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どうしたんだNHK!本当の歴史を紹介しているじゃないか!

「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~(1)「秘められた征服計画」を観て」


「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~(1)「秘められた征服計画」(2)「ジャパン・シルバーを獲得せよ」を観た。
「NHKが本当の歴史を放送するようになった」ことに驚いた。
(1)「秘められた征服計画」を観て感じたことを記す。
NHKの番組紹介に記されている記述を転載する。



世界各地で「日本の戦国時代」に関する発見が相次ぎ、大航海時代のヨーロッパと日本が強く結びつき、地球規模で歴史を揺るがしていた事実が明らかになってきた。第1集は、織田信長と豊臣秀吉の時代。ヨーロッパの16世紀の文書が公開され、信長・秀吉と、来日したキリスト教の宣教師、そして背後にいたポルトガルやスペインとの深い繋がりが見えてきた。それぞれの思惑と、しれつな駆け引きを描く。


番組を観ていない人も多いでしょうから、もう少し内容説明を加える。

信長が長篠の戦に勝利したのは、フランシスコ・カブラルがタイ産の鉛の玉を与えたからである。カブラルは石山合戦でも信長を支えた。カブラルは信長にキリシタンになることを勧めた。宣教師(ガスパール・コエリョと思われる)は山崎の戦で秀吉に付くように高山右近に命じる。秀吉の側近の大名はキリシタン大名で占められた。宣教師は「キリスト教に改宗させる目的は日本人の心を支配すること、精神を征服することだ」「我々には日本を征服する権利がある」と語っていた。インド・ゴアではキリスト教に改宗させるために手首を削り落とすような拷問を行った。宣教師とスペインの目的は日本を使って中国を侵略することであった。ガスパール・コエリョは秀吉に明への遠征のために軍船を貸した。キリシタン大名も出兵させることを約束した。秀吉が朝鮮に出兵したのは中国侵略の足掛かりであった。秀吉にはキリシタン大名を朝鮮出兵させることで弱体化させる思惑があった。その後、秀吉はバテレン追放をする。


ざっとこのような内容であった。

どうしたんだNHK!本当の歴史を紹介しているじゃないか!

NHK内でクーデターでも起きたのだろうか?
あれだけ嘘塗れの歴史報道をしていたNHKが、「本当の日本史」を報道したのである。
これは画期的な大事件である。
今までは単に戦国武将が自身の力で戦に臨み、その結果、己の才覚・戦術で天下を取ったのが織田信長であると、これまで大河ドラマ等で報じてきたじゃないか。
信長が比叡山を焼き討ちにしたのも、信長の神や仏を恐れぬ特異な性格が原因であったかのように報じてきたじゃないか。
この番組では比叡山の焼き討ちには触れなかったが、この流れに従えば、この事件も信長の特異な性格が原因なのではなく、信長を操るイエズス会の命令で決行されたと言わんばかりの内容であった。
実際、イエズス会の命令が原因であると私は昔から思っているが。
ザビエル由来のイエズス会がもたらしたキリスト教も、これまではただひたすらに宣教師の宗教心溢れる“善なる想い”から日本に布教に来たような紹介ばかりだったが、この番組では宣教師は「キリスト教に改宗させる目的は日本人の心を支配すること、精神を征服することだ」「我々には日本を征服する権利がある」と語っていたと報じているのである。それも番組案内人の語り口調は、「そういった可能性がある」といった曖昧な語りではなく、「こうなのだ」といった断定的な語り口であったのだ。

どうしたんだNHK!本当の歴史を紹介しているじゃないか!

この番組に関しては、私はNHKを高く評価する。
できればこの番組で報じた日本史を学校教育に持ち込み、子どもたちにも「本当の日本史」を教育するようにしてもらいたい。
とりあえずは、この番組を中学や高校の授業で全生徒に見せることから始めるべきだろう。今までの誤った歴史教育を悔い改め、「戦国時代とは何だったのか」「何の目的で宣教師は日本にやってきたのか」「秀吉がバテレン追放を行った本当の理由は何だったのか」といったことを、ほとんどすべての中学・高校生が「そんなの常識じゃん」とスラスラ答えることができるようにさせるのだ。
これが「本当の歴史教育改革」である。
「本当の歴史教育」を学んだ子供たちが作る将来の日本には、期待が持てるだろう。
「本当の戦国史」の次は、「本当の明治維新」そして「本当の近代戦争史」を子供たちに学ばせてほしい。
子どもを教育する教師がいないのであれば、私が教師を教育する役をやってやってもいいですよ(笑)
戦国史の正体が宣教師を使った「日本人の心の支配」であり、信長をはじめとした戦国大名は宣教師に操られていた存在であるという「真実」を理解した後は、明治維新も外国勢力に操られた維新勢力と、同じく外国勢力に操られた幕府勢力の間で“争うふり”をすることで成し遂げられた八百長であったことを、子供たちは“スンナリ”と理解するだろう。
そして近代戦争も同じパターンの八百長であったことを、子供たちは“スンナリ”と理解するだろう。
この「本当の日本史」を正しく理解した子供たちは、現在のこの国の支配構造が戦国時代や明治維新の時代と全く同じであることを、“スンナリ”と理解するだろう。

現在、安倍や日本会議が推し進めようとしている憲法改悪がどういった意図で計画されているということも、子供たちは“スンナリ”と理解するだろう。

憲法改悪後に起こされようとしている戦争が八百長であることも、子供たちは“スンナリ”と理解するだろう。

そして、覚醒した子供たちは「戦争なんかするもんか!戦国時代からこの国で起こされた戦争は全部八百長だったじゃないか!外国勢力に操られた売国奴政治家とその手先ども、僕たちは本当の戦争の歴史を知っているんだ。「偶然」戦争が勃発したというようなプロパガンダにもう騙されないぞ!僕たちを殺そうとしている売国奴政治家、売国奴マスメディア、売国奴政専門家、お前たちだけが戦争に行って殺されて来い!僕たちを巻き添えにするな!」と叫ぶようになるでしょう。

だから、「正しい歴史教育」を学ぶことが重要なのです。
だから、この国の権力を握った売国奴どもは「正しい歴史教育」を子供に学ばせないのです。「嘘八百の歴史狂育」を子供に押し付けるのです。

珍しくNHKが報道した「真実の歴史番組」に驚かされたため、このような理想の未来が思い浮かんだが、そこまでこの国が開かれた国になることは難しいだろう。
しかし、いつの日かこの国が開かれた国になることを願ってやまない。

今回はNHKの報道を評価した私だが、勿論、NHKが報道していない(報道できない)「本当の戦国史」があるので、そのことに関連する過去記事のリンクを貼っておきます。
これらの記事を私が一番読んでいただきたいのは、中学生・高校生である。
「正しい歴史」を学んだ子供たちは、今回のコロナ詐欺のようなものが再度起こされても、正しい判断ができるようになるでしょう。
詐欺を詐欺だと正しく判断できるようになるでしょう。
この国の将来を担う子供たちに言いたい。

「外国勢力に心を売った大人たちは勿論、無知な大人たちにも騙されてはいけません」と。




http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-24.html
イエズス会の傀儡であった信長
「信長と十字架」<天下布武>の真実を追う 第一部 立花京子



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-25.html
「信長と十字架」<天下布武>の真実を追う 第二部 立花京子


http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-28.html
殺すなかれという戒律はキリスト教徒だけに適用する
「イエズス会とキリシタン大名による日本人奴隷貿易の真実」



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-3256.html
秀吉が伴天連追放を行った本当の理由は?
「フロイスの見た戦国日本」川崎桃太




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西周→森鴎外→与謝野晶子→生田長江→平塚 らいてう→市川房枝→緒方貞子→?

