「右も左も根は同じ」「ロシア革命は嘘八百」の証明 - ジョン・コールマン、ユースタス・マリンズ
FC2ブログ

嘘八百のこの世界

この世界の真実を追究して行くための読後評を中心に書いていきます

HOME プロフィール 真実を追究するマロン

ソウルマンの娘のマロンです。お散歩大好きです。 

最新記事 最新コメント 月別アーカイブ カテゴリ
ランキング
にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 ポチッと押してもらえると、明日への活力となります↑
ロック
頭脳警察、PANTA
RCサクセション、忌野清志郎
ブラック・ミュージック
広告

「右も左も根は同じ」「ロシア革命は嘘八百」の証明

「新版300人委員会[上]支配される世界」①ジョン・コールマン


2008年の書である。以前読んだのだが、読み返している。
何回かにテーマを分けて記す。以下、一部引用する。



なぜウィルソン大統領は、トロツキーという明らかに反キリスト教革命家の活動を手助けしたのか。トロツキーは公然とロシアへ渡り、合法政府を転覆させようとしたのだ。ウィルソン大統領は、いかなる権力や権限をもちいて、カナダ警察に拘束されていたトロツキーの釈放を要求したのか。ウィルソンの大統領としての職務権限がカナダにまで及ばないのは確かなだけに、どんな人物や組織が、常識では考えられないこのような事態を実現させたのか。
アメリカ市民でもない人間がどうやって合衆国のパスポートを取得したのか。こうしたことはいくら大金を積んでも不可能なことだが、トロツキーは保釈金もなしに、本来持てるはずのないパスポートを持ってロシアへと旅立ったのだ。逮捕された人間が釈放される~この奇跡的な事実は、巨大な権力機関が存在することを証明している。国境を越え、まるで直属の部下に命令するように各国の政府を操る最強の組織が存在するのだ。
いかなる権利や権威によって、パルヴス・ヘルファントは歴史上最悪の危機的状況でドイツ政府の補佐官となれたのか。なぜヘルファントはベルリンの最高機関の仲間入りができたのか。なぜ、ドイツ政府はヘルファントの提案を受け入れ、ボリシェヴィキ革命が勃発した時期に、レーニンを極秘に列車でドイツへ招待したのか。
なぜ、スウェーデンはこの計画に乗ったのか。ドイツの大物スパイ、ヴィリー・ミュンツェンベルクは、どうやってレーニンの近しい協力者になったのか。どこからともなく現れた人間が、そのような輝かしい政治的成功を収められるはずがないではないか。




(管理人)
今回は、「右も左も根は同じ」「ロシア革命は嘘八百」の証明である。
このような「常識」は、以前からの当ブログの読者の方ならば、ご理解いただているはずだ。
この「常識」を完全にマスターしてもらうために、このような「常識」を唱えているのは私だけではないことを知ってもらうために、いくつかのブログ記事を紹介する。
ネトサヨを批判するネトウヨさん、ネトウヨを批判するネトサヨさん、「アンタたちがこれまで信じぬいてきた思想という奴は同一勢力が生み出した「製品」である」ことを理解してください。「アンタたちの敵はアンタたちに思想という名の「製品」を押し付けた者だ」ということを理解してください。「アンタたちがいがみ合えばいがみ合うほど、「製品製造業者」の連中は「バカなゴイムどもだ」と嘲笑している」ことを理解してください。





http://www.geocities.co.jp/Technopolis/7073/kyousanntouennjyo.htm
★ロックフェラーと共産主義の関係

