鬼塚英昭 - 嘘八百のこの世界

嘘八百のこの世界

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鬼塚英昭氏の告発も真実だろうが、太田龍氏の告発も真実である。

「だから今も日本は侮られる 田中角栄こそが対中売国者である」
鬼塚英昭




2016年3月の鬼塚英昭の書であり、遺作となった書でもある。
先日追悼記事を書いたが、著者は本年1月25日に永眠した。最近は著者の書を読んでいなかったが、今回読もうと思ったのは、この訃報を知ったことが最大の理由である。
私は基本的には田中角栄のことをそんなには悪く思っていない人間である。ただ「タブーを恐れず数多くの真実を告発してきた“本物のジャーナリスト”である著者が、文字通り最期の力を振り絞って書いた書は読まなければならない」という思いが優先した。
田中角栄は「ロッキード事件を筆頭として賄賂を貰っていたダークな政治家」という印象が、否めない人物である。本書も、「金に汚い田中角栄」というテーマが一貫して記された「田中角栄批判本」である。さらに本書は、ロッキード事件よりも対中リベートの話が主題となっている。ズバリ言って、「ODAの名目で3000億円の対中援助をした見返りに、300億円のリベートを田中角栄は得た」と、主張しているのである。
著者がこの告発をしている元となるのは、佐藤慎一郎の書「総理秘密報告書」であるようだ。
私は佐藤氏のことはよく知らない。本書を読み終えて、著者のこの告発が真実か否かの判断はつかない。しかし金額は別として、いくらかの“見返り”があったことは真実であるような気がする。
ただそれよりも、ODAという名目でいまだに対中援助を続けていること自体に問題があると感じる。これは中国だけのことではない。様々な国家に「金銭援助」をしていること自体に問題があるのではないのだろうか。バブル経済真っ只中で、有り余る金満国家である日本ならば、こういった「金銭援助」も分からないではないが、現在の日本は東日本大震災の大被害に象徴されるように、とてもじゃないけれど外国に「金銭援助」をしているような余裕があるとは思えない。逆に外国に「金銭援助」してもらいたいぐらいなのではないのだろうか。少なくともこういった「金銭援助」は自国民が国家から十分な「金銭援助」を受けた後で余った金があるのならしても問題ないだろうが、現在の日本は、とてもそのような余裕があるとは思えない。こういった莫大な「金銭援助」が何ら国民の許可を得ることを必要とせず、与党政治家の判断のみで決定されるというシステムそのものに問題があるように感じる。そしてこの「金銭援助」には本書に示されているように“見返り”が裏で存在しており、政治家への裏金となっているのが隠された真実であるような気がする。何気ないニュースで「政府は○億円の援助をする」ことを発表しました、というように報道し、野党も新聞・テレビもこのことを全く批判しないという“不思議な規定ルール”がこの国には存在しているように感じられる。こういった問題提起を起こすきっかけとなる可能性を示していることが、本書の最大の価値であると感じる。

政治家が多額の賄賂を受け取るということが決して許されることでないことは、言うまでもないことである。しかし、私はこのことをそれ程ヤイヤイと言うつもりはない。
それは、この世界には政治家の賄賂よりももっと悪いこと(許されないこと)が山ほど存在するからである。その具体的な内容が何かということは、当ブログの読者の方なら、今更説明する必要はないでしょう。
端的に言えば、「その政治家なり人物が「彼ら」悪魔勢力の配下の人間か否か」ということである。田中角栄はこの国の原子力発電の初期導入に関わった人間であるから、当初は「彼ら」の配下であったことは間違いないだろう。しかし、その後は「彼ら」に反旗を翻した人間であったことも間違いないだろう。その最たるものが、単独での日中国交正常化を成し遂げたことだろう。「彼ら」は田中角栄のこの政策を良しと思わなかった。そして、田中角栄は陥れられた。ロッキード事件である。
以前、私がアマゾンに投稿した記事より引用する。



http://www.amazon.co.jp/dp/4537023007/ref=pdp_new_dp_review
*田中首相に5億円の贈賄をした、というのはロッキード社である。ところが、そのロッキード社の役員コーチャンとクラッターは、アメリカの上院とSEC(アメリカ証券取引委員会)で、ことこまかに贈賄の供述をしているが、アメリカ国内では訴追されていない。つまり、彼らにとってこれは、刑事事件になっていないわけだ。・・・・・贈賄側は無罪でのうのうとしている。収賄側の角栄は政治生命を絶たれる。アメリカ(ユダヤ)がいつも大上段で振りかざす「公平」とは、いったい、なんのことだろう。しかもコーチャン=ロッキード側は、この刑事免責は、念のため、検察庁ではなくて最高裁判所からもらいたい、というのだ。あらかじめ日本の裁判所のトップから、この件についてはロッキード側は無罪であることの保障をせよ、というご念の入った要求になる。非常に驚いたことに、日本の最高裁判所は、このコーチャンの要求をそっくり丸呑みした。・・・・・さらにびっくりさせられるのは、これほどの暴挙について、時の三木武夫首相も中曽根康弘自民党幹事長も稲葉修正法務大臣も、マスコミも、革新勢力も、ただのひと言も異議を申し立てなかったことだ。・・・・・最高裁判所と最高検察庁、そして自民党が、日本の主権をユダヤ(アメリカ)に売り渡した、といわざるをえないではないか。これほどまでに、ユダヤが日本の司法界を手の内に入れていたとは!




太田龍氏の書からの引用である。ここに「ロッキード事件の真相」が証明されている。
それと同時に、この島国が誰に支配されているかも証明されている。
もう説明不要ですよね。支配者が支配しているのは、与党だけではありませんよ。
野党も検察も最高裁判所もマスコミも、あらゆるこの国のシステムを支配しているのですよ!
そして、この支配構造は現在も続いているのです。
この支配構造が正しく理解できていなければ、マスゴミが垂れ流すあらゆるニュースの真相を理解することはできません。鬼塚英昭氏が最期に記した本書の内容は真実でしょうが、この支配構造を記していないことが残念です。田中角栄の金満政治は決して許すことはできませんが、それ以上にこの支配構造の背後で「彼ら」の僕となって国民を騙し続けている売国奴ども(=チーム・イルミナティ)を、私は許すことはできません。



おまけ
http://www.asyura2.com/16/senkyo204/msg/175.html


この記事のコメントにも出ているが、私腹を肥やすために田中角栄を利用して「天才」という書を出した男も、チーム・イルミナティの一員であることを付け加えておきます。


評点:60点








“八百長戦争”のことを日本で一番訴ていたジャーナリストは、間違いなく鬼塚氏であるだろう

「タブーを恐れずに真実を告発した“本当に勇敢なジャーナリスト”、鬼塚英昭氏が逝く」


今の今まで知らなかった。
マスゴミはどーでもいい人物の訃報は大袈裟に報じるが、本当に偉大な人物の訃報はほとんど報道しない。
この事実だけで、マスゴミが誰のための存在であるのかが証明されているだろう。

1月25日に鬼塚英昭氏が亡くなったそうである・・・。
胃を原発部位とする進行がんだったそうだ。享年78歳。
ご冥福をお祈りいたします。

私がしつこいぐらいに書いている“八百長戦争”のことを日本で一番訴ていたジャーナリストは、間違いなく鬼塚氏であるだろう。
私はそれほど鬼塚氏の書を読んでいるわけではないのだが、鬼塚氏の書には他の作家にはない「真実へのあくなき探求」が、感じられました。
鬼塚氏の書には他作家及び週刊誌等からの引用も数多く用いられていることから類推すると、相当な読書量をこなされた勉強家であったことは間違いないでしょう。
こういった努力を積み重ねた結果、自分なりの結論を出す論調には、説得力がありました。
また、大抵の作家は自身の経済的利益や現世上の名誉欲を重視し、真実に気づいていても気づかぬふりをしている“エセ・ジャーナリスト”ばかりであるが、鬼塚氏は、ただ「真実を明らかにしたい」という純粋な思いのみで執筆してきた“本当に勇敢なジャーナリスト”であった、と思います。
「これは書いていいが、これはタブーだから書くのは止めよう」などと計算するのではなく、タブーを恐れず、心の底からほとばしる感情をそのまま文章にしてきた偉大なジャーナリストでありました。