「日本におけるフェミニズム、フェミニスト、ウーマン・リブ発生の背景を追う」



先日、「西周→森鴎外→与謝野晶子→市川房枝→緒方貞子→?」という記事を書いたが、「与謝野晶子→市川房枝」の繋がりには触れなかった。今回は、そのあたりを探ってみたいと思う。結論から言うと、この二人の間に入っている人物がいたようである。生田 長江と平塚 らいてうである。ウィキで生田 長江を見てみる(抜粋)。


生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、小説家。
本名は弘法大師に因んだ『弘治』ながら、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。
1906年(明治39年)(24歳)、東大を卒業し、1907年、鳥取県の亀田藤尾と結婚して与謝野鉄幹・晶子夫妻の隣に暮らし、麹町区飯田町にあった成美英語女学校の英語教師を、1909年の閉鎖まで勤めた。
この頃の数年間、女性の文学の振興に努めた。1907年夏、一高以来の付き合いである森田草平と、成美英語女学校の経営主、九段中坂下(現・千代田区九段)のユニヴァーサリスト教会で、女性のための文学講習会『閨秀文学会』を開いた。馬場孤蝶、与謝野晶子、赤司繁太郎らが講義し、大貫かの子、青山菊栄、平塚らいてうらが聴講したが、年内に閉講した。
1909年から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を翻訳し、1911年年初に刊行した。その9月に創刊した平塚らいてうらの『青鞜』誌を、1913年まで後押しした。


こんな記事も。


https://jinbutsukan.net/person/1i01.html?gen10
評論家・小説家の生田長江(本名:弘治)は、一高生の時、馬場孤蝶、与謝野鉄幹・晶子夫妻らの知遇を得て「明星」に寄稿。東大に入ってからは上田敏、孤蝶らと雑誌「芸苑」に参加した。その頃、上田敏に弁舌とうとうとして長江のごとしと評され長江の号を与えられたという。卒業後は与謝野晶子を中心とした閨秀文学会を結成し、その聴講者に平塚らいてう、山川菊栄らがおり、彼女らに影響を与え「青鞜」を生み出させた。その名の命名者でもある。早くからニーチェに傾倒し『ツアラトウストラ』を訳刊。その後は、自然主義、白樺派、新感覚派などの文学潮流への批判的な論陣を張った。大正10年40歳の時、本郷から上六番町へ移転したと資料にあるが、その詳細は不明。



与謝野晶子の思想は、生田長江を経て、平塚らいてうに引き継がれたようである。
平塚らいてうをウィキで見てみる(抜粋)。




平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、本名:平塚 明〈ひらつか はる〉、1886年〈明治19年〉2月10日 - 1971年〈昭和46年〉5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、戦前と戦後にわたって活動した女性解放運動家。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部卒、2005年に同大学は平塚らいてう賞を創設した。
平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られる。結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかった。しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」発刊を祝い、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった。
成美女子英語学校でテキストとして使われたゲーテの『若きウェルテルの悩み』で初めて文学に触れ、文学に目覚める。東京帝大出の新任教師生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった。
明は、塩原事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになっていた。この頃、生田長江の強いすすめで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』の製作に入った。資金は母からの援助で「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したもの。その資金を元に青鞜社を立ち上げ、企画は明の同窓生や同年代の女性に拠り、明は主にプロデュースに回った。
表紙は長沼智恵が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。明は『元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して』という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた。
『青鞜』創刊号は、1911年(明治44年)9月に創刊され、男女で両極端な反響を巻き起こした。女性の読者からは手紙が殺到し、時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどだったが、その一方、男性の読者あるいは新聞は冷たい視線で、青鞜社を揶揄する記事を書き、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだった。なお同年9月、金子筑水が日本ではじめてエレン・ケイを紹介しており(「現実教」『太陽』)、そのケイに関心を持ったらいてうが訪ねてきた河井酔茗に話したところ、酔茗から「今森鴎外さんの処でも其話が出た」と言われたという。らいてうは「そののち、ケイの思想が、わたくしの、ものの考え方や生活の上にも変化をもたらした。」と、51年後に鴎外の回想文で書いた(「鴎外夫妻と青鞜」『文芸』1962年8月)。
『青鞜』創刊の翌1912年(明治45年)5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に与謝野晶子のパリ行きを取り上げた。翌6日には、晶子の出発の様子を「ソコへ足早に駆け付けたのは青鞜同人の平塚明子で(中略)列車の中へ入って叮嚀に挨拶を交換して居る。」などと報じた(総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』(与謝野晶子特集号)では、鴎外によって「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(下略)」とまで評された。
新婦人協会は、1919年(大正8年)11月24日に、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより協会設立が発表され、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立された。協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆。新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請求」の請願書を提出。特に治安警察法第五条改正運動(女性の集会・結社の権利獲得)に力を入れた。
1960年(昭和35年)、連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」発表。1962年(昭和37年)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成した。




平塚らいてうは、新婦人協会設立にあたって市川房枝と繋がる。
市川房枝と緒方貞子の繋がりは、以前書いた通りである。



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-48.html
人間は虫のようなものだ。あまりに増えすぎる。
「イルミナティの人口削減計画促進シンクタンク、ローマクラブの正体」

1968年、国際基督教大学講師を務めていた時に、参議院議員を務めていた市川房枝の訪問を受けて、市川から「今年(1968年)の国際連合総会日本代表団に加わって戴きたい」と要請される。これが契機となって緒方自身は国際連合の仕事に関わるようになる。



平塚らいてうが『青鞜』で紹介して広めたエレン・ケイをウィキで見てみる。


エレン・ケイ(Ellen Karolina Sofia Key, 1849年12月11日 - 1926年4月25日)はスウェーデンの社会思想家、教育学者、女性運動家、フェミニスト
母性と児童の尊重を基軸とした社会問題を論じ、特に教育の重要さを説いた点で、教育史上においても名が残っている著名なフェミニストの1人。
著作に『恋愛と結婚』『児童の世紀』『母性の復興』等があり、『児童の世紀』での「教育の最大の秘訣は、教育しないことにある」は名言である。
大正デモクラシー期の日本において『青鞜』などを通して諸作物が紹介され、日本の婦人運動に絶大な影響をもたらした。




フェミニズム・フェミニストはウーマン・リブに繋がります。女性に選挙権が与えられ、女性が社会運動に参加し、女性が男性に頼らず社会で活躍する。こういった「自立した女性」がこの時代に誕生します。これらを支えたのが与謝野晶子であり、平塚らいてうであり、市川房枝であり、緒方貞子なのでしょう。彼女たちの活動は立派な活動であり、何一つ問題などないのではないのでしょうか?確かに、表面上は全く問題ないでしょう。しかし、これらの活動がある勢力の邪悪な意図のもとに起こされていたとしたらどうでしょう。邪悪な意図の存在を、アーロン・ルッソは告発してくれています。



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-3116.html
最後に、有名なアーロン・ルッソ映画監督の生前の暴露動画をアップします。
アーロン・ルッソはロックフェラーから聞いた話を語っているのですが、911発生以前に911がこれから起こる(起こされる)ことを聞いたことと、ウーマン・リブの真実についても語っています(1:40ぐらいから)。
ウーマン・リブは偶然発生したのではなく、計画的に起こされたものであると。
そしてその目的の一つは女性が仕事をすることでこれまで男性からしか取れなかった税金が女性からも取れることにあると語っています。





ロックフェラーが語った「本当のウーマン・リブの目的」のもう一つは、女性が社会に進出することで子供の教育を家族が出来なくなる(=家庭の崩壊)にあります。
こういった邪悪な目的をもって、与謝野晶子をはじめとした女性活動家は女性の権利を主張するようになったのではないのでしょうか。本人が邪悪な意図を知っていたかいなかったかは別として。
平塚 らいてうは「新日本婦人の会」を設立しました。
「新日本婦人の会」は子宮頸(けい)がん予防ワクチン接種を推進しているようです。
邪悪な意図が、ここに証明されているのではないのでしょうか。
「右も左も根は同じ」であることも、ここに証明されているのではないのでしょうか。




https://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-05-29/2010052905_01_1.html
2010年5月29日(土)「しんぶん赤旗」
子宮頸がん予防のワクチン助成ぜひ

新婦人が署名提出

新日本婦人の会(新婦人)は26日、神奈川、埼玉、千葉、東京、熊本から会員が参加して「子宮頸(けい)がん予防ワクチン接種に公費助成を求める署名」2万人分を国会に提出しました。日本共産党の高橋ちづ子、笠井亮両衆院議員と山下芳生参院議員が署名を受け取り、激励しました。
 子宮頸がんは、20~30代の女性に急増しています。画期的な予防ワクチンが日本でも承認され接種が始まっています。3回の接種で4万円から6万円の全額が自己負担で、自治体の助成にばらつきもあり、国の助成が求められています。
 新婦人では、各地で自治体に要請してきました。山梨県では小学生6年生と中学3年生を対象に一部助成が実現。静岡・伊豆支部は24日に、市長と懇談。市長が中学1~3年生全員を対象に集団接種できる2350万円を予算化すると明言するなど、公的助成の動きがひろがっています。




不妊になる危険性を知ってて断種ワクチンを推進する新日本婦人の会



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西周→森鴎外→与謝野晶子→市川房枝→緒方貞子→?

