2013年06月の記事 - 嘘八百のこの世界

嘘八百のこの世界

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ソウルマンの娘のマロンです。お散歩大好きです。 

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2013年06月の記事

シティの下部機関に過ぎない英国政府、英国議会、英国国王・女王

「まもなく日本が世界を救います ベン&龍10の緊急提言」
太田龍 ベンジャミン・フルフォード




2007年の書である。「陰謀」の世界では、小学校レベルのフルフォード氏と、博士レベルの太田氏では、そもそも「同じ土俵の上で対話する」ことに問題があると思うが、この時点では、「理解力の浅いフルフォード氏」に、太田氏は怒ることもなく暖かく見守るかのようなスタンスで、フルフォード氏の発言に耳を傾けていたのが微笑ましくさえ感じた。
以下、一部引用。



ベン
*竹中の側近だという自称“忍者”が、「あなたは信じないかもしれないけど、地震兵器をちらつかせて、日本の政治家を脅す手段している」と言っていた。日本の政治家が、イルミナティの計画案に従わないと、見せしめとして地震を起こすんだそうです。だから阪神大震災とか新潟の地震なども、そうかもしれない。
インドネシアの大津波は、テロ戦争に協力しないインドネシア政府に対する見せしめとして起こした人工津波だった。インドネシアはあそこの海峡を軍事演習のためにアメリカに使わせなかったんですが、津波が起きてから急にインドネシア政府の態度が変わったんですね。例の地震が起きる1カ月前に、小規模だけれどもちょうど同じパターンでちっちゃい津波があったんですよ。そうやって世界の政治家たちは脅されているようですよ。


*昭和天皇というのは、恥ずべきことに明治天皇以来のしきたりですが、英国王室から「ガーター騎士団」の団員として任命されているんです。ガーター勲章をありがたく英国からもらってるんですね。ガーター騎士団というのは全部で百数十人しかいない大英帝国の中枢的な秘密結社の一つです。
そのガーター騎士団の三分の二ぐらいは英国の主要な指導者たちで、残りの三分の一は大英帝国に貢献する外国の主要な指導者たちに、そのガーター勲章とガーター騎士団員の資格が与えられているんです。日露戦争以降、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、いまの今上天皇までずっと代々、みんな英国からガーター勲章をもらっている。明治天皇の場合には、ご本人はそんな勲章をありがたがりはされなかったので、わざわざ英国から王族が勲章を携えてきて明治天皇に授与しています。天皇のそういう側面を日本国民はまったく知らないけど、事実上は大英帝国の家来、臣下というふうになっているんです。
日本は厳しい経済制裁を受け、陸海軍は米英と戦争をするより日本の生き残る道はないと決断したが、昭和天皇は内心、開戦に絶対反対であったという嘘の話が敗戦後、日本国内外に意図的に宣伝されています。でも、もともと英国の家来ですからね、天皇はね。英国の方針~日英米開戦、敗戦亡国の策~に刃向かうということにもとより反対など出来るわけがない。むしろ、軍事のプロたる軍部首脳のほうが対米英戦には絶対反対だったのです。中国と戦いながら片手間に物量豊かなアメリカと交戦したら、百戦百敗は赤子でもわかる理屈ですからね。
そこで、中立ということになっているバチカンは、戦争中も東京に拠点があったんですが、刻々と国家の最高機密が、バチカン、それから国際金融機関のアジトのジュネーブですね、ジュネーブに日本の代表が常駐していたでしょ。そういうところを通じて国家の最高機密が、敵である米英の国家中枢部に、天皇の直接の指示で情報が漏らされている。


*もう一つ大事なことがあります。ローマの皇帝コンスタンティヌス一世(AD271~337)が、キリスト教を国教にした「ミラノ勅令」(AD313)がありますね。そして、そのあと、いまのトルコ領のニケアで主教三百人ぐらいを集めて公会議を開いた「ニケア公会議」(AD325年3月20日)があった。このニケアでキリスト教の公式教義は三位一体だということを決めました。それに反対するキリスト教徒は全部排除するというわけですが、ここからが問題です。同時に、そのニケア公会議でね、聖書から異星人に関する記述を、細部に至るまで体系的に徹底的に削除したのです。これはものすごく重要なのに、なぜかあまり知られていない。
他の星から来た、異星人、宇宙人ですね。それに関する記述がその当時までの聖書にはたくさんあった。それをなぜか全部削除したというんですね。それを日本人はほとんど知らない。知らされていない。
さらに史上稀に見るこんなとんでもない暴挙がなされたのです。ニケア公会議の六十年くらいあと、アレキサンドリアの大図書館をカトリック教会とローマ帝国が完全に破壊したんですよね。そのアレキサンドリア図書館には、十万年前とか非常に古い時代からの地球の歴史の書があった。それまでのとっても貴重な歴史関係の本がたくさんあったわけでしょ。それを完全に破壊したというんです。
日本人は西洋のそんな深い謎についてはまったく学校では教えられないし、そのことを言う人もいないし、何も知らないまま。これは明らかに、異星人の記録も記憶も抹殺しなければならない勢力が、ローマ時代にも存在していて、いまもそれが続いていて、日本にも影響を及ぼしている証ではないでしょうか。

ベン
*いちばん強烈、というか笑うしかなかったのはBBCの映像ですね。ユーチューブ(YouTube)の動画でも見られるんですけど、BBCのアナウンサーがビルを背にして立っているんですよ。で、後ろに貿易センタービルの七号館が見えるわけ。で、「ただいま入った情報によりますと、ソロモンブラザーズ・ビル(七号館)が崩壊しました」と速報を伝えるわけ。でも、後ろにはっきりとまだ建っているのが見えるんですよ。まだ崩れる十一分前に言っているんですよ。だから、もうすでに脚本を持っていたということ。それが最近の話では、説得力のある情報のナンバー・ワンですね、9.11関係では。


*シティというのは中世からテムズ川のほとりに出来た商業中心地ですけど、しかしそのシティがいまのような完全な姿になったのは、前にも言いましたが、オランダから王様が来てね、オランダの王様はフリーメーソンのこんきちですけど、そのオランダから来た王様がイングランド銀行に特許状、チャーターを与えたわけです。
イングランド銀行の株主はアムステルダムに盤踞(ばんきょ)するユダヤ国際金融資本家たちです。しかし、特許状を与える条件に、株主名は公表しないこと、としている。で、そのイングランド銀行に英国の通貨の発行独占権を与えて、英国政府はその自国の通貨をイングランド銀行から借りるんです。自国の通貨を外資である私企業にすぎないイングランド銀行から借りるんですよ。それがシティの始まりです。そういうわけで、株主の名前はその当時もいまに至るまでもまったく公表されていない。それから詳細な会計も。議会はそれに関与できないとされていますから、誰も知らないわけです。
このイングランド銀行そっくり、まったく同じシステムを1913年に米国の連邦準備制度によって、米国にまったく同じようなシステムを作ったんです。したがって、米国はそれ以降完全にロスチャイルドというか、大英帝国というか、シティの所有物ですよ。



*シティはイングランド銀行を含む主要な国際金融機関の中から、毎年十二人の理事を選ぶの。その理事がロードメイヤー、市長を選ぶ。その市長は任期一年間で、そのロードメイヤーがシティの元首ですね。シティというのは英国、ユナイテッド・キングダムの統治権の外にあるんです。
シティはまったくの治外法権なんです。ユナイテッド・キングダムの主権というのはシティにはまったく及ばない。英国の女王や国王はシティに入るときには市長の許可を得て入ることになっています。
そのシティが事実上、下部機関である英国政府、英国議会、英国国王・女王に対して命令を下すわけです。シティは英国の枢密院と英国の国王または女王を通じて自分の政策を実行させるのです。それはまったく陰で行なわれますから、英国人はもちろん、世界中の人はまったく知らない。そのシティがFRBの株式の大多数を握ってますからね。そのプロセスで、そういう構造で、シティがアメリカのFRB、アメリカのシステムまでも支配する、そういうメカニズムを持っているんです。



ロスチャイルドは、アメリカ独立革命のときに三百万ドル、その当時の三百万ドルというのは莫大な額だと思うんですね、その三百万ドルをハイム・サロモンというエージェントに持たせて、アメリカ独立革命軍に軍資金を援助しているんです。
一方で、イギリスの軍隊がアメリカで反乱軍、独立軍と戦争をする、その雇い兵をドイツのヘッセン選帝侯に出させてね。
それはロスチャイルドが背後で、そのヘッセン選帝侯の金融を差配する財務担当役みたいになっているわけです。他方では、ロスチャイルドはアメリカ独立革命軍に莫大な軍資金を援助して、独立戦争を支援している。戦う双方にファイトマネーをやる格闘技の興行師そのものです。


