日本人のルーツ - 嘘八百のこの世界

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ソウルマンの娘のマロンです。お散歩大好きです。 

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「はたし」て、「秦氏」の正体は?

「吉備国に秦氏の足跡を訪ねて・・・」


先日、岡山県総社市にある秦に行ってきました。秦と書いてハダと読みます。
この地名のゆかりとして秦氏の存在があることを知ったことが、この地を訪ねた理由です。
秦氏といえば、大多数の人が京都(特に太秦)を連想するのではないでしょうか。
私も、つい最近まで、そのイメージしかありませんでした。しかし、秦氏は238年頃、2万人を引き連れて百済からやってきた渡来人だとのことですが、京都に住み着く前に、岡山のこの地で暮らしていたとのことなのです。
高梁川の湛井堰(たたいぜき)という井堰がありますが、この井堰は、秦氏が建造したとウィキにも記されている桂川の葛野大堰(かどののおおい)に類似しているようなのです。
秦氏は蚕・機織りの技術はもちろん、土木技術も日本にもたらしています。
これに限らず、京都太秦と総社市秦には、似通った点が多々存在しています。
詳細は、総社市秦の地元の方が解説されている動画がありますので、ご覧になってみてください。かなりの「古代史の真実」が語られていると思います。
私が訪ねたのは秦原廃寺等の一部の史跡のみですが、古墳など多くの史跡がこの地に残されているようです。全く観光化されていない静かな部落でしたが、日本の「古代史の真実」が静かにこの地に眠っているように感じました。
秦原廃寺の前は土でできた空き地になっており、土の穴から顔を出しているカエルがたくさん生息していました。あれがツチガエルという奴なのかな?
秦原廃寺は、寺といっても、小さい区画に心礎等があるだけの、簡素な廃寺でした。
飛鳥時代の建立だとのことで、ひょっとしたら、西日本最古どころか、日本最古の寺だという説もあるそうです。
この地を去った後、吉備の五重塔や最上稲荷等の有名な史跡も訪ねましたが、圧倒的に、この土地の方が印象に残りました。恐らく近隣に住まれている方も、ほとんど訪れていないのではないのではないかと思いますが、また機会があれば、皆さん、訪ねてみてください。

私は日ユ同祖論者ではありませんが、「古代にユダヤの末裔が日本にやって来て、現在の私たちに“当たり前”のように備わっている、日本語・文化風習・神社・祭り・相撲・機織り・土木技術等に多大な影響をもたらした」ということは、間違いのない事実だと思っています。秦氏がユダヤの末裔であることも、間違いないでしょう。
私がいつも糾弾している悪魔崇拝勢力は、ユダヤではなく、ユダヤを偽った「偽ユダヤ」を中心とした勢力であることを、改めて記しておきます。








ヤマトはヤマノフモトが語源である

「日本起源の謎を解く」②山本健造


前回に続く。今回は疑問に感じた箇所の一部を引用する。


<疑問に感じた箇所>
*この「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」は、長髄彦が神武天皇と長年に亘り激戦し破敗れて津軽に逃げて来たのであり、神武天皇は逆賊であるという立場をとり「古事記」や「日本書紀」、「六国史」は朝廷を美化するためのもので偽史であると非難し怨み続ける姿勢を貫いているのです
・・・・・(中略)・・・・・
この「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」の最も大きな間違いは、長髄彦が道徳を尊び徒(いたずら)に争わず平和を愛好した義人であることを否定する事です。長髄彦は神武と知らずに、抗戦したのであり、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)から神武天皇が正式の皇統命(スメラミコト)であることを聞き、神武天皇の兄を流矢で殺していること等を考えて、徒に交戦してはならぬ事を知り、今まで仕えて来た饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の立場も考えて、無傷の大軍(東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」には6400人もいたとあり敗れたとはいえない)をつれて舟で日本海を北上して津軽の十三湖に上陸して新天地を開かれたのです。
・・・・・(中略)・・・・・
ところが「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」を書く寛政の頃は、遠い昔の長髄彦精神も忘れられて、反朝廷、反逆に走り、世間に漏れたら投獄か、死罪に値するような危険な書物を書いて子孫に残したのです。子孫でも、直系の家を継ぐ者一人だけに読むことを許し、血判で先祖に絶対に兄弟姉妹にも漏らさぬ事を誓わせる程に子孫の安全を心配したのです。
・・・・・(中略)・・・・・
和田家、秋田家に伝えられた「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」は恐ろしい反逆心で貫かれたものであったから、子孫の安全を真剣に心配されたのは当然であると思います。幸いにして、戦後は反逆不敬罪もないので、世に出たわけです。
願いたいのは東北の皆様は「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」を参考になる処は読まれても、国を危うくする分裂、反逆精神に惑わされないように批判的に読まれたいと思います
そして、その奥に隠されている武士道精神を読み取る心算で読まれたいと思っています。

それから「秀真伝(ほつまつたえ)」は天照大神(ヒルメムチ)を男神であると伝えています。太古は女が家の中心であり、男は女の家に通ったのです。これはどこの国もおなじでした。中国の古書には「子は母を知りて父を知らず」と出ていて姓(かばね)という字は女偏であります。後の世になって重労働や武力闘争が必要になるにつれて男の権威が高くなり、男が家の中心となりました。中国は日本よりも早く、男性中心に移行したので儒教などは男尊女卑の思想がはっきりしています。国の中心となった御方を男として考えるということは余り太古ではないと思われます。秀真(ほつま)の考えは儒教的思想が日本に根強く定着してからと推定されます。