「与謝野晶子と森鴎外から見るスペイン風邪、そして新型コロナウイルス」


ちょっと前にNHKスペシャルのスペイン風邪に関する番組を観たのだが、その中で与謝野晶子が当時の政府のスペイン風邪対策を批判していたと報じていた。
与謝野晶子とは一体何者だったのだろうか?与謝野晶子に限らず、明治における文学者とウイルス感染に関する記事を思いつくままに書いてみようと思う。
まず、与謝野晶子の発言を記している記事から引用する。


https://japan-indepth.jp/?p=51445
この時期、東京は、スペイン風邪の流行のピークを迎え、多くの人々が感染し、死者数も急増していた。
当時は医療機関も少なく、頻繁に家庭内感染が起きていた。歌人、与謝野晶子の家もそうだった。晶子には11人の子どもがいたが、小学校で1人の子どもが感染したことがきっかけで家族全員に感染した。
与謝野晶子は、母としてこうした体験を踏まえ、「感冒の床から」と題した論評記事で、政府を徹底批判した。
 「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」
 「そのくせ警視庁の衛生係は新聞を介して、なるべくこの際多人数の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、学校医もまた同等の事を子供達に注意しているのです」
(1918年11月10日付横浜貿易新聞、現在の神奈川新聞)




与謝野 晶子をウィキで見てみる(抜粋)。

与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。 戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。
5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。

この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としては一貫性がなかった。




ヨーロッパを訪問した際に、「誰か」に「何か」を教育されたのではないのだろうか。
反戦家から戦争賛美に変遷したのも、「誰か」の影響が感じられる。
女性教育の必要性などを説いたとのことだが、ヨーロッパで「誰か」から学んだ彼女の考えは市川房枝や緒方貞子に引き継がれているような気がする。



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人間は虫のようなものだ。あまりに増えすぎる。
「イルミナティの人口削減計画促進シンクタンク、ローマクラブの正体」



与謝野 晶子の洋行費の工面は、森鴎外が手助けをしたそうである。
森鴎外とは何者だったのだろうか?ウィキより抜粋する。



森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日[1]〈1862年2月17日〉 - 1922年〈大正11年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。
大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。
晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。
1872年(明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳で父と上京。現在の墨田区東向島に住む。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備えてドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄宿した
入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事した。早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝
次のベルリン(1887年4月16日–翌年7月5日)でも早速、北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座を経てコッホの衛生試験所に入った。当時の居室は現在森鷗外記念館として公開されている。
9月下旬、カールスルーエで開催される第4回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に随行し、通訳官として同会議に出席
1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権を持つ軍医のトップ)に就任した
文学者・文人に限っても、訳詩集「於母影」は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鷗外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人を招いて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月まで続いた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。
日露戦争では、1904年(明治37年)4月8日、第2軍の戦闘序列(指揮系統下)にあった鶴田第1師団軍医部長、横井第3師団軍医部長が「麦飯給与の件を森(第2軍)軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)との記録が残されている(ちなみに第2軍で脚気発生が最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」は様々な解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6合」を遵守した。結果的に、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となった。



フリーメーソンであった西周と親交があったようですね。
森鴎外もフリーメーソンだったのではないのでしょうか?
赤十字の日本代表の通訳をしていたらしいですから、「彼ら」と関係していたことは疑いようがないですね。日赤の闇を探るだけでも明治維新が八百長だったことが証明されているでしょう。



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-216.html
日赤=日本支配者層の血の繋がり?
「ウィキペディアで探る日本赤十字社歴代社長及び、その親族の“ご立派”な肩書き」



森鴎外の勧めのよって戦時兵食「白米6合」を遵守した結果、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となったのは、とても「偶然」とは思えません。
森鴎外と親交のあった与謝野 晶子は、長濱検疫所にも関係していたようです。



https://www.forth.go.jp/keneki/yokohama/museum/page2-4.html
昭和4年5月23日発行「横浜貿易新聞」によると、同年5月12日、与謝野 寛・晶子夫婦は、歌人の井上苔渓に招かれて短歌の小集会を長浜で開催。与謝野寛、与謝野晶子以外にも、平野萬里、石井柏亭、内山英保など10名の文化人が集い、与謝野寛は14首、与謝野晶子は24首の短歌を詠んでいます。



野口英世の名前も載っていますね。
どうやら、当時の著名な文化人は感染研究にご熱心だったそうですね。
次に、この流れは現在も続いていることを記す記事を紹介します。
森鴎外はここにも関わっています。
森鴎外と親交のあった与謝野 晶子があのような発言をしたことは、ある勢力のある一定の意図が働いていたとしか思えません。
この異様なつながりは、731部隊やWHOとも繋がってくるようです。このあたりの歴史を正しく理解することが、コロナ詐欺を理解する近道ではないでしょうか。



https://news.yahoo.co.jp/articles/9cd5229c7af0f035237b4ef723f2fb795a77ff4c
帝国陸海軍の「亡霊」が支配する新型コロナ「専門家会議」に物申す(上)
3/5(木) 11:00配信

