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ソウルマン

キリスト教とイルミナティ、フリーメーソン勢力が敵対しているというのは嘘八百であり、実際は同一勢力によって成り立っている

「封印された≪死海文書≫の秘密」 K.V.プフェッテンバッハ


1997年の書である。
本書は、『死海文書』の解読を影であやつっているバチカンの存在。そして文書を作成した謎の預言者宗団クムランと、その生涯に謎の部分が多いイエスとの関係。最後に人類の破局を告げる終末預言、さらには人類を導くというふたりのメシアについて記されている。
本書はあまりに衝撃的な内容のためか、本国フィンランドでは、出版と同時に発売禁止処分にされてしまったとのことである。以下、一部引用する。



*1947年、死海のほとりのクムランの洞窟から『死海文書』が発見されてから、すでに半世紀が経っている。
・・・・・(中略)・・・・・
だが、1950年、『死海文書』の解読にあたった「国際チーム」の公表した資料をもとに、フランス・ソルボンヌ大学の教授アンドレ・デュポン・ソメールが、「義の教師」と呼ばれる「イエスの原型」ともとれる人物が登場してくることを暴露して以来、『死海文書』は、一般人の関心を引き、一躍スキャンダルの渦中に投げ込まれることになった。

*1923年生まれのアレグロは、イギリスのマンチェスター大学で論理学、ギリシア語、ヘブライ語を学んだのち、セム語コースに移り、聖書を言語学の分野から研究し始めた。
オックスフォード大学の博士過程に移って1年、主任教授の勧めで「国際チーム」の一員となったのである。
・・・・・(中略)・・・・・
アレグロは、1956年の1月、イギリス北部のラジオ局から放送された『死海写本(文書)』に関する番組で、ソメールの論を支持すべく、短い講話を行なった。
私は、写本の断片の研究を進めていくうちに、デュポン・ソメールが論文で述べていたことは、彼が思っている以上に正しいと確信するようになった。
つまり、こういうことだ。イエス・キリスト誕生の100年以上前に存在していた、極端なユダヤ教のあるセクトが残した文書の中に、キリスト教の儀礼や教義の起源が見出されるのだ。いや、それ以上と言っていいかもしれない。なぜなら、イエスのモデルが存在しているからである

『ニューヨーク・タイムズ』が、アレグロの放送に素早く反応した。
「ジョン・マルコ・アレグロは、昨夜の放送で、『主の晩餐』や『主の祈り』や『新約聖書』のイエスとその教えの、少なくとも一部が、死海のほとりの“クムラン宗団”という不可思議な共同体をつくって暮らしていた集団から生まれたものであると述べた。

『死海文書』は、終末の時、ふたりのメシアが登場すると告げている。
ひとりはアロンのメシア、そしてもうひとりはイスラエルのメシアである。

では、アロンのメシアとは、誰のことをさしているのだろう。そしてイスラエルのメシアとは?
なぜ、ふたりのメシアが登場するのだろう?
メシアなら、ひとりで十分ではないか・・・。
ふたりということは、メシアの質に差があるのか?
とにかく、『死海文書』に挙げられたメシアを、ひとりずつ確認していくことにしよう。
まず、アロンのメシアである。
アロンとは、ヤハウェの戒めの声(十戒)をシナイ山で聞いたモーセの兄で、高貴な聖職者であった。
ヤハウェの声を聞いたモーセが、自身の口べたに失望して民への伝達をしぶったとき、ヤハウェがモーセの介添え役として指名したのがアロンである。
アロンの弁舌はなめらかで、多くの人々をその説教で感服させた。ヤハウェはアロンのその能力を買ったのである。モーセはヤハウェの指示にしたがい、アロンにすべてを告げ、彼を同行してイスラエルの長老たちの前に出ると、ヤハウェの十戒をアロンの口を通して語った。
アロンはまさに、神の言葉を告げる能力者である。「油をそそがれた者(=メシア)」としての資格を十分にもっている。

そして、このアロンの系譜につながる者こそ、何を隠そうあのクムラン宗団なのである。
つまり、主たるユダヤの系譜に何か問題があった時に、その介添え役となる。あるいは「裏組織」として王の道を行く者を、隠れて援護する役がアロンの宿命である。
そしてこの「裏」というところが重要なのだ。