*FRBはイングランド銀行と同じで、民間の株式会社組織でね、そして民間の株式の絶対多数は欧米のロスチャイルド系の金融機関が握っているんです。したがって米国の通貨はロスチャイルドが支配しているわけですよ、1913年以降、今日も。それ以前は米国政府には負債というものは全然ないですからね。ところが1913年のFRB成立以降、アメリカの負債というものはものすごい勢いで増えるわけです。いまや莫大な、天文学的負債になっているでしょ。つまり、そういうふうにして1913年の時点でロスチャイルドは完全に米国の占領に成功したんですよ。
で、FRBと同時にFBI(連邦捜査局)も創設した。米国の国家の成り立ちの基本は各州の独立性を担保することでしょ。各州が最大限自治を実行するようなシステムになっているわけです。しかしFRBと同時にFBIをつくることによって、警察権のより大きな部分が各州から剥奪されることになったわけです。
同時に所得税ね。所得税も中央連邦政府が米国市民から直接税金を取ることは憲法上できないようなシステムになっているのに、内国歳入庁(IRS)というものも同時に作って所得税の徴収を始めるわけですよ。そいうふうにして、1913年の時点で米国は完全に独立国ではなくなっているんです。米国の主権はロスチャイルドの手にありますよ、1913年以降今日も。アメリカ国家の最低限の常識として、ここのところはしっかりと押さえておかなければいけない。


フォード政権のとき、キッシンジャーが大統領首席補佐官として国家安全保障会議を主宰していてね。その国家安全保障会議で「生物兵器を開発して、増えすぎた地球人口を削減する。これは米国の国益上必要なことだ」と公式に決定しているんですよ。さらにそのあと、民主党のカーター大統領(1977~1981年)のとき、ブレジンンスキーが大統領首席補佐官で国家安全保障会議を主宰して、それを公式のメモランダムとして、同じく決定したと。
だから事実上、キッシンジャーとブレジンスキーがホワイトハウスの中枢にいたときに、国家の基本的な政策として、生物兵器開発とそれを使った世界の人口大量削減がすでに決定されていた。とりわけ有色人種を標的とする生物兵器開発ですね。それは極秘の国家戦略ですが、一部は公表されていましてね。「エマージング・ウィルス、エイズ、エボラ」の著者があるレオナード・G・ホロヴィッツ博士などは、「SARS(新型肺炎)の犯人は米国で、米国が中国に仕掛けたある種のRMA(軍事革命的作戦行動)」だといってます。



(管理人)
改めて、太田氏の博識ぶりには驚かされる。「ニケア公会議で、聖書に記載されていた異星人の記述を削除された」というのは、デヴィッド・アイクからの情報だろうか?なにせ「嘘八百のこの世界」なのだから、こういった“一見怪しい情報”も真実であろうと感じる。

「シティが、英国政府、英国議会、英国国王・女王の上部機関である」というのも、驚愕の情報である。これは、「日本銀行が、日本政府、議会、天皇の上部機関である」と言っているようなものなのだから驚くしかない。そして、その株主は現在も非公開とのことであるが、これについては、日本銀行の株主も非公開であるので、英国同様、日本も民主主義どころか秘密主義国家であることには変わりないのだ。

また、「アメリカ独立革命の際、ロスチャイルドがアメリカとイギリスの両者を支援していた」とのことであるが、これは明治維新の際に、フリーメイソンを通して、幕府側にはフランスフリーメイソン、薩長側にはイギリスフリーメイソンとして、実質ロスチャイルドが支援していた構造と同じである。ロスチャイルドは、昔からこのようにして、自らの手を汚さずに、敵対する勢力を創り出し、そして両者を戦わせることによって両者を支配してきた。これが両対戦を含めて、彼らが演出してきた戦争の真実である。これと同様のことを今、「日本と中国や北朝鮮・韓国との戦争を、尖閣諸島や竹島問題を使って演出しようとしている」ことを、日本人は理解すべきである。

それにしても、太田氏が「ロックフェラーはロスチャイルドの傀儡である」と、根拠も例示して丁寧に教えているにもかかわらず、フルフォード氏は相変わらず、「ロックフェラーが最大の黒幕である」と言い続けているのには、「これでよく陰謀論で飯を食っておられるな」と、感じざるえない。
この対談の約一年後、太田氏はフルフォード氏を批判し始める。http://www.ohtaryu.jp/blog/2601-2700/j-1230812951.html
どうやら、フルフォード氏が、①デヴィッド・アイク氏を批判し②中国共産党を支持し③中国共産党が弾圧している法輪功がイルミナティのエージェントである と述べたことが、太田氏の見解と正反対であることから、逆に「フルフォード氏がイルミナティの走狗である」と、一方的に論じるようになったようである。誰よりも正義感の強い太田氏であるからこそ、フルフォード氏のこの発言は許せなかったのであろう。そして、この年(2009年)の5月に太田氏は逝去した。もちろん偶然だろうが、フルフォード氏の心境はどのようなものであろうか。「太田氏の意志を継いでいかなければならない」と、述べたそうであるが、本当にそう思っているならば、何故、法輪功についてあのようなことを述べたのか、その根拠を含めてフルフォード氏は弁明する必要があるだろう。指導者の李洪志(リーホンジー)がアメリカに移住しただけでは何の証拠にもならない。

最後に、この書には「ガーター騎士団の衣装に身をつつんだ大正天皇の写真」が掲載されていることを伝えておく。この写真を見るだけでも、この書を読む価値はあると思う。


評点:90点

殺すなかれという戒律はキリスト教徒だけに適用する

「イエズス会とキリシタン大名による日本人奴隷貿易の真実」


先日、紹介した「信長と十字架」におけて、「戦国時代に何故、キリシタン大名があんなに多くいたのか?」との疑問を提起したが、その理由を以下のようにまとめた。「イエズス会が、鉄砲の火薬の原料である硝石と引換えに、日本人女性を奴隷として海外に売り飛ばしていた事実があった。そして、その硝石欲しさのために、地方大名がイエズス会と懇意になって、自身の地位・武力・財力を手に入れるための手段として、実際に日本人女性を騙したり、拉致したりして、イエズス会に引き渡した。地方大名は、①イエズス会と懇意になるため。②キリスト教の美辞麗句を利用して日本人女性を騙すため。以上、2点の理由で“キリシタン大名”となった方が“商売”がやりやすかったため、戦国時代にキリシタン大名が多かった。」と、私は推察する。(②に関しては、全く私の推察である。)
学校や教科書が絶対教えない真実の日本史であろう。
昨日、「濃姫Ⅱ」が放送されていたが、当然のごとく、比叡山延暦寺の焼き打ちの場面でも、イエズス会のイの字も出てなかった。何も知らない一般人は、信長が、その無鉄砲な性質ゆえに、あのようなトンデモ事件を起こしたのだと思うのだろう。
イエズス会と日本人奴隷貿易及び、秀吉が何故バテレン追放を行ったのかをまとめたブログと、イエズス会とバチカン及びフリーメイソン・イルミナティとの関連を告発した動画を紹介する。
イエズス会と日本史の真実を理解し、家族・友人・知人に伝えて欲しい。