◆ロックフェラーと共産主義者の奇妙な関係
 ロックフェラー一族がアメリカで最も注目に値する人々であるという表現は、我々にとって控え目な表現である。いかなる小説家もこのような家族を描くことは出来ないであろうし、どんなハリウッド映画の大立物もかれらの主演する映画を作ることは出来ない。ロックフェラー一族は、実際我々が想像する以上に巨大であり、彼らの行動はまさしく「小説よりも奇なり」と表現するに相応しい。
 これまで多くの伝記作家が、彼らの信じられない程の富と、政治・経済に及ぼす絶大な影響力について書いてきた。しかし奇妙なことに、ロックフェラー家の最も注目すべき側面ーー即ち、一族の最大の敵ともいうべき共産主義との何世代にも渡る親密な関係ーーについては殆ど記される事がなかった。
 この両者の世にも不思議な関係は、我々にごく一部しか知らされていない。しかし、既に公開されている情報の内容を分析するだけでもそれは驚くべきものだ。物事はいつも見かけ通りとは限らない。この言葉は陳腐な決まり文句であるが、それにしても、世界中の共産主義者の真の黒幕というべき後継者の正体ほど、不可解で信じられないミステリーが今までにあったろうか。
 我々が扱う問題を理解するには若干の背景の説明が必要である。それは、20世紀の歴史に大きな転機を画したロシアのボルシェビキ革命の真相を知るところから始まる。
 今日、世界中の多くの人々は、共産主義者がロシアで成功したのは、皇帝の専制政治に嫌気がさしていた農民達の支持があったからだと信じているが、これは事実ではない。
 我々は、1917年11月のボルシェビキ革命で専制が倒されたかのように教えられているが、実際の所、皇帝は7ヶ月も前に退位していた。この年の3月、皇帝ニコライ二世の君主制が崩壊すると、ルヴォフ皇太子が臨時政府を組織していた。彼は、アメリカの共和制を手本に、新しいロシア政府を作ろうと望んでいた。しかし不幸にして彼は陰謀の為に位を追われ、アレクサンダー・ケレンスキーに取って替わられたのだ。そしてこのケレンスキーは、ボルシェビキに反対すると称して、ボルシェビキの為に革命の道を準備したのである。
 問題は、皇帝が退位してから暫くの間、後にボルシェビキ革命の指導者となったレーニンとトロツキーがロシアにいなかったという点だ。レーニンは当時スイスにおり、1905年以来ずっと亡命生活をしていた。又トロツキーもアメリカに亡命して、ロックフェラーのお膝元、ニューヨークで記者生活をしていた。二人は共にロックフェラーと繋がりの深いマックス・ワールブルク(ドイツ)及びパウル・ワールブルグ(アメリカ)等の資金援助を受けて、ロシア革命の準備を進めていた。
 こうしてボルシェビキ革命の準備が整うと、トロツキーは、カナダ経由でアメリカからロシアに帰ることになった。一方、レーニンは、かの有名な封印列車でチューリッヒを発つとドイツ経由でペトログラードに送り込まれた。そして二人は力を合わせ、贈賄、陰謀。テロといったあらゆる手段を用い、殺し屋を雇ったり密約を結んだ挙句、ようやく11月までにペトログラードの支配権を握ったのである。というわけで、ボルシェビキが権力の座についたのは、決して「虐げられたロシアの民衆」が二人を呼び戻した為ではなく、ロックフェラーを始めとするアメリカと欧州の大富豪達が、彼ら二人をロシアに送り込んだからである。これらの事実は、今日まである程度秘密にされてきた。中でも此の時期に西側諸国、特にアメリカの大資本家がボルシェビキに大量の資金を提供した事実は極秘とされてきた。しかしロックフェラーが、1917年以降も、現在に至るまでソビエト体制(現在はロシア体制と、中国共産党体制)を強力に支援してきた事実は最大の秘密事項とされてきたのだ。

