同時期に異なる二人に同一の極秘情報を伝えた西村教授、同席してた湯川博士
2015年の書である。
原子力ムラのドンであった森一久氏の人生について紹介されているが、
このことについては全く関心がない。
どんな理由付けをしようとも原子力を推進してきた人間を信用することはできないし、
評価することもあり得ない。
本書を読んだ動機は、本書のタイトルによるもの一点のみである。
「ノーベル賞受賞者の湯川氏が「敵国の極秘情報」であるはずの原爆投下情報を事前に知っていたのではないか」という疑惑に、関心があるからである。
このことに関する重要な指摘をしている箇所を、引用する。
*ところが70歳を過ぎてから、森さんはある手記を目にする。
「本当に意外なことが年を取ってわかるんです。やはり広島出身で私と一緒に入学した人が、事前に『広島に新型原爆が落とされるから、家族を疎開させた方がいい』とある教授に言われてね。当時、アメリカでは最初の原爆を京都か広島にという話があって、落とすことはないという声もあったそうですが、落とさなきゃ、あの国はだめだ、という会議があっとことも後でわかるんですが、その話をその人が書いているんです」
広島が危ないという情報を事前に聞かされ、家族を救ったのは、1945年4月に京大工学部の冶金学教室に入学した水田泰次さん(88)だった。福井県に本社を置く非鉄合金の先端企業、大阪合金工業所の会長として現役で働いている。
88年10月発行の「廣島高等学校排球部史『われらの青春、皆実が原』」に水田さんはこう寄稿した。
「当時小生は京大・工・冶金の学生でしたが、4月に入学して、5月に冶金の教室主任教授の西村秀雄先生に呼び出され、広島市内に住居があり、親の居る冶金の学生が小生一人だけなので、内密に情報を教えて頂きました。米国の学会から秘密裏にニュースが先生に送られ、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第一回現地テストを広島で行う予定が決まったから、出来るだけ早く親を疎開させなさいということです。早速帰広し、特高警察等の関係のため、誰にも話すことが出来ないまま、父を無理矢理、理由も言わずに、廿日市まで大八車で、家財を積んで疎開させたものです」
水田さんはその後、同じ話を同窓会誌に書き、森さんはそれを2000年に目にする。そして翌01年1月15日、森さんは京都にいる水田さんを訪ねた。それを機に急接近したふたりは頻繁に会うようになる。
・・・・・(中略)・・・・・
最初の面会で森さんは水田さんが手記では明かさなかった事実を知らされる。西村教授の部屋に呼び出されたとき、湯川博士が同席していたというのだ。しかし、湯川博士は81年に死亡しているため、本人には確かめようがない。
2001年当時、75歳の森さんは社団法人「日本原子力産業会議」の副会長の立場にあった。連日、原子力関係の政府の委員会への出席や多くの来客があり、忙しい身だったが、この水田発言の謎を解こうと精力的に動いている。
・・・・・(中略)・・・・・
西村教授はなぜ水田さんに親の疎開を命じたのか。つまり、西村教授は原爆についての何らかの情報を得ていたのか。
自分より年長の教授が目の前で広島出身の教え子(水田さん)に「親を疎開させろ」と助言するのを目にしながら、湯川博士はなぜ、広島出身の教え子(森さん)にはそうしなかったのか。
この疑問が、半世紀のときを経て森さんを苛んだ。
・・・・・(中略)・・・・・
「なぜ、湯川さんは自分に言ってくれなかったのか」という疑問を起点に、「だから、湯川さんは自分を大事にしてくれたのか」「だから、湯川さんは自分に行き先を示してくれたのか」といった問いを加え、「自分が被爆者だから原子力の監視役を託されたのか」と、考えを進めていったのではないか。
(管理人)
「湯川氏が原爆投下情報を事前に知っていたのではないか」という情報は、鬼塚英明氏の「原爆の秘密(国内篇)」に記されている。
その重要箇所を引用する。
『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』を続けて読んでみたい。あの湯川秀樹博士が登場するからである。
いま一人は私の中学、高校で二年先輩の永田泰次さんだ。2000年8月発行の同人誌の中で、やはり「広島に原爆が落とされることがわかっていた」と次のように書いている。
「当時、小生は京大工学部冶金教室の学生でした。原爆が投下される3か月前の1945年5月のある日、冶金教室の主任教授の西村英雄先生に突然呼び出されました。先生によると、アメリカの学会から秘密裏にニュースが先生に送られてきて、当時原爆製作を競争していた日本より先にアメリカで成功したというのです。そして、その第一回現地テストを広島で行なう予定が決まった。できるだけ早く両親を疎開させなさいということでした」