*平成2年8月、イラクがクウェートに突如侵攻し、更に世界各国の人々を人質に取るという恐るべき蛮行を働きました。各国は経済封鎖等で、イラクにクウェートから撤退するように談判しましたが応じない為、アメリカを中心とする連合国側は軍事力行使以外に道なしと判断しました。
驚くべきことに日本ではそれから反戦デモが起こり出し、それはまさにアメリカに向けられているものでした。クウェートで銃を持って暴れている悪者を追い出そうという、いわば警官であり、正義のアメリカに対して“平和”という名の反戦運動は、まるで警官の手足を縛り、極悪者を応援し助けている大愚です。その大愚を某大学の学者まで強く支持しているのが日本の現状です。その人々は、万一日本がクウェートの二の舞になったら大変だと考えないのでしょうか。

*米ニューハンプシャー大学のデニス・メドウズ教授らが、1992年5月12日に福岡市で開催された「ローマ・クラブ福岡会議イン九州」で次の如く報告しています。「今のままでは1990年から2020年の30年間で世界の人口は50%増える。2000年を過ぎる頃から地球汚染はピークを迎え、不毛化が進み食糧は人口の増加に追いつかず飢餓状態が続出する」云々。
スイスその他の国々は万一の為、主食は2年分近く備蓄しているとの事です。世界に万一動乱が起こった時、食糧が入らない場合は必ず起こってきます。食糧自給の出来ぬ島国は最後の土壇場の弱さで外交の掛引きも効き目なく主権も保てなくなります。このまま平和に打過ぎても、世界人口が溢れて食糧飢饉が世界的に広がり、日本の食糧自給は減少し恐慌が起ることは必至です。



(管理人)
結論から述べると、「本書に書かれていることは大筋正しいのではないか」と思う。
「ヤマトはヤマノフモトが語源である」、「橿原神宮の近くに「ヒダ」の名の地名が数多く残っている」、「石冠や御物石が飛騨で数多く発見されている」、「長髄彦は殺したことにして東北へ流した。そしてアラハバキ王国を建てた」、「「古事記」の語部(かたりべ)である稗田阿禮(ヒエダノアレイ)はヒダノアレイの読み違えである」等々の「飛騨高天原説」を裏付ける数多くの証拠がある。
ただ気になるのは、著者が根拠とされている「飛騨の口碑」に関する記述があまりにも少ないことである。天皇の出自に関する記述なので詳細を記せないのかもしれないが、もう少し「飛騨の口碑」に関する具体的な伝達方法なり証拠が存在すればな、と感じる。
そして、他の歴史書、「秀真伝(ほつまつたえ)」や「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」及び、引用はしなかったが、神代文字を徹底批判しているところも気になった。
かといって、「古事記」「日本書紀」については基本的には認めているのである。
私は「東日流外三郡誌」の詳細を調べていない。しかし、先日批判した原田実氏が偽書だと糾弾している点からも(イルミの走狗として歴史学会に異論を唱える人物や書を批判することで生活をしているとしか思えない人物に否定されている書なのだから)、逆に捕らえれば、「東日流外三郡誌」は「ある意味、真実に迫っている書なのかもしれない」と感じる。
前にも書いたが、原田氏は9.11についても「アメリカ政府の公式見解は正しい。犯人はアルカイダとビン・ラディンだ」と主張されるような人物だと思われる。
いくら私が数々の偽旗テロの証拠を提示したとしても、根拠のない難癖をつけて偽旗テロ説を否定するのだろう。「彼ら」に飼われた工作員として飯を食っている以上仕方の無いことなのかもしれないが、“哀しい人生だな”と、憐れみさえ感じてしまう。

脱線してしまったが、本書に戻ろう。山本氏は故人のためあまり悪く言いたくはないのだが、疑問に感じるところが多々あったので書いておきます。まず、山本氏の立ち位置も古事記・日本書紀を中心とした歴史学会の立場にたつのか、歴史学会の唱える公式ストーリーを否定する立場にたつのか、はっきりしていないように感じる。
「飛騨高天原説」を主張している割には「古事記・日本書紀」を良しとして、「東日流外三郡誌・秀真伝」を否定しているのである。「東日流外三郡誌」については長隋彦と神武の戦いに異論があるのは理解できるが、少なくとも、「東日流外三郡誌」はアラハバキ王国を認めているのだから、記紀よりは山本氏の説に近いと思われる。「秀真伝」については、天照大神が女性神か男性神かの違いで対立するだろうが、「天照大神が太陽神だ」とすれば、世界の歴史上の常識から言っても「太陽神=男性神」なのだから、この点については山本氏の説は分が悪いだろう。
イラクとクウェートの湾岸戦争の話を引用して、「日本は何故に正義の国アメリカを応援しないのか。反戦デモなんてとんでもない!」と、語っているところはアホらしくて話にもならない。
極めつけはローマクラブを引用して、食糧問題を真剣に憂いておられるところは冗談も休み休みにしてほしいと感じた。テレビや新聞しか見ていなければ理解できないのは仕方ないのかもしれないが、ローマクラブがどういった組織なのか全く分かっておられない・・・・

ただそういった疑問点は別として、「飛騨高天原説」は単なる一つの説ではなく、“限りなく古代史の真実に近い説である”ということを理解できたのは、本書を読んだ最大の収穫でした。
コメントいただいたMisaki-1167さん、有難うございました。



評点:80点

私達の先祖は飛騨からきたと代々言い伝えがあります

「日本起源の謎を解く」①山本健造


1991年の書である。以前、太田龍氏が著書の中で「飛騨高天原説」に触れておられたので少し関心を持っていたが特に調べていなかった。
そんなことは忘れていた頃に、Misaki-1167さんからこの説に関するコメントをいただき、ご推薦いただいたため読んでみた。
複数回に分けて、価値ある箇所と疑問に感じた箇所を記す。今回は価値ある箇所を一部引用する。