鬼塚氏がいなければ、私も戦争が八百長であることに気づいてなかったかもしれません。
ということは、当ブログも、今のような形式とは全く違った内容となっていたでしょう。
いまだに戦争の真実に気づいていない人が大多数だろうが、鬼塚氏のおかげで、少しづつではあるが、戦争の真実に覚醒した人が増えてきていることは間違いないでしょう。
鬼塚氏が我々に残してくれた功績は、あまりに大きい。
残された我々は、決して、鬼塚氏の功績を無駄にしてはならない。
“八百長戦争”が大好きな悪魔どもに、騙され続けていてはならない。
新たな“八百長戦争”を起こされてからでは、もう手遅れなのだ。





















敗北するように、日本は明治維新のときから仕組まれていた

「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭


2007年の書である。
鬼塚氏の書を読んだのは久々である。いつものように他作家の書を数多く引用しながら独自の見解を進めていくという得意の手法がとられている。
本書の主題は、終戦発表直前の1945年8月15日の宮城事件が偽装クーデターであったことの立証である。映画にもなった「日本のいちばん長い日」は、「日本のいちばん醜い日」だったとの主張を展開されている。以下、一部引用する。




*偽装クーデター計画を真実に近いクーデターにすべく、三笠宮は木戸と、そしてあえて書かざるをえないが天皇と協議した。天皇と木戸が納得した。どうしてか。事件を起こし、阿南と田中の自殺と森の惨殺で、御聖断に反逆する軍人たちを迎えうると計算したのである。不敬であろうとなかろうと、私は真実を追究したい。もし不敬と思う人がいるならば、私の説を論破し、しかる後に私の不敬を論ずればよかろう。
バーガミニは、偽装クーデターが、できるだけ現実的に見せかけなければならない理由まで追求している。彼の意見に心を開かれよ。

しかしながら今やそのクーデターは、できるかぎり現実的に見せかけなければならないが、もはや戦争を長びかせる真の努力をめざすものではない、擬(まが)いもののそれでなければならなかったのだ。すべては外側の観察者、特にアメリカ人に、神聖な天皇は日本軍国主義の首魁であるよりはむしろ犠牲者であったのだということを、信じこませるゼスチュアであった。午後の忙しい会議、裕仁の侍従武官長の警戒せよとの言葉、裕仁自身の吹上御苑での散歩~すべてがこの最後のゼスチュアの必要を伝える腹芸として仕組まれたのである。

*私はこの劇場を説明する前に、一つだけ、単純な疑問を投げかけて、読者の心に問わねばならない。それは次のようなものだ。

あなたは8月14日から15日にかけてのあの宮中事件で、近衛師団の誰ひとりとして知らない一陸軍少佐が、「軍中央を見限って、“少数精鋭”によるクーデターという暴発に向かって奮闘を続ける」ことができたと思いますか

この問いを発しないまま、日本現代史の本は8.15宮城事件をなんらの疑問も呈さず語り継ぐのである。その典型的な例が半藤一利の「日本のいちばん長い日」である。少しだけ懐疑的なのが角田房子の「一死、大罪を謝す」である。後はほとんんど半藤一利よりである。
このような単純な疑問を心の中に発しないからこそ、半藤本、あるいは秦本のようなものが、あたかも真実を伝える書として大手を振ってまかり通っているのではないだろうか。

*私はこの惨殺事件を調べてきて、ひとつ気になることがあった。それは井田正孝中佐である。彼は集団自殺をあおった張本人であったが、自決しなかった。そして「井田手記」を残した。この手記をもとに、「日本のいちばん長い日」他が書かれたことは間違いない。彼は後に岩田姓を名乗る。塚本憲兵中佐が戦後電通に入社すると、岩田は電通に迎えられる。1965年、塚本は「社長室長」となり、岩田は「総務課長」になる。後に二人は電通社内で出世していく。「日本のいちばん長い日」は一面、日本の憲兵隊の物語である。塚本と井田(後の岩田)は、あの日の演出家から大きな役割をふりあてられていた。その二人は、戦後も、その演出家の庇護のもとで、日本最大の広告代理店・電通の力を最大限に駆使して、「この「日本のいちばん長い日」の物語が大宅本の範囲を超えないように、絶えず監視の目を光らせていたのではなかったか、と思うようになったのである。これは私の取り越し苦労ではないであろう。

*井田正孝中佐の著書「雄誥(おたけび)」(1982念、西田雅との共著)がある。どうも「日本のいちばん長い日」を中心に、ほとんどの終戦史はこの本や井田が残した「手記」や「談話」に影響されている。
この井田中佐の手記に、吉田鈞は「責任は死よりも重し」の中で反論している。貴重な意見である。

然し乍ら、指揮権のない一少佐や中佐がどうして最古参大佐の芳賀に撤兵措置を命ずることが出来るか、それは不可能な事である。また、正門の司令官室までの乾門から銃前哨に到る5箇所の歩哨線を、どのようにして突破して行ったのか、然も乾門から車で入ったということなのでそれは通常皇族並みではないか
また、守衛隊司令官や大隊長などの巡察の目をどのように潜り抜けて、椎崎、畑中、井田の3人が会談出来たのか、守衛を経験した近衛兵の実情からは理解出来ない疑問である。なお、指揮権のないものが撤兵を命ずることは出来ない。然も、恰も近衛歩兵第二連隊を宮城占領軍の如くに表現しているが、それは事実に全く反するものである。故意に畑中らの妄想を補強しているにすぎない。軍旗を奉じて守衛隊に指揮に当っている連隊長が、若い少佐や中佐に頤使されるようなことは、日本の軍隊では到底考えられないことである

*14日午後11時ごろの時点で、阿南は森赳の惨殺事件を知らなかったかもしれない。しかし、15日零時ごろには、森惨殺事件を知っていたことは間違いない。「戦いは放棄された。あとは自分にまかせて欲しい」という若者たちへの阿南の言葉は、次の行動を暗示しているのではなかろうか。陸軍省に残って阿南を待っていた若き将校の期待に応えるべく阿南は「三宅坂の陸相官邸に帰って行った」のではなく、本当の意味での“決着”を三笠宮とつけるべく、三笠宮の住む防空壕に車を向けたのである。
では、どのような話がかわされたのか。私は「『神聖悲劇』が森赳を惨殺した」の項で書いた阿南の自刃直前の言葉の続きを書かねばならない。ノンフィクションの手法を無視して、阿南の死霊をよび出し、その死霊をして私のペンに書かせよう。

~私は森中将が惨殺されたことを知った・・・。若手将校たちの無念の声を聞いた。「戦いは放棄された。あとは俺にまかせて欲しい」と若手将校たちに約束した。なにがなんでもニセモノのクーデターだけはやめさせたかった。
三笠宮がすべてを動かしていた。俺は三宅坂の陸相官邸に向かうように見せかけて、運転手に「三笠宮のところに行け!」と言った。そこに畑中たちがいた。俺は怒鳴った。「どこへ行くのだ。そのピストルは何のために使うのだ・・・」と。それから俺は三笠宮に言った。「詔書の承認を受けるべく枢密院を開くべきだ。法を無視してどうなるのだ。東郷外相も鈴木首相も無視してかまわない、と言っている。平沼枢相の主張が理にかなっている・・・」と言ったんだ。
三笠宮は承知しなかった。問答どころではなかった。三笠宮の妻が電話したのではなかったか。そこに木戸が入ってきた。木戸も三笠宮も法を無視してもかまわないというわけだ。
俺は怒鳴った~「そうか、お前たちは俺たち軍人のせいにして、お前たちが戦争を仕掛けたのではないという神話を創り出すために、こんな汚い芝居を創ったのか・・・」と。
三笠宮は怒りだした。ピストルを手にし、俺を撃とうとした。三笠宮の妻が俺と三笠宮の間に入ってきた。俺は背を向けた。そして三宅坂に帰っていたんだ・・・。
俺は酒を飲み始めた。と銃声が聞こえた。「なんだ、あの銃声は・・・」と思った。
そうか、今頃になって森が殺されたことを知らせようとするのか、なんという姑息な手段なんだ、畑中がピストルで殺したことになったのか、畑中よ椎崎よ古賀よ、お前たちに死ぬな、とあれほどいったのに・・・お前たちは欺されてしまった。
それほどまでに軍人を悪人に仕立てて、平和天皇を演じたいのか・・・よし、天皇が袖を通したシャツを着て、天皇からもらった短刀で我が身を血だらけにしてやるぞ・・・国体護持だけが目的ではなかったのか・・・そこまで軍人たちを悪者にしなければならなかったのか・・・

