歴史・宗教

645年、蘇我氏のみならず歴史まで「むし殺した」藤原氏

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「大化の改新の真実、そして現代も日本を支配する藤原氏の正体は?」




先日の記事で「藤原氏の正体は?」という疑問を呈したが、“自作自演”ではないが、自分なりに考えて見ようと思う。
まずは「大化の改新」から始めよう。八切止夫氏は「663年に唐の郭務悰が日本に進駐してきて藤原鎌足と、日本名になり唐の大宝律令をそのままに輸入した」と述べているが、藤原鎌足(=中臣鎌足)が大化の改新及び乙巳の変を行ったのが645年であるから、八切説が正しければ、「郭務悰は日本進駐前に日本に来ていた」ということになるので、矛盾が生じる。
ひょっとしたら、藤原鎌足と中臣鎌足は別人物なのかもしれない?関裕二氏は「中臣鎌足は百済王の末裔では?」と述べているが、現時点では関説の方が有力であろう。
その後、藤原氏は天皇家を操り実質上日本を支配する。戦国・江戸時代以降、藤原氏は影響力を低下させていたかのようにも思えるが、明治時代以降の現在においても、名称を変えて実質上この国を支配しているらしい。
そういった“裏の日本史の流れ”を解りやすく解説してくれている記事があったので転載する。それにしても、藤原氏とこの世界の支配勢力である「ユダヤ・フリーメイソン・イルミナティ」とは、どこでどうやって繋がったのでしょうか?やはり、明治維新のときでしょうか?イエズス会の日本襲来時からでしょうか?郭務悰が日本に進駐したときでしょうか?秦氏が日本に来たときでしょうか?それともまさか、スサノオやニギハヤヒが活躍していた太古の時代からでしょうか?「彼ら」と関係してなければ、日本を支配することを「彼ら」に許してもらえませんよネ。
そういえば、細川 護熙藤原氏の末裔でしたよね?細川さんも上智大学出身だとのことで、イエズス会との繋がりがプンプンにおってきますネ(笑)。万が一この記事を見ていたら(見てるわけがネーだろ(笑))、藤原氏内部の方のみが知る極秘情報として、こっそりと非公開コメントで教えてもらえないでしょうか(笑)。細川さん、藤原氏の関係者さん、非公開コメントお待ちしております(笑)。本物のイルミさんは来ないでくださいネ(笑)。




(闇株新聞)さんより
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-152.html
書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その1 
日本の政治・経済について考えるとき、当然に日本の歴史を理解しておかなければなりません。しかし、日本は国家としての成立過程そのものが、はっきりしていないのです。世界中にこんな国はありません。
 そもそも日本を統一した「ヤマト朝廷」の成立が4世紀頃で、世界を見渡しても決して古いわけではありません。エジプトでは紀元前27世紀には、もうピラミッドを作る古王朝が成立しており、中国では紀元前16世紀ころに最初の統一国家の「殷」が成立しています。ダビデ王がユダヤのヘブライ王国を建国したのが紀元前11世紀です。
 しかし、その比較的新しい4世紀に成立した「ヤマト朝廷」の成立過程が杳(よう)として分からないのです。その理由は、720年に編集された「日本書記」をそのまま今も大事にしており、突っ込んだ研究がなされていないからなのです。
 教科書では「日本書記」の編者は舎人(とねり)親王となっていますが、実際は藤原不比等です。実質的に藤原氏の始祖です。
そして「日本書記」こそ「天皇家」を利用して大きくなり、現在に至るまでもその影響力を残している「藤原氏」の正体を、うまく歴史上で美化して隠匿して、現在まで何の疑問もなく受け入れられているのです。
 本誌は歴史について書くことが目的ではありませんが、日本の今後を考えるに当たり、特に「官僚組織」について考えるときに、ぜひ読んでもらいたいテーマなので書くことにしました。
 645年に、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が協力して、権力を一人占めして横暴を極めていた蘇我入鹿(いるか)を皇極天皇の面前で暗殺し、これをうけて入鹿の父親の蝦夷(えみし)も自殺して蘇我氏が滅び、天皇中心の律令体制(後述)を成立させました。
これを乙巳(いっし)の変、その後の一連の政治改革を大化の改新と言います。
 まあ、これが平均的な歴史の教科書の書き方ですが、実は見事に書きかえられた歴史なのです。
 それまでの政治体制は、天皇を中心として蘇我氏(財政)、物部氏(軍事)、大伴氏(外交)などの朝鮮半島からの外来人である豪族の集団指導体制でした。 
 その豪族間の勢力争いに勝った蘇我氏の勢力が強大化し、6世紀に蘇我稲目(いなめ)が自分の二人の娘を欽明天皇の妃とし、それらの妃の間に生まれた子供を次々に天皇に即位させて外戚の地位を確立していきました。
 蘇我稲目の子供が蘇我馬子(うまこ)で、馬子の代に蘇我氏の勢力が絶頂期を迎えます。
 推古天皇は馬子の姪で、その摂政となった聖徳太子は推古天皇の甥で、ともに蘇我氏の一族なのです。
 つまり、この時点で蘇我氏は天皇家そのものだったのです。
 聖徳太子が冠位12階を定め(603年)、憲法17条を制定し(604年)、遣隋使を派遣した(607年)など数々の功積をあげたとされていますが、これらはすべて馬子の実績だと考えられます。
 その理由は、574年生まれの聖徳太子が、同じ蘇我一族の長であり、約25才年上の馬子を差し置いて、政治の中心、つまり蘇我一族の中心にいたとは考えられないからです。
 馬子は推古天皇在位中の626年に没し、その地位は子の蝦夷と孫の入鹿へと受け継がれていきます。
実は聖徳太子は622年に没しており、馬子より早く亡くなっているのです。
「日本書記」では、聖徳太子の死後、その子で天皇候補だった山背大兄皇子を蝦夷・入鹿が攻め滅ぼして政権の独占を図り、それを遺憾に思った中大兄皇子と中臣鎌足が立ち上がって蘇我氏を攻め滅ぼしたとされているのですが、ちょっと考えるとおかしいことが分かります。

