関裕二 - 嘘八百のこの世界

嘘八百のこの世界

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蘇我氏と蝦夷の間に良好な関係がなければ、「蝦夷」という名前を名付けるはずがないのだ。

「源氏と平家の誕生」関裕二


2012年の書である。以下、一部引用する。


*ここで、忘れてはならないのは、彼らが「天皇の末裔」だったということだ。もとは天皇の子やその子らが「臣籍降下」して、「源」や「平」を名乗るようになった。その事実を見失ってはならない。天皇の末裔というブランドは、中央貴族(藤原氏)には通用しなくとも、地方では十分に有効だったはずである。
第50代桓武天皇の時代、一世皇親(こうしん)(皇子(みこ)や皇女(ひめみこ))を臣籍降下させる政策が採用され、葛原親王(かつはらしんのう)の子(二世王)に「平」の姓が下賜(かし)された。これが、「桓武平氏」のおこりである。そこから派生した「伊勢平氏」出身の平清盛は、桓武天皇の末裔ということになる。
いっぽうの源氏は、第52代嵯峨天皇の子に「源」の姓が下賜されたのが最初で、これより「嵯峨源氏」が始まった。嵯峨源氏からは、多くの有力貴族が出ている。また、源頼朝、義経兄弟を排出する「河内源氏」は、「清和源氏」の一派である。つまりこの兄弟の「源」の姓は、第56代清和天皇の末裔であることを表している。

*東北で「アベ」は、高級ブランドだった。阿倍氏最盛期のころのヤマト朝廷は、蝦夷との間に蜜月時代を構築していく。その様子を、『日本書紀』の記事から抜粋してみよう。

皇極元年(642)9月21日、越のあたりの蝦夷が数千人、帰順してきた。同年10月12日、蝦夷を朝廷で饗応(きょうおう)した。同年10月15日、蘇我大臣(おおおみ)(蘇我蝦夷)は、蝦夷を自宅に招き、みずから慰問した。
・・・・・(中略)・・・・・

このように、7世紀前半の朝廷は、われわれの常識に反して、蝦夷とうまくやっていたのだ。『日本書紀』は、この時代蘇我氏が専横を極めていたというが、まさにその蘇我氏絶頂期に阿倍氏が勃興し、蝦夷が飛鳥を訪れ、「蘇我蝦夷」の館に招かれ、饗応されていたことは、無視できない。
そして、蘇我氏の衰退した斉明朝に入ると、ふたたび蝦夷と朝廷とが対立していたのは、偶然ではなさそうだ。
・・・・・(中略)・・・・・
中大兄皇子が蝦夷を敵視したのは、蘇我氏と東国が強く結ばれていたからだろう。蝦夷が野蛮人であるというのは、大きな間違いで、ただ前の為政者とつながっていたことで、排除されたのだった。

*天武天皇を起点にして古代の政局は、大きく入れ替わり、奈良時代、平安時代の歴史も、天武天皇の正体がわからなければ、理解できないからなのだ。しかも、蘇我氏と東国、天武と東国とが親しい間柄にあったことが、のちの朝廷と東国のとの関係にも、大いに影響を及ぼしていく。つまり、平氏や源氏と東国との関係も、天武天皇の時代まで遡らないと、本当の意味はわからない。
ならば、天武亡きあと、政局はどのように推移していったのだろう。
結論から述べておくならば、「親・蘇我派」だった政権が、天武天皇の崩御ののちには、「反・蘇我派=親・藤原派」の政権に、入れ替わってしまうのである。
ここに、朝廷と東国との関係を知るための、大きなヒントが隠されている。というのも、東北蝦夷征伐が本格化するのは、藤原政権が樹立されて以降のことだからだ。
関東の軍事力を恐れた藤原政権は、そのパワーをさらに辺境である東北に振り向けることによって、藤原政権に対する刃(は)をかわし、「夷をもって夷を制す」という狡猾な手段によって、すり減らしていこうと考えたのではないかと、疑っているのである。

*不思議でならないのは、平安時代の天皇家を盛り立てた「最大の功労者」が藤原氏であったのに、天皇家が、その恩を仇で返そうとしたことである。
奈良時代末期、光仁天皇と桓武天皇の親子は、藤原氏の力添えがなければ、絶対に即位できなかった。そして、桓武天皇の時代には、さっそく藤原氏は天皇家に女人を送り込み、両者は仲睦まじく手を取っていた。つまり、光仁天皇以下の天皇は、藤原氏に頭が上がらないはずであり、また、天皇家の身体は、藤原氏の遺伝子で染まっていくのである。それにもかかわらず、ふとした隙を見つけては、天皇は藤原氏から距離を置こうとしてきた。
ここに、源氏と平氏誕生の秘密も隠されているように思えてならない。彼らは、天皇家が用意した「天皇の分身」であり、「天皇のために働く、貴重な兵士たち」なのだ。そして、源氏と平氏が実力をつけたちょうどそのころ、藤原氏は没落している。この流れを偶然の一致と見すごすわけにはいかないのである。

*平安時代を通じて、天皇は藤原氏を恐れ、恨んでいたのではないか・・・・。
もちろん、当の天皇たちには、そういう自覚はなかったのかもしれない。けれども、深層心理に焼きつけられた「暗い思い出」が、藤原氏が外戚でなくなったとき、フラッシュバックし、また、藤原氏に対する潜在的な恐怖心が、源氏や平氏を頼る気持ちにつながっていったのではなかろうか。
源氏や平氏は、「鬼母(ひぼ)の出」だからこそ臣籍降下したが、平安時代の「鬼母(ひぼ)の出」とは、要するに「藤原主流の子ではない」ということである。母が皇女であっても、臣籍降下した氏族の出身であっても、藤原氏から出た母より「卑しい」というのである。何という傲慢なシステムなのだろうか。「藤原腹」の天皇が続くかぎりは、藤原氏は、天皇家に拮抗する権力を保持できた。
いずれにせよ、藤原氏とは縁の遠い源氏や平氏は量産されていった。彼らが勢力を拡大することを、天皇家は願いつづけていたにちがいない。そしてもちろん、藤原氏は、そんな源氏や平氏を都から遠ざけようと考えていたはずである。


*『大鏡(おおかがみ)』には、次のような逸話が残される。中臣鎌足が「藤原」の姓を天智天皇から賜ったときのこと、紀氏が述べた言葉だ。

「藤かかりぬる木は、かれぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなんずる」とぞのたまひけるに、まことにこそしかはべれ。