<価値ある箇所>
*安田喜憲(よしのり)氏の「湖底の泥中(でいちゅう)の花粉の研究」により4万年前からの植物の繁茂の変遷が手に取るように判定されるようになりました。それから推定すれば8590年前より地球上の温度が上昇を始め、5670年前頃より飛騨の高地は人類が住むのに楽になり、4500年前(縄文中期)には今より7度も気温が高くなり、下界は蒸し暑く飛騨に高度の精神文化の華が開いたと推定されます。
その頃、比較的冷涼であった東北地方に凸状の石器の石冠(せきかん)を奉じて集団移動をはじめたと推定されます。全国に219個発見されている石冠の中67個は飛騨に発見され、新潟県中郷村の主として墓地より65箇出土し、残りは東北地方にバラまかれています。
ところが四千年頃をピークとして温度が下降し3千年頃から2500年頃までに降雪を見るに至り、石器の凹状の御物石(ぎょぶついし)を奉じて暖地(だんち)への集団移動がはじまりました。御物石は全国より144個(1976年現在)発掘されていますが、その中74個は飛騨より発見され、飛騨に近い美濃、富山、石川から43個が発掘され、その他は暖地にバラバラと発見されます。これらの石器は彫刻が施され先祖を祀る御神体と推定されます。
その後、2100年頃に二度目の大雪と厳寒が襲い、そのために集団でヤマノフモトへゆこう運動が起こり、飛騨政権の移動が起こったのが「古事記」や「日本書紀」に神話伝説として残る「天孫降臨」と推定できます。この時は石を奉ずる風習はなかったと推定されます。「古事記」では鏡になっています。
「出雲の国譲り事件」とは、以前より飛騨政権と出雲政権は政略結婚を重ねていて、天照大神(ヒルメムチ)の弟、スサノオが出雲に婿入りした頃、ウラジオストックの近くに今も住むオロチ族の荒くれ男が出雲で砂鉄をとり、刀を造っていて女狩りをして荒びたのを酒を呑ませて酔い崩れたところを切ったのが、オロチ(大蛇とお伽話化される)退治です。その後、飛騨と出雲の結婚問題のもつれは談判の末「出雲の国譲り」が断行され、それが神話となったのですが、神話ではなく事実なのです。
同じ頃、九州では外国の民族が三巴(みつどもえ)となり睨み合い、このままのしておくとその勢力が本土を征服する心配があったのです。今後どうするべきか飛騨の安川原(やすかわら)で、繰り返し相談が持たれ、このまま時間がたてば大変なことになるので、九州の問題を早く解決せよ、その後飛騨は山奥であり、雪が降ってくるようになったのでヤマノフモト(大和)へ政府を移す相談が決まりました。その中心になった御方が後に天照大神と敬われる肇国(ちょうこく)の大恩人ヒルメムチという一女性であったのです。
相談した結果に従って、天照大神(ヒルメムチ)の子や孫を中心にして、大和に都を開くべく開拓に取りかかりました。飛騨政権の後継邇々芸命(ニニギノミコト)は九州解決の為、大勢引きつれて九州の高千穂へ向かったのです。天照大神(ヒルメムチ)より「平和裡に解決せよ」と命令されている為、三十年余りも経って、継邇々芸命(ニニギノミコト)の孫に当るサヌ命(神武天皇)が大和への帰還を果たすのです。

サヌ命(神武天皇)が大和入りしようとした時に、相手が何者か知らず射ち合いとなりサヌ命(神武天皇)の兄イツセ命が殺されました。後、話し合いでサヌ命(神武天皇)が帰られたことが解かり、責任者の長髄彦(ナガスネヒコ)を軟禁したのです。「日本書紀」では長髄彦(ナガスネヒコ)は殺されたことになっていますが、飛騨の口碑では「殺したことにして東北へ流した」と伝わっています。
長髄彦(ナガスネヒコ)は家来をつれ東北へ行き、そこでアラハバキ王国を建て、そこにヤマト城を築いたのです。その城跡は20数年前に土木工事の為崩されたのは誠に残念です。その子孫に元秋田子爵、故阿部晋太郎氏(元自民党幹事長)等の名士があります。
サヌ命(神武天皇)が大和へ帰還される時次兄のイナヒ命や三兄のミヤケマ命を九州に残して九州のヤマト国を治めさせました。その子孫に邪馬台国(ヤマタイコク)ではなく邪馬臺国(ヤマトコク)の卑弥呼がでたのです。
天照大神はサヌ命(神武天皇)の4代前の先祖であり、卑弥呼は九州の大和を兄弟にまかせたその子孫であり全く時代が違う別人なのです。

天皇の在位年数の科学的計算法を安本美典博士の著書に学び、更に新法式を編み出して計算してみますと、天照大神(ヒルメムチ)の在世時代は卑弥呼の時代より約266年以上昔でなければなりません。西暦前27年以上前の実在の人物です。そして神武天皇の即位は西暦33年より前でなければならぬことになります。

*飛騨のアルプス麓(ろく)の名家に、素晴らしく名誉で重大な口碑や絵文字のような記録が残されていて、天皇家の先祖につながることなので他人に漏れると、近い人々には大法螺(ほら)吹きとして苦笑され、時代によっては不敬罪として投獄され、記録は没収焼却されてしまう事は決まっているから、長男だけに、それも成熟して、他に漏れる心配がなくなってから読ませるという厳しい制限付きの古記録があったのです。それをある事情によって、他人である私が口伝され、それを筆記して本棚に納めて50数年もたちました。その口碑が正しいかどうか、全国に旅して調査を重ねるに従って「古事記」や「日本書紀」にボカシてある所が、はっきりと判かって来ました。さらに、口碑にあることが正しいという証拠が次々と出てきたのです。