*この「朝日新聞」に出た二重橋前を描写した文章はとても長い。藤田尚徳はそれを全文掲載している。ここでは一部分のみを記す。

溢れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙。ああけふ昭和20年8月15日、「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」との大詔を拝し、大君の存します宮居のほとり、壕端に額づき、私は玉砂利を涙に濡らした。唇をかみしめつ、またかみしめつ、道行く兵隊の姿を見ては胸かきむしられ、「作れ飛行機」の貼紙を見ては、宮城への道々を悲憤の涙を流し続けた私であった。<略>
泣けるまで泣け、涙ある限り涙を流せ、寂(せき)として声なき浄域の中に思はず握り締める玉砂利、拳(こぶし)を握って私は「天皇陛下・・・」と叫び、「おゆるし・・・」とまでいって、その後の言葉を続けることが出来なかったのである<略>

新聞各社はおそらく14日夜遅く、終戦の詔書が出るのを知る。それまでは書くことができない。朝刊を昼すぎにするよう指示を受けた。それなのに、どうして、このような記事が正午の玉音放送の直後から出てくるのか、奇々怪々の始まり、始まり、である!
直宮(じきのみや)や天皇族からデータを戴き、あの「天皇家の戦い」を書いた加瀬英明さえ、この記事にはあきれている。「文藝春秋」(2005年2月号)に、「捏造された『宮城前号泣記事』を加瀬英明は書いている。

当時の新聞は物資が窮乏していたから、裏表2ページだった。当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、この日の新聞は正午前に刷りあがって、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから配達することに決っていた。
この記事は玉音放送の前に書かれていた。捏造だったのである

*益田勝実は長州の国家老益田弾正(だんじょう)の一族である。彼は山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、後に明治天皇となる「てんのうはん」のことを書いている。続ける。

天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされたことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。彼らが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、・・・激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。
わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は、謀殺されてしまった。もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。

大室寅之祐は田布施町の生まれ。私は2006年10月、この田布施を訪れた。光市と柳井市に挟まれた寒村の風景がそこにあった。私は知人と大室寅之祐について学びはじめていた。私の手元に知人が作成した一枚の系図がある。簡単に記すと、伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と「虎の門事件」を起こした難波八助(なんばはちすけ)は一族である。また宮本顕治(日本共産党)も一族。そして、木戸幸一も系図に入ってくる。京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇も一族である。そして、大室寅之祐の生家の近くに岸信介一族の生家もある。この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。あの終戦内閣の最後の内務大臣安倍源基(げんき)も大室寅之祐の生家の近くである。これは偶然とはいえない何かがあるだろう。

*鹿児島にも田布施村があった。現在は加世田(かせだ)市金峰(きんぽう)町というけれども、ここは昔は田布施村といった。小泉純一郎の父、小泉純也はこの地の出身である。彼は上京して小泉又次郎の一人娘・芳江と結婚して小泉家の婿養子となって小泉姓を名乗り、義父の地盤を継いで代議士となった。小泉純也は朝鮮の姓を持つが、この結婚により日本国籍を得た。長州の田布施と薩摩の田布施、直近二代の首相が同じ田布施一族の末裔なのだが、これは偶然ではないだろう

*イギリスの外交官アーネスト・サトウは幕末に活躍した。アーネスト・サトウは天皇になる前の大室寅之祐と会っていた可能性が大である。彼は上司のハリー・パークス公使から日本の政情を調べるよういわれ、鹿児島の苗代川に行く。ここは、慶長3年(1598年)、朝鮮から虜囚として連れてこられた43人の男女が、島平の浜辺に遺棄されたように、維新後、苗代川の住民は、創成期の近代日本のただ中に遺棄された。「東郷茂徳伝記」と同書の「解説」(萩原延壽のぶとし)に、この間の歴史の闇が詳述されている。

いわば270余年のサイクルが廻って、この村のひとびとは、再び島平の浜辺に立ち、今度はあのとき他郷に連れ去られた同胞と同じように、母国の姓名を捨て、その言語を忘れ、その風俗を改めて、あたらしく移住してきた土地に同化しようとする<略>。
東郷茂徳は明治15年(1882)12月10日、朴茂徳としてこの苗代川で生まれた。<略>なお、東郷という姓は鹿児島ではとくにめずらしいものではなく、朴家が「入籍」した東郷家と、提督東郷平八郎の家とは関係がない。
こうして、5歳の時から、朴茂徳は東郷茂徳を名乗るようになった。

私はどうして終戦時の外相、東郷茂徳をここに登場させたのか。その理由は三つある。
その一つは、あの明治10年(西南戦争があった)のあわただしさの中で、アーネスト・サトウがパークスの命令とはいえ、朝鮮人の被差別部落の調査報告書を作成しているということである。サトウは日本の国土の中に朝鮮系の人々が多数いて、差別されているのを見た。西南戦争は被差別部落の問題が大きく影を落とした戦いである。もう一つは、終戦内閣にどうして東郷茂徳が外相として迎えられたのか、というのが二つ目の理由である。それは、終戦にあたり、昭和天皇が最も信頼できる人物を内閣に入れたことにある。東郷茂徳は、明治天皇=大室寅之祐と同じ出自を持つと考えられたのではなかったか。
さらにもう一つ、東郷茂徳を起用した理由がある。それは天皇の財宝を隠蔽する役を東郷茂徳に命じた点にある天皇はいちばん大事なことをするのに、日本人よりも朝鮮人を信用したといえる。この財宝隠蔽工作は後述する。

*私はたくさんのゾルゲ事件の本を読んできたが、ほとんど例外なく、西園寺公一と尾崎秀実が極秘裡に国家の情報を盗み出しゾルゲに渡したとの“ストーリー”で出来上がっている。日本の憲兵たちは一市民のトイレの落書きまで手帳に記して上司に報告していたのである。ゾルゲが多くの女たちと情事にふけり、バイクを乗りまわし、公然と尾崎秀実や他のニュース提供者と会っていたことは全部、木戸幸一内大臣に報告されていた。天皇と木戸は大いに喜び、西園寺公一に情報を提供しまくっていたのである。
どうして「南進論」なのか?私はそれが、日本の進路となるように仕組まれたと書いてきた。日本の運命だった。敗北するように、日本は明治維新のときから仕組まれていた、と書いてきた。エドワード8世がシンプソン夫人と結婚しようとしただけで王位を捨てなければならなかったように、日本の天皇家も知られてはならない“秘めごと”が多すぎた。
私はフランス大使クローデルの本国外務省宛ての至急電報を紹介した。あの電報は、大正天皇の死が迫るなかで、秩父宮を天皇にせんと、宮中の奥深くで策謀があることを伝えている。大正天皇は唯一といっていい味方の原敬首相を暗殺される。そして、牧野伸顕が宮内大臣になると、死に至らしめる政策の渦の中に入れられる。はっきり書こうと思う。私は少しずつ、ある毒薬を飲まされて殺されたと思っている。
宮中某重大事件がその背後にある。秩父宮の天皇工作がかさなったなかで、大正天皇は病気になっていくのである。貞明皇后は長州閥に、少女のときからのスキャンダラスな過去の人生をすべて握られている。山縣有朋を失脚させるために、ヨハンセン・グループの首魁の牧野伸顕と組み、杉浦重剛(じゅうごう)と頭山満(とうやまみつる)をその仲間に入れる。彼らが「南進派」の一味でもあった。
マニングの「米従軍記者の見た昭和天皇」の続きを読んでみよう。

確かに、天皇は通常の外交手段、つまり外務大臣を通じてすべての情報をスターリンに伝えることができた。しかし、天皇はスターリンがソ連のスパイが盗み、秘密の経路を通じて送ってきた情報だけを信用することに気づいていたのである。

