昔は生贄の若い娘を沖に流してゴジラを鎮めていたという - 原発・放射能・地球温暖化詐欺
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昔は生贄の若い娘を沖に流してゴジラを鎮めていたという

「テレビが決して報道しない「“特撮の神様”の真実」を探る」




正直言って、このことはあまり書きたくないのだが・・・
しかし、真相追及を当ブログの主題にしている関係上、書くことにしました。
何のことかと言えば、ゴジラやウルトラマンやウルトラセブンに関することである。
私が躊躇している理由は、これらの作品が私に限らず多くの「昔の子供」にはヒーローだったからであり、これらの作品誕生の真実を探るということは、“子供時代の美しい思い出”を汚すことにもなりかねないからだ。
これらのヒーローを生み出した“特撮の神様”円谷英二についての話である。
「“特撮の神様”円谷英二 ウルトラマン誕生の舞台裏」を、昨日BS朝日で観た。
いつものように「円谷はウルトラマンが怪獣を倒すシーンでも子供のために血を見せるシーンを見せなかった」といった、美談で番組は構成されていた。
本当に円谷はそんなに「子供のことを思いやる優しい人物」だったのだろうか?
円谷英二をウィキで見てみる。(抜粋)



円谷 英二(つぶらや えいじ、本名:円谷 英一(つむらや えいいち)、1901年7月7日 - 1970年1月25日)は、福島県須賀川市生まれの特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現:円谷プロダクション)の初代社長。

昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様と呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。
一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。墓所は東京都府中市のカトリック府中墓地にある。

1936年(昭和11年)、35歳。ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用し、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られるアーノルド・ファンク監督を唸らせた。

1941年(昭和16年)、40歳。12月8日、太平洋戦争突入。これに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなる。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画すべてを担当していく。

1945年(昭和20年)、44歳。『勝利の日まで』、『間諜海の薔薇』、『北の三人』の特撮を担当、また、大映京都で『生ける椅子』を担当する。
同年8月1日、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも敗戦。除隊後、『東京五人男』(斎藤寅次郎監督)の特撮を担当する。

1954年(昭和29年)、53歳。田中友幸プロデューサーによって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、これは日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たる。この『ゴジラ』から、飯塚定雄、井上泰幸、入江義夫、開米栄三らが特技課に加入。
11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒット。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で円谷は「日本映画技術賞」を受賞する。

1970年(昭和45年)、1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去(68歳)。
1月30日、日本政府より「勲四等瑞宝章」を授与される




次に、円谷が関わった『ゴジラ』をウィキで見てみる。(抜粋)


『ゴジラ』は、1954年(昭和29年)11月3日に、東宝が製作・公開した日本映画。観客動員数961万人。モノクロ、97分、スタンダード。
巨大怪獣ゴジラが登場するゴジラシリーズ第1作。日本の怪獣映画の元祖である。
海底に潜んでいたジュラ紀の怪獣「ゴジラ」が水爆実験で安住の地を追われ、東京に上陸する。監督は本多猪四郎、円谷英二。原作は香山滋。脚本は村田武雄と本多猪四郎。出演は平田昭彦、河内桃子、宝田明ら。
怪獣映画、特撮映画、パニック映画、反核映画の傑作として名高い。

ストーリー
ある日、太平洋の小笠原諸島近海で南海サルベージ所属の貨物船「栄光丸」が原因不明の沈没事故を起こし、救助に向かった貨物船「備後丸」も沈没する。その後、大戸島の漁船が生存者を救助したという一報が入るが、彼らもまた消息を絶ってしまう。やがて漁師の山田政治が大戸島に流れ着き、何物かに船を沈められたと証言する。新聞記者の萩原から取材を受けた島の古老は、事件は大戸島の伝説の怪物呉爾羅(ゴジラ)の仕業で、近頃の不漁もゴジラが魚を食い荒しているせいだと語った。ゴジラは海に食物が無くなると陸に上がって人間を食らうため、昔は生贄の若い娘を沖に流してゴジラを鎮めていたという。そしてある暴風雨の夜、低い足音を響かせて「何か」が島に上陸し、家屋を破壊して住民や家畜を殺傷する。政治も母のくにと共に命を落とした。
この事態に政府も重い腰をあげ、大戸島に調査団を派遣することを決める。調査団には古生物学者の山根恭平博士と娘の恵美子、恵美子の恋人で南海サルベージ所員の尾形秀人らが同行することになった。出発の日、調査船に乗り込んだ恵美子は見送りの人々の中に元婚約者の芹沢大助博士の姿を認める。大戸島に到着した調査団は、破壊された村が放射能を帯びていることや、差し渡し何メートルもある足跡に絶滅したはずのトリロバイト(三葉虫)の姿を発見する。生きたトリロバイトを見つけて興奮を隠せない山根だが、そのとき島の半鐘が鳴り、巨大生物が尾根の向こうで頭をもたげるのを目の当たりにする。
東京へ戻った山根は、巨大生物を大戸島の伝説に因んでゴジラと命名。トリロバイトと残留放射能などを根拠に「海底洞窟に潜んでいた200万年前のジュラ紀の生物が、水爆実験で安住の地を追われたのではないか」とする見解を国会の公聴会で報告した。ゴジラによると思われる船舶の遭難は続き、政府はついにゴジラの討伐を決断する。大戸島西方沖にフリゲート艦隊が派遣され爆雷攻撃が始まった。貴重な研究資料を失いたくない山根は心を痛めるが、いち学者に過ぎない彼にはどうすることもできない。