クムラン宗団はエッセネ派の超エリート集団であるが、母体であるエッセネ派のルーツがエジプトにあることは、すでに述べた。
だが、エッセネ派は、さらにその先に、神秘主義的な要素を多く取り込んだ集団を、そのルーツにもっていた。
その神秘主義的集団とは、神秘と数学を支配する“聖牛セラピス”を崇める超秘密宗教結社=セラピス教団である。この教団の起源は紀元前3000年ころと推定され、ピラミッド建設にかかわったことでも有名である。
セラピス教団~エッセネ派~クムラン宗団という発展の中で、セラピス教団の神秘性は裏に隠れ、数学に象徴される合理性や禁欲主義が強調されるようになった。が、その裏で、神秘性は絶えることなく脈々と受け継がれていった。
それこそが、表のメシア(=指導者)を助ける介添え役=裏のメシア、すなわちアロンの一派なのである。
彼らは、古代ユダヤのソロモン王の神殿建設に、数学、測量述、土木・建築学をはじめとする絵画、彫刻などの芸術にいたるまで、当時の最先端技術を駆使して参加している。

そしてこの一派も、あの紀元後73年の「マサダの戦い」終結以降、2000年の流浪の旅に出る。
「マサダの戦い」とは、前述したように、紀元後67年からローマの圧政に抵抗したユダヤの民が起こした最後の大反乱である。
聖都エルサレムが徹底的に破壊されると、ユダヤの民は、1100人が10年間飲んでも底をつくことのない水を蓄えることのできる貯水庫をもつマサダの砦に立てこもって抵抗を続けた。立てこもったのは1000人足らず。数万のロ-マ軍が要塞を囲む。
やがて兵糧攻めが始まる。兵糧が尽きかけたとき、ローマ軍は砦に向かって土盛りを始めた。完成したところでそこに櫓を建て、火矢を雨のごとく降り注いだ。たちまち乾燥しきった砦の建物が火に手をあげ、メラメラと燃え上がった。
もはやこれまで。
ついに、立てこもったユダヤの民は自決を覚悟、ローマ軍の侵入とともに多くのユダヤ人が自決した。紀元後73年のことである。
これが有名な「マサダ・コンプレックス」を生み、ユダヤ人に深い心の傷として残っていくのである。
ところで、ローマ軍の侵入直前、聖なるアロンの直系たちの一部が、こっそりと砦を逃げている。その小川とも言える直系たちの流れが、近代になって太く逞しく育ち、「裏世界」を操る集団に変身していったのである。
この集団こそが、フリーメーソンである。


*この「三百人委員会」の奥之院とも言うべきものに「島のクラブ」がある。その中心人物は、エリザベス女王の夫君、エジンバラ公フィリップ殿下とオランダのベルンハルト殿下。その下に「緑の戦闘序列」と呼ばれる上意下達の実戦部隊が配備されている。
一見平和な組織とみなされているユネスコ、フォード財団、グリーン・ピース、国際環境保護センターなどの機関や団体を前面に押し出しながら、「島のクラブ」は闇の世界支配網を建設している。
「島のクラブ」の会員が依って立つ権威の源とは何か?
それは「血統」である。
彼らは、その血の中にローマ時代を遠く超える血脈を意識し、そこに流れる神秘主義的要素を自覚しているのである。
そして、なんと驚くべきことに、名誉会員として、日本の明治・大正・昭和・平成の天皇も登録されているという。
世界の超政府とも言える「島のクラブ」に日本人もからんでいる。しかも天皇が・・・。
この事実は、『死海文書』がその登場を預言している第二のメシア、イスラエルのメシアがいかなる人物であるかを研究することで、一層明白になる




(管理人)
本書を読んでみようと思ったきっかけは、太田龍氏の書に紹介されていたからです。
本書は本国フィンランドでは出版と同時に発売禁止処分にされてしまったというが、逆に言うと、「本書には、バチカン=「彼ら」(私はバチカンも「彼ら」イルミナティ勢力と同一であると判断しています)にとって、一般人に知られたくないことが記されている」ということの証明となるのではないでしょうか。
まず、『死海文書』をウィキで見てみます(抜粋)。



