狂熱のボトルネック奏者・ELMORE JAMES
「ROBERT JOHNSONと共演した男、狂熱のボトルネック奏法スライド・ギタリスト ELMORE JAMES」
今日(5月24日)は、エルモア・ジェイムスの命日である。ワンパターンとも言える荒削りなスライドギターのイントロが強烈なミュージシャンである。
サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡ、ハウリン・ウルフ、ロバート・ジョンソンとも共演したそうである。彼を偲んで、エルモアを取り上げたブログと動画を紹介する。
http://www.geocities.jp/strong_king_bisc/oldkinbis/etc/index.html
「エルモア・ジェイムス 南部の熱い風」様より
無口で内気、生真面目、大酒のみ。その豪快なギタースタイルからは想像できない内面を持った男、エルモア・ジェイムス。ブルース界の巨人として、永くその名は語り継がれるであろう。しかし、実生活の匂いや本当の人柄等はなかなか我々には伝わって来ない。45歳という若さでこの世を去ったために、いわゆる「白人のブルース・ブーム」に乗り遅れてしまった男。本人はもちろん、彼の回りにいた関係者のほとんどが、ちゃんとしたインタビューを受けることなく亡くなっている。サニー・ボーイⅡ(ライス・ミラー)に騙され続け、もしかしたらロバート・ジョンソンの誰も知り得なかった真実を知っていたかもしれない男。そんな彼は、天国で何を歌っているのだろうか。
エルモアに関する記事は数多くあるが、内容はほぼ出尽くした感がある。むしろエルモアから影響を受けた次の世代、例えばハウンド・ドッグ・テイラーやジョン・リトル・ジョン、ジョー・カーターといった演奏者に関する記事でエルモアに言及する、といったものが多い。唯一肉声を感じると言えない事もないのが1993年ギターマガジン誌におけるホームシック・ジェイムスのインタビューである。そこではいくつかの驚くべき発言があり、針小棒大な彼の性格が良く出ているといえよう。まず1951年に吹き込んだ名作「ダスト・マイ・ブルーム」は「ダスト・マイ・ルーム」の間違いであるということ。また「ザ・スカイ・イズ・クライング」「ザ・サン・イズ・シャイニング」「マディソン・ブルース」はホームシック・ジェイムスが作った曲であるということ。今となっては死人に口無しである。エルモアはロバート・ジョンソンと面識があったか?との問いにたいして、「そりゃあもちろん、わしは良く知っていたよ。ロックウッドに聞けばきっとそういうだろう。それにチャーリー・パットンとも個人的に親しかったんだぞ」さすがである。因みに、ホームシック・ジェイムスはエルモアの従兄弟あるいはまた従兄弟であり、本名ジョン・ウイリアム・ヘンダーソンといい、1910年テネシー州生まれ。エルモアとは1930年(エルモアが12歳)に出会っている。また、ジョン・リー・ウイリアムソン(サニー・ボーイⅠ)と従兄弟の関係であったという。 スライドギター奏法の流れから、そして「ダスト・マイ・ブルーム」から、つねにロバート・ジョンソンとの関係を論じられるエルモアだが、はたして直接ギターを教わったなどということがあったのだろうか。ロバート・ジョンソンは1937~8年頃チェスター・バネット(ハウリン・ウルフ)、ライス・ミラー(サニー・ボーイ・ウイリアムスンⅡ)と時々一緒に演奏して旅をしたらしいことはわかっている。ロバート・パーマー著「ディープ・ブルース」P334に次のような一文がある。 「エルモア一家はしばらくベルツォーニの近くに住んだが、そこで彼はライス・ミラ ーとロバート・ジョンソンに会った。むら気の多いジョンソンは、実際には彼にまった く教えていないだろうし、いずれにせよエルモアは覚えの早いほうではなかったが、彼 はなんとかロバートのスタイルの基本のいくつかを身につけた。そのひとつが『ダスト ・マイ・ブルーム』に使われた駆り立てるスライド・ギターのリフだった」。 ハウリン・ウルフもまとまったインタビューのない人である。やはり狂言回しというか、話の軸として見逃す訳に行かないのがライス・ミラー(サニー・ボーイⅡ)ということになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1951年、これまでずっと南部のスターだったサニー・ボーイⅡがレコード初吹き込み。