http://takao-sato.seesaa.net/article/275203897.html
「これから来る君へ」様より
■イエズス会の正体①
フリーメーソンに続いては、バチカンについてみていきたいと思います。
バチカンは、ローマ・カトリック教会と東方典礼のカトリック教会の中心地で、いわばカトリックの「総本山」です。
バチカンの統治者はローマ教皇であり、ローマ教皇庁によって統治されています。
バチカン市国の面積は0.44平方kmと、ほぼ東京ディズニーランドと同じくらいの世界最小国ですが、中国にも匹敵する10億人以上の信徒を全世界に有している一大勢力であり、また、信徒の中には国家元首クラスがたくさんいるので、その情報力および外交力そして影響力は世界でもトップクラスなのです。
『アメリカ ネオコン政権 最期の強敵
バチカン』によれば、そのようなバチカンの重要性を最も認識していたのは昭和天皇であり、太平洋戦争勃発のおよそ二ヶ月前に、当時の木戸幸一内大臣に「今度の戦争は避けられそうにないが、いよいよ戦争になった時は、どのように和平工作を進めるのか、今から考えておくように…。そのためにはバチカンと国交を結んでおくことは必要なことなので、すみやかにその手配をするように」と密命を与えたということです。
昭和天皇が誰よりも国際情勢に精通していたことをうかがい知ることができるエピソードではないでしょうか。
さて、そんなバチカンを支える強力組織がイエズス会*1です。
※イエズス会については『キリスト教は植民地支配の先兵だった』もご参照ください。
以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用です。
イギリスの歴史家ジョージ・サムソン卿は『日本-文化小史』の中で、あるスペイン船長の話を書いている。日本との取引交渉に難渋するスペイン船長に、日本人が「スペイン国王はどうしてこれだけの領土を支配できたのか」と質問した。その船長は簡単なことだ。原住民を改宗させるために宣教師を送り込む。改宗者が十分そろったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するようにしむける。そしてスペインが占領するのだと答えた。
1549年にキリスト教を伝えるため来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエルの隠れた使命も、日本の占領にあったのでしょうか?
小岸昭(京都大学教授)の『十字架とダビデの星』の中に、ザヴィエルが描かれている。
「旧キリスト教徒の高位聖職者たちは、マラーノを正しい信仰に背いた「呪われた者」としてマラーノ憎悪を煽り立てていた。大航海と植民の拡大政策による国家の経済的発展とともに、いちじるしく力をつけてきた信仰中間層を封じ込め、かつカトリック王国を宗教的に浄化する必要を痛感していたジョアン三世は、1536年、ついに異端審問所を開設するに至った。この時、火炙りの刑に震えおののいた改宗ユダヤ人のなかに、祖国を脱出し、新天地たる黄金のゴアに向かう者が少なくなかったのである。」
小岸はマラーノについて、「追放か洗礼かを迫る十五世紀末の『ユダヤ教徒追放令』により、キリスト教に改宗したイベリア半島のユダヤ人たち、表面上には〈十字架〉に帰依するように見せかけながらも、心の奥底で密かに〈ダビデの星〉を信じ続けた彼らは、異端審問所の執拗な追及に怯え、『マラーノ』(豚)と蔑まれながらやがて世界中に離散していく。ヨーロッパはもとより、ブラジル、インドへ…」と書いている。
ザヴィエルは、ポルトガル系のユダヤ人のマラーノである。ポルトガル系ユダヤ人は香辛料や金銀を求めて、世界的な貿易に乗り出していた。マラーノのザヴィエルは、イエズス会の会員にして貿易商人でもあった。
<中略>
『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』から彼の信仰と思想を見ることにしよう。
「神父が日本へ渡航するときには、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきてください。
もしも日本国王が私たちの信仰に帰依するようなことになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的な利益をもたらすであろうと神において信じているからです。
堺は非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金がたくさんありますので、この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思います。」(『書簡集』第93、ゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てて、1549年11月5日、鹿児島より)
それでは「書簡第九」を見てみよう。ザヴィエルが商人であることを知ることができる。
「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述べたように、堺の港に、ついた時、持ってきたのが少なければ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けができるからです。」
堺は十六世紀中葉、日本の商業の中心地であった。
ザヴィエルは1551年、堺に三万クロサド以上の財産がある商人たちは1000人以上いると推定した。
80バレルの胡椒は、インドで976クルサドの価であったが、日本に来ると三倍になった。
<中略>
「書簡第九十四」は、ヴァスコ・ダ・ガマの子のペトロ・ダ・シルヴァに宛てた手紙である。その手紙は次の文で終わる。
「もし、閣下が私を信頼してくださって、この地方に送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は「一」から「百」以上に増やすと断言します。」
 こうしてみるとザヴィエルはポルトガルの経済戦略の先兵隊員ではあったようです。
 そして、このザヴィエルが貿易の目玉としたのは、火薬の原料となる“硝石”でした。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。(二版では憲兵命令で削られた)
「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし。」
<中略>
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが天正少年使節団としてローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
「行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
 ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。」
(山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』)
キリシタン大名は、火薬一樽で50人を奴隷として差し出したとのことです。また、キリシタン大名は、硝石欲しさに仏像や寺社の破壊も行ないました。
イエズス会のバテレンのルイス・フロイスの『日本史』の記述を読むと、大友宗麟の姿が見えてくる。この『日本史』は、1583年の秋からフロイスが編集した日本におけるイエズス会の布教の歴史である。
大友宗麟が織田信長に鉄砲や火薬を仲介する商人の姿が書かれている。宗麟は貴族の久我晴通に、禁裏(天皇)へのバテレン優遇の奏上を依頼している。
信長が仏寺破壊を行なって、フロイスは祝意を表明している。バテレンは宗麟にも仏像・寺社破壊を奨励した。
 宗麟は1561年に宇佐八幡宮を焼いたのをはじめ、領内の仏像・寺社破壊をなした。1581年10月8日に、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いた。

 宗麟はヴァリニャーノに「このたびの勝利が、デウスの御業と司祭たちへの祈りの賜である」と伝えた。その報酬として、イエズス会は宗麟の武器援助の要請に応じた。
さて、次に鹿島曻の『昭和天皇の謎』の中の一文を紹介する。
「ポルトガルとオランダが諸大名に火薬を売りつけたために日本は戦国時代になった。信長のキリシタン擁護が腰砕けになったため、宣教師は明智光秀に新式火薬を渡して、信長殺しに成功するが、そのうち秀吉の鎖国政策を嫌った宣教師たちは朝鮮征伐には火薬を供給せず、そのために秀吉の外征は失敗に終わる。
しかし、このとき国内にいて火薬を温存させた徳川がのちに政権をとることができた。
 家康は火薬の流入が日本に戦乱を引き起こしたことを十分承知しており、鎖国の狙いはキリシタン禁制そのものでなく、火薬流入の禁止であった。」

鹿島曻は、明智光秀が織田信長を殺したとしていますが、八切止夫はイエズス会が火薬で信長を吹っ飛ばしたとしています。
☆八切止夫作品集は下記で読むことができます。
http://rekishi.info/library/yagiri/
何故、神の使者であるはずの彼らが、このような残虐行為をおこなえるのでしょう?
その答えは、次の逸話の中に集約させているように思います。
大航海時代の一時期、航海者たちはローマ法王に「異教徒は人間なのか」と問い合わせ続けた。法王の答えは一定していた。
「殺すなかれという戒律はキリスト教徒だけに適用する」
実に恐ろしきは“一神教”の偏狭さ也、ですね。
(つづく)
*1:イエズス会は、カトリックとしては二番目に大きな修道会。2万人の会員が112カ国で活動しています。ちなみに、一番大きな修道会は『ダ・ヴィンチ・コード』で有名となったオプス・デイです。
[コメント]
# kaihuuinternet
『昔々、ある日の新聞募集で幅1センチほどのそれに、八切止夫さんが求人で、電話したことがあった。ペンネームかともおもったが、それきりだった。「キリシタン大名」は、点訳講座が終了して、点訳奉仕で受講者が選べる本の中の一冊ではあった。でもそれ以上の参加はしなかった。戦後愛盲のタイプライターが普及の時期があり、現在はインターネットで彼らはパソコンやケータイのメールで全国的にサークル活動している。』
# noharra 『「ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人( マラーノ)」という記述も誤り。ザビエルはバスク貴族の家系で、マラーノではない。 ...」
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/
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■イエズス会の正体② 06:55
米国のプロテスタント派キリスト教徒エリック・ジョン・フエルプスの著書『バチカンの暗殺者たち』より引用します。
イエズス会の目的を想起せよ。彼らは極東、とりわけ日本の占領を企図した。まず最初に宣教師が来た。それから外国の軍隊がやってきた。
日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは“大名”と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。
しかし、神の子(イエス・キリストのこと)は、ひとりのプロテスタント派キリスト教徒の船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍家康はアダムスを助け出した。
家康は十分な時間をかけてこの船員アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。
そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。
その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。
将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。すなわち、
「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの“その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを合図とするローマの悪名高き陰謀システム”を意味する」
徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、
プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、“キリスト教”を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。
1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。
1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。
「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」
そして彼ら(イエズス会)の目標は何か?
イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。
 そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入城する希望をずっと以前から抱いていた。


イエズス会の正体③ 引き続き『バチカンの暗殺者たち』(エリック・ジョン・フエルプス著)より引用します。
(徳川将軍の切支丹禁止令の結果として)イエズス会は、日本からその後250年間追放された。
そしてその措置が日本民族に対して、技芸と、反映と、平和とをもたらした。
将軍は彼の家紋も、日本の国家民族も、そのことのために手ひどい仕返しをされるであろうとは、ほとんど予知することが出来なかった!
常時謀略が企てられ、永遠に報復が仕掛けられる。1854年、イエズス会はペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国させた。
その古き敵に対して復讐するために、イエズス会は外国勢力を使って、1868年の革命を作り出した。徳川将軍は“権力を不法に簒奪した者”という悪名を付けられ、辞職するように強制され、徳川将軍家は15代で終焉した。
将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。
1873年、キリスト教禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された!1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。
この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国(1895年)、ロシア(1905年)に対する戦争を起こさせた。

