歴史・宗教

216年に10万人の秦の兵が日本に来ていた

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「日本に忍び入るユダヤ 恐るべき悪魔の計画とは何か」第一部
牛山火壱





1994年の書である。たまたまこの書が目に入り、読んだ。著者の年齢・素性はネットで調べても全く見えてこない。しかし、「ユダヤ問題」及び「日本の歴史とユダヤの関わり」に関する独自の見識をお持ちの方であることは、読み進めるうちに理解できた。
二部に分けて記す。以下、引用する。




*この始皇帝の父、荘襄王(そうじょうおお)は、呂不韋(りょふい)という宰相によって位に就けられたものであり、呂不韋の愛人であった女性をもらって産んだ子が始皇帝であるとされているが、この呂不韋なる人物はもともと大商人で、恐らくは西域人、すなわちソグド人またはペルシャ人だったかもしれないし、さらに想像をたくましくすれば、ユダヤ人そのものであったのではないかともいわれている。つまり、始皇帝というのは純粋な支那人ではなく、少なくともその血の半分は西方人種の血が入っていたのではないか。ともかく彼の行った政治は当時の支那で自然発生的に展開したもとは到底思われず、極度の中央集権と極端な君主専制政治であった。そこで、既にして彼に外血が入っていたとするならば、恐らく多くの西域人あるいはユダヤ人そのものが支那に来ていたのではないかという想像が可能である。どうもこれは単なる想像ではなくて、その後、これから書くように、始皇帝の子孫と称するもの、秦氏が日本にやってきて、それが濃厚にユダヤ的な文化をもたらしていることから考えて、始皇帝ユダヤ人説はその確度が甚だ高いといわなければなるまい。
日本人にとって始皇帝は極めて重要な意味を持つ。もとより、それは彼が徐福(じょふく)をして大船団を率いて日本に向かわせたという事跡によるものである。この徐福の話はすでに「史記」に詳しく書かれているし、後の支那正史にも新しい情報が加えられて書き継がれている。日本にも徐福が来航したと称する伝説ないし遺跡が列島の方々に残っている。重大なのはなぜ始皇帝が日本を目指して国費の二割を費やすという大遠征をさせたのかという問題である。
これは、BC219年のことであるが、その後間もなく始皇帝は亡くなり、長男の扶蘇(ふそ)という人物が父の指名によって皇帝を継ぐべきであったところ、その大臣の偽造詔書によって逆に始皇帝から死を賜り、この陰謀によって弟である胡亥(こがい)が二世皇帝になった。
この胡亥というのもまことに不思議な名で、中国の胡というのはいわゆる胡人、すなわち西域人のことで、亥というのは子供のことである。つまり、二世皇帝胡亥はまさしく胡人の子であったということにはなりはしないか。この胡亥も間もなく殺され、始皇帝の孫に当たる三世皇帝嬰もまたわずか一年の在位で殺され、ここに秦帝国は滅んだ。なぜ秦帝国がかくも短期間に滅んだかといえば、それは始皇帝の情け容赦のない、当時の支那人から見ても全く外国的思想をもって政治を行ったということ、そしてまた徐福を日本に遣わし、その財政を消耗したということ、この二つが大きな原因であろう。
漢書などにも明瞭に記されているが、徐福を遣わしたがための財政負担によって、民衆の苛斂誅求が強まり、民に怨嗟の声がみなぎったという。それほどまでの犠牲を払って、なぜ始皇帝が日本を目指して徐福を出したかということである。しかも、始皇帝はその皇帝在位中五回にわたって全国を巡回しているが、そのうち三回は山東半島をめぐり、はるか東方の日本列島を望見したといわれる。つまり、始皇帝はどういうわけか日本に対して大変な執心を抱いていたということになる。
もし始皇帝がユダヤ人であったならば、これはユダヤ人が既にBC三世紀の当時から日本に対して並々ならぬ関心を持っていたということになるだろう。