藤のとりついた木は枯れてしまうものだ。とすれば、紀(木)氏は衰亡するだろうといったが、本当にそのとおりだ、というのだ。まさに、藤原氏は大樹に寄生し、養分を吸い取る恐ろしい氏族である。




(管理人)
源氏と平氏については、正直言って、よく分かっていなかった。
ともに臣籍降下した天皇の末裔だったんですね。
大河ドラマ等では、「源氏と平家の対立」や「頼朝と義経の対立」のような話ばかりが報じられているが、「源氏と平家の誕生」に関してはほとんど触れない。

な~んだ。「源氏と平家は貴族ではない平民が力をつけて武士になった代表格である」かのような印象を持たされていたが、結局はこいつらも天皇権力のおかげで力を持つことができただけのことじゃないか。

清盛にしても、頼朝にしても、義経にしても、バックに天皇権力があったから歴史に名を残せたわけであり、それがなければ箸にも棒にもかけられなかっただろう。

このような人物を“さも歴史上の偉大な人物であるかのように紹介する”学校教育・歴史書・テレビ報道の類は、あの坂本龍馬等を英雄視した“創作ストーリー”である“嘘八百の明治維新物語”と同一の策略が感じられる。

やっぱりテレビが報じる歴史上の偉大な人物なんて嘘八百だ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

著者は、「源氏と平家の誕生」を探るために、ヤマト朝廷の時代に遡って検証している。
蘇我氏全盛の時代においては、朝廷と蝦夷は蜜月関係を築いていたとのことである。
なるほど、蘇我蝦夷という人物がいたが、名前そのものが「蝦夷」である。
蘇我蝦夷の存在は、当時の朝廷と蝦夷の蜜月関係の証明だろう。

蘇我氏と蝦夷の間に良好な関係がなければ、「蝦夷」という名前を名付けるはずがないのだ。

蘇我氏全盛期のヤマト朝廷と蝦夷の良好な関係は、大化改新(乙巳の変)によって敵対関係に変わってしまう。
著者は「中大兄皇子が蝦夷を敵視したのは、蘇我氏と東国が強く結ばれていたからだろう。蝦夷が野蛮人であるというのは、大きな間違いで、ただ前の為政者とつながっていたことで、排除されたのだった。」と記しているが、これは鋭い指摘である。
中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が起こした国家転覆クーデターである大化改新(乙巳の変)以降、自分たちにとって都合の悪い存在である蘇我氏や蝦夷を悪く言い、排除するようになったのは間違いないだろう。
著者は中臣鎌足を百済系であると判断しているが、私は百済系は中大兄皇子(天智天皇)であると判断しており、中臣の出身は分からないが、その後の藤原鎌足以降の藤原氏は中国系であると判断している。
蘇我氏は新羅系だと思われるが、蝦夷(土着の倭人・日本人)とは良好な関係を築いていたのだろう。

最後に、『大鏡(おおかがみ)』に記されている逸話には笑ってしまう。
藤原氏は、本当の悪人だったようですね。
「藤原氏は大樹に寄生し、養分を吸い取る恐ろしい氏族である」という文章から、皆さんは何を連想されるでしょうか?
説明不要ですよね。どうやら藤原氏は、単なる中国人勢力ではなさそうですね。
藤原鎌足の時代から、時代はいくど変われども、しっかりとその地位を守り続けているしたたかさ。この異常とも思える生命力のたくましさは、“人間離れ”しています。
著者は「天皇も藤原氏を恐れていたのでは」と記していますが、私もそのような気がします。

ひょっとしたら、藤原氏のルーツは「人間以外の生命体」だったのかもしれませんね。

天皇の末裔であったがために歴史に名を残せた源氏と平家だが、蘇我氏と親交のあった蝦夷由来の東国勢力を味方につけることができたのだから、少なくとも“得体のしれない寄生生命体のような”藤原氏よりは、“人間らしさ”が備わっていたのかもしれませんナ。


評点:80点






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神武東征の真相は?

「消された王権・物部氏の謎」オニの系譜から解く古代史 第三部(最終回)
関裕二


前回に続く。

*近年、「日本書紀」の不自然な記述から、藤原氏が成り上がりであったとする説が急浮上しつつある。そして私見は、藤原氏の祖・中臣鎌足を、乙巳の変の直前に来日し、白村江の戦いで行方不明となった百済王子。豊璋(ほうしょう)と同一人物と見ている。
その理由をいくつかあげてみよう。
まず第一に、鎌足の「日本書紀」での出現がきわめて唐突であるが、豊璋が人質として来日した時期と鎌足の活躍は時間的に重なっている。
そして第二に、この事実はあまり知られていないが、鎌足が歴史から忽然と姿をくらましている時期があって、これが豊璋の百済への帰国と重なっている点が怪しいのである。
それは白村江の戦いの直前、一度滅亡した百済が、復興のために豊璋をよび戻したときのこと、中臣鎌足は、天智王朝最大の危機、白村江の戦いに参戦することもなく、なぜか姿をくらましてしまったのである。
そして、百済が破れ、豊璋が行方不明になったところで、鎌足は忽然と天智の智将として再び姿を現すのである。
そして第三に、豊璋は帰国に際し、当時の日本の最高冠位・織冠(しょっかん)を授けられるが、やはり鎌足も大織冠を得ていて、しかも歴史上この冠位を得た者が二人だけであったことは、はたして偶然なのであろうか。
そして第四に、壬申の乱で大友皇子に加勢した亡命百済王族は天武王朝で冷遇されるが、不思議なことに、彼らの盛衰はこののち藤原不比等と同じ歩みを見せるのである。そして藤原一族を百済王家出身と考えることで、なぜ雄略的な姿勢を見せた天智を彼らが後押しし、逆に反天智、反独裁指向を示した蘇我氏を執拗につぶそうとしたのか、その理由が明らかになるはずである。
百済は、高句麗の南下、新羅の圧迫によって滅亡の危機に瀕していたのであり、彼らの日本での闘争は、祖国救済の命を賭けた目的があったとみなすことができる。さらに、反百済を貫いた蘇我氏や伽耶に“鬼”のレッテルを貼った意味も理解できるのである。