天照大神(ヒメルムチ)の弟のスサノオノミコトがオロチ族の荒くれ男達を退治して、それらの鉄剣を献上がてら出雲から飛騨に帰った時に、今後の出雲政権と飛騨政権が平和にいく為に互いに子を結婚させるという契約(うけい)をしました。「古事記」では姉の天照大神(ヒメルムチ)と弟の素戔鳴命(スサノオノミコト)が結婚して一度に男5人、女3人の子を産んだと思わせるような文章になっています。飛騨政権からは長女の多紀理姫(タキリヒメ)が出雲の大国主に嫁入りして二人の子が出来たのに大国主は須勢理姫(スセリヒメ)を正妻にする為に父素戔鳴命(スサノオノミコト)の許可を得ようと訪問した時、父は怒って大変に叱ったが、父の言葉を聞かずに須勢理姫(スセリヒメ)と逃げてしまうので素戔鳴命(スサノオノミコト)も仕方なく泣き寝入りし世を去るのです。
「古事記」ではなぜスサノオノミコトが大国主を叱りいじめるのか全然わからないのです。
正妻の座を取られた多紀理姫(タキリヒメ)は二人の子を残して飛騨に帰ってきたことが大騒動になりました。残した男の子は阿遅志貴命(アジスキノミコト)、妹が下照姫(シタテルヒメ)といいます。阿遅志貴命(アジスキノミコト)は出雲の王様になる座を追われてカモといわれました。カモとは継子(ままこ)という意味です。カモ命と下照姫(シタテルヒメ)が年頃になる頃まで、飛騨政権はカモ命を出雲政権の後継者に据えるように交渉を続けたが、うまくゆかないので、若彦(ワカヒコ)を全権大使格で出雲に遣わしたのですが、若彦は出雲の権勢に恐れをなして言い出さず、下照姫の美しいのに惚れて子を孕ませて、出雲の王になろうと狙っていました。
飛騨では8年たっても何の返事もないので高木命(タカギノミコト)の姫、雉名鳴女(キジナナキメ)を探偵に出されました。若彦は雉名鳴女(キジナナキメ)を見覚えがあったので、飛騨に秘密のばれるのを恐れて雉名鳴女を射殺しました。この矢を引き抜いて御伴の女が持ち帰ったところ、この矢は髙木命が若彦に餞別として与えたものでした。
若彦の悪事がはっきりしたので、密使を遣わして若彦を射殺しました。
若彦がなぜ射殺されたか知らぬ下照姫と兄のカモ命は飛騨に帰れば祖母の天照大神(ヒルメムチ)や、母多紀理姫(タキリヒメ)にも面会して葬式ができると思って、若彦の遺骨をもって美濃の飛騨路まで辿りつき若彦の妹の家に泊まった時に、若彦の反逆を知り、逆賊の遺骨を飛騨に持参できないので、そこで葬式をすることにしたのです。

・・・・・(中略)・・・・・
カモ命や下照姫の子孫の親子、孫の3人が神武天皇の大和入りの時、熊野の迂回路を案内して大功を立てたので、八咫烏(ヤタガラス)の称号をもらいました。それで下照姫の住みついた村を大八咫(おやだ)村といいました。今の美濃市大矢田(おやだ)です。今、天照大神(ヒルメムチ)より多紀理姫→下照姫→八咫烏の親子孫3人と血を受けついだ血統は、辻に立って道案内をした家として家紋は三羽烏となり、辻氏がこの村に栄えているのです。
兄のカモ命は出雲に帰っても継子で跡継ぎになれないし、飛騨にも入れないので美濃を開拓したのです。そこが美濃加茂市であり、御手洗姫(ミタライヒメ)の住んだところが御手洗(みたらい)町です。
・・・・・(中略)・・・・・
飛騨の入口に若彦、下照姫、カモ命の遺跡があり、飛騨には雉名鳴女(キジナナキメ)の生故郷(うまれふるさと)があります。そして「古事記」の語部(かたりべ)として、この物語を伝えた稗田阿禮(ヒダノアレイ)の住んだ阿禮屋敷(アレイヤシキ)が飛騨路の峠の下に今も残り、その子孫の阿禮清一(アレイセイイチ)氏が今も健在です。稗は音では「ヒ」であり、訓では「ヒエ」です漢字が輸入された当時は「稗田阿禮(ヒダノアレイ)」と書いていたのを、後世になって稗田阿禮(ヒエダノアレイ)と読み違えてきたと推定されます。

出雲政権は飛騨政権との話し合いの談判に屈して政権を飛騨に返上したのが「出雲の国譲り」です。それからヒルメムチ(天照大神)の孫邇々芸命(ニニギノミコト)は「九州でよその国の人々が三巴(みつどもえ)になって戦っていて、それが終わると本州に攻め上り、日本古来の民が危ない、行って話し合いで治めよ」とのヒルメムチ(天照大神)の命を受けて若い男女大勢つれて山を下るのが「古事記」の天孫降臨です。

その為、鵜萱葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の子サヌ(神武天皇の幼名)は邇々芸命(ニニギノミコト)の本当の孫に当るのですが、「古事記」ではヒコ孫(4代目)になっています。
サヌ(神武)が、高天原の会議で決議されている通りに近畿地方の大和に帰還して都を開く為に九州に一族の一部を残して九州の統治を任せて、他の一部をつれて日向を出発されたのです。九州に残された政権が九州の邪馬臺国(ヤマトコク)であると私は推定します。サヌ命(神武天皇)が出発された地にはっきりと口碑が残っており、今は記念碑があります
。・・・・・(中略)・・・・・
飛騨の人々から見れば奈良の都の予定地はヤマノフモトであったのです。ヤマノフモトはヤマトと約(つづ)まったのです。
この地大和には饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が先に飛騨から来て開拓して待っておられ、長髄彦(ナガスネヒコ)の妹を后にしておられたのでした。饒速日命は邇々芸命の兄です。弟邇々芸命の孫と対面され、互いに天照大神(ヒルメムチ)から授けられた十種(とくさ)の神器(じんぎ)を示し合い、同族であることが証明されたのです。長髄彦の大軍は陣を張り将(まさ)に合戦になる寸前だったので、ゆっくり相談する間もなく長髄彦を軟禁して全軍の引き上げを命じたのです。この時の様子は事情を知らぬ者には如何にも不思議だったので、神武天皇の弓に金の鵄(とび)が止まると賊軍は目が眩(くら)がって
一目散に逃げたという象徴的なお伽話となり、戦場で勲功のあった兵士に贈られる金鵄勲章(きんしくんしょう)の由来となっています。


