日本支配者層の歴史秘話ヒストリア
「幕末から現代に至る日本の支配者層の血族秘話」
どうでもいい話だが、華原朋美が明治天皇の玄孫と付き合っているらしい。そして、その彼の父親はJOCの会長らしい。先日紹介した太田龍氏の「ユダヤ国際秘密力」に、フリーメーソンにコントロールされている日本人の組織として、ライオンズクラブやロータリークラブは有名だが「オリンピック日本委員会」も太田氏は挙げていた。
これまた太田氏の著書で「天皇破壊史」を以前紹介したが、これらに書かれている「明治天皇すり替え説」を華原さんは知っているのだろうか?
「余計なお世話ヨ」と言われそうだが、こういったことを紹介しているブログから引用する。天皇に限らず、総理大臣、大企業経営者etc・・・、いわゆる「日本の支配者層」は、“ある一定の血族”から成り立っているようですナ。ロスチャイルドの血族支配と変わらないようですナ。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131105-00010002-jisin-ent
華原朋美 新恋人を初告白! カレは“明治天皇の玄孫”
女性自身 11月4日(月)23時38分配信
「今月、再デビューしてから初めてのコンサートがあるんです。2デーズを予定していたんですが、うれしいことに完売になって、25日の追加公演が決まったんですよ」
充実した笑顔だった。昨年12月5日、『FNS歌謡祭』で再デビューを果たした華原朋美(39)は、一歩一歩着実に、歌手の道を歩んでいた。
再デビューからの1年を振り返ってもらうと、間髪いれずに弾んだ答えが返ってきた。
「いや、もう、すっごく幸せですよぉ。忙しいとか、仕事がぎゅうぎゅう詰めで大変とかっていうのが、逆にうれしく思える1年でしたから。お給料が自分の銀行口座に振り込まれ、通帳にお金が入るっていうことが、すごくうれしかったですね。『あっ、私は社会人として認められたんだ』っていう感覚でした」
この日、本誌にはどうしても聞かねばならないことがあった。華原に“新恋人”が現れたらしいのだ。本誌が掴んだ情報によれば、夏ごろから、華原は慶應大学講師の竹田恒泰氏(38)と交際を始めたらしい。
竹田氏といえば、明治天皇の玄孫(孫の孫。皇太子殿下も明治天皇の玄孫にあたる)にあたり、東京五輪招致で奔走したJOC竹田恆和会長(65)の子息というサラブレット。最近では著書がベストセラーを連発する若手の論客だ。
(ひっそりとスピリチュアルしています)さんより
http://ameblo.jp/holypurewhite/entry-11560138796.html
明治天皇すり替え ~龍馬暗殺の真相2~
幕末はご存知の通り、南朝を正統とする水戸学の尊皇攘夷から始まっています。
この思想を持つ人たちにとっては、南朝の方が正統となります。
が、現実には室町時代に南朝の系統は消滅し、以来北朝が正統となり、孝明天皇・睦仁親王ももちろん北朝です。
話は変わって、幕末、長州の田布施という所に、大室寅之祐という少年がいました。
この人は南朝の後醍醐天皇の玄孫、光良親王の子孫です。
つまり南朝の子孫となります。(引用者注:南朝の子孫自体が疑わしい噂があります。)
結論から言うと、睦仁親王とこの大室寅之祐はすり替えられました。
もちろん、薩長・岩倉の手によってです。
維新回天を成就するには、自分たちの意見を取り入れてくれる天皇が必要でした。
そこで吉田松陰の命を受けた伊藤俊輔が守役をしていた、大室寅之祐を替え玉としたのです。
吉田松陰は水戸学に啓発され、偽王朝の孝明天皇を排除して正統な血筋の大室寅之祐を皇位につけ、南朝の皇統を復活させようと考えていたのでした。
ここで、疑問が出てくると思います。
はたして天皇となる人のすり替えが可能なのか?