*では、日本にユダヤ人は来なかったのだろうか。神功皇后が三韓征伐をしたのがAD200年である。これは当時の新羅を討ったのであるが、現実にはその軍勢はかなり朝鮮半島の奥まで入っていたのではないかと思われる。ところが、その前年、AD199年に秦の始皇帝の14世の後裔と称する攻満王(こうまんおお)という人物が来朝している。よく知られているように、神功は仲哀天皇の皇后であり、熊襲征伐のための穴門(今日の関門海峡)で熊襲征伐の会議を開いていたのであるが、仲哀天皇は熊襲を直接に討とうとされ、一方神功皇后は熊襲の策源地である新羅を討つことを主張された。とこらが、その軍議の間に仲哀天皇は急に崩御され、神功皇后直ちに軍師を率いて新羅征伐に立たれたのである。その前年、功満王が来朝しているということは、この熊襲、新羅征伐と極めて直接に関係していると見てよいのではないだろうか。
ところで、その六年後、功満王の孫と称する融通王(ゆうづうおお)が127県の秦の民を率いて帰化してきたという事件がある。ところが、当時の事情を書いた「日本書紀」によると、日本に来ようとした融通王は新羅にさえぎられて日本に来ることはできないでいた。そこで、朝廷は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わしたが、五年たっても襲津彦は帰らないので、ついに朝廷はさらに融通王一行の道を開くべく平群木莵宿禰(へぐりみみずくすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に軍勢をつけて救援に向かわせ、融通王一行は無事日本に渡ったという。これがAD216年のことである。
ところで、この127県の秦民というのは大変な数のようで、ある推定によれば10万人ともいう。当時の交通事情でこれだけの人数が支那の奥地から朝鮮半島を通って日本列島まで来たということはなかなか考えにくいけれども、しかし当時の交通事情は我々が今日想像しているよりもはるかに整っていたと考えなければならない。神功皇后の三韓征伐にせよ、恐らく数万の軍勢を動かしたに違いないから、その程度の人間が移動することはあり得たのではないだろうか。さて、この功満王あるいは融通王の率いてきた127県の民は、一体どういう人種なのであろうか。一般の漢民族とか、あるいはより北方にいた蒙古、満州族の先祖に当たる人たちは、恐らく着地性が強く、遠く日本列島まで来るという性質もなければ必要もなかったのではないだろうか。ということは、彼らは長距離を移動する性質を持つ特別の人種集団であったと考えられるのである。
もし秦の始皇帝がユダヤの血を受け、それより100年あるいは200年前から支那にユダヤが多数来ていたとするならば、この秦の民というのはユダヤの血の入った、ユダヤの文明を持った人間たちではなかったか。

・・・・・(中略)・・・・・
小野妹子というのは、だれでもよく知っているように、日本が海外に派遣した第1回の正式使節、遣隋使であった。彼が日本に帰ってきたときに、隋の皇帝煬帝は裴世清(はいせいせい)という人物をつけてよこした。その裴世清が帰国したときにもらした情報が隋史に出ているがそれによると筑紫に上陸して大和へ上る道中、秦王国というのがあって、そこでは自分の国と同じ風習が行われていたと書かれている。これはその後の日本の歴史の研究者にとって大きな謎であった。裴世清が来朝したのはAD608年である。そうすると、融通王が127県の秦民を率いて来朝して以来、約400年経っていることになる。400年間、彼ら秦人の集団の一部がどこかに秦王国ともいえるコロニーをなお維持していたのかもしれない。・・・・・(中略)・・・・・
この秦氏はその遠い祖先の秦の始皇帝と同じく、西域地方の技術ないし社会的経験を日本に移したと考えられる。特に機織りの技術を司っていた。彼らのその面での一つの拠点は京都の太秦であって、今日西陣といわれて織物の中心地をなしている場所にはユダヤ寺といわれる広隆寺があり、あるいは三本鳥居の蚕の社という神社もある。
この広隆寺と蚕の社は今日でも論議の絶えない甚だ不思議なお寺とお宮であって、広隆寺の方は秦河勝という秦氏が族長と聖徳太子の命によって建てた寺で、イスライの井戸などというものもあり、融通王(弓月王)、秦酒公、秦河勝の木像がある。かつてビクトリア女王の侍従だったゴルドン夫人という人が日本に来てこの像を見、ユダヤ人の顔と少しも違わないといったという話もある。この夫人は太平天国の乱を鎮定した有名なゴルドン将軍の夫人とも娘とも言われる。
この広隆寺と蚕の社は太秦の中心部にあり、西陣によって以来ずっと支えられてきた。つまり、このあたりは秦種族、ユダヤ人の一大集積地であったということになろうか。