 我々は、以下において今世紀最大の秘密とも云うべき問題の核心に迫る。だが、そのに革命以降の知られざる歴史事実を幾つか振り返ってみよう。

◆彼らはソビエトの建設を支援してきた
 ロシア革命の直後、ロックフェラー一族と彼らの団体(CFR=外交問題評議会)は、共産主義ロシアの危機を打開するため、アメリカの貿易業者がソビエトに物資を輸出出来るよう議会に圧力をかけ始めた。
 当時、世論はボルシェビキの野蛮な性格に強い反感を示していた。その為アメリカ政府は、公式的にこの非合法政府と取引する事は出来なかった。アメリカがロシアのボルシェビキ政権を承認する為には、1932年のルーズベルト大統領の誕生を待たねばならなかった。そこでボルシェビキの救援に大急ぎで向かったのが、バンダーリップ、ハリマン(ハリマンと日本の関係は、日露戦争後、ハリマンが桂太郎首相や元老・井上馨などに面会し、ポーツマス条約によって日本が経営する事になった南満州鉄道に資金を提供し、日米シンジケイトを作りたいと申し入れたのである。最初、ハリマンの提案を日本側は了承し、予備協定の覚書も交わされた。だが、これに徹底的に反対する小村寿太郎である。其の理由は「日本の将兵の血によって手に入れた満州をアメリカに売り飛ばすような事は出来ない」として反対した。結局、一度結ばれた覚書を、日本政府が一方的に破棄するようになった。この破棄理由が、日露戦争の将兵のためとしているが、日本は、まだ奥深い世界戦略が見えていなかった事を指摘する。ハリマン問題は、共産主義問題でもある。そして、孝明天皇陛下の毒殺のも関わらず問題のである。ロシア革命に資金援助したハリマン財閥は、キリスト教徒がどれくらい死んだのかと云う事も考慮しなければならない。そこまで深い戦略を立てて実行していなかった事が、大東亜戦争の戦略無き戦いに繋がったのである。あの当時、孝明天皇陛下の死について真剣に調べれば良かったと思います。そうすれば、世界がもっと深く理解出来たかも知れません。この辺りの問題を調べれば、何かが出るのではないでしょうか!忍)、ロックフェラー家であり、中でもフランク・バンダーリップはソ連に一番乗りした。彼はロックフェラーの代理人で、ロックフェラー・ファースト・ナショナル・シティ銀行の頭取を務めていた。フランクは、レーニンをジョージ・ワシントンのように偉大な建国者であると讃えた人物である。
 ボルシェビキ革命以前、既にロシアは世界一の産油国アメリカに次ぐ石油資源国だった。しかし革命による混乱と破壊の為、ロックフェラー一族のスタンダード石油は事実上ロシアから占め出された。彼らがロシアの石油事業に進出し、その事業の一部を確保したのは、革命後数年経ってからだった。1926年、ニューヨークのスタンダード石油とその子会社バキューム石油は、ヨーロッパ市場にソ連の石油を輸出する取り決めを結んだ。当時の報道によれば、この取引の一部は、ロックフェラーからソ連共産党に貸し付けられた7500万ドルの資金で穴埋めされた。27年、ソ連共産党の秘密の相棒、ニューヨークのスタンダード石油は、ロシアに石油精製施設を建てた。この施設はソビエト経済を回復させるのに測り知れない貢献した。
 これは革命以降初めてなされたソビエトに対するアメリカの本格的な投資である。ーースタンフォード大学フーバー研究所の高名な教授アントニー・サットンは証言する(我々はその後この施設が共産主義者に没収された事を聞いていない。という事は、ロックフェラーが鉄のカーテンの向こう側で今もこの施設を所有し、スイスの秘密口座を通じて莫大な利益を得ている事を意味していないだろうか。もしそうだとすれば、ロックフェラー一族は、彼らの得た利益を株主配当や税金の形で減らさなくても済むわけだ)。
 ロックフェラーのスタンダード石油が行くところ、何処でもロックフェラーのチェース・ナショナル銀行が必ず後に従った。
 22年、チェース・ナショナル銀行は、利潤を追求する資本家の大敵とされたいたボルチェビキを助けるため、米ソ商工会議所を設立した。この会議所の会頭は、チェース・ナショナル銀行の副頭取、リーブ・スクリィだった。25年、チェース銀行とプロム銀行間の交渉は単なる原材料買付け融資の枠を越え、ソビエトのアメリカ向け原材料輸出とアメリカの綿及び機械のソビエト向け輸出に関する貿易決済の完全で精密な合意に達した。チェース・ナショナル銀行とエキタブル・トラスト・カンパニーは、ソビエトの信用取引を拡大する指揮をとった。
 又28年、ロックフェラーのチェース・ナショナル銀行は、アメリカ国内でボルチェビキ債権を売った。その為チェース・ナショナル銀行は「国際的盗品取引銀行」と非難され、ロックフェラーは「アメリカの面汚し」、「利益の為なら何でもする男」と批判された。アメリカの上院議員ルイス・マクファデンは、かって議会で金融通貨委員会議長を務めた当時、同僚の議員達に向かって次の様に演説した。
  ソビエト政府は、我が国の連邦準備制度理事会及び連邦準備銀行の決定により、ロックフェラーのチェース銀行、モルガン・ギャランティ・トラスト他、ニューヨーク市内の幾つかの銀行からアメリカの国家資金を手に入れている。   諸君、ニューヨークのソビエト政府貿易公社アムトルグやソ連貿易組織本部ゴストルグ、 ソビエト国立銀行の帳簿を開いてご覧なさい。これまで何に多くの国家資金が、ソビエトの 為にアメリカの国庫から持ち出されてきたか、と云う事が解ってビックリされるだろう。ニューヨークのチェース銀行がソビエト国立銀行の為にどんな取引をしてきたか。調べてみると意外な事が分かるだろう。