北京の満州王朝は1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをしたではないか。
1941年、日本人が報復を受けるべき時が来た。ローマのイエズス会は総長の監督下で、東京のロヨラの息子たち(イエズス会の兵士たち)は、米国と日本の間の戦争を作り出す。
フリーメーソン、シュライナー位階によるルーズベルト大統領が完全に承知している状況の中で、真珠湾は東条の日本艦隊によって爆撃される。

そして、それは全米国民に惨劇の嵐を巻き起こす。(米国)議会は、この謀略にうまうまと嵌められて、対日宣戦布告を議決する。
天皇は、彼の絶対君主制を失った。太古からの文化を保有する日本は破壊され、日本人は国家的敗北の結果、未曾有の屈辱を受けた。
そしてそれからイエズス会は、日本をハワイのように彼らのアメリカ帝国に併合し、その保護と繁栄が完璧にワシントンDCに従属する如き、社会主義的商業的植民地を造り出した。
親愛なる真実の探求者の皆さん。これこそまさに1868年から1990年に至る時期に生じたことである。
イエズス会は、明治天皇と彼の孫、昭和天皇を通じて日本の軍隊を思いのままに動かし、1911年満州王朝(清帝国)を廃絶せしめ、第二次世界大戦中、1945年まで『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』に述べられている如くに、中国人民を掠奪暴行し、大量に虐殺した。
それから1949年には、イエズス会は、彼らの支配する英国、アメリカ、ロシア帝国をして、中国の大異端審問官毛沢東を権力の座に就けた。
そして彼はイエズス会の指令にもとづき、“共産主義”の名の下に、彼自身の国の人民を五千万人、虐殺した。

冷たい戦争の勝利者となったイエズス会総長は、極東の絶対権力者の地位に就き、厖大な兵力を有する中国軍という強力な、新しい“教会の剣”を彼の手に持って登場した!
イエズス会総長の手の中に在るこの軍隊(中国軍)は、いずれの日か、(ローマ)法王の所有するアメリカ帝国によって先進技術を供与され、十二分な食糧支援を与えられて、日本、韓国(および北朝鮮)、台湾、マレーシア、武装解除されたオーストラリアを併合するであろう。










我々の金の絨毯をもらわなければ、爆撃の絨毯が襲ってくるぞ

「アメリカが隠し続ける金融危機の真実」
そして最後まで奪われる日本
ベンジャミン・フルフォード




2009年の書である。サブプライムローン問題の真相、アメリカ軍産複合体と金融資本家、ビルダーバーグ会議、エコノミック・ヒットマン、日本に仕掛けられたバブル崩壊、基軸通貨としてのドルの崩壊等、著者独自の視線での展開が著されている。
ここでは、「9.11同時多発“やらせ”テロ及び、アフガニスタン侵攻・イラク侵攻と軍産複合体の関わり」に絞って引用する。




*それは2001年のことだった。ブッシュ政権が成立したばかりにこの年1月、アメリカ連邦議会予算事務所によって発表された10年後の財政見通しは、5兆6000億ドルの「黒字」。その予算は前任のクリントン大統領が行った財政黒字化を、ブッシュ大統領も踏襲するという見通しに基づいたものだった。
だが3年後の同発表は、2兆3800億ドルの赤字に変わってしまう。その間に起こったのは、9.11に端を発する対テロ戦争だった。
この戦争資本主義を強力に支持したのが、アメリカを動かす軍産複合体だ。ブッシュ政権は戦費のために国債を発行し続け、まるでわざと国の財政を破綻に導いているかのように赤字を垂れ流し続けた。

この軍産複合体をひと言でいえば、戦争でひと儲けしようという思惑を持った軍需産業の大手企業や一部の金融資本家、アメリカによる世界支配を信奉する政治家、軍人などが一体となった勢力だ。
表に見えるのはロッキード・マーチン、ボーイング、ノースロップ・グラマン、レイセオン、そしてユナイテッド・ディフェンスといった軍需産業の大手企業だが、その裏には日本の天下りがかわいらしく思えるような黒い癒着の影が見えてくる。
たとえば、2期8年に渡ったブッシュ政権の高官30人以上が、以前は軍需産業の役員や株主だったという経歴の持ち主だ。これがどういった影響を及ぼすかというと、父ブッシュが名誉顧問を務め、ブッシュ政権の高官数名が役員を務める投資ファンド、カーライル・グループがある。このカーライルが、ブラッドレー戦闘車を製造するユナイテッド・ディフェンス社を97年に買収した。当時、多額の赤字に苦しんでいた同社だったが、ブッシュ政権発足直後の01年に米陸軍から新型自走砲の発注を受け、株式を上場。カーライルは上場初日だけで多額の売却益を得ている。
・・・・・(中略)・・・・・
実際、アルカイダのウサマ・ビン・ラディンはもともとCIAの工作員であり、ティム・オスマンというコードネームで呼ばれていた。91年の湾岸戦争の際には、ひそかにビン・ラディン率いる400人の部隊がイラク侵略のために用意されたという。
また、9.11のテロの前にもCIAとの接触があったとフランスのル・フィガロやイギリスのガーディアンなどの新聞が伝えている。報道によれば、ビン・ラディンは同時多発テロの2ヶ月前にドバイの病院に入院。そこでCIAの関係者と話をしていたという。その時すでに500万ドルの懸賞金がかけられていた人物と、CIAはそこで何を話し、そしてなぜ逮捕しなかったのか。


*90年代後半、天然ガスと原油の開発・生産において世界のエネルギー市場で大きな存在感を誇るアメリカの巨大石油資本ユノカルは、アフガニスタンのタリバン政権に接近していた。ユノカルの狙いは中央アジア、トルクメニスタンの豊富な天然ガスをアフガニスタン経由でインド洋に送るためのパイプラインの建設だった。
そして、この大掛かりなパイプラインの建設計画には、ブッシュ政権の副大統領であるチェイニーが00年までCEOを務めた企業、ハリバートンも深くかかわっていた。
ところが、タリバン政権はすでにアルゼンチンの石油会社ブリダスと契約を交わしていたため、交渉は難航。1回、2回と交渉を重ねるも進展はなく、3回目の交渉の席でユノカルは露骨な脅しに出たという。
「我々の金の絨毯をもらわなければ、爆撃の絨毯が襲ってくるぞ」と。
その後、9.11が発生。アメリカ政府とメディアはタリバン政権とオサマ・ビン・ラディンの関係をクローズアップしていき、テロ攻撃への報復としてアフガニスタン侵攻やむなしという雰囲気を作り上げていく。


*こうして01年10月に対テロ戦争が始まった。圧倒的な軍事力でタリバン政権を崩壊させたアメリカは北部同盟を後押しし、親米派のカルザイ政権を成立させた。
ところが、このハミード・カルザイ大統領はかつてユノカルの役員を務めた経歴があり、タリバン政権とのパイプラインの交渉にもひと役買っていた人物だった。当然、政権樹立後はユノカル主導のパイプライン建設を協力(引用者:強力の間違いだと思われる)に推進する立場を取っている。
しかも、ユノカルのコンサルタントであったアフガニスタン出身のアメリカ人、ザルメイ・カリルザドはカルザイ政権成立後にアメリカの在アフガニスタン大使に就任。ブッシュ政権の意向をカルザイ政権に伝える役回りを見事にこなし、イラク大使を経たあと、現在はアメリカ国連特命全権大使へとステップアップしている。

*イラク侵攻も、サダム・フセインがオサマ・ビン・ラディンとつながっており、大量破壊兵器を隠し持っているという嘘を理由にアメリカ軍が仕掛けた侵略戦争だった。ブッシュ政権の狙いが正義よりも世界第2位の埋蔵量を誇る石油資源にあったことは、もはや世界中の人が知っている。
事実、チェイニー副大統領が95年から00年までCEOを務めていたハリバートンは軍隊の食事の配給といった兵站業務を請け負っている他、戦争によって疲弊した油田、石油関連施設の再建などさまざまな復興支援事業に携わり、大きな利益を上げている。03年にはハリバートンと国防総省との契約高は前年比6倍に跳ね上がり、対テロ戦争前には危機的な状態にあった経営を立て直すことに成功した。