*ちなみに、蘇我入鹿滅亡に際し、最後まで蘇我を守ろうとしたことで知られる東漢(やまとのあや)氏は、壬申の乱に際し天武の武力として活躍しているが、彼らは鬼の国伽耶の小国・安耶(あや)出身と考えられる。彼らの本拠地もまた、飛鳥檜隅(ひのくま)から葛城にかけての地域であった。
さて、天武天皇は壬申の乱の直前、吉野に逃れるが、ここで天武を守った鬼が役小角(えんのおづぬ)とされている。この伝承が事実かどうか確かめるすべはないのだが、文武二年(698)に伊豆に流されてしまった役小角が、少なくとも天武天皇の時代には、朝廷から認められていたらしいことは、
初め小角、葛木山(かつらぎのやま)に住みて、呪術を以(もっ)て称(ほ)められる
と、「続日本紀」にあることで明らかであろう。役小角は持統の登場によって、危険視されていった可能性は高いのである。
役小角という修験道の祖が、いったい何者であったのかは定説となるものはない。しかし、葛城を根城に活躍していたこと
土着の賀茂氏と強い関係で結ばれていたことは確かであろう。この賀茂氏は、大物主神の末裔で、三輪氏と同族、物部氏の遠縁に当たっていることを忘れてはなるまい。

神・天皇は、そのじつ、大嘗祭や伊勢神宮、あるいは宮中で、鬼の主・大物主神や出雲神を最も重視していたのであり、国家の誕生日には、園(その)神、韓(から)神と称し、出雲の神、伽耶の神、双方の鬼を祀っていたからである。
鬼を祀る神、鬼には頭が上がらぬ神、それが天皇であることを、鬼どもは見抜き、だからこそ奉仕したと考えられるのである。
・・・・・(中略)・・・・・
相手は定住せず実体がないのだから、権力者にとってはじつに厄介な輩であり、彼らが天皇のみを主としていったために、権力者の王権簒奪の野望は、この闇の社会が抑止したのであろう。
もちろん、この闇の社会、裏の王権を形づくる担い手となったのは、八世紀に野に下った“モノ”の一族物部氏であった。そして物部氏が大豪族としてのかたちを失ったのちも、彼らが守り抜いた土着の精神、縄文からつづく太古の記憶は、日本人の遺伝子にすり込まれ、誇り高く、またしたたかな鬼どもを輩出していったのであろう。
こうして鬼たちの手によって、つぶされることのない王権は生まれたのである。そしてすでにふれたように、この王権のシステムは、“循環する王権システム”でもあった。すなわち、支配の建て前上のベクトルは、天皇→貴族(藤原氏)→良民(農耕民)→鬼(非農耕民)であり、鬼は最下層の被支配者でありながら、天皇という権威を守ることで、実際には闇、裏の世界からこの世を支配する者という逆説を生み出してしまったのである。



(管理人)
いやはや、実にユニークな視点で古代史を分析した良書であった。
通説では天皇家の皇祖神は伊勢神宮で祀られている天照大神であると言われている。
しかし、「大嘗祭という天皇即位の儀式及び宮中の儀式は天照大神が由来ではなく、物部氏の祖であるニギハヤヒから伝わるものであった」こと、そして「大嘗祭の本質はニギハヤヒを祀ることである」という驚くべき記述が書かれてあった。
以前紹介した関氏の書でも「天照大神の正体は男性神であり、日本書紀が天照大神を女性神であるように偽装工作をした」ということを記したが、今回の内容は「“鬼”の一族、物部氏と“神”の一族、天皇家が事実上、表裏一体である」とする明らかなスクープである。
ここまで偽造だらけの日本史であるならば、当然「神武天皇の東征」という話も疑わざるをえない。「神武はニギハヤヒを武力で制圧し、ヤマトを建国した」というのも当然嘘だろう。著者の言うとおり、「ニギハヤヒが神武を迎え入れ、王権を禅譲した」というのが正解ではないだろうか。そしてニギハヤヒは神武に王権を禅譲するために、義理の兄にあたる長髄彦を殺している。
これは一体どういうことだろうか?
著者の文面からも長髄彦は蝦夷(=縄文人=本来の土着の日本人)であると思われる。
ニギハヤヒは賀茂氏と繋がっていることからも、秦氏とも繋がっていると推察される。
ということはユダヤの系統であろう。
神武というのがよく分からないが、これまた東征とアレキサンダーの東方遠征の伝説が似かよっている話からも、ユダヤの系統ではないだろうか?
ということはですナ、あまりにも強引で申し訳ないですが、
ユダヤからやって来た(ユダヤ人)ニギハヤヒと神武が手を組んで、土着の日本人であった長髄彦及び日本原住民を武力制圧したのが事実ではないだろうか?
こんなことを言ったのは、後にも先にも私だけかもしれない。
真剣に調べたわけでもなく、思いつきで書いているので何の信憑性もないが、つきつめて考え込んだところで、歴史の真実などタイムマシンでその時代へ行かない限り、「絶対にこれが正解だ」などということは誰も言えるはずがないのだ。
この説でいくと、
1、 日ユ同祖論におけるユダヤと日本の神道の繋がり
2、 天皇家が今でも物部氏の祖であるニギハヤヒ由来の宮中儀式を大事に執り行っている理由
3、 さらに飛躍すれば、三輪山の大神神社が“蛇神”を祀っており、大嘗祭が“蛇の呪文”に彩られている理由
が解決してしまうのである。
どうやらこの世界の真相を理解するには、一つの側面ばかりに目を向けていてはいけないように感じる。古代史、日ユ同祖論、イルミの陰謀、レプティリアンに関する考察、
こういったノーマル・アブノーマルを飛び越えた多角的な視点を持たないと、古代史の真実は見えてこないだろう。
単なる仮説に過ぎないのに、さも古代史の真相を知ってしまったかのように語っている私も実にE度胸をしていると感じる。私のような思いつきとは違って、緻密な歴史考察を重ねられて、これだけ優れた書を書かれた著者に改めて拍手を送りたい。

評点:90点


(参考記事)
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-31.html
「聖徳太子は蘇我入鹿である」関裕二

http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-37.html
「天武天皇 隠された正体」関裕二





消された王権・物部氏の謎 オニの系譜から解く古代史 (PHP文庫)消された王権・物部氏の謎 オニの系譜から解く古代史 (PHP文庫)
(2014/01/24)
関 裕二

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天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが、大嘗祭の本質であった