◆共産主義は地球支配を目指す億万長者の陰謀である
 ロックフェラーとその同盟者は、1917年の革命でロシアに彼らの植民地を作った後、ソビエト体制の維持・発展の為、今日まで精力的な援助をを続けてきた。1918年以降、彼らの団体がソ連に対して強力な経済援助をして来た事は、以上に示した幾つかの事実からも明らかだが、我々にとって無視出来ないのは、彼らが西側の重要な技術情報を悉くソ連に渡してきたという点である。
 此の事実は、アントニー・サートン教授の三巻にのぼる画期的な名著『西側の技術とソ連経済の発達』の中ではっきりと示されている。サットンはその証拠の大部分をアメリカ国務省の公文書に求め、ソビエトが現在所有しているものは、事実上全て西側、特にアメリカから入手したものである事を、可能限り、疑問の余地無く証明している。
 今日のソ連はアメリカの手で作られたーーこの様な驚くべき結論を、我々は直ちに信じられるだろうか。だが、アントニー・サートンの行き過ぎな迄に学問的な研究は、その事を反論の余地なく明らかにしてしまった(この本の日本語訳する人はいないのかと思います!忍)。
 もし共産主義が、本当に東側の共産主義者や西側の指導者、マスコミが説明している通りのものであれば、彼らは本書で取り上げる事実は矛盾無く説明する事は出来ない。しかし、もし共産主義が、地球支配の野望にとりつかれた億万長者達の壮大な陰謀の道具であるとすれば、本書に述べる事実は、完全に筋の通ったものとなる。戦前既に、英国の聡明な歴史家ネスタ・ウェスター(ネスター氏は、フランス革命にギロチンされたマリー・アントワネットの霊体に導かれて歴史を書いた。只、彼女は英国を信じたので、フランス革命は、ドイツが主催であると語ったが、イルミナティ思想の根底は、ユダヤ思想であり、根底には英国の300人委員会(東インド会社)である事をコールマン博士がおっしゃっている!忍)は次のように語っていた。
  もしもボルシェビキが、現在よく云われているように、まずロシア、次いで各国のブルジ  ョワの私有財産を廃止しようと躍起になった過激な革命家の集団に過ぎなかったなら、当然、 彼らは世界中の富豪達の組織的な抵抗に直面したであろう。そしてロシア革命の炎は瞬く間 に消されてしまったはずだ。ところがこの少数党は、予想に反して政権を握り、其の後もずっと今日に至るまで権力を維持することが出来た。これはひとえに、背後にいる強力な後援 者のおかげである。
 億万長者達は、なぜロシア革命を必要としたのだろうかーーサットンは、『ウォール街とボルシェビキ革命』という別の著書で、其の背景をこう説明する。
  かってJ・P・モルガンやJ・D・ロックフェラーは、市場の独占支配を彼らの目標とし
 て来た。ところが19世紀の終り頃になると、揺るぎない独占権を得る為には政治的に振る
 舞い、大衆の利益と幸福の名の下に、社会全体を自分達の為に働かせる事が最も効果的であ
 ると悟った。
 その為彼らが実行に移した陰謀は、フレデリック・ハウの『独占資本の秘密』によれば次の通りに説明している。
  以下の二点は、大事業の法則である。この法則は我らの父祖の教えに取って替わるもので、
 単純な金言に要約する事が出来る。つまり、独占権を手に入れよ、そして社会を汝の為に働
 かせよ、という事だ。全ての仕事の内で最高のものは政治であるという事を忘れるな。法的
 な認可や特権、補助金、免税を手に入れる事は、キンバリーやコムストックの鉱脈を掘り当
 てるよりずっと価値がある。なぜなら、それを自分のものとして使う時、何ら精神的・肉体的労
 働を必要としないからだ。
 ロシアは、当時、世界最大の未開拓市場だった。又ロシアは、当時、世界の産業と金融におけるアメリカの優位を脅かす可能性のある最大の競争相手だった。将来、ロシアはアメリカ以上の経済大国となって、西側の支配を脅かすようになるのではないか。
 ウォール街の大資本家達は、ロシアが独自の発展を遂げて、彼らの支配を揺るがす事を恐れた。そこで彼らは、ロシア市場の独占支配を実現し、ロシアの民衆を彼らの為に働かせる事を考えた。ロシア人民の利益と幸福の為、「我らソビエトに全ての権力を!」こうして1917年のロシア革命は始まり、西側の資本と技術を継続的に導入しなければ成り立たない非生産的な経済システムがロシアに作られる事になった。そして彼らは、革命政府を通じてロシアの富と人民を搾取し、彼らの脅威となるロシアの発展を管理することを成功した。
 もちろんこの事件には、彼らがソ連(今現在は、ロシアと中国!忍)という新しい市場の独占権を手に入れた以上の意味が含まれている。彼らは既に第1次世界大戦前の1913年、アメリカの国民にペテン的な連邦準備制度を押し付け、貨幣価値の意図的な操作によって莫大な富を蓄積する体制を整えていた。だがロシア革命の影響はアメリカの中産階級に激しい圧力を加える事により、29年の大恐慌と33年のニューディール革命を経て、アメリカに累進所得税を導入するきっかけを作り出した(それは、自らの課税を免れながら、彼らの競争相手である中産階級と自由主義企業の没落を図るという、実に巧妙なやり方を取った)。
 過去数十年に渡るロックフェラー一族のこの様なやり方は、単に、より多くの利益を目指しただけであったろうか。我々はそう思わない。むしろ彼らは、此の地球上のあらゆる富を独占する為、アメリカの内と外で”見えざる政府”を組織し、世界政府の樹立を目標として行動をしてきたのではなかろうか。
 既にアメリカの連邦準備制度理事会(FRB)と外交問題評議会(CFR)は、60余年に渡って、彼らの衛星国ソビエト・ブロックの強化を目的とする政策を実行に移している。現在、ソ連や中国の共産主義者に技術を譲渡し、援助を増やし、東西貿易を拡大するという一連の動きの先頭に立っているのは300人委員会である。そして彼ら全ての指揮を取っているのが、その名も高き国際銀行団体である。





http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/516.html
ウォール街とボルシェビキ 第11章 銀行家達と革命の同盟
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/516.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 20 日 08:37:42