東京は廃墟と化し、ゴジラによる放射能汚染は罪のない児童たちにもおよんだ

企画の発端
本作のプロデューサー田中友幸は、1953年(昭和28年)に『さらばラバウル』(本多猪四郎監督)を製作した折に、前年に東宝に復帰したばかりの円谷英二と出会い、円谷が手掛けた特撮の成功もあって、「特撮物はいける」と実感していたという。田中は続いて8月に、谷口千吉を監督に、インドネシアとの合作映画『栄光の影に』を企画。ところが、翌年1954年(昭和29年)4月にいよいよ谷口監督、主演の池部良、山口淑子らをそろえたロケ隊の出発という段になって、外交上の諸事情からビザが下りず、泣く泣くこの企画を断念することとなった。「腹の虫が治まらなかった」という田中は急遽代替企画を立てざるを得なくなったが、こうした事情から、発想がどうしてもインドネシア周辺の海洋を舞台にしたものに向かったという。
ちょうどその頃、ビキニ環礁での核実験と、第五福竜丸の被爆事件(同年3月)が社会問題となっていた。これに着想を得た田中は、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の企画を立てた。この時点での企画仮題は、『海底二万哩(マイル)から来た大怪獣』であった。

作品公開と反響
一方、公開時の日本のジャーナリズムの評価はおおむね低く、「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きも多かった。各新聞の論評でも、特撮面では絶賛されているものの、「人間ドラマの部分が余計」として、本多の意図したものを汲んだ批評はみられなかったが、田中によればこのなか、三島由紀夫のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」「文明批判の力を持った映画だ」として当時、ドラマ部分を含めて本作を絶賛してくれたという。著名人としてはのちに小津安二郎、手塚治虫、淀川長治、水木しげるらが本作を絶賛している。この作品は海外でも大評判となり、すでに特撮技術者として並ぶ者のなかった円谷英二の名が、広く海外にまで知れ渡ることとなった。田中や本多は、「まず欧州で認められ、アメリカで大ヒットしたことで、日本国内の評価が定まったようだ」としている。




次に、『ゴジラ』プロデューサーの田中友幸をウィキで見てみる。(抜粋)


田中 友幸(たなか ともゆき、1910年4月26日 - 1997年4月2日)は、映画プロデューサー。東宝映画代表取締役会長、日本創造企画代表取締役会長、日本アカデミー賞協会副会長、日本映画テレビプロデューサー協会顧問を歴任。

テレビなどでゴジラの生みの親として紹介されるのは円谷英二であることが多いが、一般に知られているゴジラの基本設定を思いつき、実際の企画を立ち上げたのは田中である(円谷は第1作では実質カメラを有川貞昌に任せて特撮全体を指揮していたものの、タイトル上は特殊撮影担当者として、特殊美術や合成と並ぶ3人の「特殊技術」の1人としてしか扱われていない)。田中はこのことに強い自負を抱いていたらしく、キネマ旬報誌上で北島明弘が執筆したゴジラ関連記事に自分への言及がないことに不満を抱いて呼び出し、インタビューを掲載させたこともある(北島はその思い入れの強さに感じ入ったと記している)。

その硬派で一貫した作品群、上記のインタビューのような強気なエピソード、三菱や創価学会とも太いパイプを築き東宝グループ製作部門に君臨した晩年のポジションなどから、強面なイメージで語られることも多いが、実際は柔和で温厚な調整型の人物であったとされる。