(管理人)
久々に著者の書を読んだ。もし、「陰謀学校教育」なるものが存在していたとしたら、著者の作品は、小学校レベルだろう。けっして厭味で言っているわけではないのだが、そういった情報に全く免疫の無い人が、いきなりデヴィド・アイクやジョン・コールマンの書を読むと、頭がわけがわからないパニック状態になってしまうのが予想されるので、フルフォード氏の書から読み始めたほうが、きっと理解できると思う。

内容は決して深くなく、“浅く、広く”「サブプライムローン問題の原因と実体」、「金本位制の停止と基軸通貨としてのドルの崩壊」、「FRBがどうやってアメリカ議会及びアメリカ国民を欺いて成立したか」、「リップルウッドはいかにして、ほとんどタダ同然の価格で長銀を乗っ取ったか」といったことが説明されている。私には、すでに理解していることばかりだったが、“復習”という意味では、役に立ったと思う。どうしても、“深みがないぶん”物足りなさが残ってしまうが・・・。

ただ疑問に感じたのは、「9.11を起こした勢力は軍産複合体であり、金融資本家は対極にある勢力だ」と述べている箇所である。私は、この両勢力は同一勢力であると思っている。軍需産業もマネーがなければ存在しえないわけであるし、ロスチャイルドをはじめとした金融財閥が、そういった軍需産業を支配しているのは間違いないはずだ。

最後に、最新のフルフォード氏の動画を紹介する。「原発再稼動をすべきだ」との主張には、フルフォード氏の知性を疑わざるを得ないが、「中国人の反日デモは偽装されたものである」、「東日本大震災は人工地震によってもたらされた」、「先般の自民党勝利の選挙は仕組まれた不正選挙である」、「竹中平蔵は売国奴である」との主張には、全く同意見である。
「ハシシタの例の従軍慰安婦に関する発言」については、どっちつかずのコメントをしていたが、私が思うには、ハシシタが自分の単独の考えで発言したとはとても思えない。イルミナティのご主人様の指示で発言したのだろう。しょせん、彼はイルミナティの走狗であり、操り人形に過ぎないのであるから。ただ、何の目的で言わされたかである。「TPP問題」や「自民党が強行しようとしている憲法改正の問題」に、国民が関心を示さないようにするためのカムフラージュか、「さらにアジアの対日感情を悪化させて、日本を戦争へと持って行くための布石」か。いずれにしても、彼らの考えることですから、良からぬことであることは間違いないでしょうナ。





評点:50点

世界中の人々に愛されいる 努力の天才シンガー RAY CHARLES

「ジャズ、ゴスペル、ブルース、ソウル、カントリー、ジャンルの垣根を飛び越えた
努力の天才シンガー RAY CHARLES」




今日は、レイ・チャールズの命日である。彼のライブは、一度だけ来日時に観た。オープニングで「ミスター レイ・チャールズ」と、MCの紹介で始まり、たどたどしく登場して、ピアノに座って歌いだしたのを覚えている。演奏時間もかなり短かかった(1時間もなかったと思われる)が、独特のオーラを放っていた印象がある。
それよりも、「Ray」という映画の印象の方が強い。特に、幼少時に、弟が熱湯の容器に誤って落ちてしまったのを目撃したにもかかわらず、助けることができずに、弟を死なせてしまったことがトラウマになっているシーンが印象的であった。後は、ジョージア州でのコンサートの際、黒人差別のため、白人と黒人の観客席が隔離されていることに対して抗議する黒人ファンの声に同意して、当日のコンサートをキャンセルしたシーンも印象的であった。その後、レイは、ジョージア州でコンサートが開催できないというペナルティを課せられるが、後年、ジョージア州がレイにそのことを詫び、あの有名な「我が心のジョージア」が、ジョージア州の州歌となるシーンには感動させられた。
レイは、七歳で失明し、若くして「失明しても生きていく勇気を教えてくれた」最愛の母親と死別し、差別・貧困とも戦いながら、そのたゆまぬ努力によって才能を開花し、「世界にレイ・チャールズ有り」と知らしめた本当の“天才シンガー”であった。
レイを偲んで、代表曲の動画と一部対訳(泉山真奈美さん)を紹介する。



I’ve Got A Woman

街の外れにいい娘ができたんだ
僕に優しくしてくれるよ、oh yeah
街の外れに住んでいる彼女ができたのさ
僕の好みにピッタリなんだ oh yeah
僕がスッカラカンの時には小遣いをくれるし
Yeah そんな彼女は僕の大事な相談相手でもあるのさ
街の外れにいい娘ができたんだ
僕の理想通りの女性さ、 oh yeah









What’d  I Say

Hey君に言っておくよ、僕を辛い目にあわせないと約束してくれ
さぁ、一晩中、君の愛するこの僕を可愛がっておくれよ
ベイビー、いいだろ、判ってくれたよな、hey hey hey yeah
僕が落ち込んでいる時は
ベイビー、会いに来てくれよ
いいぞ、yeah、ベイビー、その調子、その調子で、hey hey hey yeah
ダイヤの指輪をはめてる彼女をちゃんと知ってるのさ
男を虜にする踊りを彼女はちゃんと知ってるのさ
いいぞ、その調子、hey hey hey yeah

赤いドレスの女に注目しろよ
今流行のバードランドっていう踊りを一晩中
彼女は踊ってみせるはずさ
ベイビー、そうさ、いいだろう、hey hey hey yeah









Georgia On My Mind

ジョージア、ジョージアよ
懐かしくて甘やかな歌を聴いていると
一日中、ジョージアに思いを馳せてしまうよ
これはジョージアへの思いを綴った歌
今の僕はジョージアと共にあるよ
ジョージアに捧げる歌は
松の木々の間からこぼれる月明かりのように
やわらかくて澄み切っているんだ








Hard Times(No One Knows Better Than I)

僕の母さんが
息を引き取る前にこう言ったんだ
“よくお聞き、私が神様に召されたら
忘れずにお祈りするのよ”

“もっともっと辛い日々が待ってるんだからね”
神様、母さんは僕をそう諭したけど
僕以上に辛い経験をした人間が他にいるとでも言うのかい?
母さんが僕に言ったことが本当だったと
すぐに判ったよ
家賃が払えなくて、洋服を質草にした時
母さんの言葉が身に沁みて判ったんだ

これが母さんの言ってた“辛い日々”だったのか、ってね
神様、それにしても
僕ほど辛い日々を経験した人間はいないんじゃないかな?

いつ、どんな時でも
側にいてくれる彼女がいたんだ
なのに、僕が一文なしになったら
とっとと僕を捨てたのさ

これが母さんの言ってた“辛い日々”だったんだね
人生には辛い日々があるというけれど
Yeah、yeah、僕ほど身に沁みて感じた人間は他にいないよな?

神様、そのうちきっと
僕の悲しみが跡形もなく消える時が来ますよね
僕が神に召されたなら

もう辛い思いを
しなくて済むんだから
Yeah、yeah、僕以上に辛い経験をした人間が他にいると思う?












イエズス会から日本を救った秀吉

「信長と十字架」<天下布武>の真実を追う
第二部
立花京子



第一部は、信長とイエズス会・南欧勢力との関係、そして、それらを結びつける公家・武士勢力・大友宗麟や堺商人について記した箇所が中心となったが、第二部では、いよいよ、最大の関心事である「本能寺の変の黒幕」に迫っていく内容となる。
以下、引用開始。



*京都馬揃えは、華々しく行なわれた。
天覧にそなえたからには、主賓は当然、天皇であるべきである。だが実はそうではなく、主賓は、イエズス会巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノであった。
天正七年(1579)七月、口之津に上陸したヴァリニャーノは、有馬領、大村領を経て、翌八年八月には豊後府内に入り、大友宗麟のもとでミサを行い、臼杵に新設した修練院の開院式で講演したり、イエズス会の協議会を開くなど布教、視察活動を行なった後、フロイスらを伴って、九年二月四日に堺に向けて府内を船出した。その第一の目的は、京都およびその周辺での視察と、安土での協議会開催にあった。
・・・・・(中略)・・・・・
晴れがましき信長の姿をみて真に満足したのは、フロイスらイエズス会士を引きつれて、特設の桟敷に招待されていた、ヴァリニャーノであったろう。
信長は信長で、自己の保持する軍事力をスポンサーである彼らに披瀝できたことに、大きな喜びを感じたはずである。
このような形の馬揃えの行事は前例がなく、おそらく中世南欧における、王を歓待するための騎士のページェントを模倣した可能性が大である。
・・・・・(中略)・・・・・
信長がヴァリニャーノをそこまで接待しなければならなかった理由は、彼の巡察師としての職務と、前章で成立したとみなされる、あの新大命題を考えると明らかである。
「イエズス会のための仏教への鞭」であり、「イエズス会のために立ち上がった」武将であった信長は、イエズス会からの援助によって全国制覇を遂行していたからこそ、同会の布教状況を視察するヴァリニャーノに、全国制覇のそれまでの達成度を報告しなければならなかったのである。
京都馬揃えは、ヴァリニャーノへの全国制覇の事業報告の一つであった。それゆえに、ヴァリニャーノが訪れた天正九年(1581)にのみ行なわれたのである。