ロシア革命中および革命前後におけるボルシェビキ銀行家オロフ・アシュベルグとニューヨークのモルガン支配下のGuaranty Trust Companyの間に、絶えることなく関係が続いていたことを証明するために、我々はこの証拠を今越えている。ロシア帝政時代、アシュベルグはロシアにおけるモルガンのエージェントで、合衆国におけるロシア公債の交渉人であった。1917年、アシュベルグは革命家達のための融資仲介人で、革命後、アシュベルグは最初のソビエトの国際銀行であるRuskombankの頭取になった。一方、モルガン支配下のGuaranty Trustの副会長マックス・メイは、Ruskombank外国部の取締役部長になった。我々は、Guaranty Trust Companyとボルシェビキの間に絶えることなく続いていた関係があったという文献に基づく証拠を提示した。1917年におけるGuaranty Trustの取締役はAppendix 1 に列挙した通りである。
更にまた、ウォール街の銀行家から国際革命家への資金移動の証拠がある。たとえば、ニューヨークの連邦準備銀行の取締役で、ロックフェラー支配下のChase Bankの大株主で、またグッゲンヘイムス一族およびモルガン一族の金融業仲間であるウィリアム・ボイス・トンプソンの(海底電信によって実証されている)言明があり、彼(トンプソン)はプロパガンダ目的でボルシェビキ革命に百万ドル寄付していたのである。他の例は、ニューヨークの民間銀行家であるユゲネ・ボイッセバインによって融資支援された第三インターナショナル実行委員会のアメリカのメンバーであり、またハリー・ペイン・ホイットニーのMetropolitan magazineに雇われていたジョン・リードである。ホイットニーはその当時Guaranty Trustの取締役であった。合衆国駐在の最初のソビエト大使であったルドウィグ・マルテンスは、(英国諜報部長バシル・トンプソン卿によれば)Guaranty Trust Companyからの資金によって支えられていたということも我々は立証した。合衆国におけるトロツキーの財源を追跡して、まだ確認する必要性が残っているものの、ニューヨークにおけるドイツ起源であることをつきとめている。そして、トロツキー財源の正確なドイツ起源を知らないけれども、合衆国におけるドイツ人スパイのボスであったバン・パヴェンステッドは、Amsinck & Co.の年長のパートナーでもあったことを我々は知っている。Amsinckは、いつも存在するAmerican International Corporationの子会社で、J.P.モルガン商会の支配下にもあった。
更に、Guaranty Trustを含むウォール街の企業は、メキシコにおけるカランザとヴィラの戦時下の革命活動に絡んでいた。今日では中国における毛沢東革命の前ぶれとして中国共産党に是認されている革命、すなわち1912年の孫文革命に対して、ウォール街のシンジケートが融資したことに関しての文献に基づく証拠も我々は明らかにした。このシンジケートのために孫文との交渉を担当したニューヨークの弁護士チャールズ・B・ヒルは、Westinghouseの子会社3社の取締役であって、ロシアのWestinghouseのチャールズ・R・クレーンはロシア革命に絡んでいたことを我々は示した。


ロシアはその当時の世界における最大の未開発市場であり、今でもそうである。更に、ロシアは当時も今もアメリカの産業および金融の覇権に対する最大の潜在的な競合する脅威である。(広い土地を有するロシアとより小さな合衆国の間の地形上の差異が目立っていることを知るには、世界地図を一目すれば十分である。)ウォール街は、アメリカを超える巨大産業国家としてロシアを思い描いたとき、寒さで身震いするに違いない。
しかし、何故、ロシアが合衆国の覇権に対する競合者・挑戦者になるのを許したのであろうか? 19世紀末、モルガン/ロックフェラーおよびグッゲンヘイムは独占的傾向を明白にしていた。農民ではなく鉄道所有者が彼らの独占を維持し、競合者を排除するために、鉄道が国家的にコントロールされることを如何にして望んだかということを、「鉄道と規制、1877-1916年」において、ガブリエル・コルコは立証した。それ故、我々の証拠の最も簡単な説明は、ウォール街金融業者のシンジケートは彼らの独占野望を拡大し、独占領域の水平線をグローバルに拡張したということである。巨大なロシア市場は、強大な力を持つアメリカの金融業者および彼らの支配下にある会社によって開拓されるべき専属の市場および特殊な植民地に変換されようとした。アメリカの産業の言いなりであった各州相互通商委員会および連邦通商委員会が国内においてその産業のために成し遂げたのと同じことを、ウォール街とワシントンD.C.の適切な援助および誘導の下で、計画的に作られた社会主義政府を使って海外において成し遂げようとしたのであろう。
最後に、この説明が余りに急進的と思わないならば、以下のことを思い出して欲しい。赤軍を強化するために独裁的将軍を任命したのはトロツキーである。革命下のロシアをコントロールし、ソビエトのために仲介するように、アメリカの公務員に訴えたのはトロツキーである。ロシア革命における自由主義者を、そして次に労働者および農民を鎮圧したのはトロツキーである。しかも、記録に残されている歴史において、革命の裏切りに怒り、白軍および赤軍と戦った元ボルシェビキからなる70万人の緑軍が全く持って無視されているのである。言い換えれば、ボルシェビキ革命とは、国家統制主義者、すなわちロシアにおける純粋に革命的な自由主義者に対抗して提携した国家統制主義革命家と国家統制主義金融業者の同盟であったのである。3
読者は、ここにおいて、これらの銀行家達も隠れボルシェビキだったのだろうかという疑問を抱いているに違いない。否、勿論、そうではなかった。金融業者達にイデオロギーなんてものは無い。どんなに狭い意味においても、ボルシェビキへの支援がイデオロギーに押されたものであると考えることは、著しい誤解であろう。金融業者は権力に関心があり、それ故、権力への入り口を提供してくれる可能性があるならば、どのような政治的組織であろうとも支援した。トロツキー、レーニン、皇帝、コルチャク、デニキン ― 彼らはすべて多かれ少なかれ支援を受けていた。すなわち、本当に自由な産業社会を望む人々以外ならば誰でも支援したのである。