「消された王権・物部氏の謎」オニの系譜から解く古代史 第二部
関裕二



前回に続く。

*吉野裕子氏は、「大嘗祭」(弘文堂)のなかで、大嘗祭が“蛇の呪文”に彩られていること、この信仰の原型が物部氏のものに似ていて、しかも物部氏が重用されていることについて、「物部氏の祭祀そのものが天皇家によって踏襲されたことも考えられる。この場合も、祖神の蛇の呪力を担うものとしての物部氏に対する記憶は、そのまま祭祀における物部氏の重用につながるのである」とされるが、残念ながら、これだけで大嘗祭と物部氏の関係のすべてを語ったことにはならないと思う。
というのも、天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが、大嘗祭の本質であった気配が濃厚だからである

*そもそも伊勢神宮は、皇祖神で女神の天照大神を祀る日本最高の神社と考えられてきた。その一方で、吉野裕子氏は、先述の「大嘗祭」のなかで、次のように述べている。
古くは伊勢神宮の祭神は蛇体の大祖先神で、天照大神はその神妻で大神を祀る最高の巫女であった。しかし時代が降るにつれて、祀るものから祀られるものに変身し、伊勢神宮の祭神となったのである
とされ、また、“伊勢”には天皇家進出以前の土着の男性太陽信仰があって、この祭祀形態を天皇家が踏襲したのではないかとする説が有力視されている。
この土着の男性の太陽神こそ、ニギハヤヒ(大物主神)であった可能性が高いと思われるのは、ニギハヤヒの正式な諡号(しごう)が“天照国照彦天火明櫛魂饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)”で、太陽神を意味する“天照”の二文字が冠せられていること、さらには吉野氏の指摘される“蛇体”の大祖先神がそのまま大物主神を祀る“三輪山”に当てはまるからである
大神神社の神が“蛇”であったことは、「日本書紀」雄略天皇七年の条にも明記されている。
そこには、三輪の神の姿を見たいと雄略が願い、三輪の“蛇”が捕らえられたという説話があり
今日でも大神神社には、蛇の好物の卵が供えられている。
先述の原田氏は、やはり神社伝承からニギハヤヒ(大物主神)は太陽神であったと考えておられるが、大物主神の祀られる三輪山が古代太陽信仰のメッカだったとする説が最近有力になりつつあり、日本の本来の太陽神は、どうも物部氏の祖・ニギハヤヒであったらしい。
こうして見てくると、伊勢神宮の心の御柱は、“陽”を象徴する柱、すなわちそれは男根や蛇であったことがわかる。そしてもちろん、隠された正体は、太陽神・大物主神であろう。
そこで大嘗祭で祀られる正体不明の神に視点を移せば、ここにも大物主神の亡霊が現れてくることに気づかれるはずだ。
大嘗祭のなかで天皇が神に食事を供し、みずからも食す秘儀は、神武天皇のとり行なった祭祀や伊勢神宮、心の御柱祭祀とまったく共通であり、正体を抹殺された神の名は、やはり大物主神であったことになる。
そして、天皇家最大の祭りの主祭神を公にできない理由があったとすれば、ここに、天皇家の“王”としての威厳、正統性を覆しかねない問題が潜んでいるからと考えられるのである。すなわちそれは、“ヤマト”という国の成り立ちの根幹にかかわる重大事であろう。
天皇家の祖神に屈服し国を譲り渡した出雲神、かたや神武天皇の威に圧倒され国を禅譲した物部氏、このような「日本書紀」の示した明確な図式でさえ疑わざるをえない。天皇家が“モノ(鬼)”どもを支配するどころか、実際には重視し祀っていたことと明らかに矛盾するからである。
すでに述べられたように、“モノ”は、鬼であると同時に神でもあった。この”モノ“の主・大物主神は、鬼の主であると同時に神の主であり事実天皇家はまるで震え上がるかのように出雲神を敬い、この伝統は天皇家の“裏”の祭祀として引き継がれていったのである。
とするならば、ヤマト朝廷成立=神武東征は、天皇家の一方的な侵略ではなく、この時点で、鬼(大物主神)と神(天皇家)の間には、「日本書紀」や通説では語られなかった、もっと違うかたちの関係が結ばれていたと考えられるのである。

*「古事記」の神話には、大物主神や事代主(ことしろぬし)神らが天皇家(天津神)に恭順の意を示すなか、ひとり建御名方(たけみなかた)のみが出雲国譲りに最後まで抵抗し、ついに出雲を追われ東国に逃れたと記録されている。
建御名方は信州諏訪まで落ち延び、二度とこの地を離れないことを条件に除名されたのである。
ちなみに、この神が諏訪大社の主祭神となって多大な信仰を集めたのは、中世武神としての性格を強めたことが大きな理由の一つだが、信州地方には、武神となる以前の古代の伝承が多く残されている。そしてこれらの伝承には、この神が開拓神、農業神、水難鎮護の神であったという共通のテーマが流れている。
すなわち、それまで手のつけられなかった湿地帯や湖であったところを干拓し、水田を広げ土着の人々と融合していったというのである。

「日本書紀」の記述に従えば、ニギハヤヒがヤマトの大王になるきっかけは、土着の首長・長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶ったことだったが、この長髄彦がそもそも蝦夷であったとする説がある。
たとえば「白鳥伝説」(集英社文庫)の谷川健一氏は、“すねが長い”という修辞語は、蝦夷特有のものであったと指摘する。八掬脛(やつかはぎ・八握り=約80センチのすねをもった人)という、やはり長いすねを表す修辞語が、土蜘蛛とよばれる夷狄(いてき)に対して使われているのは、先住民(縄文人)の手足が長いという身体的特徴を誇張した蔑称と考えられたのである。
実際、「日本書紀」のなかで、九州から東へ向かった神武天皇の一行が、ヤマトのまつろわぬ者どもをさして、“エミシ”とよんでいることからも、長髄彦が“蝦夷”ととらえられていたことは確かである。とするならば、物部氏は建御名方が東国へ逃亡する以前から、すでに蝦夷との関係をもち、しかも蝦夷たちの手で擁立されていたことになる。

*日本土着の縄文人は、弥生時代以降に流入した渡来人と比較すると、丸顔で手足が長く、体毛が濃いという身体的特徴をもっていたが、出雲神たちも、あたかも縄文的体質をもっていたかのように語られることが少なくなかった。
すなわち、出雲神には“八束鬚(やつかひげ)”という他には見られない独自の修辞語があって、これは体毛の濃かった縄文人の身体的特徴そのものとする説がある。ヤマトの蝦夷の首長・長髄彦が縄文人の体質“長いすね”を名として与えられたのとまったく同じ意味をもっていると考えられるのである。
また、他の拙著で繰り返し述べているように、出雲地方の方言が蝦夷の本拠地、東北地方と似かよっていること、出雲神たちが非農耕民の信仰を集める例が多いことなど、出雲や物部を縄文的とみなせる傍証は数多く存在するのである。