『犬神家の一族』(角川文庫)が好きだ。横溝正史の代表作で、名探偵金田一耕助が活躍する。1976年に市川崑監督、石坂浩二主演で映画化され、大ヒットした。その後、繰り返し映画化・ドラマ化されている。  この作品は犬神佐兵衛翁の臨終から始まる。佐兵衛翁は裸一貫から犬神財閥を築いた立志伝中の人物だ。  佐兵衛翁の死後、一族が揃ったところで開封された遺言書には、すべての財産を恩人の孫娘である野々宮珠世に譲ると記されていた。ただし、条件があった。それは珠世が佐兵衛翁の3人の孫のいずれかと結婚することだ。  その後、財産をめぐって惨劇が繰り広げられる。ネタバレさせないためにこれ以上は書かないが、読み終わると、一連の惨劇は亡き佐兵衛翁の亡霊が犯人に取り憑いて起こさせたような印象を受ける。人は意識しないところで歴史に操られている、ということを考えさせられる作品だ。  新型コロナウイルスの拡大が止まらず、政府は迷走を続けている。クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の検疫の失敗、遺伝子診断(PCR)の体制整備の遅れ、安倍晋三首相による突然の休校依頼――。  国内外から批判が噴出している。日本の評価を損ね、東京五輪の開催すら危ぶまれる事態となった。 ■予算を主導したのは  一連の動きをみて、私は『犬神家の一族』を思い出す。「亡霊」に操られたかのように、関係者が「ピエロ」を演じているからだ。 「亡霊」とは、帝国陸海軍だ。 「関係者」とは、政府の専門家会議のメンバーである。一体、どういうことだろうか。  読み解く鍵は、「国立感染症研究所」(感染研)、「東京大学医科学研究所」(医科研)、「国立国際医療研究センター」(医療センター)、そして「東京慈恵会医科大学」(慈恵医大)だ。  政府が設置した「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」は12名のメンバーで構成されるが(下表)、日本医師会、日本感染症学会、公益を代表する弁護士などを除くと、残る9人中8人が前述の4施設の関係者だ。  座長の脇田隆字氏は感染研の所長、鈴木基氏は感染研感染症疫学センター長、さらに岡部信彦・川崎市健康安全研究所所長は元感染研感染症情報センター長だ。  河岡義裕氏と武藤香織氏は医科研教授、川名明彦・防衛医科大学教授は医療センターの元国際疾病センター医長で、尾身茂・独立行政法人地域医療機能推進機構理事長は元医系技官だ。  医療センターを統括するのは厚生労働省で、医系技官が現役出向している。  さらに、吉田正樹氏は慈恵医大教授で、岡部氏も慈恵医大の同窓だ。  この4組織と無関係の委員は、押谷仁・東北大学教授だけだ。  珍しいことに、委員の中に東京大学医学部出身者がいない。政府の医療の専門家会議で、東大医学部卒が皆無なのは極めて珍しい。  2月13日、このような専門家を迎えて開催されたのが、第8回の新型コロナウイルス感染症対策本部会議だ。この会議には、「新型コロナウイルス(COVID-19)の研究開発について」という資料が提出された(下図)。  この資料によると、緊急対策として総額19.8億円が措置されている。内訳は、感染研に9.8億円、日本医療研究開発機構(AMED)に4.6億円、厚労科研に5.4億円だ。  資料には、AMEDや厚労科研を介した委託先の名前と金額も書かれている。感染研は上記と合わせて12.2億円、医療センター3.5億円、医科研1.5億円だ。さらに感染研と医科研で9000万円だ。総額18.1億円で、予算の91%を占める。予算を決めるのも、執行するのも同じ人ということになる。  この資料の目次には、「資料3 健康・医療戦略室提出資料」と書かれている。その「健康・医療戦略室」を仕切るのは、国土交通省OBの和泉洋人室長(首相補佐官)と、医系技官の大坪寛子次長だ。最近、週刊誌を騒がせているコンビが、この予算を主導したことになる。  大坪氏の経歴も興味深い。慈恵医大を卒業し、感染研を経て、厚労省に就職している。専門家会議のメンバーと背景が被る。
■「731部隊」関係者もいた「感染研」  なぜ、このようなグループが仕切るのだろうか。  背景には、歴史的な経緯、特に帝国陸海軍が関係する。一体、どういうことだろうか。  まずは感染研だ。  その前身は、戦後の1947年に設立された「国立予防衛生研究所」(予研)である。  予研は戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の指示により、「伝染病研究所」(伝研)から分離・独立した。伝研は現在の医科研だ。  医科研キャンパスを訪問された方はおわかりだろうが、港区白金台という都内の超一等地に広大なキャンパスを有している。  キャンパスが広いのは、かつて馬などの家畜を飼っていたからだ。感染症の研究やワクチン・血清治療の開発に利用した。  戦前、伝研を支えたのは陸軍だった。  伝研は、1892(明治25)年に北里柴三郎が立ち上げた民間の研究機関だ。1899(明治32)年に内務省所管の「国立伝染病研究所」となり、1906(明治39)年に現在の白金台に移転する。  伝研の性格を変えたのは、1914(大正3)年の「伝研騒動」だ。内務省から文部省(当時)が統括する東京帝国大学に移管されることが決まったが、北里は、 「感染症対策は大学などの学究機関でなく、行政と連携すべき」  という考えをもっていたため、猛反対した。  背景には、当時、東大医学部の実力者だった青山胤通教授との確執や、大隈重信首相率いる「憲政本党」と原敬率いる野党「政友会」の対立などが関係した、と言われている。  北里は、日本医師会の前身である東京医会や大日本医会のまとめ役になっており、彼らは政友会を支援していた。一方、青山は大学病院の医師を中心とした明治医会の代表を務め、「青山が北里を引きずり降ろした」という噂まであったという。  腹に据えかねた北里は退職し、職員も従った。困った東大が頼ったのが、当時、陸軍医務局長だった森鴎外だ。  鴎外は軍医を派遣して伝研を支えた。こうして伝研は陸軍との関係を深めていく。  戦後、分離された感染研の幹部には、陸軍防疫部隊(関東軍防疫給水部=731部隊)の関係者が名を連ねたことなど、その一例だ。  専門家会議の委員に感染研と医科研の関係者が名を連ねているのは、このような歴史を受けてのことだ。  医科研の河岡教授、武藤教授が東大医学部の出身ではなく、今回のメンバーに東大医学部の関係者がいないのも、このような背景が関係する。
■軍医療機関と国立病院の関係  では、医療センターの前身は何だろう。  新宿区戸山に位置することから想像できるかもしれないが、陸軍の施設だ。1868(明治元)年に設置された「兵隊假病院」に始まり、1936(昭和11)年には「東京第一陸軍病院」と改称された。つまり、帝国陸軍の中核病院だ。  敗戦で帝国陸軍が解体されると、厚生省に移管され、「国立東京第一病院」に名称が変わった。そして1993年に「国立国際医療センター」となり、2010年に独立法人化され、現在に至る。  医療センターに限らず、多くの国立病院の前身は陸海軍の医療機関だ。  たとえば、「国立がん研究センター」の前身は「海軍軍医学校」で、1908(明治41)年に港区芝から中央区築地に移転した。現在の国立がん研究センターの場所だ。  敗戦が彼らの運命を変える。陸軍省、海軍省は1945年11月30日に廃止され、それぞれ第一、第二復員省となる。両者は1946年6月に統合され、復員庁となり、1947年10月に厚生省に移管される。  中国残留孤児対策、引揚援護、戦傷病者・戦没者遺族・未帰還者留守家族などの援護を、防衛省でなく厚労省が行っているのは、このような経緯があるからだ。  では戦後、軍医療機関はどうなっただろう。  実は、軍医療機関は、戦後の日本医療の救世主だった。  敗戦直後、日本の病院の大半は戦災によって破壊され、機能不全に陥っていた。GHQは、まず占領軍が使用する優良医療施設を確保し、次いで、日本国民の医療提供体制を考える必要があった。  手をつけたのは、陸海軍が保有する医療機関の厚生省への移管だった。  この際、全国146の軍施設が国立病院、国立療養所となったわけだが、注目すべきは、建物も職員も従来のままで診療が継続されたことだ。つまり、病院自体の組織は陸海軍のままで、名称が軍病院から国立病院に変更されただけなのだ。  この影響が現在も残っている。感染症対策も例外ではない。
■慈恵医大につながる「海軍人脈」  では、慈恵医大はどのように絡むのだろうか。  キーパーソンは、高木兼寛だ。  高木は、前出の海軍軍医学校の創設者の1人である。  高木は薩摩藩出身の医師で、戊辰戦争には薩摩藩の軍医として従軍した。明治維新以降は開成所(東京大学の前身)で英語と西洋医学を学び、その後、薩摩藩によって設立された鹿児島医学校に入学すると、校長のウィリアム・ウィリスに認められ、教授に抜擢される。弱冠21歳のときだ。  その後、薩摩藩出身者が仕切る海軍に出仕する。  1875年から1880年まで英国の「セント・トーマス病院医学校」(現在の「キングス・カレッジ・ロンドン」)に留学し、西南戦争時を英国で過ごした。海軍では順調に出世し、海軍軍医の最高位である海軍軍医総監を務めた。  高木は東京帝国大学医学部、陸軍軍医団がドイツ医学一辺倒で学理・研究を優先していることに反発し、海軍軍医学校には実証主義的色彩が強く、臨床医学を重視する英国医学を取り入れた。  このような姿勢が、有名な脚気の予防法の確立へと繋がり、脚気対策の確立は日露戦争での間接的勝因といわれるに至る。このあたりを詳しく知りたい方には、吉村昭氏の『白い航跡』(講談社文庫)をお奨めする。  1881(明治14)年、この高木が中心になって設立したのが、「医術開業試験」の受験予備校(乙種医学校)であった「成医会講習所」だ。これが1903(明治36)年の専門学校令を受けて、日本初の私立医学専門学校として、「東京慈恵医院医学専門学校」となる。現在の慈恵医大だ。 「慈恵」と名付けたのは、明治天皇の皇后の昭憲皇太后だ。薩摩藩出身者が仕切っていたからこそ、アプローチできたのだろう。現在も、「公益社団法人東京慈恵会」の総裁には、皇族が就任することとなっている(現在の総裁は三笠宮家の寬仁親王妃信子殿下)。  薩摩と言えば海軍だ。このため、慈恵医大は海軍との関係が深い。明治期の海軍軍医総監の大部分は成医会講習所の関係者だ。  慈恵医大には、この伝統が生きている。国際保健、公衆衛生の分野に多くの人材を輩出している。世界保健機関(WHO)でシニアアドバイザーを務める進藤奈邦子氏は、慈恵医大の卒業生だ。英キングス・カレッジ・ロンドン・セント・トーマス病院などで研修後、感染研に就職。2002年からWHOに勤務している。慈恵医大らしいキャリアだ。  このように考えると、今回の専門家会議のメンバーは、帝国陸海軍と関わりが深い組織の関係者で占められていることがわかる。(つづく)
上昌広




最後に、スペイン風邪の真相について書いた記事のリンクを改めて貼っておきます。
NHKの主張が正しいのか、私の主張が正しいのかは、皆さん自身でご判断ください。



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-585.html
1918年のスペイン風邪の伝染は予防接種が原因だった!
「スペイン風邪→鳥・豚インフルエンザ→デング熱、昔から「彼ら」の仕掛ける“問題・反応・解決策提示詐欺”は変わりません」




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「西洋の歴史の本質は、秘密結社であり、秘密結社のイデオロギーは、 デモノロジー(悪魔学)、あるいは悪魔術、又は魔術である」byデス・グリフィン

「「歴史秘話ヒストリア」→「歴史偽話嘘つきや」!?」


先日、歴史秘話ヒストリアの「激闘!中国革命に賭けた日本人 孫文と梅屋庄吉」という番組を観た。いつも以上にあまりに胡散臭い内容だったので、この美化された物語の真相を暴こうと思う。この番組を観ていない方のために、NHKが伝える内容説明を記しておく。


中国史上初めて、皇帝の支配に終止符を打った辛亥革命。この歴史的大事件の陰で奔走した日本人がいた。長崎生まれの実業家・梅屋庄吉。秘蔵の日記から、革命家・孫文との運命的な出会いと熱い友情のドラマが浮かび上がってきた。最先端メディアだった映画でヒットを連発し、革命資金を稼ぐ梅屋の挑戦。度重なる武装蜂起の失敗にめげることなく、不屈の決意で清王朝に挑む孫文の苦闘。固い絆で結ばれたふたりを待ち受ける運命とは?