(さてはてメモ帳)さん
http://satehate.exblog.jp/11218656/
国際的な銀行家によって支援されたボルシェヴィキ革命 by G・アレン&L・エブラハム 3


ロシアのボルシェヴィキ革命は、明らかに世界史における大きな方向転換の一つだった。この出来事については、ありあまるほどたくさんの誤ったうわさがひろまっている。 "神話製造者"や歴史家は、歴史の本質的なことにふれず、それを保留することに成功している。 ロシアにおける共産主義の確立は、共産主義のもつ二番目に大きな虚言の古典的事例である。すでに述べたように、それは「共産主義は使用者よる搾取に反抗して立ちあがる抑圧されている大衆の運動である」というものである。巧妙にに仕上げられたこの惑わしは、一七八九年の第一フランス革命以来つちかわれできたものである。

多くの人びとは今日、共産主義者がツァー(ロシア皇帝)の暴政後、他の体制を受け入れやすくなっていたロシア人民の人気を勝ちとったことが、ロシアにおける共産主義に成功をもたらしたと信じている。 この考え方はしかし、歴史的事実の傍らを素通りしている。

一九一七年十一月にボルシェビキ革命が起きたことは全くよく知られているのに反し、ツァーがすでにその五月に、つまりこの革命の七ヵ月も前に退位していたということは、あまりよく知られていない。皇帝ニコライ二世[Nicholas II of Russia,1868-1918?]が退位したとき、まずルヴォフ[Georgy Lvov, 1861-1925]によって暫定政府が建てられた。


ルヴォフはアメリカ政府をモデルにして新しいロシア政府をつくろうと考えていたのであるが、不幸にもこの政府はケレンスキー[Alexander Kerensky, 1881-1970]体制に道をあけた。いわゆる民主社会主義者であるケレンスキー派、共産主義のための過渡的政府を率いたといってよいだろう。


彼はドイツやその他の中欧諸国に対す戦争にはもちこたえたが、失敗した一九〇五年のの赤色革命後捕らえられていた共産主義者とそのほかの革命家たちに、大赦の恩典を与えてしまった。


こうして二十五万の魄(はく)つき革命家が、ケレンスキーの運命を決めるため、母なるロシアにもどって来たのである。

ソ連邦においても、共産主義が権力につくのを助けたのは抑圧された大衆ではなかった。他の共産主義国家や社会主義国家と同じように、ここでも権力は上から下に落ちてきたのである。 

共産主義が権力を掌握するまでの期間を年代記的にあらわしてみよう。

年は一九一七年、連合軍は中欧諸国と戦っている。この戦争にロシア、イギリス帝国、フランス、そして四月からはアメリカ合州国が参戦している。一九一七年三月、計画者は列強国を動かし、ニコライ二世を退位に追いこんだ。彼はこの退位を連合国の圧力のもとで、暴動の後、ペテルスブルクの議事堂で行った。

この暴動は、この都市の生活必需品の供給をストップし、工場閉鎖をもたらした運輸組織の崩壊から起きた。 (引用注:フランス革命を思い出しますね。いや、むしろ現在を? 「魔術とイルミナティ」の通りになってくる。「崩壊の計画」、「終末の始まり」 も参照 彼らは、皆をフールにしておき、過去と同様の手を使ってくる)

しかし、こうしたすべてのことが起きているとき、レーニン[1870-1924]とトロツキー[Leon Trotsky, 1879-1940]はどこにいたのであろうか。 レーニンはスイスにいた。


彼は一九〇五年の追放以来ずっとヨーロッパにいたのである(彼もまた、かの年に失敗した共産革命でツァーを倒そうとした)。 トロツキーもまた亡命中だった。



彼はそのときニューヨーク市のイーストサイドで共産主義の新聞の記者をしていた。ボルシェヴィキたちはツァーが退位した当時、まだ眼に見えるような政治的力をもってはいなかった。 

彼らは、抑圧された大衆の圧力に従ってロシアに帰って来たのではない。ヨーロッパとアメリカの力強い男たちが、彼らを権力の座につかせたのである。

レーニンは、戦争下のヨーロッパを駆けめぐるという有名な「封印された遠征」に派遣されていた。彼は金で五百万ないし六百万ドルをもっていた。このすべての段どりは、ドイツ最高司令部とかのマックス・ヴァールブルク[Max M. Warburg, 1867-1946]が、杜会主義者であり同時に大金持ちのアレキサンダー・ヘルファント、別名「小人(パルヴス)」[Alexander Parvus, 1867-1924]の助けでやった。


トロツキーが一九十七三月二十七日、S・Sクリスチャニア号で二七五人の革命家をともなってニューヨークを離れた。最初の寄港地はノーヴァ・スコチア[Nova Scotia]にあるハリファックス[Halifax]だった。そこで彼はカナダ人に逮捕され、資金も取りあげられて五日間監禁された。彼については、カナダ人の知るところとなっていた。なぜならトロツキーは、自分がロシアで首尾よく権力を得たらすぐさま「帝国主義的戦争」を終結し、ドイツとは個別的平和条約を結ぶだろうと、しばしばしゃべっていたからである。もしこうなれば、ドイツ部隊のかなりの部分が東部戦線で自由になるだろうから、これはカナダ人の利益には合わたかった。つまり、こうして自由になった部隊は、西部戦線のカナダ部隊と戦うため、西部戦線に移動してくるかもしれないのである。