死海文書(しかいぶんしょ、英語: Dead Sea Scrolls)あるいは死海写本(しかいしゃほん)は1947年以降死海の北西にある遺跡ヒルベト・クムラン(英語版) (Khirbet Qumran) 周辺で発見された972の写本群の総称。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書からなっている。死海文書の発見場所は1947年当時イギリス委任統治領であったが、現在ではヨルダン川西岸地区に属している。「二十世紀最大の考古学的発見」[1]ともいわれる。なお、広義に死海文書という場合、クムランだけでなく20世紀後半の調査によってマサダやエン・ゲディ近くのナハル・ヘベルの洞窟から見つかった文書断片なども含むので、文書数には幅が生じる。

死海文書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んでいて、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教の実情をうかがわせるものでもある。文書は大部分がヘブライ語で書かれており、二割ほどのアラム語文書と、ごくわずかなギリシア語文書およびアラム語の方言であるナバテア語の文書を含んでいる。多くは羊皮紙であるが、一部パピルスもある。文書の成立は内容および書体の分析と放射性炭素年代測定、質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間と考えられている。死海文書を記したグループ(以後、クムラン教団と呼ぶ)については、伝統的にエッセネ派と同定する意見が主流だが、エルサレムのサドカイ派の祭司たちが書いた、あるいは未知のユダヤ教内グループによって書かれたとする意見もある。
死海文書の内容は大きく分けて三つに分類することができる。第一は「ヘブライ語聖書(旧約聖書)正典本文」(全体の四割)、第二は「旧約聖書外典」と「偽典」とよばれる文書群(エノク書、ヨベル書、トビト記、シラ書などでユダヤ教の聖書正典としては受け入れられなかったもの、全体の三割)、第三に「宗団文書」と呼ばれるもので、クムラン教団の規則や儀式書、『戦いの書(英語版)』(1QM(オランダ語版)、1Q33、4Q285(オランダ語版)、11QSM)と呼ばれる書など(全体の三割)である。
委員会によるDJD(『ユダの荒野の発見物』叢書)は第一巻(1955年)、第二巻(1961年)、第三巻(1962年)、第四巻(1965年)、第五巻(1968年)と続けて出版され、第六巻(1977年)と第七巻(1982年)が思い出したように出版されたが、その作業は1960年代以降、遅々として進んでいなかった。その最大の理由は第一洞窟から発見された写本がほぼ完全な形を保っていた(ので公刊もスムーズに行われた)のに対し、それ以外の洞窟から発見された写本は(第11洞窟から出た『神殿の巻物』を唯一の例外として)ほとんどが膨大な量の断片であり、再構成にかかる時間が膨大なものであったことによる。(特に第四洞窟からは大量の文書が出たが、ほとんどが断片であったため、第四洞窟の文書の内容はなかなか明らかにされなかった。)またリーダーのド・ヴォーが「委員会による公刊まで写本の内容を明かさない」よう委員たちに求めたことが国際的な非難を受けることになった。
肝心の委員会の中からも不協和音が聞こえるようになる。1956年に委員のジョン・アレグロ(英語版)がBBCの放送で「銅の巻物」の内容に言及し、ヨルダン考古局と共同して『銅の巻物の宝物』という著作を1960年に委員会の許可を得ずに出版した。後にアレグロはこの「財宝」探索に乗り出す。さらにアレグロはソルボンヌ大学教授アンドレ・デュポン・ソメール(英語版) (André Dupont-Sommer) の感化を受けて「死海文書の内容がキリスト教の起源に関する重大な発見をもたらす」ものだと主張するようになる。1956年1月BBCのラジオ放送でアレグロは「死海文書の中に「義の教師なる人物がアレクサンドロス・ヤンナイオスによって捕らえられ、十字架にかけられ、弟子によっておろされ、その遺体が再臨の日まで守られること」が書かれており、これこそがキリスト教のルーツである」と述べ、大反響を巻き起こした。3月16日にド・ヴォーと委員会はタイムズ紙に反論を掲載、そのような記述が死海文書にはないことを明らかにした。後にアレグロ本人も「自分の推論」と認めている。アレグロは1970年にはユダヤ教やキリスト教が幻覚剤であるベニテングダケの効果によって生まれたことを述べた『聖なるきのこと十字架』を出版して以降、学者として認められなくなった。しかし、アレグロの主張はその後の死海文書をめぐる「カトリック教会の陰謀論」の原型として利用されることになる。