神武天皇が天皇(スメラノミコト)の位につきなさる時、飛騨の位山の先祖の霊に報告され、位山の一位の木の板を「位板(くらいいた)」として授けられたのです。今の辞令に当ります。後に「手板(ていた)」と呼びました。位板は矩形(くけい)の板だったのです。後に中国より笏木(しゃくぎ)が輸入されました。笏木は文書を書いた紙をはっておく為のもので位板より長い板で手に持つところはせまく削ってあります。位板と笏木は本来は別のものですが、代々の天皇の即位式には位山の一位で謹製された笏木が献上されるようになったのです。
幼名サヌが大和に入られてからヤマトイワレ命と改名され、更に天皇(スメラミコト)の位につきなさる時は飛騨から大勢の男女が大和にゆき御殿をつくり御仕(おつか)えしたのです。これが認められて飛騨の匠となったと推定されます。
橿原神宮の傍(かたわら)にはヤマトの語源と推定される山本部落が今も残っています。その近くには飛騨町、上飛騨町、飛太郷、飛騨庄、飛田、日多、比田、斐田、日高(ひだ)、疋田(ひだ)、蟇田(ひだ)、辟田(ひだ)、があり、吉野山に飛騨など飛騨人の住んだ地名が今も残っています。
調査に行った時、飛騨町の老翁(ろうおう)岡山薫氏(上飛騨町72番地在住)が「私達の先祖は飛騨からきたと代々言い伝えがあります」と言われました。

この方面の古代史を綴った書物が和田氏の宅に秘蔵されていて、それを公にされて、「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」と名づけられています
この書の中を読んで見ますと、長髄彦の軍は、神武天皇の軍に敗れて、大和より北方の津軽(東日流)に逃げて来たので「大和を奪った神武天皇は仇敵である」と言う意味の事が書いてあります。この為に、この書は戦前は禁書とされ、家を継ぐ者一人だけが読む事を許され、妻にも兄弟にも漏らさぬ事を血判で先祖に誓ったのでした。

鈴鹿から伊勢のあたりには飛騨の雲の上から下山してきた人々(「古事記」に所謂、天孫族)が多く住みつき皇室の祖先の天照大神を讃迎(さんげい)する情熱が高かったので、神風の吹く地と呼ばれたのであります。
伊勢の国には桑名市に稗田(ひだ)、鈴鹿市に稗田、肥田(ひだ)、多気郡に疋田(ひだ)、飯高(ひだ)などヒダと読める地名を始め、古代の神々(先祖)の名にちなんだ地名がたくさん残っています。大昔から飛騨の人々は長良川を下った所にある伊勢の地に大勢住み着き、都の出雲神道が盛んになった時も、天照大神の御恩を決して忘れることがなかったのです。それで倭姫(ヤマトヒメ)は伊勢の地に天照大神をお祀りされたのです。





日本起源の謎を解く―天照大神は卑弥呼ではない日本起源の謎を解く―天照大神は卑弥呼ではない
(1991/08)
山本 健造

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偽ユダヤ人の到来を予言していたイエス・キリスト

「古代ユダヤ人は日本に封印された」~「聖書」が明かす原日本人のルーツ~ 宇野正美



1992年の書である。聖書の記述から古代ユダヤ人が日本に来ていたことを探る。また、聖書預言とからめてアスケナジー・ユダヤ・シオニストの“偽り”を暴いている。
以下、一部引用する。




*東北地方、中でも南部(岩手県)の民謡「ナギヤドヤラ」は、昔から歌われてきたが、その意味を理解する者は誰もいなかった。しかし子々孫々その曲や歌詞は歌い継がれ、踊り続けられてきたのである。
・・・・・(中略)・・・・・
「ナギャド ヤーラョー
ナギャド ナサレダーデ サーイェ
ナーギャッ イウド
ヤーラョー」
何度読んでみても、この意味はわからない。しかしこの歌詞を研究して、これは明確に古代ヘブライ語であると言った学者がいる。川守田英二博士である。
博士は岩手県出身にして、長期にわたって古代ヘブライ語を研究した。博士によれば、「ナギヤドヤラ」は、「旧約聖書」の「出エジプト記」15章に出てくるモーセとイスラエル人が、神を讃えるために歌ったものであるというのである。
「主に向かって私は歌おう。
主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。
主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。
この方こそ、わが神。
私はこの方をほめたたえる」   (「出エジプト記」15章1、2節)




*アメリカのニューヨークにナイム・ギラディというユダヤ人がいる。
彼の先祖は今から2600年前、すなわちバビロン捕囚のころ、バビロン、今日のイラクに連れていかれた者たちであった。ペルシャの時代に同胞が元の国に帰ってもギラディの先祖はそのままバビロンに残った。アブラハム、イサク、ヤコブの血統そのものを引くユダヤ人である。
このギラディに民謡「ナギヤドヤラ」のカセットテープを聞いてもらった。ギラディは繰り返しこの民謡を聞いていたが、やがて彼は顔を輝かせて言った。
「なんと表現してよいかわからない。このリズムはアラビア半島の突端イエメンにいるユダヤ人たちが歌い続けてきた歌と全く同じである。なぜ日本にこのような歌が伝わっているのか