だが五日間の拘留後、突然イギリス人がクーン=レブの将来のパートナーとなるサー・ウィリアム・ワイズマン[Sir William Wiseman, 1886-1962]を通して、またアメリカ人がかの神出鬼没のハウス連隊長["Colonel" Edward Mandell House, 1858-1938]を通して、カナダ政府にトロツキーの釈放を要求してきた。 かくてトロツキーは釈放され、しかもアメリカのパスポートをもって、ロシアでレーニンに会うべく帰国したのである。


トロツキーとレーニンは、レーニンが「ソ連邦の全権力」と名づけたものを十一月までに手中に収めることに(大衆が彼らの背後に立ったからではなく)、買収、残酷、策略、詐欺、暴力をもって成功したのである。



共産主義者は、一ダースたらずの都市を征圧することによって権力についた。実際、革命は一つの都、すなわちペテルスブルクでのみ完了したのである。それはちょうど、少数の共産主義者がワシントン・D・Cを征圧して、アメリカ全体が共産主義になるようなものであった。だがソヴィエト(評議会)がその力を全ロシアに確立できるまでには、まだ数年を要した。

かのドイツ人(マックス・ヴァールブルク)がレーニンやトロツキーに資金を出した理由は、一応もっともなようにみえる。レーニンヘの資金援助に対して主要な役割を演じたのは、マックス・ヴァールブルクとロシアから追放されたアレキサンダー・ヘルファントだった。

彼らは、レーニンに資金を援助することによって彼らの国(ドイツ)の事態に奉仕するのだという主張はできた。それにもかかわらずこの二人のドイツ「愛国者」は、ドイツ皇帝に、ロシアに共産主義革命をかきたてるという自分たちの計画を打ち明けることをなおざりにしていた。


もしここでマックス・ヴァールブルクの弟が連邦準備の創立者の第一人者で、かの有名なパウル・ヴァールブルク[Paul Moritz Warburg, 1868-1932]だったということを考慮に入れれば、また違った展望が開けてくる。


パウルは連邦準備理事会の長という地位を利用して、アメリカの戦争遂行を支援するにあたって主要な役割を演じた。兄のマックスがドイツの金融界を指揮しているということが、アメリカの新聞にも匂ってきたとき、パウルは眉を一つ動かすことなくその地位を退いた。 しかしいまや、陰謀はますます凄味を帯びてゆくだけだった。

マックス・ヴァールブルクのもう一人の弟であるフェリックス[Felix M. Warburg, 1871-1937]の義父、すなわちクーン=レブ商会の最高のパートナーであるヤーコブ・シッフ[Jacob Schiff,1847-1920]も、トロツキーの資金援助を行った。


一九四九年二月三日付のニューヨーク・ジャーナル・アメリカンには、「ヤーコブの孫ジョン・シッフ[John M. Schiff, 1904-87]の言葉から、ヤーコブ・シッフは約二千万ドルをロシアにおけるボルシェヴィキの最後的勝利に投資したと今日推量される」と掲載された(図6参照)。



ボルシェヴィキ革命の資金援助についての最も優れた情報源の一つは、被抑圧人民連盟をフランスで創立し、また有力な白ロシアの将軍であるアゼーヌ・ド・グルヴィッチの著書『皇帝制と革命』である。フランス語で書かれ、ただちに英訳されたこの本で、彼はつぎのように言っている。

  「革命資金の主要な調達者はだが気が狂ったロシアの百万長者でも、レーニンのもつ武装山賊でもなかった。決定的な額は第一に、永い間ロシア革命に関わることがらに支援を行っていたイギリスとアメリカのある集団からやって来た・・・。さらに、アメリカの豊かな銀行家ヤーコブ・シッフがロシアの出来事に際して果たした重要な役割は、今もってなお秘密にされているが、これからも永い間秘密にされつづけることはないだろう(9)」。

ド・グルヴィッチはまた、アレキサンダー・ネチヴォロドフ将軍の言葉を引用して、同書でボルシェヴィキ革命についてつぎのように言っている。

  「一九一七年四月、ヤーコブ・シッフは、自分の資金援助のおかげでロシアの革命は成功したと公式に宣言している。同年春、シッフはトロツキーに補助金を交付しはじめた・・・。同時に、トロツキーとその仲間は、マックス・ヴァールブルクとストックホルムのニエ(Nye)銀行のオーラフ・アシュベルク・・・、そしてライン・ウェストファーリア企業者連合、および後に娘[Natalya Sedova]をトロツキーに嫁がせたジヴォトフスキー[Abram Zhivotovsky]からも補助金を受取っていた」。