梅屋 庄吉についてウィキより記す。

梅屋 庄吉(うめや しょうきち、明治元年11月26日(1869年1月8日) - 昭和9年(1934年)11月23日)は、日本の実業家。アジア主義者。孫文の支援者であり、日活の創業者のひとり。
長崎県生まれ。幼少期、土佐藩経営の土佐商会の家主でもあった貿易商・梅屋家に養子入りする。一時は米穀相場に失敗して中国へ退転したが、写真術を学んで写真館を経営するなど、香港で貿易商として地位を築いた。
1895年(明治28年)に中国革命を企図した孫文と香港で知り合い、多額の資金援助をし、辛亥革命の成就に寄与している。1905年(明治38年)ごろに日本に帰国し、日活の前身であるM・パテー商会を設立。映画事業に取り組んで白瀬矗の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作し、これらの事業で得た多額の資金を革命に投じている。
1913年(大正2年)に孫文が袁世凱に敗北し日本に亡命した後も、1915年(大正4年)に孫文と宋慶齢との結婚披露宴を東京・新宿(大久保百人町)の自邸で主催するなど、たびたび孫文への援助を続けた。1929年(昭和4年)には南京に孫文像を寄贈している。また、頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らアジア主義者らと集い、フィリピンの独立運動にも関与している。
千葉県夷隅郡長者町(現・いすみ市日在)の別荘において孫文らと秘密の会議をしばしば行なった。この別荘は高い塀と樹木に囲まれており、外部からは内部の様子が殆ど見えず、場違いの白亜の館らしものが見える状態になっている。
日中関係の悪化に伴い、外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上、別荘の最寄駅である外房線三門駅にて倒れ、急死した。65歳歿。
孫文に対する革命への資金援助額については、現在(2010年時点)の貨幣価値で1兆円に及ぶとされる。



土佐商会に関係していますね。
土佐商会とは?


https://hirano-tomiji.jp/archives/tag/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%95%86%E4%BC%9A
長崎土佐商会は、土佐藩の開成館貨殖局の長崎出張所のことで、土佐藩参政の後藤象二郎は、開成館の奉行に任命されていたが、多くの部下を引き連れて、慶応2年(1866)に長崎に来て銃砲や洋式船舶の買い付けを行った。翌年2月(異説もある)になって貨殖局長崎出張所を開設した。その場所は、中島川の河口に近い西浜町(現、浜町)の貿易商「梅屋商店」の持ち家とされている。一説では、土佐藩御用達の土佐屋に開設したとあるが、梅屋商店と土佐屋との関係は不明である。
その目的は、土佐藩の富国強兵策を実行するためで、長崎では居留地の外国商社に樟脳などの土佐の産品を売り、銃砲・弾薬や洋式船舶を購入することだった。
後藤象二郎は、長崎に来てプロシャ商人クニフラーから法外な値段でライフル銃300丁を買い付け、イギリス商人オールトから蒸気船「夕顔」と風帆船「羽衣」を購入、さらに、中浜万次郎らを引き連れて上海に密航し、イギリス商人グラバーの仲介により小型砲艦「若紫」を上海で建造した。これら船舶や武器弾薬の代金支払いに困って、オールトから18万両という多額の借金をしたという。
慶応3年(1867)1月頃、後藤象二郎は長崎榎津町(現、万屋町)の料亭「清風亭」に坂本龍馬を招き、脱藩の罪を許すと共に、坂本龍馬の率いる亀山社中を海援隊と名付け、資金を提供して、土佐藩の海運・貿易などの事業に協力させることとした。
同年3月、岩崎弥太郎が開成館貨殖局長崎出張所の役人として長崎に到着し、6月、後藤象二郎が長崎を去った。岩崎弥太郎は長崎出張所の主任格(事実上の責任者)となった。
・・・・・(中略)・・・・・
長崎市街を走る路面電車の西浜町アーケード前駅に沿った川沿いの一画に、「土佐商会跡」碑と「土佐商会跡」説明板に並んで「梅屋商店跡」説明板が建てられている。
その「梅屋商店跡」説明板には、「(梅屋)庄吉は、1868年(明治元)長崎市で生まれ、幼少期、土佐商会の家主でもあった梅屋家に養子入りして育てられました。彼は、“土佐商会の支配人であった岩崎弥太郎に背負われ、遊び戯れた記憶がある” と記しています。」とある。




土佐商会は、岩崎弥太郎、坂本龍馬、そしてグラバーとも関係していたようですね。
梅屋 庄吉が孫文を支援していたのは、背景に土佐商会があったからでしょう。
この家系が、岩崎弥太郎、坂本龍馬、そしてグラバーと関係していたからでしょう。
はっきり言って、「彼ら」と関係していたからでしょう。
そうでなければ、単に香港で写真屋をやっていた人間が、中国の革命に現在の貨幣価値で1兆円もの大金を託すわけがないでしょう。それ以前に、そんな大金を持っているわけがないでしょう。
「彼ら」は、梅屋 庄吉を通して孫文に革命資金を投入したのです。
「八百長明治維新で日本を支配下に置いた後は、八百長辛亥革命を起こした」ちゅーわけですナ。
孫文に限らず、自分たちが育てた傀儡政治家には、同じく傀儡として当時の中国を実質支配していた宋家の三姉妹を妻として「配置」しています。
裏切らないように「監視」する任務を担っていたのかもしれませんナ(笑)




http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-1852.html
(管理人)
「1843年以降の中国(清朝)は、皇帝が支配者ではない。皇帝とその一族は名目だけの首領として据えられているだけで、実権は宋家の手に渡った。宗家は、婚姻を通じてロスチャイルド家と結びついているサッスーン家の代理人であった。」

このデス・グリフィンの著書からの引用文章は、中国近代史の真実を暴露している。
私も以前から、宋三姉妹の物語については怪しさを感じていた。
三姉妹それぞれが孔子の子孫や中国近代史を代表する人物に嫁ぐというのは、
誰の目に見ても異常である。
宋家とは、一体何者であったのか?
宋家についての記述を、下記サイトより一部引用する。


http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu2/ogawa.htm
一人は金を愛し、一人は権力を愛し、一人は中国を愛した。
「金を愛した」と言われる長女靄齢は,孔子の子孫を称し、金融で巨富をなした山西省の富豪の息子、孔祥熙の妻となった。靄齢は金銭的な抜け目のなさで悪名高い。しかし多くの人々は、彼女が宋一族の運命の操縦者でもあったことを知らない。「もし彼女が男に生まれていたら、きっと中国を支配しただろう」とまでいわれたことがある。
「中国を愛した」とされる次女慶齢は、辛亥革命の指導者で、国父と称される孫文の伴侶となった。慶齢は、夫・孫文の理想に忠実に生き抜いた。彼女は、後に、毛沢東の人民共和国の副主席となった。
「権力を愛した」と言われる三女美齢は、革命指導者として頭角を現し権力を握った蒋介石と結婚した。美齢は歴史上最も有名で最も権力を握った女性の一人となった。彼女が中華民国の元首を背後で操る権力者であったことは公知の事実である。