名目はどうであれ、天皇家そのものと言える蘇我馬子・蝦夷・入鹿に対し、蘇我氏一族から遠く(従って天皇になれる見込みのほとんどない)中大兄皇子と、同じく出世の見込のほとんどない中臣鎌足が、蘇我一族の聖徳太子の子が攻め滅ぼされたからと言って、憤る必要は全くないからです。
乙巳の変とは、蘇我氏から天皇家を簒奪(さんだつ)した藤原氏の始祖である中臣鎌足のクーデターであり、その時に担いだのが中大兄皇子(のちの天智天皇)だったのです。
その大義名分づくりに、聖徳太子を必要以上に神格化する必要があったのです。

 続きます。
平成23年5月16日


http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-153.html
書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その2
 昨日の続きです。
 645年の乙巳(いっし)の変で、とにかく蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足ですが、すぐに天下を取ったわけではありません。
 中大兄皇子は、その後も数多くの謀略を張り巡らし、やっと668年に天智天皇として即位できるのです。
 しかし、中大兄皇子が即位するまでに最優先で取り組んだことは、律令制度の確立など国内のことではなく、無謀とも言える百済救済だったのです。 つまり「大化の改新」という、国内の律令体制の確立には全く関心がなかったのです。
 660年に百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされると、大軍を百済救済のために派兵したものの、663年に白村江で全滅してしまったのです。また敗戦後は、筑紫や飛鳥に大がかりな国土防衛のための水城・土塁等を築きました。
 唐・新羅連合軍が日本に攻めてくるリスクは非常に大きかったのです。そこまでして百済を救済する必要がどこにあったのでしょう?

 蘇我氏は新羅の出身だったようです。だからそのころの天皇家には、百済を救済する必要は絶対になかったのです。
 さらに中臣鎌足は、それ以前の日本の歴史に全く出てきません。それが突然現れて、一応皇族の中大兄皇子に近づけたというのも不思議と言うか、あり得ない話です。

 それでは中臣鎌足は、いったいどこから来たのでしょう?
 あくまでも可能性の話ですが、中臣鎌足は日本に助けを求めに来ていた百済王族の一人ではなかったかと思います。
ただ「日本書記」では「藤原氏」が宮司の中臣家が祖であるとしており、外来人だったとは全く書かれていません。
蘇我氏の世の中では絶対に百済は救済されないので、中大兄皇子を引き込んで蘇我氏を滅ぼし、百済救済をさせようとしたのが、意外に乙巳の変の真相だったのかも知れません。
 しかし、中大兄皇子は668年にやっと天智天皇として即位出来たのですが、中臣鎌足はその翌年に死んでしまいます。死の直前に藤原姓を天智天皇から賜ったようです。
 そして天智天皇も672年に死んでしまい、息子を即位させるものの、すぐに弟の大海人王子に皇位を奪われてしまいます(天武天皇)。
これが、壬申(じんしん)の乱で、史上初めての武力による皇位の交代だと言われています。
 ここで、せっかく天智天皇をたてて勢力をつかみかけていた藤原氏の野望は、一旦しぼんでしまいます。
  藤原鎌足の子の藤原不比等(ふひと)が世に出てくるのは、天武天皇が686年に亡くなり、皇后の持統天皇が即位してからです。持統天皇は天智天皇の娘で、藤原不比等をとりたてます。そして、ここで初めて本格的な律令体制の確立に取り掛かります。
 律令体制とは、全国の土地を全て天皇のものにし、各豪族は冠位・役職によって俸禄を受け取る政治形態です。そして税徴収のための戸籍の確定や、新田を開発した場合の規定などを設けるのですが、それを実質的に取り仕切ったのが藤原不比等で、その地位を利用して、全て将来の「藤原氏」の栄華の基本形を作ってしまったのです。 
 その集大成が701年に制定された大宝律令で、編者は刑部(おさがべ)親王ですが、取り仕切ったのは藤原不比等です。
そして「日本書記」が720年に編集されます。これも取り仕切ったのは藤原不比等で、「藤原氏」を徹底的に正当化した歴史書で、1400年たった今でも何の疑いもなく読まれているのです。
 持統天皇以降、ずっと天智天皇系の天皇が続きます。そして藤原不比等は蘇我氏と同じように天皇の外戚となっていくのです。
 そして4人の息子に、別々の藤原家を作らせるのです。これは律令体制では各家1人しか役職に就けないので、四家に分けて役職を独占するのです。まさに「戦略は細部に宿っている」のです。この言葉は、現在の官僚組織を言い表した現代の言葉なのですが、その原型が藤原不比等なのです。