1991年にイギリスの作家マイケル・ベイジェント(英語版)とリチャード・リー(英語版)が『死海文書の謎(英語版)』(英語: The Dead Sea Scrolls Deception)を出版し、死海文書の出版が進まないのはカトリック教会(バチカン)の陰謀であると主張した。同書によれば委員長のド・ヴォーはバチカンから「写本の年代を紀元前二世紀として新約聖書の成立年代から極力離すこと」と「カトリック教会の教義をおびやかす内容がある場合、決して公表させないこと」という二つの指令を受けていたとしている。
「カトリック教会の陰謀」というテーマで一般受けした同書ではあるが、学術的にはまったく意味のないものである。オックスフォード大学の死海文書研究者ゲザ・ヴァーメシ (Geza Vermesh) は成立年代に関しては非カトリックの学者たちによっても広く認められていること、委員の中にはカトリック教会と無関係の者も多く、ド・ヴォーのそのような指示があったとしても従う義理のないものが多いこと、最終的にすべての写本の内容が公開されているが、キリスト教もユダヤ教もどちらに関してもその土台をゆるがすような記述は何もないことなどをあげて、まったくのナンセンスと論破している。ノートルダム大学の教授で死海文書の研究家ジェイムス・ヴァンダーカム (James VanderKam) もベイジェントとリーの著作について「死海文書のすべての巻物を利用することのできる今、誰もそこにキリスト教にダメージを与えたりするものや、バチカンが隠蔽しようとしたものを見出すことはできないでいる」と述べ、二人の陰謀説が「根も葉もない」もので、同書は「学問といかがわしさがこれほど奇怪に合体した書物を想像することは難しい」と切り捨てている。ベイジェントとリーは1982年にも『レンヌ・ル・シャトーの謎 (The Holy Blood and the Holy Grail)』を出版してカトリック教会の陰謀論を展開している。(同書は後に『ダヴィンチ・コード』の原案となった。)
死海文書の著者が誰であるかについては諸説あるが、現在に至るまでもっともよく知られ、広く支持されてきた学説は、死海文書の著者をクムラン教団の人々と考え、クムラン教団を古代ユダヤ教のグループであるエッセネ派の共同体とみなす説である。文書が発見された最初期においてエレアザル・スケーニクはすでにエッセネ派と死海文書を結びつけて考えていたし、ロラン・ド・ヴォーとヨゼフ・ミリクはクムラン遺跡の発掘によって「クムラン教団=エッセネ派=死海文書の書き手」という説に至った。この説によれば、クムランに拠っていたエッセネ派の共同体によって死海文書が記され、ユダヤ戦争時の紀元66~68年頃に戦火を避けるためにクムラン周辺の洞窟に隠されたとされる。クムラン遺跡では(1996年に見つかった二つの小さな陶片を例外として)一切の文書類が発見されていない。にもかかわらず「死海文書著者=クムランのエッセネ派」という説が支持されてきたのは以下のような理由による。
まず第一に死海文書の共同体規則に書かれた入門者の受け入れの儀式が、フラヴィウス・ヨセフスが著作(『ユダヤ戦記』2巻)の中で言及するエッセネ派の入門式との共通点が多かったことがある。さらに共同体規則にメンバーが財産を共有すると書かれていることもヨセフスの描くエッセネ派の特徴と合致している。
第二に、ヒルベト・クムラン遺跡の部屋から二つのインクつぼと低い机が発掘され、この場所で写本の作成が行われていた可能性が示されたことがある。ド・ヴォーはその部屋を「写字室」と呼んだ。さらに発掘によってユダヤ人の使う儀式用の大きな浴槽(ミクヴェー)が発見されたこともクムラン遺跡の住人がユダヤ人であったことの証左と考えられた。
第三に1世紀のローマの著述家大プリニウスも著作(『自然誌』5.73)において、死海の北西岸にエッセネ派の共同体があったと述べている。このように多くの傍証を挙げることができる「死海文書の著者=クムラン教団=エッセネ派」説だが、反論も多い。