その時すでに52歳であった。そのトランペット・レーベルに録音したメンバーのクレジットには名前が無いが、かなりの曲のギターはエルモア・ジェイムスが弾いているのではないか。これは、CD「サニー・ボーイ・リズム」のライナーで鈴木啓志氏が主張している事と同じだが、さらに言うと、この年エルモアも「ダスト・マイ・ブルーム」でデヴューする。この曲があちこちでヒットするまではずっと、つまりエルモアがサニー・ボーイと知り合ってからの15年間ちかく親分子分の関係、それもあまり強い絆みたいなものはなく、しいて言えば運動部の先輩後輩関係のようなものであった。なぜなら「ダスト・マイ・ブルーム」の録音も、サニー・ボーイの録音のあいまに隠し録りしたテイクである。エルモアはそのギター・スタイルとは裏腹に、とても気弱な神経質な男であった。酒を飲めば、急にでかい口を叩くということからも明らかだ。20歳近く年上の、何度も修羅場をくぐり抜けて来た、百戦錬磨のサニー・ボーイにとってみれば、エルモアは役に立つ家来ぐらいの感覚だったかもしれない。不器用で、世渡りのへたな、愛すべき男、エルモア・ジェイムス。しかし、1952年3月、「ダスト・マイ・ブルーム」がR&Bチャート9位のヒットを記録するも、その時すでに彼の心臓は病に蝕まれていた。まさか15年前のあの晩、R・Jに言われて向かった十字路で、悪魔に出会って魂を…。 1963年5月24日金曜日、シカゴにあるホームシック・ジェイムスの家で心臓麻痺のため死亡。享年45歳。ミュージシャンとしてやっと軌道にのって約10年という早すぎる死であった。だが、あの1938年8月の熱い風が吹く晩に、契約が交わされていたと考えれば、いや、もうこの話には触れるまい。ただ、巨人エルモア・ジェイムスが白人コレクターの間で話題となり世界中に知れ渡ることになるのは、皮肉なことにこれ以降である。 シカゴのD・J、プロモーターであるビック・ビル・ヒルが葬儀の費用を出し、ミシシッピ州ホームズ・カウンティにあるニューポート・M・B教会に埋葬されたが、その時の様子を記憶している人もほとんどいない。
前述のホームシック・ジェイムス以外で、生前のエルモアを知る最後の一人と思われるロバート・アール・ホルストンも1989年9月22日ミシシッピ州カーセイジの自宅で死去。マウント・ザイオン・コップヴィル共同墓地に埋葬されている。
http://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/7427e83cb32f04cbb0044ed70efcd2ed
イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」様より
----俺にとってブルースっていうのはエルモア・ジェイムスであり、ハウリン・ウルフであり、マディ・ウォーターズやロバート・ジョンソンのことなんだ…。(ジミ・ヘンドリックス)
エルモア・ジェイムス---ブルーズの巨人です。
怒涛のボトルネックの3連リフと、灼熱のテンションとで闇雲に疾走する、根っからの、生粋のブルーズマン。
僕は、彼の名を思いだしただけで、いつもこう、胸底あたりがカーッと熱くなってくるんです。
でもね、それは僕だけじゃない、ブルーズ好きなひとなら、きっと誰もがそうなると思う。
それっくらい特別でリアルなブルーズマン、エルモア・ジェームズなんですけど、ことブルーズ以外の畑じゃ意外と知名度はないかもしれません。
けど、彼をリスペクトしてるひとは、そーとー多いはず---有名どころでは Beatles のアルバム「Let It Be」の For You Blue のなかで、ジョージ・ハリソンがジョンのスライドギターにふざけて「エルモア・ジェイムス!」と掛け声をかけているのを聴くことができるし、エリック・クラプトンが彼のことをフェバリット・ギタリストのひとりに挙げているのも周知の事実、あと、冒頭のセリフでも分かるように、あの天下のジミヘンも彼の熱烈なファンでありました。
It Hurts Me Too (Elmore James)
お前は苦しんでるっていう
えっ、気が変になりそうなんだって?
お前が好きになる男は いつもお前を苦しめる
そうじゃないかい、ええ?