三輪山の神は、神武東征はおろか、出雲の国譲り以前にヤマトにいた

「消された王権・物部氏の謎」オニの系譜から解く古代史 第一部 関裕二



1998年の書である。「古事記」「日本書紀」で「鬼」と烙印を押された古代最大の豪族・物部氏と、「神」格化された天皇家との不思議な関係を手がかりに、その謎解きに挑んだ内容である。以下、一部引用する。複数回に分けて記す。


*天皇家の祭祀形態の不可解さは、祀る対象“出雲”がまつろわぬ鬼とみなされていたことにある。
出雲神が鬼であったことは、いくつかの例から割り出すことができる。
たとえば、出雲を代表する神の一人、大物主神は葦原醜男(あしはらしこお)ともよばれ、この二つの名のなかに、“鬼”を示す言葉が隠されている。
鬼が“オニ”と読まれるようになったのは平安朝以降で、それまでは鬼は“モノ”“シコ”といい習わされていた。したがって、大物主神の“モノ”、葦原醜男の“シコ”は、鬼そのものであった可能性が高いのである。
大和最大の聖地・三輪山の神は、蛇とも雷ともいわれ、大物主神と同体とされるが、雷といえば虎のパンツをはいて太鼓を打ち鳴らす典型的な鬼の姿を思い浮かべるように、古代、雷は祟りをもたらす鬼として恐れられていた。
したがって、三輪の雷神・大物主神は、鬼であったことになる。


*七世紀後半に誕生し、形だけは江戸時代まで残った律令制度は、基本的に土地の私有を認めず、すべての人民と土地は一度天皇家のもとに集められ、再度分配するというシステムであった。
この制度は誕生したとき、すでに破綻が生じ、荘園などの私有地が激増し、制度の理念は失われてゆくが、最大の土地保有者=時の権力者(平安時代は藤原氏)の私財で国家が運営された点や、土地に定着した農耕民から税を吸いとり国家の骨組みをつくるという点では、江戸時代へと通じる社会制度となっていった。
したがって、この枠組みのなかで最も下層に位置するのは、土地に定着せず遍歴漂泊し、私有を知らず、私的隷属を嫌った芸能民、勧進(かんじん・物乞い)、遊女、あるいは鋳物師(いものし)、木地屋(盆や椀を作る人)、薬売りなどの商工民、職人などといった非農耕民なのであった。そして、これらの人々が“無縁”の人々なのである。
すなわち、農耕民でもなく定着民でもない彼らは、農耕民を中心として回る社会から絶縁していたのであり、さらには律令という枠にとらわれることのない人々なのであった。

権力者にとって、このような漂白の民はじつに厄介な人々であった。主をもたず、流浪する彼らに税を強要することが困難だったからである。しかも彼らのしたたかさは、俗世間を嘲笑うかのように、天皇家との強い関係を維持していたことにある。
彼らは通行の自由、税や諸役(えき)の免除、私的隷属からの解放という特権を天皇から引き出させ、さらに神社や天皇に供御(くご・飲食物等)を献ずる“特権”までもっていたのである。
被支配者であり、支配システムの最下層に位置する“無縁”の人々が、なぜ頂点にある“天皇”と直接つながっていったのであろうか。
その理由は、天皇が律令のなかで、律令の枠からはずされて特別の存在であったことと無関係ではなさそうなのだ。天皇は税をとられず、世のあらゆる罪と罰を免れた。すなわち、“律令”という法体系のもとで、天皇と無縁の人々はまったく同様の処遇を受けていたことになる。

つまり、彼らは法律上人間扱いを受けず、そういう意味でどちらも表の社会から忌避された人々なのであった。したがって彼らは裏側の社会で結びつき、独自の闇の世界を構築していった気配が強いのである。

“鬼”と“無縁”、どちらも天皇をめぐる同一の法則によって日本の歴史の裏側を支配し、うごめいていた可能性が出てくるばかりか、なぜ天皇家がつぶされることなくいままでつづいたのか、という問いに対する一つの答えであるように思えるからである。
権力者がいかに天皇家をけむたく思っても、この神の一族の背後には、“無縁”の人々というとらえどころのない鬼、闇の勢力が控えていたのである。
したがって、天皇をつぶすにはまず裏社会を壊滅させる必要があり、となれば、目に見えぬ敵を相手にするような事態に陥り、収拾のつかない羽目に陥るのは必定(ひつじょう)であった(ちなみに、この闇の社会を本気でつぶしにかかった人物は、歴史上、織田信長ひとりと考えられる。ただ多大の犠牲を払いながら、野望は完璧になし遂げられたわけではない)。
逆に被支配者“無縁”の人々から見れば、みずからの自由な活動が“天皇”という権威を根拠にしているのだから、彼らにとって“天皇”はかけがえのない存在なのであった。
したがって、彼らがすすんで天皇をつぶそうなどと考えるはずがなく、日本に市民革命という一神教的で独善的な“正義”がなかったのは、あるいはこのような経緯が背景にあったからかもしれない。

*ここで子どもじみた問いかけが許されるならば、そもそも出雲地方の神々が、なぜヤマトの地で大きな顔をしていられるのかという疑問が浮かぶのである。しかも彼らは、天皇家よりも先にヤマトに来ていたという。
・・・・・(中略)・・・・・
ところが、ヤマトの出雲神の本拠地ともいうべき三輪山周辺には、このような証言をくつがえすような伝承が残っている。それは、
三輪山の神が天皇家よりも先
だというのである。だからこそ、地元の人々はいまだに三輪山の神を最も重視している
・・・・・(中略)・・・・・
「日本書紀」神代上第八段一書第六には、出雲建国中の大己貴神(おおむちのかみ・大国主神)に起きた珍事として、次のような伝承を残している。

大己貴神が出雲をめぐっているとき、海に怪しげな光が照ったかと思うと、忽然と浮かび上がる者がいて、大己貴神に向かって、
「もし私がいなければ、おまえは国を平らぐことはできまい。私がいるからこそ、大きな国をつくることができるのだ」
というので、
「それではおまえはだれだ」
と問うと、
「吾(あ)は汝の幸魂奇魂(さきたまくしだま)である。」
と答える。すると大己貴神は、
「そのとおりです。あなたは私の幸魂奇魂です。いまどこに住みたいと思いますか」
と尋ねた。
「吾はヤマトの三輪山に住みたい」
というので、ヤマトに宮を建てて住まわしたが、この神こそ、いまいう大三輪の神であったという。