以上、転載終了。次に、本書では『死海文書』に「義の教師」と呼ばれる「イエスの原型」ともとれる人物が登場してくることが紹介されており、「その「義の教師」の正体はヨハネではないか」と記されています。イエスとヨハネ及びエッセネ派に関する記述があるサイトがあったので、転載します。

http://yoshua.egoism.jp/kirisuto6.html
洗礼者ヨハネとの出会い

なぜイエスが救世主となったのか、を探るのがこのコンテンツです。
イエスが宗教に目覚める過程はこの謎を解くうえで大きなキーワードになるはずですので、飛ばすわけにはいきません。
しかし、イエスが宗教者として説教を説いてまわるまでの経緯は聖書には殆どでてきません。
なので想像を暴走させてイエスの青年期を探ります。

ガラリアからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。
彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。
「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへこられたのですか」
しかし、イエスはお答えになった。
「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」


     マタイによる福音書3章13-15節

聖書ではイエスとヨハネの接触が洗礼の画面から始まっているため、洗礼の場が二人の初対面のように感じてしまい ますが、実はイエスとヨハネには血縁関係があり、年齢もさほど離れていないので、知り合いであったと考える方が自然です。
聖書に書かれている二人の会話も、心が通じ合った者どうしの会話です。

*イエスとヨハネの関係*
イエスの母親マリアとヨハネの母親エリサベトが姉妹なので、イエスとヨハネは従兄弟同士です。
ヨハネの方が年長で、ヨハネはイエスに洗礼を授ける以前から多くの信奉者を集めていました。


民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないのかと、皆心の中で考えていた。         ルカによる福音書3章15節

と聖書にもあるとおり、ヨハネは救世主と間違われる位の人気者。もちろんイエスはまだ名も知られていない存在です。 ヨハネのような親族にいたら憧れを抱くのはもちろん、考え方、生き方まで影響されるのはごく自然なことでしょうね。

*エッセネ派とヨハネ教団*
洗礼者ヨハネはもちろんユダヤ教徒だったわけですが、古代ユダヤ教には幾つかの宗派が存在していました。
大多数は富裕階級からなる本流のサドカイ派、それよりやや大衆層のパリサイ派で占めましたが、ヨハネは第三の宗派、エッセネ派に属していたと言われています。
エッセネ派は男性のみで集団生活をし、禁欲を強い、私財を持たず、粗食で生活をする、という厳しい教義を持つ宗派であったとされています。

ヨハネが本当にエッセネ派だったのか、2000年も昔の真偽は分かりませんが、ヨハネが厳しい教義のもとに成長した、というのは彼の 自分ばかりではなく、他人にまで厳しい姿勢に示されているように思います。
洗礼を求めて集ってきた群衆を「蝮の子ら」と呼び、領主ヘロデへの諫言を恐れなかったヨハネ…
イエスは強く生きるヨハネに惹かれるように、自らもエッセネ派に加わったのではないでしょうか。


ヨハネは群集を集め、説教を行う活動的な宣教者でした。ところがエッセネ派は現代の修道僧のように、民と距離をおいて生活をする宗派です。―矛盾ですね。
ヨハネはある時点でエッセネ派から袂を分かち、自らの考えのもと行動をとるようになったのでしょう。
「ヨハネ教団」です。ヨハネがリーダー的な存在でなければ、領主ヘロデも彼の存在など放っておいたはずです。
ヨハネの独立にはもちろんイエスも伴います。

そしてイエスは30歳にして、ヨハネ教団の一員として、ヨハネから洗礼を授かるのです。

もう一度、冒頭のヨハネによる洗礼シーン(マタイによる福音書3章13-15節)を読み返してみてください。
洗礼者ヨハネはこの時、この神聖な瞬間、そばにいたイエスが自らよりも偉大な人物だと気付いたのではないでしょうか。

*ヨハネとの別れ*
この後、洗礼者ヨハネは「サロメ」の戯曲で有名なように、ヘロデ王に斬首されます。
この悲劇をイエスは後に弟子達から知らされています。
つまりヨハネが囚われの身となった時には、イエスは偉大な人物と認められ、弟子を持つまでのリーダー格となっているのです。
また、ヨハネは牢の中から弟子を通して、イエスに
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」
             マタイによる福音書10章3節
と問うています。
ヨハネはイエスが救世主であるのを意識しているのです。
イエスがヨハネに付き従ったままではこうはなりません。
ヨハネとイエスもまた、ある時点で袂を分かち、各々の道を歩んでいたのです。

イエスの生涯はごく短いです。
おそらくはヨハネがイエスに洗礼を与え、その瞬間イエスが自分よりも偉大なのだとヨハネが感じた瞬間、それが二人の別れとなったのでは ないでしょうか。