宋王朝のはじまり
 三姉妹の父親、宋嘉樹は、"チャールズ・ジョーンズ・スン"として知られている。通称、"チャーリー"と呼ばれている。
彼は、海南島の貧農韓家に生まれたが、少年時代に、ボストンで茶や絹を商っていた移民の親類の養子となり、渡米した。この時から宋姓を名乗った少年は商人以外の道を志して家出、潜入した船の船長の厚意により、教会と実業家の援助を受け、神学を修め、牧師となって帰国した。上海で偶然ボストン時代の知人に再会したチャーリーは、彼の義妹に当たる名門の娘倪桂珍と結婚した。倪家は、明代の高官で西欧科学の紹介者であり、また中国で最初にキリスト教信仰を受容したとも言われる徐光啓の子孫であった。宋家の始まりである。
家庭をもったチャーリーは、聖書の出版を手始めに実業家に転身した。宋家には、三姉妹を含め、6人の子供が生まれた。
・・・・・(中略)・・・・・
三姉妹アメリカへ
1904年、靄齢が15歳のとき、中国初の女子留学生として渡米し、ジョージア州のウェストレアン・カレッジに入学した。靄齢は米国で数奇な運命を冒険的に切り開き、リンカーンを尊敬し、祖国の近代化を渇望して、孫文の革命運動を援助する父親の教育を直接受け、意志が強く、行動力もあった。渡米途中の事、同伴者の米国人牧師が出航後まもなく、動向の妻の死去にあい前途靄齢に付き添えないという事になった。彼女は祖国に戻る事を承知せず一人で渡航することを選んだ。そのため、サンフランシスコでの入国の際許可が下りず、拘留された。真相は、中国人移民制限法によるものであったが、入国管理官の態度は靄齢にとって屈辱的で彼女を傷つけた。留学生活も2年を経た頃、靄齢は清国教育視察団を率いて米国に来た伯父に連れられホワイトハウスを訪問した。この時、彼女は、T・ルーズベルト大統領から米国の印象を尋ねられた。彼女は臆することなく入国時の人種差別など不快な体験を述べ、自由と民主を誇る米国でこのような事があって良いものかと詰問したと伝えられている。
靄齢は、2年後、慶齢、美齢の留学と入れ替わりに帰国し、1912年の中華民国成立式典には臨時大総統孫文の英文秘書として、父親と共に列席していた。
 1911年 辛亥革命により最後の王朝が滅び中華民国が成立した事を慶齢が父親からの便りで知った時、彼女は自室の壁から清朝の旗を引きはがし、中華民国の旗を貼り付け、祖国が共和国になったことを狂喜した。彼女はカレッジを卒業すると、母親代わりに面倒をみていた4歳年下の美齢をハーバード大学在学中の弟、宋子文に託し祖国に向かった。




見返してみて、改めて「彼ら」の仕掛けた“芝居”に気づいた。
孫文の妻であった宋慶齢は、その後、中国共産党の副主席になっているのだ。

これこそ「右も左も根は同じ」の証明である。

中国革命の父・孫文も、中国共産党も、「彼ら」が作ったのである。
「アメリカと中国が対立している」なんて嘘八百を今も垂れ流すバカ(インテリを装った輩に多い)がいるが、歴史が全く分かっていないのには呆れるばかりである。
現在の日本も、現在の中国共産党も、「彼ら」の傀儡政権なのである。
この2国がアメリカ国債を一番所有しているのが、何よりの証拠である。
「新型コロナウィルスをばら撒いたのは中国なのかアメリカなのか」なんてバカな話題を拡散しているバカ(または工作員)ブロガーや陰謀論者が多々見られるが、こういった歴史認識があまりになさすぎる。
私は以前から指摘しているが、今回のコロナ詐欺は、アメリカおよび中国(勿論、日本も含まれます)といった「彼ら」の傀儡国家が、「協力」して行っている国際詐欺なのです。
話が全然違う方向にそれてしまいましたが(笑)、今回の歴史秘話ヒストリアの「激闘!中国革命に賭けた日本人 孫文と梅屋庄吉」という物語の真相は、「「彼ら」の傀儡である梅屋庄吉が、「彼ら」に指示に従って孫文に革命資金を援助した」ということでした。
「八百長明治維新の中国版」ちゅーわけですナ。
最後に、太田龍氏が紹介しているデス・グリフィンの重要な論文をアップします。




http://www.ohtaryu.jp/blog/2701-2800/j-1235836375.html
デス・グリフィン氏による重要な論文。

オバマの「政治的錬金術法」
「ミッドナイト・メッセンジャー」二〇〇九年一月、二月号(第一四三号)

平成二十一年(二〇〇九年)二月二十八日(土)
(第二千七百十一回)
〇デス・グリフィン発行。
〇「ミッドナイト・メッセンジャー」二〇〇九年一月、二月号(第一四三号)
〇この号の主要な論文は、デス・グリフィンの
「アン・アクト・オブ・ポリティカル・アルケミー」(政治的錬金術法)である。
‘An Act of Political Alchemy'
By Des Griffin
〇この超大論文は、全部日本語に翻訳すれば、日本語にして、
四百字詰め、百枚ぐらい、
〇この重要論文は、デス・グリフィンとしても傑作の部類に入るだろう。
〇デス・グリフィンの許可を得て、いづれその内容を日本民族有志に紹介したい。
〇ディス・グリフィンは、オバマ米大統領を「政治的錬金術」であると定義する。
これはオバマの一面を鋭く曝露している。
〇しかし、日本では、「アルケミスト<錬金術師>」の伝統が存在しないので、
当然のことながら、すべてがぼやけてしまう。
〇ニュートンが、錬金術師であったこと、あるいは少なくとも錬金術の熱心な研究者
であったこと、
〇この事実は、日本人全部にとって全く存在しなかったこととされている。
西洋の歴史の本質は、秘密結社であり、秘密結社のイデオロギーは、
デモノロジー(悪魔学)、あるいは悪魔術、又は魔術である。

〇アルケミー(錬金術)はこのデモノロジー魔術の一種である。
〇こんなことは西洋人にとっては、
〇西洋のインテリ、西洋のエリートにとっては常識中の常識でしかない。
〇しかし、日本人にとっては、これらのことは、すべて全く存在しない。
〇日本の学者にとって、こんなことを認めるぐらいなら......となるであろう。
〇近年の「ハリー・ポッター」の世界的大流行は何だったのか。
〇ジョン・コールマン博士によれば、十九世紀末、三百人委員会の有力な組織である
フェビアン協会系の工作員によって、書かれていたものであるという。
〇コールマン博士によれば、十九世紀末英国MI6は、オカルト心理作戦部を創設
したという。

〇こう言う話は、おめでたい日本人には、まるで何のことやら意味が通じないであろう。
〇「ハリー・ポッター」は、全世界のデモノロジー化、悪魔学化、全世界の魔術化への
布石の一つであった。
〇かくして、イルミナティは「世界大統領」とも言はれる
政治的アルケミスト(錬金術師)、アメリカ新大統領オバマの時代を作り出す
わけである。

〇デモノロジー
〇それは、永遠の嘘である。
〇それは、永遠の真の否定である。
〇それは、永遠の真の否存在である。
〇これはいいかえれば、この世界、この宇宙が架空であることを意味する。

(了)





現代日本人は、「西洋の歴史の本質は、秘密結社であり、秘密結社のイデオロギーは、
デモノロジー(悪魔学)、あるいは悪魔術、又は魔術である。」ということを理解しなければならない。
「デモノロジー 、それは、永遠の嘘である。 それは、永遠の真の否定である。
それは、永遠の真の否存在である。
これはいいかえれば、この世界、この宇宙が架空であることを意味する。」

この「真実」を理解しなければ、現在世界中で行われているコロナ詐欺の本質が見えてこない。「「彼ら」がクレイジーな国際詐欺を行っている土台にあるものが何か」ということが。それは、デモノロジー(悪魔学)から生じているのである。




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秀吉が伴天連追放を行った本当の理由は?