*天照大神は「古事記」「日本書紀」に特筆大書されている日本の根本神である。だれでも知っているように、伊勢皇大神宮は内宮にこの神様を祭っている。ところで、江戸時代の末期になって、「秀真伝(ほつまつたえ)」という神代文字で書かれた文書が世に出た。これは有名な国学者の本居宣長と同時代に生存した三輪安聡(みわやすとし)という人がその家に神代(かみよ)の時代から伝わってきたものであると称し、漢文で訳注したものである。これはなかなか大きな本で、原文は神代文字の仮名で、総数十二万字からなる。これを安聡の注解を頼りに読んでみると、「古事記」や「日本書紀」に書いてある事実と思われていたことが実は真実からは大分かけ離れたものであり、省略も多く、逆に変なことがいろいろと書き加えられていることがわかった。
特に最も重大なのがいま言った天照大神の本体で、この「秀真伝」によれば、この神様は男性の天皇であり、大体今から3000年前ぐらいに実在した人間であった。もとより神に近い立派な方ではあったけれども、記紀にいうような途方もない非人間の女神ではない。
大体日本人の宗教は神というよりは霊が万物に遍満しているという考えであって、特定の神だけが絶対的権威を持つというものではない。日本人は世に貢献した立派な人を死後お宮に祭って神様と称するのである。例えば菅原道真にせよ、乃木大将にせよ、すべて神となって神社に祭られている。これらは生前は生身の人間であって、神でも何でもないのだが、しかしその人が亡くなって後にその徳をしのび、功績をたたえ、その霊を神社にお祭りするわけである。
天照大神もそれと全く同じであって、伊勢皇大神宮に祭られているのは神ではなくて、大変立派な天皇であった人を亡くなられた後に神として祭ったものである。
では、なぜ天照大神がユダヤ教の一神教に見るような超越した神になってしまったのだろうか。記紀にいわれている天照大神は決して日本的な神とは思われない。日本人の精神的伝統にはない概念の神なのである。結局、これは「秀真伝」に天照神といわれている古代の最も崇敬すべき大人格を持っている人を「カミ」と呼んでいたものが、「古事記」「日本書紀」を編纂する段になってユダヤ一神教まがいの神に変えられたと考えざるをえない。この天照大神の原型は記紀よりも一世紀以前に編纂されたと考えられる「旧事本紀」の中に現われており、そこではすでに超越した神格に変わっていることで分かる。つまり、超越一神に天照大神を造作したもとは、聖徳太子、秦河勝、中臣御食子、及びその当時大連(総理大臣)をしていた蘇我馬子であると考えざるをえない。
「秀真伝」は神武天皇が即位される八年前に神武天皇の総理大臣格であった櫛甕玉(くしみかたま)命という方が書いたものである。これを景行天皇のときの三輪神社の神官であった大田田根子という人物と、伊勢神宮の神官であった大鹿島命という人が増補したものである。
この神代文字の書物ができたのは西暦でいって180年代であるから、「旧事紀」ができたと考えられるAD621年と比較すると、四世紀と少し経っていることになる。すなわち、この四世紀間に日本の神である天照神が一神教の神「天照大神」に変えられてしまったわけだ。後に述べるが、この聖徳太子というのは甚だ不思議な人物で厩戸皇子などといわれて、キリストまがいの生誕の故事がつくられているし、秦河勝に至っては、その建てた京都太秦の広隆寺を見てもわかるように、極めてユダヤがかった人物である。蘇我馬子もまたその祖父、曽祖父が韓子あるいは高麗と呼ばれ、帰化人の子が日本固有の種族であった蘇我氏に養子として入り込んだものであるとされている。つまり、聖徳太子の周辺は外国的な影が非常に強い。後にも述べるけれども、すでにこの当時ユダヤが皇室の中心近く入り込んでいたものと思わざるを得ないのだ。これは前に述べたように、今日もますます盛んなユダヤの歴史改竄の一つの顕著な例であると考えられる。

日本の神社の構造は、前に拝殿、その奥にご神体を奉奠、奉安している奥の殿と称する建物がある。この配置は古代ユダヤ神殿と同じ配置である。そして、かなり広い前庭が設けられていることも同じだ。また、日本のお宮には必ず口と手を洗う手水舎があるが、ユダヤの神殿でも必ず水盤が置かれている。
またおもしろいのは、ユダヤの祭礼では家庭で魔除けのため入り口の二本の柱と鴨居を赤く塗ったといわれているが、これは神社の鳥居の構造に一応似ており、赤く塗るという点も同じように見える。
神社で賽銭を投げ入れるという風習も古代ユダヤの神殿で行われていたというし、古代ユダヤの神殿の前では祭日には屋台が出て物売りなどが並んだといわれている。これも日本の神社における構造と慣習に似ているのではないだろうか。

*「秀真伝」によれば、スサノオは天照大神の弟として実在した人物であり、「古事記」「日本書紀」に書かれたと同様、兄である天照大神に対して大変な反逆行為を働き、ついに裁判によって死刑になったのであるが、天照神の皇后瀬織津姫によって罪一等を減ぜられ、髪を抜き、爪をはがされ、位階勲等すべての特権を剥奪されて放遂された。彼は出雲へ放浪するのだが、途中で天照神の姉君に当たる若姫のもとに立ち寄りさらに事件を起こすことは、記紀に書かれているとおりである。

特に秦はユダヤ的色彩があらゆる面に極めて顕著であって、その政治は従来とはおよそまったく異なっていた。その極端な中央集権システム、全国に道路を開いたこと、国民を組織的に奴隷化して大土木工事を起こしたこと、度量衡を制定したこと、法治制度を作り上げたこと、そしてなかんずく自から「始皇」帝と称したように、それまでなかった全く新しい超絶した独裁政治を導入した。皇帝というのは西洋の思想である。これは中東地方におけるずっと昔に完成していたアッシリア、バビロニアあるいはエジプトの政治形態とほとんど揆を一にするものであり、秦の政治全体は人間的な周の政治理念とはおよそ対極的な機械的なものであった。つまり、周から秦に政治形態が移ったということは、これは完全な外来思想による文化革命であって、決して支那内部の自発的な変化ではなく、外部から導入された政治理念によるものだ。では一体この政治の大変革が誰によって火がつけられたのか。ここに大きな謎がある。当時、中東地方から黄河上流あたりまでこういった政治文明をもたらしたものは、バビロニア、アッシリアあるいはエジプトの人間が直接に来たと考えるよりは、むしろその間に極めて古い時代から商業のために移動していた人たち、つまりユダヤが媒介していたであろうことは容易に想像される




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