ヨハネは確かに救世主を預言した預言者であり、偉大な人の洗礼者でした。
しかし、ヨハネ自身はそうなったことをどの様に感じていたのでしょう。




以上、転載終了。次に、こちらのサイトからエッセネ派(クムラン宗団)を見てみます。



http://www.tane1q.com/jesus_muishiki.html
★エッセネ派
ここで、少しエッセネ派について説明をしましょう

エッセネ派とは、キリストが誕生した西暦紀元の数世紀のあいだに維持されていた、小集団であり、神秘的キリスト教という名のもと共同体として存続していたキリスト教初期のシリア派です。

エッセネ派は、哲学者や神秘家の小集団であり、又密儀参入者として、異教集団としても知られている人たちの群れでした。
エッセネという名は、「医師」を意味する古代シリア語に由来すると考えられています。
また、エッセネ派の起源はエジプトか東洋に由来するとされています。


エッセネ派の人々は、自分たちの存在の目的が、精神・魂・肉体上の病人を治すことにある、と考えていたようです。また、エッセネ派の人々は決して商人となったり、近代的な生活に入ることはなく、農業や羊を育てて羊毛を取ったり、陶器を製造したあり、大工の技術などによって、自活した生活を送っていたとされています。エッセネ派の象徴には、大工仕事に使う多くの道具が含まれていたため、霊的で哲学的な神殿を建設していたとも考えられています

キリスト教正典福音書や外典では、イエスの父であるヨセフは大工であり、陶器職人であったとも言われることから、イエスの良心であるヨセフとマリアは、エッセネ派の構成員であったと信じる人々もいるのです。

イエス・キリストを知らない人はほとんどいなくても、エッセネ派を知らない人は多いようです。
また、エッセネ派のひとたちはユダヤ人のなかでもより秀れた教育を受けることが出来る階級に属すると考えられました。

また、エッセネ派の人々は、グノーシス主義者たちと同様流出論者と呼ば
れます。
彼らの目的のひとつに、彼らの主義に基づいて霊的な秘密の鍵である「モーセの律法」を再解釈することがありました。エッセネ派は、聖書で約束されている「メシア(救い主)の到来」を待ち望む、カバラ主義者であるとも信じられています。


エッセネ派に属していたとされる、マリアとヨセフは、敬虔な信仰を持っていて、聖なる心を持った魂でした。

イスラエルのために働く「メシア」の到来を夢見ていたヨセフとマリアは、「神」に奉仕することを誓い、偉大な魂が到来するための肉体を用意するようにという、エッセネ派の大祭司の命令に従ったのです。

そのようにして、マリアは無垢の受胎によって身ごもり、イエスを生んだ
とされているのです。

この「無垢」という言葉は、超自然や不思議などというより「純潔さ」「聖さ」「純粋さ」を意味するものでした。
かくしてイエスは生まれたのです。

イエスは、エッセネ派によって育てられました。エッセネ派の階級が意味するように、イエスは教育を受け、後には「密儀」の深い思想にも通じるようになり、秘密の教えを習得したのだとも言われています。


このような説が正しいかどうかを判断することは、私には出来ません。
でも、イエスがエッセネ派によって育てられ、高尚な教育を受け、後に深い密議の思想に通じ、世の人に秘密の教えを伝授するために旅をしたという説を無視するには、あまりにも真理に反するように感じてしまうのです。





以上、転載終了。ここからが、私の本書及びイエス・キリスト教に関する感想です。
まずはじめに、デーヴィッド・アイクが語っているように、「イエスなる人物は、実際、存在していない架空の人物である可能性が高い」という説が水面下で広まっています。イエスに関する記述のみならず、聖書及びキリスト教自体が古代のエジプトやシュメール、バビロニアの宗教やミトラ教等の伝承・教義のまる写しであるからです。こういったことは以前から記事にしていましたが、皆さん自身でも、ちょっと調べられたら、驚くほどのキリスト教と古代宗教との類似性に気付かれることと思われます。
そういったことを踏まえた上で、本書及び『死海文書』、エッセネ派、ヨハネ、イエス、キリスト教について考えてみたいと思います。