永田さんは西村教授の忠告にしたがって、両親をすぐに広島近郊の廿日市に疎開させた。おかげで両親は原爆の被害にあわなくてすんだ。この西村教授の忠告は、今や想像もできないくらい奇想天外ともいえる秘密情報だが、永田さんはこう言う。
「西村先生に呼び出された時、先生の横に原子物理の湯川秀樹教授が座っておられた。それで、てっきり湯川教授からの秘密情報かと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。西村先生がアメリカとの独自のルートを持っておられたようだ」
これを見て、皆さんはどう思われるだろうか。
西村教授が極秘情報を二人に伝えたのは、ほぼ同時期である。
伝えた内容も、ほぼ同じである。
両親を疎開させた場所も、同じく廿日市である。
西村教授の横に湯川教授が座っていたというのも、同じである・・・
もちろん一番気になることは「情報源は誰であるのか」ということなのだが、
西村教授は疎開先までアドバイスしていたのだろうか。
本書には、このような情報も記されていた。
森さんと水田さんが考えていた「米国からの原爆情報」という見方にも疑問をはさむ。
「戦前、大学教授になるには洋行が半ば義務でした。工学者は大体ドイツに行ったんですが、西村先生はパリでフランス語を習っただけで、アメリカに知り合いはいないはずです。そもそも外国人との関係はお持ちでなかった」
「原爆の秘密(国内篇)」の中で、鬼塚氏はこのように書いている。
それでも、湯川秀樹には疑問が残る。ノーベル物理学賞受賞の理由は、彼の「中間子理論」による。この理論は仁科芳雄とその弟子たちが湯川秀樹に先んじて構想し、理論化しつつあったものであった。たしかに小沢進二編『湯川秀樹日記』(2007年)を読むと、湯川秀樹の中間子理論への情熱のすごさがうかがえる。彼は仁科芳雄たちに先んじて英文で書き発表した。アメリカの物理学者は彼を自国に迎えた。全米各地の大学で湯川は歓迎される。その様子を彼は『アメリカ日記』の中に書いている。
湯川は日本海軍の依頼を受けて、原爆研究に着手した京都大学の荒巻教授のもとで、理論面での原爆開発に協力している。私はこの理論面での原爆研究のデータがシカゴ大学のコンプトン研究所に何らかのルートで流れ、その見返りとして、広島に原爆を落とすというアメリカの極秘情報がコンプトン博士から湯川秀樹のもとへ伝わったと信じている。
鬼塚氏はこの本で「ある筋が広島の原爆情報を事前に知っており、原爆投下の直前に陸軍を広島に招集し、陸軍の“原爆殺し”を行った」ことを指摘している。
「湯川は日本海軍の依頼を受けて、原爆研究に着手した京都大学の荒巻教授のもとで、理論面での原爆開発に協力している」という文面が、非常に気になります。
渡部悌治氏が、「ユダヤは日本に何をしたか」の中で、このような指摘をしている。
戦時中、日本で一日も早くその完成が待たれていた、マッチ箱一つの大きさで戦艦一つを沈めうるといわれていた新兵器は、今日いう原子爆弾のことであった。そして仁科芳雄博士の研究では、実験段階では既に完成していた。しかし、その基礎理論が完結をみないでおり、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていた。それが一応のまとまりをみたとき、これを一つの学説として発表してはどうかという案も出たが、軍の機密に属することでもあり、早計に外部に洩らしてはならないという仁科博士の意見で発表は厳禁されていた。ところがそれを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。米国は終戦後、湯川の功績の論功行賞としてノーベル賞を授与させている。日本の利益にならず、米国のためになったことで褒美がもらえたのだ。まさに国賊である。
私には、ここに書かれていることが真実であるかどうかは判断できない。
ただ仮に真実であったとしても、湯川氏の単独行為ではなかったと確信している。
組織的な行為であったと確信している。
何故かって?
戦争は八百長だって何度も言ってるじゃないですか!
八百長は一人ではできませんよ。
そもそも理研が原爆研究に携わっていたというのも、相当に怪しいですしね。
原爆地上起爆説も、まだ消滅したわけじゃないでしょうし・・・
最後に、湯川氏にもう一度訊きたい。
「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」と。
評点:30点
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