1967年1月、大阪万博に向けて、三菱万国博綜合委員会寺尾一郎委員長から三菱パビリオンのプロデューサー就任を求められる。基本出展構想を練るために起案メンバーに未来志向の福島正実、星新一、矢野徹、真鍋博を起用する。同年、三菱館のテーマ「日本の自然と日本人の夢」に決まる。館名を「三菱未来館」とし、明解なメッセージを発信する。プロローグとエピローグは歩行動線、全室映像に包み込まれる日本の自然と50年後の日本の「空」「海」「陸」の未来ゾーンは、動く歩道の強制動線とする。田中プロデューサーの意図する展示は分かりやすさと臨場感、見事に観客に伝わった。EXPO'70では人気ベストスリーとなり、三菱未来館は1,142万人の動員を誇る。
1971年1月8日、東宝・三菱商事・三菱地所の出資により日本創造企画株式会社(東京都千代田区丸の内)を設立し田中友幸は創業社長となる。時代を先取りする「レジャー」、「教育環境」、「流通」の企画・制作を営業の柱とする。 特に博覧会部門は「沖縄海洋博」、「ポートピア'81」、「科学万博つくば'85」では三菱未来館の総合プロデューサーを歴任する。
田中友幸の博覧会への信条は、掲げたテーマを分かりやすく具現化し、動員数を高めるため駆動装置(ライド)を導入することであった。海洋博では高低差のあるムービングシート1周140m、ポートピア'81では直径28m回転劇場/ラウンドロード、科学万博ではモーションコントロール・カー1周160m16車両による強制動線を採用する。三菱グループの企業のうちの三菱重工業のハード技術を博覧会に活用させる。





(管理人)
田中は、三菱や創価学会と太いパイプを築いていたようですね。
田中と円谷が「協力」してゴジラ制作に取り組んだのは、
決して「偶然」ではないでしょう。

ゴジラが水爆実験に関係しているのも、決して「偶然」ではないでしょう。
1954年の映画であるにもかかわらず、
「ゴジラによる放射能汚染は罪のない児童たちにもおよんだ」ようである。
まるで将来この国が放射能汚染の被害に晒されることを予告していたかのようである。

公開日は、1954年11月3日でした・・・

これが何を意味するかは分かりますよね。
はい、東日本大震災の発生日です。
1954年の時点で「57年後の決行日」が決まっていたのでしょうか?
恐らく「後付け」だと思いますが、『ゴジラ』公開日が11月3日であるのと、東日本大震災発生日が3月11日であるのは、「偶然」とは思えません。

『ゴジラ』の制作意図は、『シン・ゴジラ』の制作意図に繋がっているのでしょう。

円谷は、軍の要請(実際は軍を支配している存在の要請でしょう)で戦争映画を制作していました。
子供向けのヒーロー映画やテレビ番組を制作していた人間が、
その前に戦争プロパガンダ映画を制作していたのである。
戦時中は「戦争を推進したい勢力」に「協力」し、
戦後は「子供の意識を一定方向に形成したい勢力」に「協力」したのである。
私は、「戦争を推進したい勢力」と「子供の意識を一定方向に形成したい勢力」は繋がっていると思います。
円谷が戦争プロパガンダ映画を作っていたのは、戦時中だけではありません。
戦後も『連合艦隊司令長官 山本五十六』のような
戦争プロパガンダ映画を作っているのです。
山本五十六を美化した映画が戦争プロパガンダ映画であることを理解できない方は、
ご自身でその理由をお調べください。

円谷が「漫画の神様」である手塚治虫に絶賛されているのも、
決して「偶然」ではないでしょう。
円谷が『ゴジラ』、手塚が『アトム』と、作品に放射能を題材にしている点も同じですしね。
どうやら、神様と呼ばれている人間には裏があるようですナ。

最後に、円谷がある勢力の管理下で「成功」したのだとしても、円谷が生み出した作品であるゴジラやウルトラマンやウルトラセブンには何の罪もないことを確認しておきます。
作者や作者の「成功」を「援助」していた勢力に邪悪な意図が存在していたとしても、
これらの作品には何の罪もなく、それどころか、いつまでも多くの「昔の子供」の心の中では(少なくとも私の中では)“永遠のヒーロー”であり続けるでしょう

円谷英二の「成功」に何らかの意図が働いていたとしても、
円谷の功績はそれを上回るものに違いないのです。




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