以下は、その証拠と言われているものです。
① 睦仁親王は神経がこまやかで虚弱体質、禁門の変では恐怖のあまり失神しています。
ですが、即位後の明治天皇は身長180センチ、90キロという堂々とした体格、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしています。
② 睦仁親王が即位前に乗馬をした記録はありません。
天皇は鳳凰を飾った輿、 「鳳輦」(ほうれん) に乗ります。
乗馬は必要ないばかりか、公家は武士のたしなみである乗馬を下品だと見下していました。
ですが、明治天皇は鳥羽伏見の戦いで、馬上で閲兵しています。
③ 睦仁親王の生母・中山慶子の墓所に、明治天皇、皇太后、皇太子は一回も行幸、行啓していません。
④ 明治天皇の ”皇太后” は父:孝明天皇の妻であるはず、なのに、明治天皇は自分の妻である一条美子を皇后ではなく ”皇太后” と呼ばせていました。
一条美子は本物の睦仁親王に嫁いでおり、途中からすり替わった明治天皇は、睦仁親王に遠慮したのではないかと言われています。
⑤ 明治天皇は左利きでした。昔は左利きは良くないとされ、高貴な生まれの人は必ず矯正されていました。
ましてや将来天皇となる人がそのまま・・・ということはありえません。
⑥ 16歳までの睦仁親王と明治天皇の字は明らかに違っていました。
睦仁親王はヘタクソで明治天皇は達筆だった、と言う人もいますが、私が両方の字を見た感想は、睦仁親王は書道の基本を押さえた字を書き、明治天皇はそうではない字でした。
明治天皇は自分の書いた字を人に見せたくなかったようです。
自信がなかったためかどうかはわかりません。
短歌を詠むとき、まず紙切れに歌を書いて、誰か字の上手な女官に命じてきれいな紙に書かせたあとは、自分の原稿は破って捨てていました。
⑦ 明治天皇は幼少期の写真とされているものと、まったくの別人です。
睦仁親王は天然痘の予防接種をしたので疱瘡にはかからないはずが、明治天皇の口の周りにはアバタがあり、それを隠すために口ヒゲをはやしていました。
⑧ 明治天皇の側近だった田中光顕が 「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時に即位したとなっているが、実はその睦仁親王は暗殺されて、入れ替わったのが大室寅之祐である」 と生前語っています。
⑨ 明治の新政府が出来て間もなく、まだ少年である天皇がわがままで元勲たちのいうことを聞かなかった時、西郷隆盛が 「そんなことではまた昔の身分に返しますぞ」 と叱り、天皇はたちまち大人しくなったと言います。
⑩ 明治7年、西郷従道は 「台湾出兵延期」 という天皇の命令を無視して出兵するし、天皇の前では誰もが起立するのに、守役だった伊藤博文は椅子に座ったままで、剣も腰に下げたままでした。
⑪ 明治35年、熊本にて軍の演習後の宴会出席を天皇が断ったため、山県有朋が 「士気にかかわる!」 と天皇に突っかかり、言い合いになります。
結局、天皇の方が折れて出席しているし、明治37年には大山巌も天皇の命令を無視しています。
⑫ 明治天皇みずからの意思で、十五もの南朝関係の神社 (楠木正成の湊川神社、新田義貞の藤島神社等) を次々に創建したり、贈位したりして、明治天皇が大室寅之祐でなければ、敵の南朝を称えていることになります。
後醍醐天皇がいた吉野に建てた ”吉野神宮” の御由緒には 「近代日本の繁栄の基は明治維新にあり、明治維新の根源は後醍醐天皇の建武の中興と吉野朝の歴史にありといわれます」 と書かれていて、北朝である明治天皇に対して不敬ではないか、と思われる内容です。
⑬ 明治44年、南朝・北朝のどちらが正統か、帝国議会で議論されました。
そこで驚くことに、天皇は北朝であるにもかかわらず、南朝が正統と決定され、明治天皇もそれを承認しました。
教科書も改訂されました。
⑭ 皇居には楠木正成の巨大な像があります。
まだ南朝が正統と帝国議会で承認される前、明治29年、寄付により設置されています。
敵将の銅像を、何故、堂々と寄付したのか? と疑問がわきますが、すり替えを知っていたと思えば納得もいきます。
実際に皇居に行って、北朝の天皇が中にいらっしゃると思って見ると・・・なんとも奇妙な感じがします。
すり替えられている、という根拠になっているものをいくつか挙げてみましたが、他にもまだあります。
このようにして、皇統はひそかに北朝から南朝にすり替えられたのでした。
続きます。
(これは何?)さんより
http://enzai1933.seesaa.net/article/250798007.html
2012年02月06日
権力
田布施町(たぶせちょう)は、山口県の 南東部の町。岸信介、佐藤栄作と2人の内閣総理大臣を出している。2人の首相を出した「町」は全国でも田布施町だけである
そんなに優秀なのか山口県 熊毛郡は?・・歴史を紐解くと。。。
第一次・伊藤博文 44歳 861日 山口県田布施町(朝鮮人部落)
黒田清隆 47歳 544日 鹿児島県田布施町(朝鮮人部落)
第一次・山縣有朋 51歳 499日 山口県田布施町(朝鮮人部落)
松方正義 56歳 461日 鹿児島県田布施町(朝鮮人部落)
第二次・伊藤博文 50歳 1485日 山口県
第二次・松方正義 61歳 482日 鹿児島県
第三次・伊藤博文 56歳 170日 山口県