日本の官憲はゾルゲの動きをすべて知っていた。そして知らぬふりをしていた。ゾルゲは野坂参三がアメリカに行き、ゾルゲが工作要員をさがしていた頃、モスクワに行った。スターリンは、日本と中国を戦争状態に突入させるべく、日支闘争計画案を国際金融同盟から受けていた。ゾルゲはスターリンから新しい任務を与えられた。フランクフルト新聞の日本特派員になりすましベルリンに行く。そして、ユダヤグループの準備工作で日本にやってくる。ソ連軍の少将待遇である。
野坂参三が日本に送りこんだ宮城与徳の仕事は、ゾルゲ機関の中に入って、日本共産党をつぶすための秘密工作であった。ゾルゲの仕事も宮城与徳の仕事とかさなっている。その理由は簡単である。日本共産党員の中に、本当の意味~天皇一族が日本共産党をつくった~を知らず、戦争反対を叫ぶ連中がいたからである。ヨハンセン・グループの首魁牧野伸顕は娘婿の吉田茂を使い、“共産主義の恐怖”を近衛文麿らに吹聴させるのである。
南進論と共産主義恐怖論の根は一つである。スターリンも日本共産党つぶしに一役買っている。太平洋戦争に突入する前に、日本共産党が袴田里見という天皇教のスパイ一人を残してほとんど壊滅するのは、野坂、スターリン、そして木戸幸一らの策動によるものだ。
・・・・・(中略)・・・・・
コミンテルン第7回大会が1935年にモスクワで開催された。ゾルゲはモスクワに行っている。野坂参三はアメリカからモスクワに帰り、この大会の日本代表となっている。
この大会で人民戦線テーゼが採択される。ここで中共と国民政府の話し合いが行なわれる。ここで南進策を日本がとるように策を練ったと思われる。ゾルゲは赤軍第四部のウリッキの指揮下にあった。野坂参三がこのウリッキを知らぬはずがない。
ポール・マニングの「米従軍記者の見た昭和天皇」をもう一度引用する。文の中にラルフ・Mが出てくる。マニングが独自に発見したスパイの一人であるが、日本人にはほとんど知られていない。

この日米戦争の開戦前の時期、木戸は近衛を使って(もちろん尾崎経由で)ゾルゲに多量の情報を流していたのだ。昭和天皇はクレムリンに情報ルートを持っていたことになる。木戸はロシア人の心理を知っていた。ソ連では、秘密のルートで届いた情報は何であれ、公式の外交文書より信用したのである。一方、ラルフ・Mもゾルゲと同じく、近衛からの極秘情報をワシントンに送信していた。木戸はクレムリンとホワイトハウスの両方に情報ルートを持っていたのだ。この状況は昭和天皇を喜ばせた

ポール・マニングは野坂参三の実像を知らない。木戸幸一内大臣が持っていたクレムリンの最高の情報ルートは、間違いなく、野坂参三のルートであった。
多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その死霊から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世にいう多重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。
・・・・・(中略)・・・・・
私は、太平洋問題調査会の第6回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。日本の有識者の連中はこの調査会を「欧米の学者や政治家と太平洋の問題を学術的な立場で議論する機関である」と語っているが、彼らは謀略機関の手の内で踊らされていたのである。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の6月ごろから年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にし、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。

8月15日のあの事件と2.26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず、暴力装置を作ってはそれを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って、ともにその暴力装置に加担する一派とその逆の立場の人々である。統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇道派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。
・・・・・(中略)・・・・・
もう一度だけ、笠原和夫の発言を聞いてみよう。日本の分岐点を笠原和夫は書いている。

2.26事件にはそういう背景があったわけでね。今、2.26事件の将校というのは、軍国主義的なものとして見られたりするわけだけども、朴は非常に不愉快ですね。実際、2.26事件で生き残った人たちの話を聞きますと、自分たちが陸軍の主導権をとったならば、絶対にアメリカとは戦争を起こさんだろうと。大陸からは撤兵して満州は自治州にすると。それで太平洋の資源については、一切、こっちから攻めることはない~こういうふうにやったはずだと言ってるんですね。僕はそれを認めていいんじゃないかと思うんですけどね。第一、野戦でもって、あるいは艦隊なら艦隊でもってその第一線で戦っている連中というのは、戦争というのはそんなになまやさしいものではないということはわかっていますからね。

まさに、笠原和夫が語るとおりである。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に究明しようとして私は書いてきた。

*ここに、日本の石油とナチス・ドイツを結びつける本があるので紹介する。チャールズ・ハイアムの「国際金融同盟」である。文中に登場するデーヴィスはアメリカの石油ブローカーである。

デーヴィスは今一度、ルーズヴェルトとの会談を設定しようと努力した。彼は大統領からの返事を待っている間に、所有のタンカーをパナマ船籍に変更し、イギリスの検閲から逃れてリスボン、ハンブルグ、そして他のヨーロッパの港に入港できるようにした。また、彼は日本のタンカーではなくパナマ船籍のタンカーを使って、日本に石油や軍事的にきわめて重要な原料などを定期的に輸送していた。というのは、イギリス情報部が海上の日本船を臨検してドイツ人乗務員を逮捕していたからである。デーヴィスはテキサス州のブランズヴィル港の職員であるUボートの元艦長と共謀して、この元艦長が海上封鎖を秘かに突破する手助けをしていた。

アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争中も密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた
これが本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。
あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で秘かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。
では、あの対戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、アジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本に持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食糧等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていくかくて、戦争が長びけば長びくほどに天皇一族と、秘密裡に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった
近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際資本家たちを“御主人様”とよんでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回顧録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。
この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。

*たとえば、1932年2月5日、多門師団(多門中将率いる関東軍師団)がハルピンに入城する前に、ハルピンのシナゴーグにロマノフ王朝の遺宝の数々が置かれていた。ハルピンの富豪のソフスキーの財宝などが服部正彦の部下に押収されて満州国建設の資金と化けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。
すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認める時がきているのだ
・・・・・(中略)・・・・・
1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億円2千万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである
・・・・・(中略)・・・・・
三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長びかせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が、天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長びかせることで天文学的な利益をあげた。「戦争を続けよ」、これが天の声であった

*明治天皇こと、大室寅之祐の部落・田布施の出身の岸信介のことについて書く。岸信介が皇族なみの蓄財をし、これをスイスの銀行の秘密口座に入れていた、と異色の歴史家八切止夫の本にある。これを裏付ける記述が、先に引用した、近衛文麿の秘書の細川護貞の「情報天皇に達せず」の中に書かれている。
1944年9月4日の「日記」に次のように書かれている。

伊沢多喜男氏父(近衛)を訪問され、「岸は在任中数千万円、少し誇大に云えば億を以って数へる金を受けとりたる由、而もその参謀は皆鮎川(義介)にて、星野も是に参画しあり。結局此の二人の利益配分がうまく行かぬことが、内閣瓦解の一つの原因でもあった。これについては、さすが山千の藤原が自分の処で驚いて話した」と。

岸信介、元外相松岡洋右、鮎川義介(日産コンツェルン総帥)は、大室寅之祐の田布施の一族である。大室寅之祐が明治天皇にならなかったら、ただ一介の商売人であったろう。
松岡洋右は満鉄の総裁をし、岸信介は総務庁次長(満州国の実質的副総理)となり、利権をほしいままにした。東条英機の貯財は岸信介の世話によった。

岸信介の財は東条英機の貯財を大きく上まわっている。岸の財産はスイスの秘密口座に入れられ、安倍晋太郎、安倍晋三と確実に受け継がれている。田布施秘密閥は今も健在である。文中、星野とあるのは、元の満州国総務長官の星野直樹で、東条内閣では書記官長をしていた。当時、岸は商工大臣であった。
細川護貞が語らんとしているのは、戦争を終結させるために、東条英機を首相の座から降ろそうとした岸信介は立派だという風評があがったが、本当は、今の金で数百億から数千億の国家の機密資金の奪い合いの結果、岸が大室寅之祐一族の力を利して東条英機を捨てた。東条英機は“田布施に敗れたり”ということで、これはもうあきれて物も言えない・・・・・・
ということである。東条英機や岸信介は国家存亡の秋(とき)に、いかに自分の懐に金を入れこむかの競争をしていた・・・・・と、細川護貞はあきれ返っているのだ。

*沖縄戦の悲劇も、原爆投下も、天皇制と保守勢力(ヨハンセン・グループのことをさす)の温存のために必要であったのである。彼らはぬくぬくとした心地よい生活が保証されれば、国を売ることに良心の呵責なんぞは持ち合わせない種族であった。
田布施に源を発する一族はついに、此の国を支配することに成功した。「美しい国づくり」とは、今までの「うるわしき大和」にかえて異質の日本の創造を目指す試みである。平成の今日でも、列島改造計画は続けられているのである。
歴代首相の多くが田布施と関係するこの日本はどうなっているのだと私は訴えたい。それゆえにこそ、私は皇室の“秘めごと”の中に真実があるのではと、幕末から終戦までの天皇家人々の出自を書いてきた。鹿児島県の田布施出身の首相の後に、山口県の田布施の出身の首相が登場してきたのは偶然ではないと書いてきたのである。