*ギラディ氏に古代ヘブライ語と日本語の類似性についても聞いた。その中で「ヤサカ」という言葉がある。ヤサカといえば、日本各地に八坂神社というものがあり、古神道そのものの趣を伝えている。
ヘブイライ語でヤサカとはどういう意味かと聞くと、日本語なまりの発音でそれを聞いたギラディは困った様子であった。しかしそれを繰り返し言葉に出して言っているうちに、突然大きな声を出した。
ヤッサカだ。それは「神よと叫ぶ」という意味である」と言った。
・・・・・(中略)・・・・・
神道には古神道以後に朝鮮、中国からその支配階級の人々が伝えてきた神道もある。それを弥生神道と言うという。この弥生神道と区別して、原日本人たちの神道あるいは古神道は「いなり」と言われた。
「いなり」といえば、今日では「稲荷」と書き、狐が祭られている神社であるかのようだが、本来は「異也」「夷也」と書かれた。おまえたちは異なるものだ、おまえたちは卑しいものだ、という意味である。これが古神道の宿命であった。
しかしそのように退けられ差別されようとも、古神道は今も息づいていること自体が不思議である。
・・・・・(中略)・・・・・
先ほどの八坂といえば、京都の八坂神社を思い出す。そこでは7月17日、祇園祭の山鉾巡業が行なわれる。なぜ7月17日にそれが行なわれるのか。多くの山鉾が出るなか、大きな船鉾も出る。おそらくそれは、昔から受け継いできた伝統だから詳細なことはわからない、ということになるだろう。
しかし「旧約聖書」の「創世記」には「箱舟は第7の月の17日にアララテの山の上にとどまった」(8章4節)と書かれている。
「旧約聖書」によると、創造主なる神から離れた人間は反逆を繰り返し、道徳と秩序は乱れに乱れた。神はこの世界を洪水によって裁こうとした。そのとき神は神を崇めるノアという人を見つけ、ノアとその家族に箱舟をつくることを命じた。
ノアが箱舟をつくって、やがてそれが完成し、ノアとその家族のほか多くの動物が一つがいずつ箱舟の中に入った。何百日にも及ぶ大洪水が続いた。箱舟の外にいたものたちはすべて死に絶え、箱舟の中にいたもののみが助かった。
やがて水はひき始めた。トルコと旧ソ連の国境近くにアララテ山(アララト山)という非常に高い山がある。標高5200メートル、日本の富士山よりもはるかに高い。このアララテ山のどこかにノアの箱舟が漂着したというのである。
やがて水がひき、渇いた大地が現われた。ノアおよびその家族が人類の新しい始祖としてスタートを切った。そのことはノアにとってどれほど大きな希望であり、喜びであり、同時に責任であったことだろうか。この日が7月17日であったと「旧約聖書」に記録されているのである。
もし日本に古代イスラエル人が来ていたならば、彼らは当然ノアのこの話を知っていた。そしてその日を記念して、力の限り喜びを表現したのではないだろうか。「神よ」と叫ぶ場所で、あたかもノアの故事を表現する様々な鉾を押し立てて、力の限り踊ったのではないだろうか。


*伊勢神宮とは言うが、元伊勢なるものがある。
元伊勢といっても丹波には2ヶ所あり、その一つは大江山の麓にある。しかしこれはのちにつくられたと聞いた。本当の元伊勢は籠神社である。日本三景の一つ、天の橋立をちょうど北から見下ろす位置に籠神社がある。
・・・・・(中略)・・・・・
なぜこの元伊勢なる籠神社が重要なのか。
実は今日の伊勢神宮の外宮にある豊受(とようけ)大神は、もともとこの元伊勢にあった。それが六世紀の初めごろ、伊勢に移送されたのである。これをいかに解釈するか。
また伊勢神宮の内宮に祭られている天照大神は、初めから今の伊勢神宮にあったわけではない。天照大神は25回にわたってあちらこちらと巡幸している。初めは倭国笠縫邑(かさぬいむら)であり、第二の土地がこの元伊勢なる籠神社であった。以後吉備国、大和国、伊賀国、淡海(おうみ)国、美濃国、尾張国などを移動しつつ25番目についに伊勢神宮の内宮となったのである。
このことによってもわかるように、大和朝廷が日本統一を成し遂げることによって、それまでの原日本人、特に丹波地域を支配していた丹波族の独立も終わってしまったのである。その結果、自分たちが奉り礼拝していた豊受大神を伊勢神宮に差し出した。それゆえ豊受大神は伊勢の外宮となったのだろう。この瞬間、大和朝廷の日本統一が政治、経済、武力等において完成したことになる。
しかし籠神社では82代にわたって、自分たちの素性を忘れることはなかった。自分たちこそが原日本人であり、丹波族を継承する者であると思い続けた。しかしそのようなことを口にするならば、ある時代には籠神社も、海部氏も抹殺されていたかもしれない。長期にわたって忍従があり、忍耐のときがあった。
籠神社のある責任ある立場の人が明言した。
「籠神社で祭られていた最高神は古代イスラエルの神である」


*1948年5月14日、イスラエルが建国され、そこに住んでいたアラブ系パレスチナ人たちが追い出されたとき、ユダヤ教徒カザール人たちは次のような聖書の言葉を引用した。これは創造主なる神がアブラハムに語った言葉である。
「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる」
(「創世記」17章7,8節)
カナンとは今日イスラエルのあるパレスチナである。しかしユダヤ教徒カザール人が、どうしてこの約束を主張しうるか。彼らはアブラハムと何の関係もない。しかし彼らはそれをカムフラージュしてイスラエル建国は「旧約聖書」の預言の成就と宣言したのであった。
このユダヤ教徒カザール人たちがユダヤ教に改宗するはるか800年ほど前、イエスは当時のユダヤの指導者たちにこのことを予告して次のように語っていた。
「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです」
(「マタイの福音書」23章15節)
ゲヘナとは地獄という意味である。
続いてかの有名な「ヨハネの黙示録」の中にイエスの言葉として、やはりユダヤ教徒カザール人たちのことが次のように書かれている。
「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうではなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする・・・・・」
(「ヨハネの黙示録」3章9節)
ユダヤ教徒カザール人たちの今日の姿、そしてこれから起こるであろう世界的規模の破局を思うとき、イエスのこの二つの先見性は驚くべき力をもって迫ってくる。