「フロイスの見た戦国日本」川崎桃太


2003年の書である。フロイスの書いた『日本史』のダイジェスト版である。
以下、一部引用する。



*当時、つまりフロイスが来日したころの布教の状況を概観しておこう。
ザビエル、トルレス、フェルナンデス修道士からなる布教の先発隊が鹿児島に到着してから、すでに14年が経過していた。ザビエル一行は布教の足掛かりを得るために上陸地の鹿児島に10カ月、次いで平戸、山口へと居住を移していったが、どこに行っても彼らが期待するほどの布教の成果を挙げることはできなかった。それでも山口では周防・長門の国主大内義隆の許可を得ることができ、町角での説法が民衆に珍しがられた。そのうち宗門の話を進んで聞きたがる者も現われるようになって、受洗者の数は徐々に増えていった。

*フロイスは1565年(永禄8)、都に到着した。
・・・・・(中略)・・・・・
そのわずか数カ月後に将軍義輝が、反乱を起こした家来の手にかかって敢えない最期を遂げた。ヴィレラが君侯と呼んでいた将軍は、日ごろ宗門には寛大であって、伴天連を高位の僧侶として扱い、布教の許可状も与えていた。そうした庇護もあって、都にはすでにそのころ百名を超えるキリシタンが住んでいた。
その一方で、「伴天連が説くところは悪魔の教えであり、伴天連たちは人肉を食べる」(2.23)などといいふらす者もいて、伴天連追放のキャンペーンがところかまわず繰り広げられていた。
・・・・・(中略)・・・・・
さらに一同協議の結果、今後のために伴天連はひとまず堺に逃れて、混乱の収まるのを待ったほうがよいということになり、司祭もその考えに従わざるを得なかった。こうしてフロイスは、小西行長の父、ジョウチン立佐と数名のキリシタン武士に護られて都を立ち去ることになった。都を出ていくフロイスに心ない街の人々は、
まるでこれで都の市(まち)が一人の破門された人、または放火者から解放されるのを見物するかのように、司祭やキリシタンや教会ならびにデウスの教えに対して、大声でもって多くの罵詈や呪詛の言葉を吐いた
(2.16)

*信長の権力が確立してからの都は平穏で、一時は破壊された上京もすでに再建されていた。都には都にふさわしい教会が宗門のシンボルとして出現することを、五機内すべてのキリシタンが望んでいた。そこでフロイスは、五機内の主だったキリシタンと、教会を建立する計画について協議した。
・・・・・(中略)・・・・・
できあがった教会は、ザビエルが来日した8月15日を記念し、その日が祝日に当たる「聖母の被昇天」に捧げられた

*他の機会に一人の僧が、生命あるものを殺すのは許されるかどうか、司祭に訊いた。その時の伴天連の答えに彼らの生命観を窺うことができよう。
我らがここで説く全能のデウスは、万物を創り給うた時に、ただちに、下級の被造物は上級の被造物に隷属し、そして上級の被造物は高尚であるから、その段階に応じて、下級のものによって自らを養い、生命を保つように定められたのである。かくて蚊は蜘蛛の餌であり、蜘蛛は小鳥の餌であり、小鳥は小鳥でさらに猛禽に捕えられて人間の食料に供せられる。そのことから獣類、鳥類、魚類は、この世においてデウスが作り給うたもっとも高尚な被造物である人間の食物として役立つために創られている」(1.115)。
こうした西洋の合理主義や実用的思考が、当時の人々にどれだけ理解されたかは容易に判断できないが、因習と伝統を重んじる時代の空気のなかでは、むしろ抵抗、反発を覚悟しなければならなかっただろう。事実、伴天連たちは行く先々で人間の血を吸うなどのいわれのない中傷、誹謗の矢面に立たされることが多かった

*布教の拠点が九州に移る前は、周防の山口が宣教の舞台となっていた。ザビエルは国主大内義隆に厚遇され、その地を布教の中心とすべく、仲間のトルレスに万事を託してゴアに帰っていった。1551年(天文21)のことである。
だが、その年、山口では陶晴賢が謀叛を起こし、領主義隆は自害して果てるという非常事態が発生した。義隆の後継者には、豊後から大友宗麟の弟大友八郎晴英が大内義長として迎えられた。義長は宗麟の弟ということもあって、布教を積極的に援助した。彼が政権の座にいた6年間にキリシタンの数は2千名を超えた。ところがその義長も、長続きせず、皮肉にも前任者と同じような手口で同じ運命をたどることになる。
この政変で采配を振るったのが、安芸の毛利元就である。義長が滅亡したのは1557年(弘治3)であるが、それは同時に順調な歩みを見せていた布教にとって、死を宣告されることでもあった。支配者となった元就は、徹底した反キリシタン政策をあらゆる面で実施して行ったからである。





(管理人)
どうやらフロイスの書いた『日本史』は、イエズス会という色眼鏡を通した日本史であるようだ。本書を手掛かりにして「本当の日本史」を探ってみたい。
ザビエルは、大内義隆の許可を得て布教に成功したようだ。
大内氏とは何者か?


https://sengoku-his.com/796
先祖は百済系の渡来人
大内氏のルーツをたどると、武将としてはめずらしく先祖は渡来人であると自称しています。
『大内多々良氏譜牒』などの書物によると、大内氏の先祖は百済の聖明王の第三子・琳聖太子(りんしょうたいし)とされています。琳聖太子は推古天皇19(611)年に百済から周防国佐波郡多々良浜に入り、聖徳太子に謁見して「多々良(たたら)」姓を賜り、周防の大内県(おおうちあがた)を賜ったとされています。そしてやがて大内を名乗るようになったとか。




鬼塚英昭氏も語っていたが、やはり大内氏のルーツは朝鮮(百済)であるようだ。
イエズス会であるザビエルは、朝鮮人である大内氏と、「協力」して布教を成功させた。
「この布教というのは、あくまでも建前である」と私は判断している。
では、その「本当の目的」とは?



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-28.html
殺すなかれという戒律はキリスト教徒だけに適用する
「イエズス会とキリシタン大名による日本人奴隷貿易の真実」


以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用です。
イギリスの歴史家ジョージ・サムソン卿は『日本-文化小史』の中で、あるスペイン船長の話を書いている。日本との取引交渉に難渋するスペイン船長に、日本人が「スペイン国王はどうしてこれだけの領土を支配できたのか」と質問した。その船長は簡単なことだ。原住民を改宗させるために宣教師を送り込む。改宗者が十分そろったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するようにしむける。そしてスペインが占領するのだと答えた。
1549年にキリスト教を伝えるため来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエルの隠れた使命も、日本の占領にあったのでしょうか?
小岸昭(京都大学教授)の『十字架とダビデの星』の中に、ザヴィエルが描かれている。
「旧キリスト教徒の高位聖職者たちは、マラーノを正しい信仰に背いた「呪われた者」としてマラーノ憎悪を煽り立てていた。大航海と植民の拡大政策による国家の経済的発展とともに、いちじるしく力をつけてきた信仰中間層を封じ込め、かつカトリック王国を宗教的に浄化する必要を痛感していたジョアン三世は、1536年、ついに異端審問所を開設するに至った。この時、火炙りの刑に震えおののいた改宗ユダヤ人のなかに、祖国を脱出し、新天地たる黄金のゴアに向かう者が少なくなかったのである。」
小岸はマラーノについて、「追放か洗礼かを迫る十五世紀末の『ユダヤ教徒追放令』により、キリスト教に改宗したイベリア半島のユダヤ人たち、表面上には〈十字架〉に帰依するように見せかけながらも、心の奥底で密かに〈ダビデの星〉を信じ続けた彼らは、異端審問所の執拗な追及に怯え、『マラーノ』(豚)と蔑まれながらやがて世界中に離散していく。ヨーロッパはもとより、ブラジル、インドへ…」と書いている。
ザヴィエルは、ポルトガル系のユダヤ人のマラーノである。ポルトガル系ユダヤ人は香辛料や金銀を求めて、世界的な貿易に乗り出していた。マラーノのザヴィエルは、イエズス会の会員にして貿易商人でもあった。
<中略>
『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』から彼の信仰と思想を見ることにしよう。
「神父が日本へ渡航するときには、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきてください。
もしも日本国王が私たちの信仰に帰依するようなことになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的な利益をもたらすであろうと神において信じているからです。
堺は非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金がたくさんありますので、この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思います。」(『書簡集』第93、ゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てて、1549年11月5日、鹿児島より)
それでは「書簡第九」を見てみよう。ザヴィエルが商人であることを知ることができる。
「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述べたように、堺の港に、ついた時、持ってきたのが少なければ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けができるからです。」
堺は十六世紀中葉、日本の商業の中心地であった。
ザヴィエルは1551年、堺に三万クロサド以上の財産がある商人たちは1000人以上いると推定した。
80バレルの胡椒は、インドで976クルサドの価であったが、日本に来ると三倍になった。
<中略>
「書簡第九十四」は、ヴァスコ・ダ・ガマの子のペトロ・ダ・シルヴァに宛てた手紙である。その手紙は次の文で終わる。
「もし、閣下が私を信頼してくださって、この地方に送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は「一」から「百」以上に増やすと断言します。」
 こうしてみるとザヴィエルはポルトガルの経済戦略の先兵隊員ではあったようです。
 そして、このザヴィエルが貿易の目玉としたのは、火薬の原料となる“硝石”でした。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。(二版では憲兵命令で削られた)
「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし。」
<中略>
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが天正少年使節団としてローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
「行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
 ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。」
(山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』)
キリシタン大名は、火薬一樽で50人を奴隷として差し出したとのことです。また、キリシタン大名は、硝石欲しさに仏像や寺社の破壊も行ないました。
イエズス会のバテレンのルイス・フロイスの『日本史』の記述を読むと、大友宗麟の姿が見えてくる。この『日本史』は、1583年の秋からフロイスが編集した日本におけるイエズス会の布教の歴史である。
大友宗麟が織田信長に鉄砲や火薬を仲介する商人の姿が書かれている。宗麟は貴族の久我晴通に、禁裏(天皇)へのバテレン優遇の奏上を依頼している。
信長が仏寺破壊を行なって、フロイスは祝意を表明している。バテレンは宗麟にも仏像・寺社破壊を奨励した。
 宗麟は1561年に宇佐八幡宮を焼いたのをはじめ、領内の仏像・寺社破壊をなした。1581年10月8日に、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いた。