(管理人)
いやはや、改めて著者の情報分析能力には脱帽する。元は竹細工職人だとのことだが、恐るべき竹細工職人である。
メインの話は「8.15宮城事件が実は偽旗テロであった」ということであるのだが、それよりも後半の“八百長戦争の実体を暴いた内容”のほうがより秀逸であった。
「戦争を起こした勢力は誰なのか」、「陸軍に戦争責任をなすりつけようとした勢力は誰なのか」、「石油や物資のない日本が何故に4年間も戦争を継続させることが出来たのか」といった“本来、日本人が知っておくべき疑問”にものの見事に答えてくれています。
そもそも、私も学生時代に学校で教えられた歴史の授業では、「8・15宮城事件」でさえ教わった記憶がない。私は高校時代日本史を選択していなかったからかもしれないが、恐らく選択していたとしても、ほとんど教えられていないのではなかろうか。高校生の娘の教科書を見ると、終戦に関する箇所は、「天皇制護持の確証がえられないとして敗戦の決断をのばしていた政府・軍部も、8月14日に無条件降伏し、15日正午から昭和天皇のラジオ放送(玉音放送)という異例の手段で敗戦を国民に知らせた。」とあるのみで、「8.15宮城事件」の文字さえ存在していない。
高校生も、「試験に近代史はほとんど出ないので勉強しても仕方がない」と、思わされるように仕組まれている。全てがこういった調子で“物事の真相を考えないロボット人間が製造されている”のである。
「8.15宮城事件」の存在さえ教えられていなければ、それが八百長だったことなど尚更知る由もないことなのである。当ブログでは何回も書いてきているが、大化の改新も含めて過去の歴史の真実を正しく理解しなければ、いつまでたっても現在起きているテロや戦争を含めた様々な事件の事の真相にたどりつくことはできないだろう。
少なくとも、我々の親や、お祖父さんお祖母さんたちが亡くなった直近の重大事件である太平洋戦争の真実は確実に理解しておく必要がある。そのためにも本書は確実に皆さんの“戦争を正しく理解する能力”を身につけさせてくれる貴重な資料となるであろう。
ここに掲載した文章はあくまでも膨大な情報量である本書のほんの一部である。あなたが日本人であるならば、必ず購入して納得できるまでじっくりと読むべき書である。
私が文部科学大臣なら(大臣にそんな権利があるか否かは知らないが)、全ての高校生に本書を読むことを義務付けます。そして、夏休みの宿題として読書感想を書かせます。
この腐りきった日本の歴史教育を正す第一歩として、まずこのことから始めるべきではないだろうか。そして皆さんが子供を持つ親であるならば、「こういった歴史の真実を知らないということは大人として恥ずかしいことだ」との認識を持ってもらいたいのです。
少なくとも太平洋戦争の真実を知らない人間は、大人として子供を正しい方向に導くことは出来ないでしょう。
現政権及び特殊な地域出身のメンバー中心で構成される日本の支配権力者は八百長戦争を再開しようとしています。相変わらず国際金融資本家同盟と呼ばれる「彼ら」キチガイに命じられるままに・・・。
その陰謀を食い止めるのは私たち大人の役目でしょう。大事な子ども達が八百長戦争で亡くなってしまったとき、「戦争が八百長だったとは知らなかった、学校で教わらなかったから・・・」と言っても、後の祭りですヨ。





評点:90点




日本のいちばん醜い日日本のいちばん醜い日
(2007/07/21)
鬼塚 英昭

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「センチメンタル・ジャーニー」と「目ン無い千鳥」の秘密

「太平洋“八百長”戦争の真実、東京ローズと売国奴連中」




前回紹介した犬塚氏は「もし山本元帥メーソン説を主張する人があるなら、どこで、いつ、何という結社に加盟したか?確かな資料を明示して頂きたい。」と述べて、「山本五十六メーソン説」を否定している。メーソンとは関係ないが、「山本五十六の死の真相及び、真珠湾攻撃・原爆投下の真相」について書かれた記事を転載する。「太平洋戦争の舞台裏」については記事にしたが、「太平洋戦争のもう一つの舞台裏」を学んで下さい。
八百長戦争で奪われた尊い御霊を弔うためにも、我々が新たな謀略に嵌らないためにも、我々は真実を知っておく必要があると思います。





(心に青雲)さん
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/386574435.html
2014年01月31日
山本五十六の怪死の謎(1/2)

《1》
 山本五十六は1943(昭和18)年4月18日、ブーゲンビル島上空において米陸軍戦闘機隊に待ち伏せされ、搭乗していた一式陸攻が撃墜されて戦死した、…ことになっている。「海軍甲事件」と呼ばれる。

 これまでにもその死に疑問が呈せられてきはきたが、ほぼ解明の決定版と思われる書を読んだ。柴田哲孝著『異聞 太平洋戦記』(講談社)に収録された短編「ブーゲンビル日記」がそれである。

 柴田氏のこの本は「事実に基づいたフィクション」となっている。つまり生存者や遺族に配慮して、実名は変えられていても、事実を踏まえている。
 「ブーゲンビル日記」は、当時、ブーゲンビル島に進駐していた陸軍部隊の衛生兵が密かに書き遺してあった、山本長官の捜索活動を記したものを、“私”が偶然発見し、それを基に追及していく筋立てである。

 山本五十六は昭和18年4月18日、南方戦線視察の名目で、ラバウル航空基地を発ってソロモン諸島のバラレ飛行場へ向かう途中のブーゲンビル島上空で敵戦闘機16機の待ち伏せにあった。
 一式陸攻2機に、視察団として山本五十六、宇垣纏参謀長ら9名が搭乗し、零戦6機の護衛をつけて離陸している。
 山本の搭乗した一式陸攻は撃墜され、ブーゲンビル島のジャングルに落ち、宇垣参謀長の乗った機は撃墜されたが海上に落ちたため、宇垣らは重傷を負いながらも助かった。 

 ブーゲンビル島には陸軍と海軍部隊が駐留していたので、すぐさま陸海軍共同で捜索が開始された。墜落地点は海軍機がすぐに発見し、陸上捜索隊に知らせたが、なにせジャングル内のことで捜索は難航を極めた。1時間でわずか数百メートルしか進めない。支那から転戦してきた部隊が持つコンパスはジャングルのなかでは役に立たず、多くの捜索隊グループが出されながら、なかなか現場に辿りつけなかった。

 翌19日夕刻にはじめて現場に着いたのは、陸軍の浜砂少尉の指揮する捜索隊だったということに、公式の記録はなっている。だが、その捜索隊も日没が近いため遺体の収容は断念し、散乱した遺体をマニラ麻の葉で被い、一カ所にまとめただけで引き上げたとなっている。これも解せない。せめて山本の遺体くらいは20人もいれば担いで回収できたであろうに。

 しかし、柴田氏が発見した「ブーゲンビル日記」の筆者は、翌20日午前に自分たちの捜索隊が発見した現場では、腐乱した遺体が散らばった凄惨な様子が描写されている。

 公式記録では、山本長官は機上の座席に座って軍刀を握りしめたまま死んでいたことになっているが、「ブーゲンビル日記」では、なんと外の倒木に座して軍刀で身体を支えていたと書かれている。
 致命傷になった銃創も、公式記録では射入口は左肩で、そこからアゴを通って右側頭部に抜けたとされている。つまり斜め下から上に向かって銃弾が通ったことになる。機上で即死したことになっている。
 だが、「ブーゲンビル日記」の衛生兵が検死に立ち会った記録では、射入口は同じ左肩だから射出口は左脇腹である。上から下に向かっている。

 しかも、公式記録では銃創を認めているが、米軍P38戦闘機が装備していた機銃は20ミリ機関砲である。この弾が肩から頭に抜ければ山本の頭部は首から上が木っ端微塵に吹き飛んでいたはずなのである。
 「ブーゲンビル日記」の衛生兵の証言では、射入口は約8ミリ、射出口は約15ミリの貫通銃創である。小口径の弾である。戦闘機の20ミリ機銃弾に当たっていればこんなことではすまない。これは明らかに日本軍の拳銃で撃たれたことにしかならない。

 よく戦争映画なんかでは、戦闘機どうしの空中戦で、敵機に撃たれたパイロットが血を流しながら、友軍機に手を振りながら墜落したり、敵艦に最後の力を振り絞って敵艦に突撃したりするシーンがあるが、20ミリ機関銃弾が当たれば、そんな余裕があろうはずがなく、瞬時に木っ端微塵になる。

 つまり、山本長官は撃墜されながらもかろうじて生きていて、機外に出て救援を待っていたのであろう。山本とそばで息絶えていた軍医長だけが、他の戦死体にすでに蛆がわいて腐乱していたにも関わらず、さして蛆も発生しおらず、腐乱していなかったのであった。「遺体の状態はおおむね良好」となっている。
 これはつまり、最初に19日夕方に浜砂少尉の捜索隊が発見したときには、山本は生きていた可能性が高いのである。
 