(管理人)
著者は日本史の高校教師を11年勤務した後、聖書研究に没頭して退職し、「中東問題と聖書研究センター」を立ち上げている。当初はイスラエルのメナヘム・ベギン首相と親交があったほどの「親ユダヤ」であったが、例の「ユダヤが解ると世界が見えてくる」がベストセラーになって以来、「反ユダヤ」のレッテルを貼られることになる。しかし、著書を見ても解るように「反ユダヤ」というのは誤解であり、“偽ユダヤ”こと“タルムード崇拝のアシュケナージ・ユダヤ人中心のシオニスト”を批判しているのであって、本来のユダヤ人であるスファラディー・ユダヤ人には好意的な印象を持たれているようだ。
そもそも「日ユ同祖論者」なる人間は、大抵が「シオニスト・ユダヤの走狗」であることが多いように感じるが、著者については「反シオニスト」であり、「親スファラディー」であるようなので特殊な例なのかもしれない。前々から、「君が代」や、「日本語」や、「神輿」や、「神社」や、「相撲」等々にユダヤとの類似性があることは百も承知していたのだが、前述の印象があまりに強いため、「日ユ同祖論者」の“説”はどうも素直に受け入れることはできなかったのだが・・・、著者の論説は素直に受け入れることができた。ただ彼の経歴を考慮すると、“一抹の怪しさ”を感じざるを得ないが・・・。
どちらにしても、これだけの証拠があるのだから、古代ユダヤ人が日本に漂着して日本の文化に大きな影響を与えたことは疑いようのない事実だろう。ただユダヤ人だけでなく多様な渡来人が渡来しているのも事実である。その中にはシュメール人も来ていたのだろう。シオニスト・ユダヤはこの事実を隠そうとしているみたいだが・・・。
昨年、ひやかし半分で宇野氏の講演会に行ったことがある。この書と同様に「ヨハネの黙示録」等、聖書から多数引用されており、聖書研究の分野では宇野氏は目に見張るものがあると感じた。ただ、例の2012年終末論が主題となっていたのだが、宇野氏は「ニビルは12月に必ず来る」と、断言しておられた。彼の仕事はこれくらいの“とんでも論説”をぶちまけないと参加者も集まらないのかもしれないが・・・。いまだに、発言の責任を取られた様子も見られない。「ニビルの来る時期がズレた」とか弁明するつもりなのだろうか・・・。
かといって憎めないキャラをお持ちの方なので、これからも“ご発言”を見守っていこうと思います。



評点:70点
古代ユダヤは日本に封印された―「聖書」が明かす原日本人のルーツ古代ユダヤは日本に封印された―「聖書」が明かす原日本人のルーツ
(1992/11)
宇野 正美

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シュメール人に親近感

「十六菊花紋の謎 日本民族の源流を探る」
岩田 明


1990年の書である。前回に引き続き岩田氏の著作を読んだ。
約5千年前メソポタミアに人類最古の文明を築いたシュメール人のシュメール(SUMER)という言葉は、ラテン語ではスメルと発音し、天皇を古語ではスメラミコトと尊称する。
皇室の紋章は十六菊花紋であるが、シュメール王朝最盛期の都バビロン・イシュタル門の、巨大なライオン像の壁の周囲に十六菊花紋が配されている。
以上のことから、シュメール人と日本民族の源流を探ろうとイラクに旅立った著者のルーツ体験記である。
以下、一部引用。


*愛媛県・上浮穴(かみうけな)郡美川村の上黒岩岩陰(かみくろいわいわかげ)遺跡から昭和38年に発見された石の「印象(いんしょう)」は、およそ8千年前のもので、高さ5センチ巾4センチほどの女性像を示す緑泥片岩(りょくでいへんがん)である。
この石を粘土に押しつけ、干し固めたものが、イシハリまたはアマデルと呼ばれているものである。古代の海の戦士たちは船出する際、このアマデルを必ず身につけていったという。
アマデルとは、海士(あま)を守るという意味で、今日でいう「お守り」である。
徳島県・室戸の阿南海岸国定公園の海岸ぞいに、日和佐という町がある。ここは海士の町であり、今でも海の男たちが「海士の会」をつくり、古来からの伝統を守り続けている。
アマデルは、瀬戸内海各地の遺跡からも数多く発見されているが、メソポタミアのアッカド遺跡から出土した石の印象にも、これとウリ二つのものがある。

*「イラク人にはシュメール人の血が入っているが、シュメール人は、アラビア人ではない。中央アジアから海を伝ってイラク南東部に入り、人類最古の文明を築いた。そして、メソポタミアから消えていった。まさに謎の民族である・・・バグダッド博物館には、シュメール人の交易記録も残されており、古代に船を使って貿易を行なっていたことが判る。それによるとウルやエリドゥ、ラルサなどの港から遠くインドやアジア方面に航海していたものと思われる」(著名な歴史学者である、バグダッド大学のジョージアス・アワッド博士の言葉)

シュメール人についての最も古い伝承は、太古に7人の賢者が海から現われ、人々に文明を教えた、という内容である。その最初の一人が、ウルに現われた。この話を立証出来るのは、ウルの西方約6キロの所にある、エル・ウベイド遺跡である。