まず本書に触れられていたように、バチカンは何故に『死海文書』の記述を隠そうとしてきたのでしょうか?
やはり、「義の教師」と呼ばれる「イエスの原型」ともとれる人物の存在を否定したいがためでしょうか?
私は、バチカンが隠蔽したかった理由は別にあると判断しています。
バチカンが本当に隠したかったのは、「義の教師」ではなく、先ほど述べたような「イエス及びキリスト教自体が古代宗教の模倣に過ぎない」という事実そのものなのではないのでしょうか。
私が思うに、「イエス及びヨハネは架空の人物ではなく、モデルとなる人物は実際には存在していたのではないか」と感じています。
「当時のローマ人が、ヨハネやイエスのモデルとなる人物と古代宗教の伝承・教義を重ね合わせて、「聖書・キリスト教」という「物語」を作り上げた」というのが真実なのではないでしょうか。
恐らく、ヨハネ及びイエスのモデルとなる人物はエッセネ派に属しており、パリサイ派と対立していたのだと思います。「義の教師」はヨハネである可能性が高いでしょう。ヨハネはイエスに洗礼を授けているのですから。「義の教師」の存在がヨハネであると知られてしまえば、ヨハネ及びエッセネ派の正体についても広く知られてしまう可能性が高くなります。
さらに言えば、イエス及びキリスト教の正体についても広く知られてしまう可能性が高くなるでしょう。これは、バチカンにとっては、一般のキリスト教徒及び外部の人間に絶対に知られては困る大問題なのです。『死海文書』の内容を知られてしまうと、「キリスト教自体が嘘八百である」ことが公にされてしまうことになるのです。これは、自分たちの存在意義に関わる大問題なのです。だから、バチカンは『死海文書』の内容を隠蔽し続けたのでしょう。

本書にも記されていましたし、最後に転載したブログ記事にもあるように、「エッセネ派の起源はエジプトにあり、哲学者や神秘家の小集団であり、又密儀参入者として、異教集団としても知られている人たちの群れだった」のでしょう。
はっきり言って、「エッセネ派の起源は、フリーメーソン、イルミナティの起源でもあった」のでしょう。
さらに言えば、「エッセネ派に属するイエス及びキリスト教の起源も、フリーメーソン、イルミナティの起源と同一である」ということになるのではないでしょうか・・・。
さらにさらに言えば、「キリスト教とイルミナティ、フリーメーソン勢力が敵対しているというのは嘘八百であり、実際は同一勢力によって成り立っている」ということになるのではないでしょうか・・・。
こんなことを一般のキリスト教徒及び外部の人間に知られてしまってはマズイでしょう・・・。
実質、イルミナティ、フリーメーソンが支配しているバチカンにとっては・・・。






評点:70点
ソウルマン
Posted byソウルマン

Comments 4

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ようのすけ

NoTitle

なんかチェ・ゲバラを殺した元ナチス親衛隊のバルビーを逃がしたのがカトリックの神父だそうよ。
バルビー本人が言っていて、本人のほうが何故私を逃がすんですか?とか聞いたらしい。
バルビーはメーソンだったみたい。
怖い、怖い・・。

2015/10/11 (Sun) 19:35

ソウルマン

Re: NoTitle

ようのすけさん

コメント有難うございます。


> なんかチェ・ゲバラを殺した元ナチス親衛隊のバルビーを逃がしたのがカトリックの神父だそうよ。
> バルビー本人が言っていて、本人のほうが何故私を逃がすんですか?とか聞いたらしい。
> バルビーはメーソンだったみたい。
> 怖い、怖い・・。

貴重な情報を有難うございます。
一般のキリスト教徒の方には許しがたい話でしょうね。
しかし、十分に納得できる話だと思います。
ナチス~アメリカ~バチカン~メーソン・イルミ、全部つながっていますからね。
ついでに言えば、マルクス・共産主義も「おともだち」ですね(笑)

2015/10/12 (Mon) 11:39

-

NoTitle

ヨハネは絶対架空の人物ではないです
ヨセフスが書き残してるし、当時そうとう著名な活動家だったはず
でもそのヨセフスのイエスの記事は改竄されてる可能性が高い
つまり・;・・・・

2016/05/04 (Wed) 01:02

ソウルマン

Re: NoTitle

> ヨハネは絶対架空の人物ではないです
> ヨセフスが書き残してるし、当時そうとう著名な活動家だったはず
> でもそのヨセフスのイエスの記事は改竄されてる可能性が高い
> つまり・;・・・・

コメントどーもです。

つまり、イエスが架空の人物とうことですかネ・・・

2016/05/04 (Wed) 22:49