 またブーゲンビル島に駐留していた陸海軍の部隊は幾つものグループを組んで捜索に出ているが、いずれも難航し、どうもわざと発見を遅らせた気配があるが、その詳細は省略する。

 そして銃創のありようからすると、山本は自殺したのかもしれなかった。すなわち介錯する誰かが左後ろ側に立って拳銃で心臓を撃ち抜くという古くからの武士の自決作法どおりの処置をしたのだということになる。
 あるいは、死後の身体に拳銃を撃ち込んだかであろうと…。

 山本の前線視察には不可解なことが多い。そもそも連合艦隊司令長官が参謀長とともに最前線に視察を行なう意味がまったくない。常識では考えられない。
 山本は部下が引き止めるのを振り切って危険極まる視察に出かけた。

 しかも、そのときの軍装がおかしい。山本は視察や訓示などの公務のときは純白の第2種軍装を好んだ。普段は紺色の第1種軍装があったがこの日にかぎって、山本は普段嫌っていた第3種軍装(陸戦隊用の濃緑軍服)を着ていた。
 同行する他の参謀や幕僚たちは純白の第2種軍装だった。

 「一説によると『目立たぬように』という理由で他の参謀に勧められたともいわれるが、確かなことはわからない。山本は元来そのような部下の進言に耳を貸す男ではなかったし、目立つことを恐れもしなかった。だいたい航空機で移動するにもかかわらず、その機内にいる人間の服装が目立つとか目立たぬとかを議論すること自体がおかしい」
 と柴田氏は言う。そうだろう。


 山本の視察行が海軍で決定したのは4月3日のことだった。
 当時の日本軍はソロモン諸島で苦戦していた。そこで海軍は「イ号作戦」を実施し、ガダルカナル、ポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾などに展開する米機動部隊の主要基地に大空襲を敢行した。だが、大本営発表が「十分な成果を上げた」というほど米側に被害は与えられず、逆に日本軍は多大な航空機の損失をこうむった。失敗だったのだ。作戦は16日、つまり山本の死の2日前に終了になっている。

 この「イ号作戦」の間に参謀長らの視察計画が持ち上がり、たまたま連合艦隊司令部がラバウル入りしたときで、山本も「自分も同行する」と言い出して実現した、ということに戦史ではなっている。
 視察空域は敵の妨害がないから安全と判断したことになっているが、とんでもない、現地の基地は再三B24爆撃機の空襲を受けていた。
 それを承知で宇垣は安全と判断し、山本も決行の意志を曲げなかった。ここに謎がある。

 それに、連合艦隊司令部は視察する方面の基地に暗号を用いた無線電報で連絡をとった。傍受されている可能性が指摘されていたにも関わらず、こんな最重要事項の連絡に無線を使ったか、これが第二の謎とされる。
 当然、航空機による書簡通達で連絡をしなければならなかった。なのに司令部は「技術的に見て被解読の虞れは絶無である」と判断している。呆れてものも言えない。

 実際、米軍はこの無電を傍受し、ただちに解読に成功している。4月13日午後5時である。米側は山本を討ち取る決定をし、15日には現地の指揮官ハルゼイに通達された。
 4月18日に待ち伏せする作戦を立てたが、米軍はその待ち伏せ地点であるブーゲンビル島を16~18日にかけて3日間も空爆を加えている。いったいどういう真意なのか。

 現地が敵側の攻撃にさらされているとなれば、日本側は山本の視察を中止してもおかしくなかった。待ち伏せて討ち取るチャンスが消えてしまう。にもかかわらず米軍はさして意味があるとも思えない空爆を敢行した。
 なにがあろうと山本は視察する、やってくる、とアメリカ軍はわかっていたということである。
 それはなぜなのか…。


 (つづく)

http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/386661800.html
2014年02月01日
山本五十六の怪死の謎(2/2)
《2》
 柴田哲孝著『異聞 太平洋戦記』の謎解きは以下である。

 一つの仮説としては、山本は撃墜されながらも生存していた。だが発見に手間取った。翌日の19日までは腐敗の状態から言って生きていた可能性がある(なにせ熱帯の密林に屍体が放置されれば…)。だが発見は20日ということになっている。救出活動が迅速だったら助かったかもしれないのに、だ。この失態が露呈すれば海軍だけでなく軍部の面目が失墜する。そこで山本の遺体にあえて銃創をつくり、敵機の機銃によって機上即死の状況証拠を捏造したのだとするものだ。

 もう一つは暗殺説である。まだ生きている間に撃たれた可能性がないではない。
 山本は親米英派(条約派)だったから、海軍部内の反山本派(反条約派、艦隊派)に憎まれていた。その山本が周囲の反対を押し切って強行した(実はアメリカの指示であったが)真珠湾攻撃であった。この作戦こそ一定の成功はおさめたが、その後、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の攻防で敗退し、戦局は一気に悪化していた。
 だからすでに山本の立場は微妙になっており、誰が彼の命を狙ってもおかしくない状況だったのだ。

 そして最後の可能性は自殺である。
 山本は鬱病だったとする説も読んだことはあるが、ここでは置いて置く。
 柴田氏は米側の対応に注目する。
 当初、アメリカは山本五十六機の撃墜を発表しなかった。実に1カ月後(5月21日)に日本が国民に向けて発表したのに合わせて、ニュースに流した。
 その理由をアメリカ側は日本軍の暗号電報を解読していることを知られないためとするが、すでに待ち伏せして攻撃した時点で日本側は暗号が解読されたせいだとわかったはずなのだ。

 また山本機を撃墜した米軍パイロットの弟が捕虜になったため、報復されないように、と説明しているが、この弟が捕虜になったのはアメリカがニュースを発表してから1カ月後のことだったから、説得力はない。

 さらに以下引用する。

  *    *

 なぜ山本長官は、自らバラレ、ブイン、ショートランド方面への視察に行くといいだしたのか。なぜ現地との連絡に、傍受解読の危険のある暗号無線を用いたのか。なぜ米軍のニミッツ長官とハルゼイ大将はワシントンと頻繁に連絡を取るなど、必要以上に慎重に対応したのか……。

 考えてみれば、太平洋戦争は最初からおかしかった。なぜ真珠湾奇襲攻撃の指揮を、親米英派として知られ日米開戦に反対だった山本五十六が担ったのか。あれは奇襲作戦でも何でもなかった。米軍は事前に情報を入手し、当時のルーズベルト大統領も知っていたことはすでに歴史的既成事実だ。実際に山本長官は空母が1隻もいない真珠湾を攻撃し、アリゾナやオクラホマなどの老朽艦だけを沈め、米太平洋艦隊の生命線である400万バレルの燃料備蓄タンクや修理ドックは破壊しなかった。
 その後のミッドウェイ海戦やイ号作戦も同じだ。すべてが、日米のシナリオどおりだった……。

 “私”は、ひとつの仮説を立てた。山本五十六の死の謎も、同じなのだ。あの日……昭和18年4月18日……山本五十六と米側の間に、ひとつの密約があったのではないか。日米開戦から米側の反撃に至るまで、すでに山本五十六の連合艦隊司令長官としての役割は終わっていた。その山本長官を、米側に亡命させる計画が存在した。

 ジョーカーは、最初から米国が握っていたのだ…。
 そう考えればすべての謎は解ける。山本長官は、あの日に限りなぜ第三種軍装を着用したのか。それは米側に対する「亡命を受け入れる」という意思表示だったのではないか。

 16日から18日早朝にかけて米側がブイン周辺を空爆したのも、山本長官の回収を前提とした予定どおりの作戦だった、実際には日本側は駆逐艦などの主要艦を、ブイン港から離れた海域に避難させている。もちろん山本長官も、その意味を知っていた。だからこそ、“安全”であると判断した。

 考えてみれば、当初米側が立てた「山本が海上にいる時に駆潜艇を狙う」という作戦も奇妙だ。確かに山本側には、バラレからショートランドに駆潜艇で渡るという予定が組まれていた。だがこの予定は、不思議なことに、バラレ司令部には知らされていなかった。それをなぜか、米側は知っていた。すべては海上で山本長官を回収する計画であったと考えなければ、辻褄が合わなくなる。