物事がお前にとって
うまくいってないなら
俺も苦しいよ…
今日(5月24日)は、エルモア・ジェイムスの命日である。ワンパターンとも言える荒削りなスライドギターのイントロが強烈なミュージシャンである。
サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡ、ハウリン・ウルフ、ロバート・ジョンソンとも共演したそうである。彼を偲んで、エルモアを取り上げたブログと動画を紹介する。
http://www.geocities.jp/strong_king_bisc/oldkinbis/etc/index.html
「エルモア・ジェイムス 南部の熱い風」様より
無口で内気、生真面目、大酒のみ。その豪快なギタースタイルからは想像できない内面を持った男、エルモア・ジェイムス。ブルース界の巨人として、永くその名は語り継がれるであろう。しかし、実生活の匂いや本当の人柄等はなかなか我々には伝わって来ない。45歳という若さでこの世を去ったために、いわゆる「白人のブルース・ブーム」に乗り遅れてしまった男。本人はもちろん、彼の回りにいた関係者のほとんどが、ちゃんとしたインタビューを受けることなく亡くなっている。サニー・ボーイⅡ(ライス・ミラー)に騙され続け、もしかしたらロバート・ジョンソンの誰も知り得なかった真実を知っていたかもしれない男。そんな彼は、天国で何を歌っているのだろうか。
エルモアに関する記事は数多くあるが、内容はほぼ出尽くした感がある。むしろエルモアから影響を受けた次の世代、例えばハウンド・ドッグ・テイラーやジョン・リトル・ジョン、ジョー・カーターといった演奏者に関する記事でエルモアに言及する、といったものが多い。唯一肉声を感じると言えない事もないのが1993年ギターマガジン誌におけるホームシック・ジェイムスのインタビューである。そこではいくつかの驚くべき発言があり、針小棒大な彼の性格が良く出ているといえよう。まず1951年に吹き込んだ名作「ダスト・マイ・ブルーム」は「ダスト・マイ・ルーム」の間違いであるということ。また「ザ・スカイ・イズ・クライング」「ザ・サン・イズ・シャイニング」「マディソン・ブルース」はホームシック・ジェイムスが作った曲であるということ。今となっては死人に口無しである。エルモアはロバート・ジョンソンと面識があったか?との問いにたいして、「そりゃあもちろん、わしは良く知っていたよ。ロックウッドに聞けばきっとそういうだろう。それにチャーリー・パットンとも個人的に親しかったんだぞ」さすがである。因みに、ホームシック・ジェイムスはエルモアの従兄弟あるいはまた従兄弟であり、本名ジョン・ウイリアム・ヘンダーソンといい、1910年テネシー州生まれ。エルモアとは1930年(エルモアが12歳)に出会っている。また、ジョン・リー・ウイリアムソン(サニー・ボーイⅠ)と従兄弟の関係であったという。 スライドギター奏法の流れから、そして「ダスト・マイ・ブルーム」から、つねにロバート・ジョンソンとの関係を論じられるエルモアだが、はたして直接ギターを教わったなどということがあったのだろうか。ロバート・ジョンソンは1937~8年頃チェスター・バネット(ハウリン・ウルフ)、ライス・ミラー(サニー・ボーイ・ウイリアムスンⅡ)と時々一緒に演奏して旅をしたらしいことはわかっている。ロバート・パーマー著「ディープ・ブルース」P334に次のような一文がある。 「エルモア一家はしばらくベルツォーニの近くに住んだが、そこで彼はライス・ミラ ーとロバート・ジョンソンに会った。むら気の多いジョンソンは、実際には彼にまった く教えていないだろうし、いずれにせよエルモアは覚えの早いほうではなかったが、彼 はなんとかロバートのスタイルの基本のいくつかを身につけた。そのひとつが『ダスト ・マイ・ブルーム』に使われた駆り立てるスライド・ギターのリフだった」。 ハウリン・ウルフもまとまったインタビューのない人である。やはり狂言回しというか、話の軸として見逃す訳に行かないのがライス・ミラー(サニー・ボーイⅡ)ということになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1951年、これまでずっと南部のスターだったサニー・ボーイⅡがレコード初吹き込み。