*ハンムラビ王は、BC1792年から1750年にわたる、42年間、王位についている。・・・ハンムラビはこの間、多くのシュメール人博士を用いて、後世に歴史的・文化的影響を与え、偉大な遺産となった「ハンムラビ法典」を完成させている。・・・その内容は、まず長文の序に始まり、本文二八二条が続き、しめくくりには跋(ばつ)、即ち奥書(おくがき)があって終わる。第一条から第五条までが訴訟法、第六条から第十三条までが窃盗罪、第十四条から第二十条までが誘拐罪、第二十一条から第二十五条までが強盗罪と続く。・・・特に債務者が、その債権のために、奴隷となることのないよう定めた身分保障法があることには、全く驚かされる。何故ならば、この当時の身分制度は、貴族=アウェールムと、平民=ムシュケーヌム、奴隷=ワルドゥムの三階級にはっきり分かれていた。しかもその階級差別は徹底していて、罪に対する罰の規定にまで、格差をもうけた時代だったからである。
こうした階級制度の中での弱者救済の思想は、シュメール人の「社会正義」の観念が伝統的につらぬかれていることを、如実に物語っている。
「強者が弱者をしいたげないように、正義が、孤児と寡婦とに授けられるように・・・」という跋の中の文章は、第一七七条の孤児と寡婦の立場を守る法として、はっきり定めてある。

*更につけ加えておくべきことは、BC3000年にシュメール人が発明した古拙楔形(こせつせつけい)文字が、東洋では印度の梵字=サンスクリット文字=の源となり、ヨーロッパでは、アルファベットの源となったことである。特にラテン語が、アルファベットをもとにして「文字」を万人のものとし、全世界に普及させた。ちなみにアッカド語の牛という言葉がアルプで、アルファベットのAとなり、Bは、塀囲いを表すベトゥーというシュメール語が変化したものである。アルファベットという言葉の語源までも、シュメール・アッカド語のその源を発することは、まさに驚きである。


(管理人)
著者は、新井白石の神話論を例にとり、「天」と書かれた文字はアマと読まれているが、アマという言葉は「天」のことではなくて「海」に通じるものだ、という意見を紹介している。さらにシュメール語では「母」のことを、ウム、あるいはアマと呼んでおり、ウムは海に通じアマは海女に通じる。現在イラクでは海のことをユムと発音し、海は古代より大いなる母であった、と述べている。瀬戸内海各地の遺跡から発見されているアマデルという「お守り」はシュメール由来のものであろうと感じた。

また「シュメール人の特長は目が大きく鼻も大きい。身長は高からず、つぶらな瞳で、髪の色は黒である。肩幅は広く、頑強な体軀をしている。家族主義で一夫一婦を守り、一夫多妻の部族とは一線を画している。」とのことだが、これも日本人と共通項が多いように思える。

次に七人の賢者の件だが、前回取り上げた「釈迦がスメル族であることを認め、自身は七人目の覚者であると語った」との記述が、これによって証明されたといっても良いのではないだろうか。

そして、バビロニアの王ハンムラビが発布したハンムラビ法典の内容にも目を見張るものがある。シュメールの楔形文字で記され、シュメール人博士が登用されていることからシュメール人及びハンムラビの偉大さが伝わってくる。
特に、「債務者が、その債務のために、奴隷となることがないように定めた身分保障制度がある」との箇所には感心させられる。ユダヤ・フリーメイソン勢力が実体のないマネーを使って人々を苦しめているのとは大違いである。

さらに、引用はしてないが、古事記・日本書紀以前から日本で使われていた文字があったことを記し、大分県の宇佐八幡宮に伝えられている豊国(とよくに)文字、大山阿夫利(あぶり)神社に伝わる神(じん)文字、ヘブライ文字、殷墟から発見された甲骨文字とを比較しているが、比較表を見る限り、素人目にも共通項があるように感じられる。
そして著者は、関門海峡の南西部に位置する彦島で大正13年に発見された岩刻文字を取材する。
当初は、文様の意味は全く解読出来ず「謎の絵文字」として放置されたとのことだが、絵文字のルーツは、古代北方ツングース系の楔形文字に酷似しており、また、シュメール系古拙楔形文字にあてはめても解読できるとし、その意味は、現代意訳すると「最高の女神が、シュメール・ウルク王朝の最高の司祭となり日の神の子である日子王が神主となり、七枝樹にかけて祈る」となるとのことだ。また、平成元年5月末現在で、山口、福岡、大分、佐賀、熊本の各県から、合計115個の岩刻文字が発見されているとのことだ。
本当にシュメール人の子孫が日本に来ていたのだろうか?私は彦島に行ってみたい気になった。

それから著者は、インダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡やニュージーランドのマオリ族や殷族(日本に渡来した秦氏との繋がりも述べている)とシュメールの関連性についても指摘している。
そして最終的には原人の定義にまで話が膨れている。このあたりになってくると、「人類の起源は古代に遠く宇宙からやって来た地球外生命体と原初の人間との遺伝子操作によるものである」とするゼカリア・シッチンやデーヴィド・アイクとの論説を想起させられるが、ダーウィンの進化論を基調とする著者の論説とは大きく隔たってしまう。
私の意見は、本当のところは判らないが、少なくともダーウィンの進化論は信じていないので、前者の論説に近いのかもしれない。

どちらにしても、前回も述べたが、日本人・そして人類のルーツを探ろうとする著者の姿勢は大いに評価したいし、見習っていかなければ、と思った。そしてシュメール人に強い親近感を感じたし、「私のDNAにもシュメール人の部分が含まれているかもしれない」と思ってしまう自分に気付いた。



評点  80点
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◎プラグイン説明

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このエリアがプラグイン3です。有効範囲幅は540pxです。
サイズの大きなプラグインに適しています。

※最上部メニューバーの上に隙間がある方

最上部のメニューバーの上にFC2検索バー用のスペースを設けています。
検索バーを表示しない設定にしている方は、cssの最上部メニュー.MegaMenuの中にあるtop:27pxをtop:0に変更してください。

◎背景スライドショー説明

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