 だがハルゼイ大将とルーズベルト大統領は、直前で作戦を変更した。すでに、山本五十六の役割は終わった。それならば、生きたまま“回収”する必要はない。ブイン上空で山本機を撃墜し、抹殺する決断を下した……。
 山本機が撃墜された時点で、すでに海軍の上層部は事の次第に気付いていた。そうなれば、かえって山本長官に生きていてもらっては都合が悪い。そこであえて墜落地点を隠し、南方のジャングルに不馴れな陸軍の部隊(第六師団は1月にブーゲンビル島に派遣されたばかりだった)に捜索を依頼して発見を遅らせた。陸軍が、南方では使い物にならない磁石を持っていたことも知っていた。(山本の)手帳の内容を気にしていたのも、そのためだ。

 確かに山本五十六は、墜落した時点では生存していた。彼は1式陸攻から外した座席に座り、右手に軍刀を握りながら、何を考えていたのだろう。その横には、やはり生き残った高田軍医長がいた。

 山本長官は、知っていたはずだ。アメリカに、裏切られたことを。そして、すべてが終わったことを理解していた。最後の賭けに負けたのだ。もし山本に自らの命を断つ理由があるとするならば、他には考えられない……。

   *    *

 鬼塚英昭氏の『白洲次郎の嘘』には、この柴田哲孝氏の『異聞 太平洋戦記』が引用されている。そして柴田氏が解明した昭和20年3月10日の東京大空襲も、真珠湾攻撃も、広島への原爆投下もみな八百長だったことを解明していることを紹介している。

 3月10日東京大空襲は事前に日本側に「ヨハンセン・グループ」を通じて軍部にも連絡されていた。日本側は東京ローズの謀略放送(ということになっていた)で、当日夜に「煙」とか「炎」とかの言葉が入った音楽を流した(「煙が目にしみる」「世界を火に包まないで」「過ぎ去りし日の恋の炎」)。それは、安心して低空飛行で爆撃に来ても大丈夫ですよ、日本の戦闘機は迎撃しません、という合図=暗号だったのだ。

 真珠湾攻撃のときは、アメリカのハワイの放送が、昭和12年12月8日未明(日本時間)普段は絶対に流すことはあり得ない日本の歌謡曲「目ン無い千鳥」の歌をニ度も流したのであった。その歌を合図に、日本軍機が全軍真珠湾に突撃して行ったのだ。アメリカ軍は迎撃してこないという暗号だったのである。

 もうひとつは昭和20年8月6日、広島に原爆を落とすためにテニアン島から飛び立ったエノラ・ゲイ機に対して、東京ローズは「センチメンタル・ジャーニー」を流し続けていた。つまり原爆搭載したB29が低空で侵入しても、日本軍は迎撃しませんという合図であった。


 これを解明した柴田氏はすごい。
 そして鬼塚氏はこう解く。
 「山本五十六は天皇裕仁、牧野伸顕らから、真珠湾攻撃における八百長工作を持ちかけられ、受けざるを得なかった。近衛文麿から東条英機に急に首相が替わったのも、天皇の作戦を東条英機が忠実に実行すると約束したからである。
 
 なぜ「目ン無い千鳥」の歌なのかは、たぶん、山本五十六の愛人がこの歌を好きだったからではないか。山本五十六はヨハンセン・グループから金を貰い続け愛人を囲う身分になっていた。
 山本五十六は愛人と最後の夜に酒をくみかわし、二人してこの歌を唄ったのではなかったか。それでアメリカに、この歌を流すように頼んだ。」

 鬼塚氏は東京大空襲も広島原爆投下も、ヨハンセン・グループがNHKを利用して無条件にアメリカ側に流させたと言う。
 ヨハンセン・グループとは吉田茂、白洲次郎、牧野伸顕、松本重治、牛場知彦、貞明皇太后、樺山愛輔さらには天皇裕仁を巻き込んだ売国奴の連中を言うのである。彼らはユダヤ国際財閥が仕掛けた戦争に協力して、日本を敗北させるべく暗躍したのである。
 
 ならば、山本五十六はアメリカから裏切られ捨てられただけでなくヨハンセングループからもはめられ、殺されたのかもしれなかった。もしかしたら、勝手な妄想かもしれないが、山本機を撃墜したのは米軍ではなく、日本の零戦か、山本を誘い出したのは生き延びた宇垣纏参謀長だったかも…。

 山本の遺体が荼毘に付されたのは、4月21日、検死後に秘密裏にジャングルの中で行なわれた。立ち会ったのはごく少数の司令部の首脳のみであるのも異常である。何かを隠す必要があったとしか思えない。

 ブーゲビル島の密林で、救助を待つ山本を射殺したのが日本軍特務機関員だとすれば、この者はヨハンセングループなりヒロヒトからの指令で実行したのかもしれない。

 柴田氏の「ブーゲンビル日記」によると、山本長官の捜索に当たった部隊の将兵はその後、みんな激戦地に送られほぼ全員が戦死している。これも異常な措置であった。上層部がなんとしても口を封じたかったのである。現地での目撃者たちを生かしておいては困るもの、その最右翼はやはりヨハンセン・グループなのではないか…。









原爆ホロコーストの犯人は誰だ!

「いまだに原爆の真相を教えられていない日本国民」


8月6日は、世界で初めて原爆が人類に投下された日である。日本人は、太平洋戦争当時のアジア諸国に対する加害の歴史もろくに教えられていないが、世界で唯一の被爆国であるにもかかわらず、「原爆がなぜ落とされたのか」という被害の歴史も正しいことは教えられていない。広島の原爆慰霊碑に掲げられている「過ちは繰返しませんから」という文言は私の大嫌いな言葉である。だって、どう考えてみても当時の子供たちを含む広島市民が、過ちを犯したとは考えられないからだ。市民は、いつも通りに家庭や学校や職場や道中で過ごしていたところに、問答無用にあの悪魔兵器を落とされて苦しみながら死んでいったり、死ななくても後遺症やいわれのない差別を受けて生き抜いてきたのである。
その最大の被害者である広島・長崎の市民が何の過ちを犯したというのだ!
過ちを犯したのは原爆を落とした加害者であるアメリカ政府であり、アメリカを支配している(過去も現在も)イルミナティである。いまだにアメリカ政府は、「原爆投下は必要だった」と、学校でも教えているし、謝罪もしない。仮に、「真珠湾攻撃をしてきたのが日本なのだから日本に非がある」、と言うのなら、あれも9.11と同様のヤラセ・陰謀であり、「アメリカ政府は真珠湾が攻撃されることを事前に知っていたが、知っていたにも関わらず、知らないふりをしてハワイのアメリカ人を見殺しにした。」ということは今や周知の事実であり、本やインターネットでも少し検索すれば、誰でも解ることである。
「原爆がなぜ落とされたのか」という疑問に対する回答は、以前に読んだが、鬼塚英昭氏の「原爆の秘密」という書に詳しく書かれているので、是非、一読することをお薦めする。
なんと、原爆投下の犯人はアメリカ政府だけでなく、日本国内にも存在していたことが判明するだろう。
鬼塚氏の「原爆の秘密」を中心に、原爆の真相に関する記事を掲載しているブログを紹介する。
いいかげん、日本国民は、「あの戦争の真犯人」を理解しなければならない。騙され続けているから、「3.11の第三の核攻撃」の犯人にも気付かないし、奴ら・イルミナティの思うがままに第四の核攻撃を受けてしまうかもしれないのだ。その時が来て“日本が終わってしまう”前に、しっかりと「真実の歴史」を学習して欲しい。