その時すでに52歳であった。そのトランペット・レーベルに録音したメンバーのクレジットには名前が無いが、かなりの曲のギターはエルモア・ジェイムスが弾いているのではないか。これは、CD「サニー・ボーイ・リズム」のライナーで鈴木啓志氏が主張している事と同じだが、さらに言うと、この年エルモアも「ダスト・マイ・ブルーム」でデヴューする。この曲があちこちでヒットするまではずっと、つまりエルモアがサニー・ボーイと知り合ってからの15年間ちかく親分子分の関係、それもあまり強い絆みたいなものはなく、しいて言えば運動部の先輩後輩関係のようなものであった。なぜなら「ダスト・マイ・ブルーム」の録音も、サニー・ボーイの録音のあいまに隠し録りしたテイクである。エルモアはそのギター・スタイルとは裏腹に、とても気弱な神経質な男であった。酒を飲めば、急にでかい口を叩くということからも明らかだ。20歳近く年上の、何度も修羅場をくぐり抜けて来た、百戦錬磨のサニー・ボーイにとってみれば、エルモアは役に立つ家来ぐらいの感覚だったかもしれない。不器用で、世渡りのへたな、愛すべき男、エルモア・ジェイムス。しかし、1952年3月、「ダスト・マイ・ブルーム」がR&Bチャート9位のヒットを記録するも、その時すでに彼の心臓は病に蝕まれていた。まさか15年前のあの晩、R・Jに言われて向かった十字路で、悪魔に出会って魂を…。 1963年5月24日金曜日、シカゴにあるホームシック・ジェイムスの家で心臓麻痺のため死亡。享年45歳。ミュージシャンとしてやっと軌道にのって約10年という早すぎる死であった。だが、あの1938年8月の熱い風が吹く晩に、契約が交わされていたと考えれば、いや、もうこの話には触れるまい。ただ、巨人エルモア・ジェイムスが白人コレクターの間で話題となり世界中に知れ渡ることになるのは、皮肉なことにこれ以降である。 シカゴのD・J、プロモーターであるビック・ビル・ヒルが葬儀の費用を出し、ミシシッピ州ホームズ・カウンティにあるニューポート・M・B教会に埋葬されたが、その時の様子を記憶している人もほとんどいない。
前述のホームシック・ジェイムス以外で、生前のエルモアを知る最後の一人と思われるロバート・アール・ホルストンも1989年9月22日ミシシッピ州カーセイジの自宅で死去。マウント・ザイオン・コップヴィル共同墓地に埋葬されている。
http://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/7427e83cb32f04cbb0044ed70efcd2ed
イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」様より
----俺にとってブルースっていうのはエルモア・ジェイムスであり、ハウリン・ウルフであり、マディ・ウォーターズやロバート・ジョンソンのことなんだ…。(ジミ・ヘンドリックス)
エルモア・ジェイムス---ブルーズの巨人です。
怒涛のボトルネックの3連リフと、灼熱のテンションとで闇雲に疾走する、根っからの、生粋のブルーズマン。
僕は、彼の名を思いだしただけで、いつもこう、胸底あたりがカーッと熱くなってくるんです。
でもね、それは僕だけじゃない、ブルーズ好きなひとなら、きっと誰もがそうなると思う。
それっくらい特別でリアルなブルーズマン、エルモア・ジェームズなんですけど、ことブルーズ以外の畑じゃ意外と知名度はないかもしれません。
けど、彼をリスペクトしてるひとは、そーとー多いはず---有名どころでは Beatles のアルバム「Let It Be」の For You Blue のなかで、ジョージ・ハリソンがジョンのスライドギターにふざけて「エルモア・ジェイムス!」と掛け声をかけているのを聴くことができるし、エリック・クラプトンが彼のことをフェバリット・ギタリストのひとりに挙げているのも周知の事実、あと、冒頭のセリフでも分かるように、あの天下のジミヘンも彼の熱烈なファンでありました。
It Hurts Me Too (Elmore James)
お前は苦しんでるっていう
えっ、気が変になりそうなんだって?
お前が好きになる男は いつもお前を苦しめる
そうじゃないかい、ええ?
物事がお前にとって
うまくいってないなら
俺も苦しいよ…