 つまり、天智天皇の娘の持統天皇に取り立てられた藤原不比等が、「大宝律令」と「日本書紀」を通じ、驚くなかれ、現代まで続く「藤原氏」の栄華の基本を作ったのです。
 歴史の教科書は、藤原氏の平安時代の栄華しか書いていません。単に歴史上の出来事なら、ここまで紙面を使いません。
 その後も、現代に至るまで「藤原氏」は日本の政治・経済に深くかかわっているのです。決して「藤原氏」の名前ではなく。 続きます。
平成23年5月17日


http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-154.html
書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その3
 このシリーズの最終回です。
 前回までは、藤原鎌足の子の藤原不比等が、律令制度を実質的に作り上げ、その後の藤原氏の栄華の基盤を作ったところまで書きました。
 律令制度というのは、土地の私有を認めず、すべて天皇のものとし、豪族は冠位や役職によって俸禄を得て、市民は土地を貸し与えられる代わりに租庸調と言われる納税の義務がありました。
 しかし、この制度は冠位や役職を藤原氏が独占したことや、開墾した土地を荘園として私有地にしてしまうなど、藤原氏に富が集中する仕組みとなっていきました。
 藤原不比等は720年に死んだのですが、すでに天皇の外戚の地位を獲得していました。さらに、天武天皇の孫の長屋王を謀略で自害させるなど、藤原家の血のつながっていない皇子を徹底的に排除して、ますます外戚としての地位を強固なものにして行きました。 
 そして不比等の4人の息子に、それぞれ別々の藤原家を名乗らせ、役職を独占しようとしました。(各家に役職につけるのは1名ずつと決められていたため、別の家にしたのです)
 その4人の息子は、天然痘で全員いっぺんに死んでしまうのですが(長屋王のたたりとも言われます)、次男の房前(ふささき)の藤原北家が残り、その後の摂政・関白の地位を近世まで独占します。
 唯一の例外が豊臣秀吉ですが、秀吉も藤原家と縁組し藤原秀吉として関白に就いています。
 藤原家(正確には藤原北家)は、平安中期の藤原道長・頼道のころに最盛期を迎えます。道長は3代の天皇の外戚となります。
 歴史の教科書では、藤原家の栄華はこの辺を頂点として衰えていくと書かれています。
 ところが、その後も藤原氏(藤原北家)は、五摂家として名前を変え、天皇家だけでなく、時の有力者とたくみに閨閥を形成して生き残っていくのです。

 五摂家とは近衛・鷹司・九条・二条・一条家のことです。
 五摂家は、摂政・関白として天皇家を輔弼(ほひつ)する地位を独占してきただけでなく、天皇の妃(皇后)も独占してきました。つまり藤原氏(五摂家)は、天皇家そのものになったのです。だから現在の歴史家も藤原氏の正体に切り込めないのです。
 五摂家以外から初めて皇后に迎えられたのが、何と今上天皇の美智子皇后なのです。