「かつて日本は美しかった」さんの「湯川秀樹と原子爆弾」より
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110814/1313268734
湯川秀樹は語らなかった。
 湯川秀樹と言えば、昭和24年(1949年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した理論物理学者です。大東亜戦争敗戦間もなくの頃、ノーベル賞受賞は日本国民を勇気づけた、と学校で習った記憶があります。
 大東亜戦争当時、ユダヤ研究機関「国際政経学会」の監事をしていた渡部悌治氏(著書「ユダヤは日本に何をしたか」より)
戦争中、日本で一日も早くその完成が待たれていた、マッチ箱一つの大きさで戦艦一つを沈めうるといわれていた新兵器は、今日でいう原子爆弾のことであった。そして仁科芳雄博士の研究では、実験段階では既に完成していた。
 しかし、その基礎理論が完結を見ないでおり、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていた。それが一応のまとまりをみたとき、これを一つの学説として発表してはどうかという案も出たが、軍の機密に属することでもあり、早計に外部に漏らしてはならぬという仁科博士の意見で発表は厳禁されていた。ところがそれを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。米国は終戦後、湯川の功績の論功行賞としてノーベル賞を授与させている。米国のためになったということで褒美がもらえたのだ。まさに国賊である
 実は日本でも原子爆弾の研究開発が進められており、海軍は京大の荒勝研究室、陸軍は理化学研究所(仁科芳雄博士)に依頼していました。湯川秀樹は京大の研究でも理論面で協力していました。しかし、予算はアメリカのマンハッタン計画に比べると微々たるもので、この研究を知り、原子爆弾の危険性を知った昭和天皇が「人類滅亡の原因が我ら大和民族であってはならない」と研究の禁止を通告していました。そして最終的には終戦を待たずに研究禁止となっています。
 この湯川秀樹の闇にジャーナリストの鬼塚英昭氏が迫っています。以下、京大の冶金教室の学生だった永田泰次さんの証言。
「原爆が投下される3ヶ月前の1945年5月のある日、冶金(やきん)教室の主任教授の西村英雄先生に突然呼び出されました。先生によると、アメリカの学会から秘密裡にニュースが先生に送られてきて、当時原爆製作をしていた日本より先にアメリカで成功したというのです。そして、その第一回現地テストを広島で行う予定が決まった。できるだけ早く両親を疎開させなさいとういことでした」
「先生に呼び出された時、先生の横に原子物理の湯川秀樹教授が座っておられた」
 アメリカでは広島・長崎原爆投下の半年前に「原爆使用反対」の声が一部の科学者より出ており、その中心になったのがシカゴ大学の冶金研究所のアーサー・コンプトン所長でした。シカゴ大学と京大の両冶金研究はスイスあたりを経由して情報交換したという可能性があるというのです。そして湯川秀樹はアーサー・コンプトン所長と親しく、戦前の昭和14年(1939年)、シカゴに訪ねています。鬼塚英昭氏は湯川の理論面での原爆研究データがシカゴ大学のコンプトン博士に何らかのルートで流れ、その見返りとして、広島に原爆を落とすというアメリカの極秘情報がコンプトン博士から伝わったと推理しています。 このほか、鬼塚英昭氏は広島の高師付属中学校の科学学級というのは湯川秀樹の進言により設けられたもので、勤労動員をうけることなく、疎開して被爆から逃れることができている、という点を指摘しています。また、本来、ノーベル賞は仁科芳雄博士と二人で受賞するべきだったものが湯川秀樹一人になっていることも挙げています。
 いずれも証言証拠、状況証拠であり、まだ内容が弱い。確実なことはいえません。戦後、湯川秀樹は原子爆弾の研究開発に関わったことについては黙し、核兵器廃絶を訴える平和運動に積極的に携わりました。核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えたラッセル=アインシュタイン宣言に共同宣言者として名前を連ねています。
 広島平和公園にある若葉の像の台座。湯川による短歌での銘文
「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」 (「まがつび」とは、災害凶事を起こす神)
 この言葉は懺悔なのか、欺瞞なのか、それとも湯川博士は売国行為とは無関係で純粋な心からでたものか・・・

参考文献
 成甲書房「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治(著)
 成甲書房「天皇は知っていた 原爆の秘密」鬼塚英昭(著)
参考サイト
 WikiPedia「湯川秀樹」「日本の原子爆弾開発」


「さてはてメモ帳」さんの「原爆の秘密by鬼塚英昭を原爆ホロコースト真実の書として推す。」より
http://satehate.exblog.jp/9318506/
私はどうして「原爆の秘密」を知りえたのか[序として]

一九四五年八月六日広島に、その三日後の九日には長崎に、アメリカは原爆を投下した。日本の敗戦はすでにはっきりしていた時期であった。私はながい間、「どうしてアメリカは日本に原爆を落としたのであろうか」と考え続けてきた。アメリカ側からの本もたくさん読んできた。日本人が書いた本も同様にたくさん読んできた。 しかし、私には疑問が残った。

日本は敗戦(「終戦」という言葉になっているが)工作を続けていた。アメリカは、その日本の敗戦工作の詳細を知りつくしていた。広島に原爆を投下する一週間前に、アメリカは原爆投下の最終準備に入った。天候だけが問題であった。それと同時に、アメリカは無条件降伏を日本につきつけていた。

日本国民は、日本政府の敗戦工作も、アメリカを中心とする連合国の敗戦提案も何ひとつ知ることがなかった。

それだけではない。広島では、原爆投下直前の八月三日ごろから、投下の中心地付近に多くの学童・生徒が集められていた。しかも、原爆投下の直前にもかかわらず、アメリカ軍機の空襲の情報さえ、広島市民は何ひとつ知らされなかった。長崎市民も悲劇に放り込まれた。広島の原爆投下についての情報をほとんど知ることがなかった。

私は、広島と長崎に落とされた原爆について調べているうちに、常識では考えられないような矛盾点を数多く発見した。そのためにもアメリカ側の資料を読み、原爆とは何か、どうして原爆がつくられるようになったのか、どのような過程でつくられていったのか――を調べていった。そしてついに、アメリカがどうして原爆を投下したのか、という私の積年の疑問が少しずつ解けていくのが分かった。

私は原爆製造の謎に挑むことによって、原爆投下の謎を解明しえたのである。従来の原爆投下説と私の説は、全くといってよいほどに異なる。読者は私の本により、原爆投下は何よりも、国際金融寡頭勢力とも呼ぶべき集団が主役であると知ることになる。

私たち日本人は半世紀以上にわたり、騙され続けている。私たち日本人は、真実に眼をそらさずに直視しなければならない。もし、現状のままでいるのなら、広島と長崎の悲劇がふたたび繰り返されるであろう。

この本を、広島と長崎で死に、あるいは傷ついた人々に捧げたい。



日本人はまだ原爆の真実を知らない[序として]

原爆はどうして広島と長崎に落とされたのか? 多くの本は、軍国主義国家たる日本を敗北させるために、また、ソヴィエトが日本進攻をする前に落とした、とか書いている。なかでも、アメリカ軍が日本本土に上陸して本土決戦となれば多数の死者を出すことが考えられるので、しかたなく原爆を投下した、という説が有力である。

しかし、私は広島と長崎に原爆が落とされた最大の原因は、核兵器カルテルが狂気ともいえる金儲けに走ったからであるとする説を立てて、姉妹書『原爆の秘密国外篇』を書きすすめたのである。(引用注:同時に金融寡頭勢力による世界支配)

核兵器カルテルとは何か? アメリカのロックフェラー、モルガンという巨大な財閥が戦前の世界金融を支配していた。 

ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現したのである。

ウラン爆弾は、ウラン238からウラン235を抽出し、このウラン235を使い原爆を製造する。プルトニウム爆弾は、ウラン238から原子炉を用いてプルトニウム(引用注:に変換後)を抽出し、これを使って原爆を製造する。

ウラン爆弾の製造は一九四五年の春には完成していた。しかし、プルトニウム爆弾の製造は遅れた。しかも、核実験しなければ実用の可能性があやぶまれた。一九四五年七月十六日、プルトニウム爆弾の実験がようやく成功する。時あたかも、トルーマン大統領とチャーチル首相(英国)、スターリン首相(ソ連)がポツダム会談をしていたときであった。

この実験が遅れたために、プルトニウム爆弾の完成が遅れたために、日本の降伏も遅れたと私は書いた。それは、核兵器カルテルのために日本の敗戦が遅れたことを意味するのだと私は結論した。

この原爆製造と投下の総指揮をとったのは、陸軍長官ヘンリー・ステイムソンである。彼はモルガン財閥の一員でもある。 アメリカのみのためではなく、モルガンのために、国際金融寡頭勢力のために、要するに核兵器カルテルのために、スティムソン陸軍長官は原爆投下の総指揮をとったのである。
そのために、スティムソンは日本の「あるルート」を通して昭和天皇との秘密交渉を続けた。原爆を完成し、これを広島と長崎に落とすまで、天皇に敗北宣言をさせなかったのである。無条件降伏とは、原爆を落とすために考え出されたアメリカの謀略であった。何も知らない日本人は完全にスティムソンと天皇に騙されたのである。
本書『原爆の秘密国内篇』はこの私の推論が正しいことを立証するものである。ただ、その過程では、日本人として知るに堪えない数々の事実が浮上してくる。読者よ、どうか最後まで、この国の隠された歴史を暴く旅におつき合いいただきたい。それこそが、より確かな明日を築くための寄辺となるであろうから。

二〇〇八年七月、またあの日を目前にして         
                                         鬼塚英昭


最後に、鬼塚英昭氏の動画「天皇のための戦争・天皇は内通していた」を紹介する。



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※最上部メニューバーの上に隙間がある方

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