第一次・大隈重信 60歳 132日 佐賀県多布施町(田布施でなく多布施)
なぜこんなに、ここに集中するのか不思議です。。。
大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている
終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は、鹿児島の朝鮮人部落出身である。
本名は朴茂徳である。鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。
終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、
安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、大室家とは親族だという。
安倍晋三は統一教会と縁が深いのだからまさに朝鮮半島勢力である。
明治天皇とその取り巻きが、なにせ田布施出身の朝鮮人系統なのだから、
現実の政治はその流れに沿うのである。
小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)
出身の朝鮮人である。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、
朝鮮人部落である。小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ
(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、
日本国籍を取得したのだ。小泉の次に安倍政権、そのいずれもが
朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。
明治帝が孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明。
「明治天皇」として即位したのは、一体「何者」だったのでしょうか? その名前もちゃんと分かっているのです。彼の名は「大室寅之祐」(おおむろとらのすけ)。そして、その出自はと言うと、先祖は南朝初代の後醍醐天皇!! つまり、彼は「熊沢天皇」同様、南朝の末裔だっのです。
「三浦皇統家」記録明記の南朝系図
┌義良親王(後村上天皇)・・・・・・・・・・熊沢天皇
(96)後醍醐天皇┼尊良親王─(97)興国天皇─小室門院
│ ┠──(99)松良天皇┬(100)大宝天皇
└(98)宗良親王─興国天皇(小松天皇) └光良親王・・・(173)大室寅之祐
ソース元
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4.html
大室寅之助は田布施の生まれ、……伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と
「虎ノ門事件」を起こした難波八助は一族である。
そして、大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家もある。
この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。
(明治天皇写真)
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E3%81%99%E3%82%8A%E6%9B%BF%E3%81%88
どうでもいい話だが、華原朋美が明治天皇の玄孫と付き合っているらしい。そして、その彼の父親はJOCの会長らしい。先日紹介した太田龍氏の「ユダヤ国際秘密力」に、フリーメーソンにコントロールされている日本人の組織として、ライオンズクラブやロータリークラブは有名だが「オリンピック日本委員会」も太田氏は挙げていた。
これまた太田氏の著書で「天皇破壊史」を以前紹介したが、これらに書かれている「明治天皇すり替え説」を華原さんは知っているのだろうか?
「余計なお世話ヨ」と言われそうだが、こういったことを紹介しているブログから引用する。天皇に限らず、総理大臣、大企業経営者etc・・・、いわゆる「日本の支配者層」は、“ある一定の血族”から成り立っているようですナ。ロスチャイルドの血族支配と変わらないようですナ。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131105-00010002-jisin-ent
華原朋美 新恋人を初告白! カレは“明治天皇の玄孫”
女性自身 11月4日(月)23時38分配信
「今月、再デビューしてから初めてのコンサートがあるんです。2デーズを予定していたんですが、うれしいことに完売になって、25日の追加公演が決まったんですよ」
充実した笑顔だった。昨年12月5日、『FNS歌謡祭』で再デビューを果たした華原朋美(39)は、一歩一歩着実に、歌手の道を歩んでいた。
再デビューからの1年を振り返ってもらうと、間髪いれずに弾んだ答えが返ってきた。
「いや、もう、すっごく幸せですよぉ。忙しいとか、仕事がぎゅうぎゅう詰めで大変とかっていうのが、逆にうれしく思える1年でしたから。お給料が自分の銀行口座に振り込まれ、通帳にお金が入るっていうことが、すごくうれしかったですね。『あっ、私は社会人として認められたんだ』っていう感覚でした」