これが三輪山の神の祀られる経緯を描いた神話なのである。この証言を素直に信じるならば、三輪山の神は、神武東征はおろか、出雲の国譲り以前にヤマトにいたことになる。
それだけではない。崇神天皇8年12月の条には、やはり天皇家よりも三輪が先であったことが暴露されている。大物主神を祀る三輪の地から神酒が天皇に献上されたときの歌として、次の一首がある。

此の神酒は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久 幾久

<現代訳>此の神酒は私の神酒ではない。倭の国を造成された大物主神がお作りになった神酒である。幾世までも久しく栄えよ栄えよ。(日本古典文学大系「日本書紀、・上」岩波書店)

ここで注目していただきたいのは、“ヤマト成す”である。「日本書紀」の神話に従えば、出雲神がつくった国を、けっしてヤマトとはよんでいなかった。それはたんに“国”であったり“出雲国”あるいは“葦原中国(あしはらのなかつくに)”なのである。ところが、この歌のなかで大物主神は“ヤマトを建国”したと称えられ、先の神話のなかで、大物主神の幸魂奇魂は、出雲国からヤマトへ移住したと記されていたことと符合するのである。
ここで思い出されるのが、神武天皇の正妃のことなのである。
「日本書紀」は、ヤマトを征服した神武天皇が、なぜか出雲の神の娘を娶ったと証言している。その記述があまりに唐突で荒唐無稽だったために、これまでほとんど顧みられなかったが、もし“出雲”が天皇家よりも先にヤマトにいたのならば、“神話”は一転、史実であった可能性を帯びてくるのではあるまいか。土着の首長から女人をもらうことで王権を安定させることは、よくあることだからである。

*そこで「日本書紀」を読み返すと、興味深い証言が残されていたことに気づく。神武東征以前、ヤマトの地にはすでに天皇家とは別の王権が確立されていたというのである。
「日本書紀」の記述によれば、神武天皇が九州の地から東征するに際し、すでにヤマトにはニギハヤヒなる人物が降り立っていて、王として君臨していたと明記されている。
それでは、ニギハヤヒは出雲と何かしらの関係をもっていたのだろうか。しばらく、ニギハヤヒと神武東征の経緯に注目してみたい。
さて、ニギハヤヒはヤマト土着の首長。長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶ることでヤマトに融合し、武力を使わずに王権を手に入れたらしい。ところが、せっかくヤマトを建国したニギハヤヒは、神武天皇が東征して来ると、これを迎え入れる姿勢を見せるのである。ただ、ヤマト土着の長髄彦が神武のヤマト入りを拒絶し、徹底抗戦に出たため、神武天皇はあっけなく敗れ、紀伊半島を大きく迂回し、熊野方面からのヤマト入りへと作戦を変更せざるをえない状況に追い込まれたのだった。
そこでニギハヤヒ(子のウマシマチともいわれる)はやむなく長髄彦を殺し、神武受け入れのかたちを整えたというのである。
このように、神武天皇のヤマト入り=ヤマト朝廷の成立は、ニギハヤヒの活躍なしには考えられなかったわけだが、「日本書紀」は、このニギハヤヒが物部氏の祖であることを伝えている。七世紀、蘇我氏との間に宗教戦争をひき起こしたあの物部氏である。
「日本書紀」はこの一族が天津神であって、天皇家と遠い縁で結ばれていたとほのめかすが、不思議なのは、彼らが“神”の一族ではなく、逆に“鬼”の一族だったことにある。

*ここであらためて述べておかなくてはならないのは、“モノノベ”の“モノ”が、古代、“神と鬼”双方を表していたことである。
これは多神教・アニミズムからの流れであり、神は宇宙そのものという発想から導き出された宗教観でもあった。神は人に恵みをもたらす一方で、時に怒り、災害をもたらす。
このような神の両面性を、神道では和魂、荒魂とも表現するが、つまるところ、これは神と鬼なのである。そして、物部氏は“神(モノ)”“鬼(モノ)”双方をあわせもった一族であり、神道の中心に位置していたと考えられる。

このあたりの事情は、物部氏の伝承「先代旧事本紀」にも如実に表れている。
それによると、神武天皇即位に際し、ニギハヤヒの子ウマシマチは、ニギハヤヒから伝わる神宝を献上し、神楯(かむたて)を立てて祝い、さらに、新木(あらき)なども立て、“大神”を宮中に崇め祀ったとある。そして、即位、賀正、建都、踐祚(せんそ)などといった宮中の重要な儀式は、このときに定まった、というのである。
ここで注目されるのは、神道と切っても切れない関係にあった天皇家の多くの儀式が、ウマシマチを中心に定められたということである。そして、これよりも重要なのは、ウマシマチが神武天皇の即位に際し、宮中に祀ったという“大神”の正体にある。
常識で考えれば、この神は皇祖神・天照大神ということになろう。ところが、ヤマトの地で“大神”といえば、三輪山に祀られる大物主神をおいてほかには考えられないのである。“大神”のおわします大神神社は、オオミワと読み大物主神を祀る。

それでは、なぜ、物部系の史書「先代旧事本紀」は、宮中で祀られる大物主神の本名を記さず、あえて“大神”と称したのかといえば、それは歴史の敗者としてのぎりぎりの選択であったろう。
ヤマト朝廷成立直後、宮中に皇祖神ではなく出雲神を祀っていたことを、「日本書紀」は必死に秘匿し、この真相を漏らそうとする者は許されなかったにちがいない。天皇家の正統性が失われかねない重大事だからである。




スサノオ、ニギハヤヒ、物部氏、聖徳太子、天武天皇の関連性

「天武天皇 隠された正体」関裕二


1991年の書である。前回取り上げた「聖徳太子は蘇我入鹿である」の続編である。
「古代史に燦然とその姿を登場させた天智天皇と天武天皇~両雄の骨肉の争いは、やがて壬申の乱へと進んでいく。この争乱によって、天智の弟とされる天武は、天智の子・大友皇子と皇位継承をめぐって争い、最終的に天智王朝を奪ったとされている。だが、近年、壬申の乱や天武の実像について、数々の疑問が投げかけられはじめた。そこで、壬申の乱に登場する人々の足跡をあらためて追い直したところ、天武と蘇我一族が、意外な事実関係で結びついていることに気づいたのである。さらにこの乱を追求していく過程で、通説とは異なる天武の実像が浮上してきた。天武本人の編纂とされてきた「日本書紀」にすら明記されなかった天武の前半生が、はっきりとつかめたのである。」とのことで、壬申の乱及び、天武天皇の真相に迫っている。以下、一部引用する。