*勧修寺晴豊の日記の脱漏部分と判明した「天正十年夏記」の記述にしたがって、本能寺の変の経過をたどり、問題点を究明していくとしよう。
「天正十年夏記」には、天正十年(1582)六月二日の未明に、家来の袖岡越中(そでおかえっちゅう)により、光秀が本能寺に取りかかり焼き打ちにしていることを告げられ、誠仁親王のいる二条御所へと駆けつけたことや、運よく知り合いの光秀家臣井上という者に出会えて御所のなかに入ったこと、そこには織田信忠と村井貞勝父子がなだれこみ、親王の座所の場にいた貞勝に、親王と晴豊の妹「お阿茶々の局晴子」をはじめとした親王一家の脱出を掛けあった有様などが、生々しく記述されている。
・・・・・(中略)・・・・・
「天正十年夏記」の記述をよく読むと、不審な点がある。前述したように、信長への気がかり、驚き、光秀に対する怒りなどがまったくみられない。そればかりか、本能寺の変直後の大混乱の洛中にあって、近衛邸では酒宴が開かれていた。
本能寺の変から五日後の六月七日に、近衛前久は子息である信輔(のぶすけ)のもとへ出かけ、酒樽を進上し、そこに晴豊も加わり盃をもらっていた。十一日にも晴豊は、祖父で前権大納言の勧修寺尹豊(ただとよ)とともに東坊城家(ひがしぼうじょうけ)に出かけ、医師の半井通仙(なからいつうせん)、中納言烏丸光宣(からすまるみつのぶ)が集まり、酒宴が開かれて、参加者は大酒に浸っていた。
これらの公家たちの行動は、およそ信長の悲劇に哀悼の心をもっていたようにはみられない。むしろ、祝宴を開いていたとみなしてよい。


*本能寺の変の勃発によって危機を脱出し、変の直後に主犯者光秀の行為を祝い、さらに、その抵抗者との戦いに一体となる意志を表明した朝廷は、確信犯的に本能寺の変に関与していたととらえるべきであろう。
六月十七日に、光秀の片腕である斉藤内蔵助利三(としみつ)が堅田で捕縛されて、京中を車で引きまわされたとき、その光景をみた晴豊が日記に書いた言葉は、「彼などは信長打ちの談合の衆である」というものであった。
この言葉は、また不自然な感想ではなかろうか。通常、逃亡していた極悪犯人が逮捕されたなら、「あの悪事を働いた者が捕まった」という感慨をもつのが自然であろう。しかし、晴豊の脳裏のまず上った第一の感想は、利三が「信長打ちの談合の衆」という「談合の衆」、すなわち「信長打倒計画の一員」であったことである。
ということは、晴豊が利三とともに信長打倒計画を話しあった事実があったのであり、ここに親王と一部の公家と討伐者光秀からなる、信長打倒計画の存在を認めざるをえない。
「天皇の静謐」を実現するという、虚偽の「天下布武」をふりかざす信長の討伐を、朝廷は光秀に命じた、という経緯が浮かびあがってきた。

羽柴秀吉により、朝廷の信長打倒計画への関与が不問に付されたことは、実は朝廷にとって大きな代償を払う原因となるのであった。
その贖いは、意外にはやくやってきた。
坂本をめざす明智光秀を追って、六月十四日に秀吉と織田信孝が、京都南方の塔の森まで来たところ、伝奏の勧修寺晴豊と広橋兼勝が、雨と戦災の惨禍のなかに、正親町天皇、誠仁親王からの勅使として待っていた。彼らは、秀吉と信孝に太刀を手渡した。二人は「一段はやばやとかたしけない」と、馬から降りて拝領した。「天正十年夏記」に記してある一場面である。
勅使が秀吉と信孝に太刀を授与するというのは、きわめて異例な行為であった。
しかし、この朝廷側の行為によって、秀吉は、他の信長家臣を抜きんでて信孝と同等の地位に立ち、朝敵討伐者という認定を受けたのである。朝敵とは、もちろん光秀である。
つい七日前には、信長を朝敵として討った光秀は、この時点で瞬時に朝敵に転落したのだ。
このとき、父の敵として謀反人光秀を討つ正当性が十分にあった信孝には、光秀が朝敵と指定される必要はなかった。
通常の理解としては、秀吉が他の信長臣下を抜きんでたのは、六月二十七日の清洲会議で織田信忠の遺児三法師丸を抱えたときとされているが、それより十三日も前の、まだ光秀の安否がさだかでない時点で、それはすでに決定されていたのである。
それを可能としたのが、朝廷と光秀との一体化を隠蔽した秀吉に対して、朝廷が払った代償の成果であったことは明らかである。それ以外には、天皇と親王が、秀吉にこれほどの恩恵を施す理由はないであろう。
秀吉は、この後、天正十年(1582)十月に大徳寺で、勅命により信長葬儀を挙行した。
翌天正十一年五月、やはり太刀を下賜されて柴田勝家を朝敵に認定させ、勝家を討ち果たした。
さらに、天正十二年十一月の従三位権大納言への任官をはじめとして、天正十三年七月に関白、天正十四年十二月に太政大臣への任官を達成するというように、朝廷権威を最大限に利用して、秀吉は自己の権力を確立していった。

秀吉の中国大返しは、秀吉が事前に本能寺の変を察知していたからこそ可能であった、とみる見解が多い。毛利氏との和睦の成功もうまくできすぎている。
・・・・・(中略)・・・・・
天正九年(1581)四月、本能寺の変の計画が練られていた可能性の高い天の橋立での連歌会に参加していた津田宗及が、同年四、六、十二月に秀吉と会っていたことからも、秀吉が事前に変を察知する機会はあったといえる。
宗及が本能寺の変の仕掛けに関わっていたことは確かであろう。

*キリシタンといえば、高山右近について「日本史」5の叙述は、意外なことを述べている。本能寺の変当日、安土の教会にいたオルガンティーノが、右近の留守を守る高槻城の家臣に、明智光秀に味方しないように強く働きかけていた。
・・・・・(中略)・・・・・
ここで判明した点がいくつかある。オルガンティーノは変後に坂本城まで出かけて光秀の子息に会うほどに明智一族と親しかったこと、光秀はバテレンと右近が味方であることを疑わなかったこと、右近とその家臣は最初から光秀に反することを決めていたこと、バテレンが右近の家族と留守の部下が光秀と同一行動を取らぬようにはからったこと、である。
とすれば、光秀の誤算の原因には、バテレンの暗躍があったといえよう。
一方、右近が光秀とともに戦わないことをはやい時期に決めていたのを、バテレンが熟知していたのも不審である。

*前述のように、朝廷は本能寺の変に関与していながら、実力の点から真の黒幕にはなりえなかった。
天正九年(1581)四月からの津田宗及の活動と、羽柴秀吉の中国大返しの計画性から、秀吉が変を事前に了解していたことが推定できた。しかし、秀吉も変の全企画を立案したとみるには、その形跡が皆無に近いことから、無理がある。
これらの不審点を整合的に解決するには、イエズス会が信長の抹殺を計画して、朝廷をして明智光秀に信長討伐命令を下すように仕むけ、光秀に信長を討たせ、かつ秀吉に光秀を討つように準備させていた、とみないかぎり完結しないであろう。
イエズス会にとって、不適当となった信長に代わる「イエズス会のために立ち上がる武将」を決定したのが、本能寺の変であったといえる。
本能寺の変は、イエズス会にとって、首のすげかえであったに違いない。

・・・・・(中略)・・・・・
細川藤孝・吉田兼見・高山右近・津田宗及・楠長諳というイエズス会に密着し、かつ信長のブレーンと認められる面々がすぐさま秀吉に従属したという不審な行動の謎は、以上のイエズス会黒幕説ですべて説明が可能である