この日、本誌にはどうしても聞かねばならないことがあった。華原に“新恋人”が現れたらしいのだ。本誌が掴んだ情報によれば、夏ごろから、華原は慶應大学講師の竹田恒泰氏(38)と交際を始めたらしい。
竹田氏といえば、明治天皇の玄孫(孫の孫。皇太子殿下も明治天皇の玄孫にあたる)にあたり、東京五輪招致で奔走したJOC竹田恆和会長(65)の子息というサラブレット。最近では著書がベストセラーを連発する若手の論客だ。
(ひっそりとスピリチュアルしています)さんより
http://ameblo.jp/holypurewhite/entry-11560138796.html
明治天皇すり替え ~龍馬暗殺の真相2~
幕末はご存知の通り、南朝を正統とする水戸学の尊皇攘夷から始まっています。
この思想を持つ人たちにとっては、南朝の方が正統となります。
が、現実には室町時代に南朝の系統は消滅し、以来北朝が正統となり、孝明天皇・睦仁親王ももちろん北朝です。
話は変わって、幕末、長州の田布施という所に、大室寅之祐という少年がいました。
この人は南朝の後醍醐天皇の玄孫、光良親王の子孫です。
つまり南朝の子孫となります。(引用者注:南朝の子孫自体が疑わしい噂があります。)
結論から言うと、睦仁親王とこの大室寅之祐はすり替えられました。
もちろん、薩長・岩倉の手によってです。
維新回天を成就するには、自分たちの意見を取り入れてくれる天皇が必要でした。
そこで吉田松陰の命を受けた伊藤俊輔が守役をしていた、大室寅之祐を替え玉としたのです。
吉田松陰は水戸学に啓発され、偽王朝の孝明天皇を排除して正統な血筋の大室寅之祐を皇位につけ、南朝の皇統を復活させようと考えていたのでした。
ここで、疑問が出てくると思います。
はたして天皇となる人のすり替えが可能なのか?
以下は、その証拠と言われているものです。
① 睦仁親王は神経がこまやかで虚弱体質、禁門の変では恐怖のあまり失神しています。
ですが、即位後の明治天皇は身長180センチ、90キロという堂々とした体格、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしています。
② 睦仁親王が即位前に乗馬をした記録はありません。
天皇は鳳凰を飾った輿、 「鳳輦」(ほうれん) に乗ります。
乗馬は必要ないばかりか、公家は武士のたしなみである乗馬を下品だと見下していました。
ですが、明治天皇は鳥羽伏見の戦いで、馬上で閲兵しています。
③ 睦仁親王の生母・中山慶子の墓所に、明治天皇、皇太后、皇太子は一回も行幸、行啓していません。
④ 明治天皇の ”皇太后” は父:孝明天皇の妻であるはず、なのに、明治天皇は自分の妻である一条美子を皇后ではなく ”皇太后” と呼ばせていました。
一条美子は本物の睦仁親王に嫁いでおり、途中からすり替わった明治天皇は、睦仁親王に遠慮したのではないかと言われています。
⑤ 明治天皇は左利きでした。昔は左利きは良くないとされ、高貴な生まれの人は必ず矯正されていました。
ましてや将来天皇となる人がそのまま・・・ということはありえません。
⑥ 16歳までの睦仁親王と明治天皇の字は明らかに違っていました。
睦仁親王はヘタクソで明治天皇は達筆だった、と言う人もいますが、私が両方の字を見た感想は、睦仁親王は書道の基本を押さえた字を書き、明治天皇はそうではない字でした。
明治天皇は自分の書いた字を人に見せたくなかったようです。
自信がなかったためかどうかはわかりません。
短歌を詠むとき、まず紙切れに歌を書いて、誰か字の上手な女官に命じてきれいな紙に書かせたあとは、自分の原稿は破って捨てていました。
⑦ 明治天皇は幼少期の写真とされているものと、まったくの別人です。
睦仁親王は天然痘の予防接種をしたので疱瘡にはかからないはずが、明治天皇の口の周りにはアバタがあり、それを隠すために口ヒゲをはやしていました。
⑧ 明治天皇の側近だった田中光顕が 「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時に即位したとなっているが、実はその睦仁親王は暗殺されて、入れ替わったのが大室寅之祐である」 と生前語っています。
⑨ 明治の新政府が出来て間もなく、まだ少年である天皇がわがままで元勲たちのいうことを聞かなかった時、西郷隆盛が 「そんなことではまた昔の身分に返しますぞ」 と叱り、天皇はたちまち大人しくなったと言います。
⑩ 明治7年、西郷従道は 「台湾出兵延期」 という天皇の命令を無視して出兵するし、天皇の前では誰もが起立するのに、守役だった伊藤博文は椅子に座ったままで、剣も腰に下げたままでした。
⑪ 明治35年、熊本にて軍の演習後の宴会出席を天皇が断ったため、山県有朋が 「士気にかかわる!」 と天皇に突っかかり、言い合いになります。
結局、天皇の方が折れて出席しているし、明治37年には大山巌も天皇の命令を無視しています。
⑫ 明治天皇みずからの意思で、十五もの南朝関係の神社 (楠木正成の湊川神社、新田義貞の藤島神社等) を次々に創建したり、贈位したりして、明治天皇が大室寅之祐でなければ、敵の南朝を称えていることになります。
後醍醐天皇がいた吉野に建てた ”吉野神宮” の御由緒には 「近代日本の繁栄の基は明治維新にあり、明治維新の根源は後醍醐天皇の建武の中興と吉野朝の歴史にありといわれます」 と書かれていて、北朝である明治天皇に対して不敬ではないか、と思われる内容です。