 余談ですが、江戸時代初期に2代将軍・徳川秀忠の娘和子が後水尾天皇の室として入内していますが、皇后ではありません。ただ和子の生んだ娘が、後水尾天皇が突然退位したあと明正天皇(女帝)として即位しています。
 女帝は結婚できないので子供が出来ません。ここで天皇家のなかの徳川の血を絶やしてしまおうという五摂家の深慮遠謀だったようです。
 鎌倉時代、将軍家である源家の血筋が3代で途絶えてしまった時、将軍に送り込まれたのが藤原北家の九条氏からでした。
 室町時代に入ると、足利将軍家の正室を送り続けた日野家も、藤原北家の流れを引きます。
 江戸時代の徳川将軍家の正室も五摂家から多く出ています。ただ徳川家の方も正室に将軍の世継(男児)が出来ないように画策していたようです。
 そして明治維新で、再び天皇親政が始まると、当然五摂家の力は復活します。
 第二次世界大戦直前の首相であった近衛文麿は、もちろん五摂家筆頭の近衛家当主であり、天皇を輔弼(ほひつ)し、首相候補を天皇に奏上する役目であった(つまり首相を実質的に決める権限があった)元老の西園寺公望も、藤原北家の流れを引く西園寺家でした。
 つまり8世紀はじめに藤原不比等が引いた路線が、その後、形を変えて時の政権の近くで存続し、1200年以上もたった明治時代に再び表舞台に出てきたのです。

 そして、この藤原氏のやり方は、現在の官僚組織をはじめとする日本の仕組みに、深く受け継がれているような気がしてならないのです。 
 現在、五摂家は主だった活躍をしていないように見えますが、たとえば日本赤十字社の社長は近衛家当主の近衛忠輝氏です。
 3回にわたって、「書き換えられた歴史・藤原氏の正体」を書きましたが、もしお手元に歴史の教科書がありましたら、読み比べて下さい。なんか不自然に見えると思いますよ。
平成23年5月18日








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~ Comment ~

【古代史は石渡信一郎から始まる】

【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

ご推奨の件

むらかみからむさん

コメントどーもです。
いろいろなところに訪問されてるようですネ。
ご推奨の件は、いつになるか分かりませんが、
そのうち調べてみようと思います。

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NoTitle

日本の歴史を古代まで溯ろうとすれば、必ず藤原氏に引っ掛かります。自分なりに色々調べてみた結果、いくつかの注解が有りますが、基本同じ意見です。山本健造氏や弟子の中西正矢氏の飛騨の口碑によるとアマテルの弟のスサノオの息子・大国主(意宇国主)がタギリ姫を裏切り、新羅の曾氏茂李の所に11年間いて儲けた子供の子孫が、蘇我氏だそうで蘇我というのは「我は曾であるぞ!」の意味ということです。藤原氏は、五摂家以外に、日野、大谷、上田、源、円山、笹川、金、細川等色々な名前で子孫がいます。藤原→大江山霊媒衆→上田穴太衆へと指令が届いているようです。彼らは、カナン人=フェニキア人の末裔である金融ユダヤと昔からのビジネスパートナーの様ですが、何時からかははっきり解りません。日本人は正統なユダヤの血統であるがゆえに偽ユダヤの神である悪魔に生きたまま火で焼かれたのだと思っています。官僚、政治家は、偽ユダの犬しかなれません。

Re: NoTitle

三毛猫さん

貴重な情報・ご意見有難うございます。
やはり、藤原氏は偽ユダと繋がっているのですね。
そうでなければ、こんなに長い間権力を持ち続けていられるわけがないですからね。
日野、上田、笹川ですか。なるほど、思い当たる人物が浮かんできますね。
これらの人物が日本人でないことは明白ですね。
蘇我氏がスサノオの末裔ということであれば、蘇我氏を倒した藤原氏が百済勢力であり、スサノオや蘇我氏を悪人呼ばわりする歴史偽装工作を行ったのも理解できますね。私もこれは「正解」じゃないかと感じます。
日本人が正当なユダヤの血統であるか否かは判りませんが、日本にユダヤの遺産が相当数残されているのは明らかな事実ですね。
そして三毛猫さんの説が正しいとすれば、これほどまでに日本人が痛めつけられている理由が分からないでもないですね。

「真に迫った情報」本当に有難うございました。



> 日本の歴史を古代まで溯ろうとすれば、必ず藤原氏に引っ掛かります。自分なりに色々調べてみた結果、いくつかの注解が有りますが、基本同じ意見です。山本健造氏や弟子の中西正矢氏の飛騨の口碑によるとアマテルの弟のスサノオの息子・大国主(意宇国主)がタギリ姫を裏切り、新羅の曾氏茂李の所に11年間いて儲けた子供の子孫が、蘇我氏だそうで蘇我というのは「我は曾であるぞ!」の意味ということです。藤原氏は、五摂家以外に、日野、大谷、上田、源、円山、笹川、金、細川等色々な名前で子孫がいます。藤原→大江山霊媒衆→上田穴太衆へと指令が届いているようです。彼らは、カナン人=フェニキア人の末裔である金融ユダヤと昔からのビジネスパートナーの様ですが、何時からかははっきり解りません。日本人は正統なユダヤの血統であるがゆえに偽ユダヤの神である悪魔に生きたまま火で焼かれたのだと思っています。官僚、政治家は、偽ユダの犬しかなれません。

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