(管理人)
いやはや、恐れ入りました。よくぞここまで「信長と本能寺の変の真実」を解明してくれました。これだけの名著であるにもかかわらず、アマゾンの書評では評価の低いコメントが多い。イエズス会勢力の走狗か、学校教育の洗脳が相当ひどいのか、単なるバカなのか、いずれかであろう。ある程度の知性の持ち主であるならば、この書の秀逸性は理解できるはずである。
著者は東京教育大学理学修士(数学)とのことで、本来、戦国史は専門外であったようであり、この書を書いたのもほとんど独学のようで、ある程度年齢を重ねてから著したようである。本当に著者の努力には頭が下がる思いだが、逆に言うと、「歴史分野の権威と言われる先生方は、今まで何を調べていたのだ」と言いたい。あっ!すみません。「東大教授を始め、イルミナティの傀儡である大先生方の仕事は、<歴史を偽る>ことだ」ということを、すっかり忘れてました(笑)。

整理すると、信長を支援していたのはイエズス会・南欧勢力であり、鉄砲及び経済的支援を信長に与えることによって信長を操っていた、とのことである。延暦寺を始め、多数の寺社の破壊も、信長を通してイエズス会が指令していたのだ。
イエズス会と信長の間に入っていたのが、大友宗麟を中心とするキリシタン大名、津田宗及を中心とする堺商人、清原枝賢や細川藤孝を中心とするキリシタン公家・武将、といったところである。
そして、本能寺の変の計画に関わった人物は、上記に加えて、勧修寺晴豊や広橋兼勝や正親町天皇や誠仁親王といった朝廷勢力、そして、最大の利益受益者である秀吉である。明智光秀は利用されたに過ぎない。これらの人脈間を渡り歩き、実際に“工作”を行なった人物は、津田宗及であったと思われる。

イエズス会・南欧勢力が信長を見切った理由は、フロイスの「日本史」に、「信長は安土山に総見寺(そうけんじ)と称する寺院を建立し、寺院の一番高い所に盆山という石を神体として安置し、彼の誕生日に同寺と神体を礼拝しに来るように命じた。」とあるように、著者曰く「イエズス会の援助を受けて全国制覇にここまで成功したのに、独力で達成したかのように傲慢になり、イエズス会への服従を拒否するようになったので殺害した。」とのことだろう。

著書には触れられていないが、本能寺の変の計画に加わった人物として、私は来年のNHK大河ドラマの主人公である「黒田孝高(官兵衛)」が怪しいと思っている。
彼はキリシタン大名であり、秀吉が本能寺の変を知った時の傍にいた人物とされていること、秀吉は黒田孝高を家康以上に恐れていた、等の理由から、なんらかの形で変に関わっていたとしか思えない。
中国大返しにしても、柴田勝家が変を知ったのが五日後であったのだが、秀吉が知ったのは、なんと、変の翌日であったというのは話がうまく出来過ぎている、としか思えない。

ただ、私は秀吉のことはあまり悪く言いたくない。確かに、秀吉もイエズス会にかつぎだされて権力を握った可能性が高いと思うが、秀吉は後に、バテレン追放を行なっている。
秀吉は、イエズス会にはっきりと「ノー」と言ったのだ。そもそも学校教育では、秀吉が行なったバテレン追放を、一方的に秀吉に非があるとばかりの論調で、「キリシタン迫害」と教えているが、歴史捏造も程々にして欲しいものである。秀吉が、何故にバテレン追放を行なったかは教科書には記されていない。その真相は、「バテレンが、多数の神社仏閣を破壊し、人間の役に立つ牛や馬を食料にし、そして何万人という日本人を、奴隷として海外に売り飛ばしていることに対して、怒りを表明し、従わないバテレン及びキリシタン勢力に対して対抗措置を執った」ということなのだ。実際に、人身売買を執り行ったのは、大友宗麟らのキリシタン大名である。彼らは、その代償として硝石を手に入れ、武力と金品とその地位をつかんだ、最低の売国奴なのだ。
これが、イエズス会(実際はキリスト教の皮をかぶったユダヤ・カバラ教組織)から日本に伝わった「キリスト教」の真実である。

コロンブスから始まったスペイン・ポルトガルの白人勢力は、アメリカ大陸の先住民族であるインディオを、数年のうちに、その民族が滅ぼされるほどに殺しまくった。コロンブスの残虐行為からみると、ヒトラーのホロコーストなど、子供騙しといっても過言ではないだろう。
秀吉が間抜けな殿様で、イエズス会の言いなりで有り続けていたなら、「日本人という人種は絶滅していたかもしれない」というのは、決して、大袈裟な架空の話では無い。我々は、秀吉に感謝しなければならないのである。


評点:100点

イエズス会の傀儡であった信長

「信長と十字架」<天下布武>の真実を追う
第一部
立花京子



2004年の書である。この書を読むきっかけは、「何故、戦国時代にキリシタン大名があんなにたくさんいたのだろう?」との疑問を持ち、調べるうちに「キリシタン大名を操っていたイエズス会こそが、本能寺の変の黒幕である」と感じるようになり、「私と同様の結論を提示していると思われる」この書の存在を知り、強い関心を持ったからです。大作であるので、二編に分けて記す。
以下、引用開始。



*清原頼業(きよはらのよりなり)が頼朝の間接的ブレーンとみてよいことを確認したうえで、信長の場合に戻ることにしよう。
頼業を中興の祖と仰ぐ清原家は、その後、明経道の家として連綿とつづく。そして、信長より十五年前に生まれたのが、清原枝賢(しげかた)である。
・・・・・(中略)・・・・・
清原家は、中原家など他の明法家の衰微するなかで、一子相伝の伝統を守って、半ば独占的に、家業である儒学、法学、政治学の伝統を継いできたのであった。
とすると、源頼朝の「天下草創」概念と同一である、信長のスローガン「天下布武」を考案できるのは、枝賢をおいて他にいないことが推測される。
天下布武印の考案者は宗恩沢彦(そうおんたくげん)であるとして流布された伝説は、枝賢を表面に出しては都合の悪いことから起こった説と、私は考える。なぜ都合が悪いかは、枝賢がキリシタンであったからとみられるが、それについては後述することとしたい。

*ここで、清原枝賢と信長の間に立つ人物が必要となってこよう。
考えられるのは、清原枝賢の従弟にあたり、覚慶(義昭)を救出して信長を義昭供奉に誘いこんだ、あの細川藤孝しかいない。
藤孝は、枝賢の祖父である清原宣賢の娘を母とし、三淵晴員(みつぶちはるかず)を父として、信長と同年の天文三年(1534)に生まれた。実は、将軍足利義晴(よしはる)が実父であったとの説があるが、それは、「綿考輯録」でさまざまな記録類を挙げて主張されていることから事実とみることにしたい。
・・・・・(中略)・・・・・
その藤孝が、義輝横死の後は、覚慶救出に謀略をめぐらし、救出後は、信長の援助上洛の確約取りつけにも奔走して、ついには、義昭に供奉しての上洛まで成就させたのであった。
とすれば、信長の上洛を正当化させるスローガン作成に知恵を絞るのは当然であったし、そのために、近親者であり師匠でもあった枝賢の学問に頼ったことは、自然の成りゆきとみられる。
源頼朝の政策考案者の根源であった清原頼業の学問は、その血を受けた清原枝賢と細川藤孝によって、信長を媒体としてみごとに花開いた。
このように、「天下草創」から「天下布武」を誕生させたのは、清原家の血脈であったと考えることができる。


*永禄六年(1563)に来日した、ローマ・カトリックの一派イエズス会のルイス・フロイスが、同会の活動をまとめた「日本史」3によれば、比叡山の僧徒が、京都で布教の足場を築き定住のきざしをみせはじめたイエズス会と、バテレンのガスパル・ビレラの活動に恐れを抱いて、松永久秀にバテレン追放を迫った。
久秀は、無下に追放できないでいたが、その友人で文武に秀でている結城山城守忠正と、日ごろ古典を講義していた清原枝賢は、バテレンと数日間宗論を交わしたところ、二人とも聴聞したことを完全に理解したので、キリシタンになったという。
・・・・・(中略)・・・・・
この枝賢の人脈に連なる、細川藤孝の嫡子忠興(ただおき)は、後に、ローマ字の印をつくるほどに、キリシタン、バテレンに共感を抱くようになる。前述の枝賢娘の伊与局が、明智光秀の娘玉子(たまこ)を導き、「ガラシャ」という洗礼名によって受洗させた、熱心なキリシタン「マリア」であったことは有名である。