⑬ 明治44年、南朝・北朝のどちらが正統か、帝国議会で議論されました。
そこで驚くことに、天皇は北朝であるにもかかわらず、南朝が正統と決定され、明治天皇もそれを承認しました。
教科書も改訂されました。
⑭ 皇居には楠木正成の巨大な像があります。
まだ南朝が正統と帝国議会で承認される前、明治29年、寄付により設置されています。
敵将の銅像を、何故、堂々と寄付したのか? と疑問がわきますが、すり替えを知っていたと思えば納得もいきます。
実際に皇居に行って、北朝の天皇が中にいらっしゃると思って見ると・・・なんとも奇妙な感じがします。
すり替えられている、という根拠になっているものをいくつか挙げてみましたが、他にもまだあります。
このようにして、皇統はひそかに北朝から南朝にすり替えられたのでした。
続きます。
(これは何?)さんより
http://enzai1933.seesaa.net/article/250798007.html
2012年02月06日
権力
田布施町(たぶせちょう)は、山口県の 南東部の町。岸信介、佐藤栄作と2人の内閣総理大臣を出している。2人の首相を出した「町」は全国でも田布施町だけである
そんなに優秀なのか山口県 熊毛郡は?・・歴史を紐解くと。。。
第一次・伊藤博文 44歳 861日 山口県田布施町(朝鮮人部落)
黒田清隆 47歳 544日 鹿児島県田布施町(朝鮮人部落)
第一次・山縣有朋 51歳 499日 山口県田布施町(朝鮮人部落)
松方正義 56歳 461日 鹿児島県田布施町(朝鮮人部落)
第二次・伊藤博文 50歳 1485日 山口県
第二次・松方正義 61歳 482日 鹿児島県
第三次・伊藤博文 56歳 170日 山口県
第一次・大隈重信 60歳 132日 佐賀県多布施町(田布施でなく多布施)
なぜこんなに、ここに集中するのか不思議です。。。
大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている
終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は、鹿児島の朝鮮人部落出身である。
本名は朴茂徳である。鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。
終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、
安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、大室家とは親族だという。
安倍晋三は統一教会と縁が深いのだからまさに朝鮮半島勢力である。
明治天皇とその取り巻きが、なにせ田布施出身の朝鮮人系統なのだから、
現実の政治はその流れに沿うのである。
小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)
出身の朝鮮人である。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、
朝鮮人部落である。小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ
(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、
日本国籍を取得したのだ。小泉の次に安倍政権、そのいずれもが
朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。
明治帝が孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明。
「明治天皇」として即位したのは、一体「何者」だったのでしょうか? その名前もちゃんと分かっているのです。彼の名は「大室寅之祐」(おおむろとらのすけ)。そして、その出自はと言うと、先祖は南朝初代の後醍醐天皇!! つまり、彼は「熊沢天皇」同様、南朝の末裔だっのです。
「三浦皇統家」記録明記の南朝系図
┌義良親王(後村上天皇)・・・・・・・・・・熊沢天皇
(96)後醍醐天皇┼尊良親王─(97)興国天皇─小室門院
│ ┠──(99)松良天皇┬(100)大宝天皇
└(98)宗良親王─興国天皇(小松天皇) └光良親王・・・(173)大室寅之祐
ソース元
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4.html
大室寅之助は田布施の生まれ、……伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と
「虎ノ門事件」を起こした難波八助は一族である。
そして、大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家もある。
この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。
(明治天皇写真)
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E3%81%99%E3%82%8A%E6%9B%BF%E3%81%88