義昭に堺を直轄地とすることを望み、矢銭をかけて反信長派の町人を服従させたとみてよい。


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