*イエズス会のバテレンと結託したポルトガル商人は、天文中期に、まず、大友宗麟を仲間に引き入れる。
天文末期には、宗麟は、鉄砲をはじめとする多額の献上品を介して足利義輝を援助して、その帰洛を実現させる。さらに、豊後府内に滞在するポルトガル商人は、堺の日本人商人と結びついて、宗麟の将軍支援を仲介する。
その功績により、宗麟は、周辺国の守護職を次々に手に入れて領国を拡大し、ポルトガル商人の貿易活動に貢献する。
京都周辺では、堺商人の協力により、イエズス会に共鳴する公家や武士、すなわち清原枝賢・吉田兼右・結城忠正があらわれる。潜在キリシタンの彼らは、永禄元年(1558)ころには、一つのグループを形成して、幕府権力の回復を試みる義輝を支援する。

これらの協力によって、永禄元年十一月に京都に戻り、地位を回復した義輝は、永禄二年六月から四年にかけて、長尾景虎その他の大名に鉄砲を与え、彼らの軍事行動を支援する。同時に、彼らに忠誠を誓わせて、幕府権威と権力の再興、および、強化をはかる。
そして、京都での布教の下地ができあがった、永禄二年十一月末に、バテレンのビレラが入京し、翌年の夏ごろに、義輝から布教許可を得て、京都での活動を開始する。
こうしてみると、帰洛を実現した義輝の背後で、南欧勢力に傾倒し深く結びついた宗麟の力が、いかに大きかったかがわかってくる。宗麟は、当時の日本政治の舞台廻し役であった。
ここで、「天下布武」の理念を形成した織田信長のブレーンは、宗麟と間接的に結びついたイエズス会協力者グループであった、とみなさざるをえない事態となった。

綸旨を否定したり、天皇の嘆願を無視したりする行為に加えて、“王法仏法は車の両輪”といわれ、朝廷と同位に位置づけられていた延暦寺を焼き払うことは、とりもなおさず、天皇権威の積極的な侵害に他ならない。
信長のキリシタン保護は、旧秩序の破壊と同一行動となっていたことを認識すべきである。
さらに、フロイスは、「(信長が)仏僧や神、仏の寺社に対して特別の権勢と異常な憎悪を抱いていたことは、彼の治世の間における行動が顕著に物語るとおりである」と記して、延暦寺をはじめとして東大寺、石山本願寺、天王寺、播磨の書写山、槙尾寺(まきのおでら)、上京の全寺社、住吉神社、堺と兵庫の諸寺院、近江の百済寺、伊勢と河内の一向宗、根来宗(ねごろしゅう)というように、信長による寺社攻撃を列記している。ここでの記述によれば、東大寺焼き打ちも信長の行為となっている。
また、別の箇所では、「デウスは、なんらキリシタンが策略を弄する(必要が)ないように、また(イエズス)会員(である我ら)が異教徒たちから恨まれることもないようにと、信長を仏僧たち(に対する)鞭に起用し、(彼をして)比叡山の大学を含めた多数の寺院を破壊せしめ給うた」とも記述している(「日本史」1)。
従来、比叡山焼き打ちをはじめとする寺社攻撃は、イエズス会の布教と連動した仏教弾圧としては認識されていなかった。


*大友宗麟へのバテレンからの武器供与は、史料的に明らかである。
天文二十一年(1552)八月十九日、豊後に到着したバテレンのバルタザール・ガーゴは、インド副王からの贈りものとして「非常に美しい武器、その他の進物」を携えて訪れ、宗麟に領内での布教許可を願った。(「日本史」6)
・・・・・(中略)・・・・・
また、宗麟は、永禄十年九月十五日付けで前述のカルネイロ司教に宛てて、「山口の国王、すなわち毛利元就に対して自分が勝利を博するためには、貴下の援助により、硝石の日本輸入は、自分以外の者にはいっさい禁止されたい」と要請する書簡を出している(「日本史」7)。
当時、火薬製造に欠くことのできない硝石の大部分は輸入に頼っていた。司教がその輸入独占の取りはからいを、宗麟から依頼されていたということは、イエズス会が貿易に関与していたばかりでなく、宗麟の軍事行動をも援助していた証拠となる。


*イエズス会から信長への武器援助があったという証拠は、現在のところ間接的事例がただ一例あるのみである。
洋暦1584年八月三十一日付け長崎発信イエズス会総長宛てのフロイス書簡写し(「Ⅲ-6」)によれば、天正十二年(1584)、羽柴秀吉が紀伊根来衆を攻める際、小西アゴスチイノ行長が率いた艦隊の船に、「豊後の国王が信長に贈った大砲一門」が、多数のモスケット銃とともに備えてあったという。
イエズス会司教を通して、インド総督に大砲贈与と硝石の独占輸入を要請しているほど、ポルトガル国とイエズス会と懇意な大友宗麟から、信長は大砲を贈られていた。つまり、信長は、間接的にイエズス会から武器援助を受けていたとみるべきである。

*信長は秀吉とともに、金銀を多量に所持し使用していたことが知られているが、両者とも南欧勢力から黄金の供給も受けていたのではないかと疑える。
堺の豪商、津田宗及(つだそうぎゅう)が、天正六年(1578)正月、安土城に信長を訪問したとき、ある一室で黄金一万枚を見たという話(「天王寺屋会記」6)がある。秀吉以前には、金山の採掘はそれほど進んでいなかったにもかかわらず、信長は家臣、死者などに再々黄金を与え、総計すれば、千四百枚を超えていた(「信長公記」)。
フロイスは、信長を日本でもっとも富んでいた人物と評した。その理由として、「多量に所有する金銀以外に、・・・・・インドの高価な品、シナの珍品、朝鮮および遠隔の地方からの美しい品々は、ほとんどすべて彼の掌中に帰したから」と述べている。
この言葉は、輸入品の独占により、信長が経済的に突出していたことを指摘している。せいぜい年貢米と賦課役銭を収入源とする通常の戦国大名では、全国制覇戦を支える軍事費は到底賄えないであろう。
その他、信長にとって、禁裏修理、義昭邸新築、安土城築城など大普請事業の費用も莫大であったはずである。しかし、「信長公記」には、バテレンからの黄金はおろか、援助らしきことは一切記述されていなかった。
それは、秘中の秘であったからと考えられる。「日本史」でも、前述のようにそれをほのめかす記事はあっても、明白に述べた箇所はみあたらない。しかし、信長の全国制覇戦の成功は、黄金の力がなければ達成しなかったし、南欧勢力も援助なしには、信長の協力を期待できないはずである。

信長を大友宗麟と連結させ、信長を全国制覇の舞台に押しだした担い手は、堺の豪商たちであった。
日比屋ディオゴ了珪(りょうけい)とその父親「クンド」と小西ジョウチン立佐が、初期バテレンの入京に協力したことを前述したが、後に今井宗久(そうきゅう)・千利休とともに信長の茶堂となって、その全国制覇活動に協力することになるのが、前述の天王寺屋津田宗及である。
宗及の叔父に、大友宗麟の御用商人となって豊後と堺を頻繁に往復していた天王寺屋道叱(どうしつ)がいた。宗及の茶会記録「天王寺屋会記」の記事をみると、宗及と道叱の、宗麟や豊後商人との動きがみてとれる。
・・・・・(中略)・・・・・
大友宗麟と信長とをつなぐパイプは、堺の日比屋一族と天王寺屋一族であった。
同じく堺の商人今井宗久は、豪商武野紹鷗(たけのじょうおう)の女婿として地歩を築いていた。信長が上洛した直後の永禄十一年十月二日に、信長に降伏した松永久秀とともに、摂津芥川城へ名物の茶器を持参して、信長に献上した。それ以後、堺衆を統率して鉄砲の製造をはじめ、信長に兵糧弾薬を供給した。永禄十二年八月に信長が制圧した但馬の生野銀山に代官を派遣し管理している。
鉄砲といえば、大友氏のもとに鉄砲鍛冶が仕えたのは、弘治二年(1556)のことであった。その後、大友氏は本格的鉄砲生産に入った。永禄七年に毛利軍をむかえ撃った大友軍は、千二百挺の鉄砲を備えていたという(福川一徳氏)。
宗麟は、当時の日本において鉄砲技術の大先覚者であり、豊後府内は、先端技術の拠点であった。
宗久は、当然、堺と豊後を往復する道?などを通じて、宗麟と交流があったであろう。
このような事実を総合すると、信長の登場は、堺商人やバテレンの支援者によって可能となったといえよう。
だからこそ、信長は、将軍足利義昭に堺を直轄地とすることを望み、矢銭をかけて反信長派の町人を服従させたとみてよい。


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