<ウォルター・カール・ベッカー追悼>「Rikki Don't Lose That Number」「Do It Again」「Slang Of Ages 」Steely Dan - ロック

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<ウォルター・カール・ベッカー追悼>「Rikki Don't Lose That Number」「Do It Again」「Slang Of Ages 」Steely Dan

スティーリー・ダンのベーシスト、ギタリストであった、ウォルター・カール・ベッカーが、9月3日に亡くなりました。
死因が公表されていないところが気になりますが・・・



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170907-00166744-rorock-musi
【追悼ウォルター・ベッカー】スティーリー・ダンでの成功と挫折、そして復活の道のり

9/7(木) 20:00配信


9月3日、スティーリー・ダンのウォルター・ベッカーが67歳で亡くなった。1967年に始まるドナルド・フェイゲンとの歩みを、「The Guardian」などの記事を引用しつつ振り返っていきたい。

ウォルターの逝去の報は公式サイトで明らかにされており、死因など詳細については明らかになっていない。今年の7月に行われたスティーリー・ダンとしてのフェスティバル出演には体調不良のため参加することができず、ドナルド・フェイゲンはその後「Bilboard」に対し「ウォルターは手術から回復しているところで、近いうちには元気になるはずだよ」と語っていた。

ニューヨークで生まれ育ったウォルターは高校の頃にサックスを演奏し始め、その後ギターに転向。その後、1967年にバード大学でドナルドと出会い、ふたりで音楽活動を始めることになるが、ドナルドは父親と祖母に育てられたというウォルターの生い立ちについて追悼文の中で次のように振り返っている。

ウォルターの生い立ちはとても荒れたものだった。詳しい話は割愛させてもらう。ただ、幸いしたのはウォルターが鞭のような機転を備えていて、卓越したギタリストで、素晴らしいソングライターだったことだ。自分を含めて人間の性(さが)というものについてとても冷笑的で、とてつもないユーモアを備えていた。

壊れた家庭で育った子供の多くがそうであるように、形態模写がただのモノ真似を越えて、人の隠された心理をうまく読み通すことができて、自分が目撃したものを潑溂として痛烈なアートへと作り変えていく才能に恵まれていた。ウォルターはよく、ぼくの妻のリビー(・タイタス。ソングライターでウォルターとドナルドの大学の同窓生)に成り代わって手紙を書いていて、これを3人で回し読みして笑い転げたりしたものだった。
ウォルターとドナルドはその後、ニューヨークでソングライターとしての活動とバンド活動に専念するようになるが、後のスティーリー・ダンのギタリスト、デニー・ダイアスが「ジャズも弾けるベーシストとキーボード」を募集する広告を「Village Voice」誌に出したところ、これにウォルターとドナルドが応募、その後意気投合してバンド活動を始めることになる。

バンドにはさらにギタリストのジェフ・バクスターらも加わることになるが、その後ウォルターとドナルドがABCレコードとソングライター契約を結んだため、2人はレーベルの本拠地であるロサンゼルスへと移ることになった。

その後2人は自分の書く楽曲にふさわしいアーティストがなかなか見つからない、という口実からデニー・ダイアスやジェフ・バクスターらをニューヨークから呼び寄せ、ウォルターとドナルドを中心にバンドとして活動することになる。

なお、バンド名がスティーリー・ダンに決定したのはこの時期。「MOJO Magazine」のインタビューをもとに「Miami Herald」が報じたところによると、スティーリー・ダンというバンド名はウィリアム・バロウズの小説『裸のランチ』に登場する用語にちなんだものだという。

スティーリー・ダンは1972年の『キャント・バイ・ア・スリル』でアルバム・デビューを飾るが、当初はボーカルをやりたがらなかったドナルドが3rdアルバムの『プレッツェル・ロジック』からリード・ボーカルを務めるようになり、作風も固まっていった。

また、『プレッツェル・ロジック』からはメンバー以外のセッション・ミュージシャンが多数参加することになり、最終的に1975年の『うそつきケイティ』の制作に入る前にウォルターとドナルド以外のメンバーは実質的に全員脱退することになった。その後は、ウォルターとドナルドがセッション・ミュージシャンを無尽蔵に使って作品を制作していくという、当時としては珍しい形態で活動していくようになり、ウォルターもこの『うそつきケイティ』からベースよりもギターに専念するようになった。

その後『幻想の摩天楼』『彩(エイジャ)』『ガウチョ』などで作風を極めていく一方で人気の絶頂も迎える。しかし80年代に入るとウォルターは薬物の過剰服用で死亡した交際相手の女性の両親からその責任を問われ、訴訟を起こされることに。その後ニューヨークのセントラル・パークでタクシーに轢かれ、『ガウチョ』には車椅子で制作に臨んだのだという。

さらにはウォルター自身の薬物依存症の影響から、『ガウチョ』リリース後にスティーリー・ダンを解散させることになってしまう。その後ウォルターはハワイへ移り、生活を立て直しヨガの講師と結婚。やがてリッキー・リー・ジョーンズやマイケル・フランクスらのプロデュースを経て、ドナルドとのコラボレーションも再開させたが、ドナルドは追悼文の中で、その過程を次のように説明している。

ウォルターは70年代の終わりには悪癖に溺れてしまっていて、それでぼくたちもしばらく音信が途絶えていた。その後80年代に入ってぼくが(妻の)リビーとThe New York Rock and Soul Revueというライブを手がけるようになった頃にまた会うようになって、スティーリー・ダンのコンセプトを復活させ、再び素晴らしいバンドを生み出せるようになった。
再結成したスティーリー・ダンは2000年の『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』を大ヒットさせ、グラミー賞にも輝き、さらに2003年にリリースした『エヴリシング・マスト・ゴー』も好評を収めた。

その後もスティーリー・ダンはツアー活動を続行。ウォルターも今年の7月のフェスティバル出演以前までは、ツアーに精力的に参加していた。

Donald Fagen - New Frontier

なお9月20日からは、ドナルド・フェイゲンがザ・ナイトフライヤーズを携えキャリア初の来日公演を行う予定だ。

来日の詳細は以下のリンク先より。

クリエイティブマン公式サイト
Blue Note JAZZ FESTIVAL公式サイト
.
rockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)




「Rikki Don't Lose That Number」「Do It Again」「Slang Of Ages 」のスティーリー・ダンの3曲で追悼します。
「Slang Of Ages 」はウォルターがヴォーカルをとっています。









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