*大和王朝の初代天皇は、天照大神(以下アマテラス)を皇祖とする神武天皇であった。九州の日向(ひむか・現在の宮崎県)から大和に向かった神武は、大和地方の豪族長髓彦(ながすねひこ)の激しい抵抗にあい苦戦するが、ついにこれを平定し、王朝を開いた。
じつは、この「日本書紀」の神武天皇東征説話には、大和朝廷の成立以前の実体を浮かび上がらせる重大なヒントが隠されている。というのも、神武天皇が大和に入る前に、すでにその地で王として君臨していた人物がいたと明記してあるからだ。その王の名を饒速日(にぎはやひ・以下ニギハヤヒ)といい、「日本書紀」は、神武に抵抗した長髓彦がニギハヤヒを大王として仰いでいたこと、ニギハヤヒが「天神」の子であること、そしてニギハヤヒが物部氏の祖であることを記している。
この記述は、古代史を根本からくつがえす重要な示唆をわれわれに与えてくれる。なぜならば、いままでたんなる一豪族とみなされてきた物部氏が、じつは神武東征以前の大和の王だった可能性が出てくるからである。少なくとも、その事実を「日本書紀」は否定していない。「事不虚」、つまり、ウソではない、といっていることからもわかる。
では、この謎の人物「ニギハヤヒ」とはいったい何者なのか?そして「日本書紀」は、なぜ大和の王だったニギハヤヒについて、多くを語ろうとしなかったのか?
・・・・・(中略)・・・・・
「古事記」や「日本書紀」のなかであれだけけなしている神々を、その裏では丁重に祀り上げているこの事実の裏には、いったいなにが隠されているのだろう。
その謎をみごとに解き明かした人物がいた。故原田常治氏である。氏は日本の古代史というものが、「古事記」や「日本書紀」に書かれた内容だけを根拠に推論していくには限界があることに気づき、“神社伝承”を駆使したユニークな方法で、これらの謎を解いていった。
その結果、いままで神話の世界の話として、歴史の世界から無視されていたスサノオやアマテラスといった神々が実在していたと氏は断言したのである。
スサノオは大和朝廷が成立する以前に出雲を治めていた王、つまり出雲王朝の始祖であり、アマテラスは現在の宮崎県にあった九州王朝の始祖であったというのだ。
さらに原田氏の指摘は重要な点は、スサノオの息子ニギハヤヒの実像を掘り出したことである。このニギハヤヒこそが、じつは大和朝廷の始祖として歴代の天皇によって崇められた日本の古来の太陽神だったのだ。その名は、天照国照彦火明奇櫛玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこほあかりくしみかだまにぎはやひのみこと)という。
「日本書紀」は、ニギハヤヒがスサノオの子であることを巧妙なトリックでおおい隠し、さらにはスサノオの子孫が物部氏であることも、同時に歴史から抹殺したのである。
・・・・・(中略)・・・・・
そして、いままで単なる天皇家のお家騒動としてとらえられてきた壬申の乱も、本当のところは、出雲王朝と九州王朝の長年にわたる葛藤が、ついには大々的な武力衝突にまで発展したということにほかならない。この乱によって政権を勝ち取った天武天皇は、出雲王朝最後の大王として飛鳥の地に君臨したのである。
やがて、天武とその子大津皇子(おおつのみこ)の死とともに指導者を失った出雲王朝は衰退し、この二朝間の争いは幕を閉じることになる。そして最終的に勝者となった九州王朝は、巨大で強力な仇敵であった出雲王朝とその一族の影を消し去り、九州王朝こそが唯一正統なる王朝であることを後世に知らすべく、策謀をめぐらしていくのである。
その手段として巧みに利用されたのが、皮肉なことに、天武が編纂を命じたといわれる「日本書紀」であった。この一冊の書物のなかに、敗者たちは長い時間真実の姿を知らせるすべもなく閉じこめられていく。

*「日本書紀」天智八年(669)、是歳条に気になる記述がある。
それによると、朝廷は河内直鯨(かわちのあたいくじら)を唐に遣わし、そして唐からは二千人の使者が日本にやってきたという。唐からの二千人にのぼる使者とは、いったいなんの目的があって来日したのだろうか。
一説によると、白村江の戦いにおいて捕虜となった日本人を返しにきたのだろうともいわれ、またいっぽう、天智十年(671)十一月に、同じく郭務悰が二千人を引き連れて来日した記事の重複であろうという意見もある。
天智八年(669)は前述したように、新羅が半島独立をめざして唐と戦争状態に入った年である。しかし、この年の「日本書紀」の外交記事のなかで、唐からの使者に関する記事は、これ以外にまったくみられない。
唐が日本をもっとも必要としはじめたこの年に、この使者が来日していないとは考えられない。むしろ日本に対して執拗に働きかけがあって当然のことだろう。
問題は、なぜ二千人にものぼる使節団を唐が送ってきたかということだ。当然これは軍隊としか考えられない。それでは唐はなにを目的として、日本に軍勢を送る必要があったのか。
それは、法隆寺・斑鳩寺を中心とした都の周辺に、反唐・親新羅勢力が盤踞(ばんきょ)していたからである。

極東アジアにおいて、同盟できる陸続きの国をいっさい失った唐にすれば、半島の統一をめざす新羅を圧迫するには、日本の協力がぜひとも必要だった。親唐派に転向した天智が、都の周辺で「反覇権主義」の不満分子が騒いでいると唐に報告すれば、唐もあわてて兵を送ったことだろう。
いっぽうの天智は、新羅による反唐の旗揚げを利用し、唐の軍事力を背景に国内では出雲勢力の一掃を、そして百済の再興をもくろんだにちがいない。