シッフはツァーを倒すために何百万も出し、ケレンスキー打倒を可能にするためにはもっと多額の金を投資した。ボルシェヴィキの本当の性格が世界に知れわたってかなりたっても、彼は金をロシアに送りつづけた。戦争によるユダヤ人の生活苦を軽減するため、という名目で総額百万ドルを調達したが、これはその後よい事業投資であったことが証明された。ド・グルヴィッチは、われわれに、「ロシア皇帝の最後の駐米大使バクメチェフ氏は、〈ボルシェヴィキは彼らの勝利後、一九一八年から一九二二年の間に六億ルーブルをクーン=レブー商会(シッフの会杜)に振込んだ〉と言った(10)」と言っている。

ボルシェヴィキ革命への直接的な関わりは、もちろん完全に否定されるが、当時の連合軍の秘密情報部の間ではその「関わり」がよく話題になっていた。こうしてボルシェヴィズムはユダヤ人の陰謀であるといううわさがひろまったのである。すでに述べたように、この財政援助は、シッフ-ヴァールブルク集団と並んでモルガンおよびロックフェラーも所属している国際的な銀行家たちのシンジケートから出たものである。ある文書は、モルガン機関は赤色革命の口座に少くても百万ドルを振込んだことを示している(11)。


革命の他の大口のスポンサーは、大富豪のイギリス人、アルフレッド・ミルナー卿だった。

彼はロスチャイルド家が援助している秘密集団「円卓」(The Round Table)の創設者であり、またその団長だった。



これについてド・グルヴィッチはつぎのように言っている。

  「一九一七年四月七日、ヤーニン将軍はロシア総司令部で‘Au G. C. C. Russeの表記のもとでつぎのようなことを日記に記している(Le Monde Slave, Vol.2 1927, pp296-297)。長い話合いでR氏は、私がすでにM氏より聞いていたことを裏づけた。R氏は、R氏とR氏の家族のドイツ人に対する憎悪を語ったのち、イギリス人によって肉づけされた革命にテーマを移した。 この<肉づけ>はより正確にいえば、サー・ジョージ・ブーファナンとアルフレッド・ミルナーによってなされたのであった。ペテルスブルグにはこのときイギリス人がウヨウヨしていた・・・。彼はイギリスのスパイたちが泊っていた通りの名前も、家の番号もいうことができるそうである。彼によれば、イギリスのスパイたちが暴動を通して金を兵士に配り、彼らを暴徒にけしかけていたという報告もあるそうだ。・・・私的なインタビューで私は<ミルナー卿はロシア革命に二千百万ルーブル以上の資金援助を行った>と聞いている(12)」。

ミルナー卿と(パウル、フェリックス、マックスの)ヴァールブルク兄弟は、第一次世界大戦終了後に開かれたパリ平和会議で「彼らの」それぞれの国を代表した。

たとえレーニンに対するマックス・ヴァールブルクの資金援助が場合によってはドイツ人の「愛国心」によるものであったとしても、シッフ、モルガン、ロックフェラー、ミルナーを動かしたものは、愛国心でなかったことは確かだ。イギリス人とアメリカ人は、同盟国同志としてともにドイツと戦って、そして皇帝制ロシアとも同盟していたのである。 彼らの資金援助の結果、東部戦線で一ダースのドイツ師団が自由になり、再び多くのアメリカとイギリスの兵士がその命を落したのであるから、これらのインサイダーたちは、自国に対して反逆罪を犯したのは明らかである。

ボルシェヴィキ革命との関係で名前が浮かびあがってくる多くの人びとは、このように、アメリカの連邦準備制度、累進所得税制、免税財団などの創設、そして第一次世界大戦のアメリカ参戦にも責任をもっている。 だがさて、ここからこれらはみな偶然ではありえないという(論理的に首尾一貫した)結論を引き出す者は、その名前がアメリカの国の杜会人名簿から消されるのである。


G・アレン&L・エブラハム インサイダー 第四章 国際的な銀行家によって支援されたボルシェヴィキ革命 p117-126より







ポチッと押してもらえると、明日への活力となります
にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村

COMMENT

EDIT COMMENT

非公開コメント

テンプレート説明

このテンプレートは、プラグイン1・2・3に対応しています。
背景はスライドショーになっています。

◎プラグイン説明

最上部のメニューバーがプラグイン1です。マウスオーバーで展開するメニューになっていますので、お好みでプラグインを設定してください。「HOME」のような普通のリンクも置けます。
←のエリアがプラグイン2です。有効範囲幅は180pxです。
このエリアがプラグイン3です。有効範囲幅は540pxです。
サイズの大きなプラグインに適しています。

※最上部メニューバーの上に隙間がある方

最上部のメニューバーの上にFC2検索バー用のスペースを設けています。
検索バーを表示しない設定にしている方は、cssの最上部メニュー.MegaMenuの中にあるtop:27pxをtop:0に変更してください。

◎背景スライドショー説明

random : 1, // ランダム 0:オフ 1:オン
transition : 1, // 0:単純画像切替 1:フェード 2~7:移動 8:ページ更新毎に切り替え
transition_speed : 1000, // 画像間の切替時間
slide_interval : 3000, // 1枚毎の画像停止時間
slides : [
{ image : '画像URL' } // 画像の追加・削除はここ

★テンプレート名で検索すると、作者のブログにより詳しい説明があるかも知れません。