そして、この推論を確定的にしたのが郭務悰らの二度目の来朝記事である。
「日本書紀」によると、天智十年(671)十一月に来日した唐の使者二千人は、その翌年の天武元年五月に帰っていったという。この半年間の滞在中、二千人の人々はなにをしていたのか。じつは、なにもしていなかったのだ。それでは、彼らはなにを目的に日本にやって来たのか。問題はそのタイミングである。
壬申の乱の直前、天武が天智天皇のもとを去り、吉野にこもったのが天智十年十月。唐の二千人が来日したのが同十一月。天智崩御が同十二月。そして、翌年の天武元年五月に唐の使者は日本を離れた。そして同六月、壬申の乱勃発。
つまり、唐の二千人の滞在と天武の吉野での隠遁生活の期間が、ピッタリ一致するのだ。この符号は、はたして偶然なのであろうか。いや天智の病状の悪化を聞きつけた唐が、反唐・親新羅政策を打ち出していた天武の動きを牽制するためにやってきたとみるのが自然であろう。
要するに、天智八年、同十年と二回にわたる唐からの二千人の使者は、どちらも天智天皇の政策に反発する勢力を牽制するために来日していたのだ。


*斉明天皇即位前紀によれば、斉明天皇は、舒明天皇の皇后となり、天智や天武を産む前に、用明天皇の孫とされる高向王(たかむくのおう)と結ばれ、漢皇子(あやのみこ)を産んだという。
「日本書紀」のこの証言は重要である。なぜならば、用明天皇は妹・推古天皇同様、蘇我色の強い天皇である。その蘇我(出雲)系の天皇の孫と九州系の斉明は、結婚していた過去があるというのだ。
・・・・・(中略)・・・・・
九州王朝の王として多武峰に立てこもっていたにもかかわらず、斉明天皇は出雲王朝の本拠地における高向王との楽しかった生活と、「吾が若き子」漢皇子を思う心でいっぱいだった。そして、その事実を、「日本書紀」があらゆるトリックを使って否定したことには、重大な意味がこめられている。
・・・・・(中略)・・・・・
ところで、死して地獄に堕ちたとされる斉明天皇には、生前、正体不明の化け物がつきまとっていたという話がある。この証言は、数々の文献に記されているだけでなく、四国の神社にも伝わっているぐらいだから、よほど世間に流布していた話だったと思われる。
・・・・・(中略)・・・・・
この化け物がもし豊浦大臣ならば、斉明の葬儀にまで姿をあらわした鬼=豊浦大臣とはいったい何者なのか。そして、斉明にどんな恨みをもっていたのか。また人々はその鬼のなにを恐れたのか・・・・・!?

「日本書紀」によれば、豊浦大臣とは蘇我蝦夷のことをさす。だが、「先代旧事本紀」の伝承から、蘇我入鹿こそ豊浦大臣と呼ばれていたことがわかっている。だとすれば、斉明天皇につきまとう鬼とは、入鹿だったということになる。ところで、大化改新における皇極(斉明)天皇の態度は解せぬ、という意見が一部にある。さらに、そのことが思わぬ憶測を呼び、入鹿と皇極のあいだには男女の結びつきがあったという説さえある。
それはなぜかというと、次のようなやりとりがあったからだ。中大兄皇子に斬りつけられた入鹿は、皇極天皇にこの事態の説明を求めた。すると皇極天皇はあわてふためき、入鹿に対して自分がこの凶行に関与していないことを叫び、さらに中大兄皇子を責めるかのように、その行動を問いただしているのである。そして中大兄皇子が、入鹿には皇室をくつがえす野望があるのだ、と叫ぶように訴えると、皇極天皇は黙ったまま奥にひっこんだといわれている。女帝のうろたえぶりはなにかあるといわざる得ない。
・・・・・(中略)・・・・・
斉明につきまとう鬼をみた時の人々は、迷うことなく入鹿の亡霊であると決めつけた。そして斉明のまわりで人々が多く死ぬのをみて、これこそ入鹿の仕業だと確信する。人々のそのような恐れようからして、「日本書紀」には記されていない裏側で、入鹿と斉明とのあいだに断ち切ることのできない関係があったと考えてよい。

*斉明天皇と蘇我入鹿(高向王)が結ばれていたことが、これで明らかになった。そうなると当然、両者の子・漢皇子なる人物は、どこでなにをしていた者なのかという新たなる疑問が生じてくる。
漢皇子が入鹿の子であるとすれば、それは当然聖徳太子の子供ということになる。それでは、「日本書紀」のなかに聖徳太子の子としての漢皇子に比定しうる人物が実際にいたのだろうか。
・・・・・(中略)・・・・・
私は、この漢皇子こそが、壬申の乱で出雲王朝の絶大なる支持を得た、天武天皇その人ではないかと思うのだ。
それはとりもなおさず、天武が蘇我入鹿の子供であったという事実につながる。そして、入鹿の子が天武だとすると、大化改新から壬申の乱にいたるまでの多くの謎は、一挙にして整然と説明がついてしまうのである。
大化改新で天武が入鹿討伐に参加しなかったのは、天武が入鹿の子供であったからだ。あるいは、白村江の戦で天武の姿がみられなかったのも、天武が入鹿(太子)同様、九州王朝の極端な百済支持に同調できなかったからである。
さらに、天武が尾張氏を筆頭とする出雲系の豪族の絶大なる支持を得ていた壬申の乱において、近江朝の蘇我氏がすべて寝返ったのは、天武が出雲王朝の正統な皇子、つまり大王・入鹿(太子)の子供だったからにほかならない。
天武が九州王朝の持統によって前半生を抹殺されたのも、すべては天武が出雲王朝の大王だったからなのである!



(管理人)
他作家の説を取り入れながら、自説を展開していく著者の論説は、少々強引なところもあるが、実にご立派である。それから、大化改新、壬申の乱と続いていく古代史の流れは、一筋縄でいくものではなく、複雑怪奇で、さながら火曜サスペンス劇場のようだとも感じた。斉明天皇と蘇我入鹿(=聖徳太子)の関係で例示されるように、大化改新や壬申の乱の実体は、天皇家の複雑な婚姻に関わる裏の血筋が関連しているようである。
しかし、その本質は、唐・百済・新羅といった外国勢力の日本国内における勢力争いによって巻き起こされているのだ。
すべてが著者の説の通りとは、とても思えないが、かなり真実に迫っていると思う。
それにしても、「藤原氏」、「郭務悰」、「聖徳太子」、「物部氏」、「アマテラス」、「スサノオ」、「ニギハヤヒ」・・・と、古代史は謎の部分があまりに多い。そして、その謎を突き詰めていくと、何故かイルミナティとの関連を感じてしまうのは私の考え過ぎだろうか・・・。


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