 宗麟はヴァリニャーノに「このたびの勝利が、デウスの御業と司祭たちへの祈りの賜である」と伝えた。その報酬として、イエズス会は宗麟の武器援助の要請に応じた。





フロイスも、著者も、イエズス会関係者であるようなので、決してイエズス会にとって“都合の悪いこと”は書かない。
書き手の背後関係を見抜かないと、「本当の日本史」は見えてこない。
ところで、ザビエルと大内氏の関係から何かが思い起こされないだろうか?
はい、田布施システムのことである。




http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-144.html
日本支配者層の歴史秘話ヒストリア
「幕末から現代に至る日本の支配者層の血族秘話」


田布施町(たぶせちょう)は、山口県の 南東部の町。岸信介、佐藤栄作と2人の内閣総理大臣を出している。2人の首相を出した「町」は全国でも田布施町だけである

そんなに優秀なのか山口県 熊毛郡は?・・歴史を紐解くと。。。

第一次・伊藤博文 44歳 861日 山口県田布施町(朝鮮人部落)

黒田清隆 47歳 544日 鹿児島県田布施町(朝鮮人部落)

第一次・山縣有朋 51歳 499日 山口県田布施町(朝鮮人部落)

松方正義 56歳 461日 鹿児島県田布施町(朝鮮人部落)


第二次・伊藤博文 50歳 1485日 山口県

第二次・松方正義 61歳 482日 鹿児島県

第三次・伊藤博文 56歳 170日 山口県

第一次・大隈重信 60歳 132日 佐賀県多布施町(田布施でなく多布施)

なぜこんなに、ここに集中するのか不思議です。。。

大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている
終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は、鹿児島の朝鮮人部落出身である。
本名は朴茂徳である。鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。


終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、
安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、大室家とは親族だという。

安倍晋三は統一教会と縁が深いのだからまさに朝鮮半島勢力である。
明治天皇とその取り巻きが、なにせ田布施出身の朝鮮人系統なのだから、
現実の政治はその流れに沿うのである。


小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)
出身の朝鮮人である。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、
朝鮮人部落である。小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ
(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、
日本国籍を取得したのだ。小泉の次に安倍政権、そのいずれもが
朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。






皆さん、ご理解いただけましたでしょうか?
ザビエルと関係していたのは大内氏だけではありません。
大友宗麟をはじめとしたキリシタン大名等も含まれます。
ザビエルと大内氏や大友宗麟をはじめとしたキリシタン大名等の関係は、
「彼ら」と田布施システムの関連人物との関係に瓜二つなのです。
ザビエルが大内氏や大友宗麟をはじめとしたキリシタン大名等を使ってこの国を支配しようとしていたのと、「彼ら」が田布施システムの関連人物を使ってこの国を支配しようとしていることは、瓜二つなのです。
どうやらこの特殊な関係は、“八百長明治維新”から始まったのではなく、ザビエルの時代から始まっていたようですナ。
太田龍氏が言っていたように、日本民族絶滅計画はザビエル来襲から始まっていたようですナ。

信長もこの勢力に操られていました。
信長が天下を取ったのは、バックにこの勢力がいたからです。
信長殺しの真犯人もこの勢力でしょう。
天下取りを応援してやったのに、自分の力で天下を取ったかのように驕り高ぶった信長を許せないと思い、明智光秀を使って殺させたのです。
明智光秀もこの勢力に利用されたに過ぎません。
利用された末に斬られたのです。
恐らく秀吉もこの計画に加わっていたのでしょう。
計画に加わっていたからこそ、秀吉はあのスピードで中国大返しを成功させることが出来たのです。
秀吉とこの勢力の間に入って秀吉を唆した一人が、あの黒田官兵衛でしょう。
だから秀吉は官兵衛を恐れていたのです。
「自分も信長のようにやられてしまうかもしれない」と秀吉は考えていたのです。
秀吉が伴天連追放を行った理由は以下の4点の理由が考えられます。

① 秀吉自体が信長殺しの計画に加わっていたからこそ、イエズス会の恐ろしさを知り抜いていた
② イエズス会からキリシタン大名が硝石を手に入れていたのを知っていたため、これ以上キリシタン大名がイエズス会から硝石を手に入れないようにしたかった
③ イエズス会がキリシタン大名と組んで、女子供を奴隷として海外に売り飛ばしていたことを許せなかった
④ イエズス会のキリスト教の布教の裏に、日本国家の完全乗っ取りの意図があることを見抜いていた

この4点の理由の中でも③と④が重要です。
この重要な理由を無視して、秀吉のことを「善良な伴天連を追放した暴漢である。キリシタンを弾圧した冷酷な独裁者である」と決めつけることは許されない。
秀吉の英断がなければ本当に日本民族は絶滅されていたかもしれないのです。
コロンブスが南米の原住民をほとんど絶滅させたように

この「事実」を無視して何がキリシタン弾圧だ!E加減なことを言うんじゃないよ!

フロイスを一方的に非難しているようだが、私はフロイスの功績も認めたい。
それは、「伴天連が説くところは悪魔の教えであり、伴天連たちは人肉を食べる」とか、「伴天連たちは行く先々で人間の血を吸う」とか、当時の日本人の“貴重な発言”を文章に残していることだ。この事実から、私はフロイスを評価したいと思う。
こういった記述が伴天連に対する誹謗中傷だと思う人もいるだろうが、単なる誹謗中傷ではなく、事実を基にした記述である可能性も否定できないだろう。仮に事実じゃないにしても、このように言われても仕方ないことを伴天連及び大友宗麟をはじめとしたキリシタン大名は行ってきたのである。

一人の僧が「生命あるものを殺すのは許されるかどうか」と司祭に訊いたとのことだが、これに対する伴天連の答えに感じるものがあった。

「これは優生学である」と。

「この世の生物には優先順位がある」という思想である。
「優先順位が下位のものは上位のものに食べられるのは当然である」という思想である。
これは本当にキリスト教の思想なのだろうか?
それともイエズス会独自の思想なのだろうか?
キリスト教の皮をかぶったユダヤ教の思想なのだろうか?
ダーウィンの思想に近いようにも感じる。
ダーウィンの思想の一端をウィキより記す。




ロンドンで研究を続けているときに、トマス・マルサスの『人口論』第六版を読んで次のように述べた。
1838年11月、つまり私が体系的に研究を始めた15ヶ月後に、私はたまたま人口に関するマルサスを気晴らしに読んでいた。動植物の長く継続的な観察から至る所で続く生存のための努力を理解できた。そしてその状況下では好ましい変異は保存され、好ましからぬものは破壊される傾向があることがすぐに私の心に浮かんだ。この結果、新しい種が形成されるだろう。ここで、そして私は機能する理論をついに得た...(C.R.ダーウィン 『自伝』)




八百長明治維新以来、日本は、天武天皇以来禁じられていた肉食禁止を廃するようになった。
私は肉も魚も食べる人間なので偉そうなことは言えないが、動植物の命をいただくことで生かされているというありがたみを感じているつもりだ。
少なくとも、「お前らは下等生物だから食べられて当然なのだ」なんていう驕り高ぶった考えは持っていないつもりだ。
ほとんどの日本人は私と似たような考えを持っていると思う。
「他の生物の命をいただいくことで自分が生かされている」という事実に感謝する。
だから、「いただきます」には感謝の思いが込められているのである。
こういった生命維持の手段以外の他生物の殺傷(単なるファッションのためといった毛皮取得等)は決して許してはいけないと思う。
こういった日本人古来の道徳観から成り立つ思想を否定したのが、ザビエル来襲以来、日本に持ち込まれた西洋の思想であるだろう。

「自分さえ満足できれば他人は死んでもいい。いや、死んでもらわんと困る」といった狂気の思想である。

私がいつも叩いている悪魔勢力である「彼ら」の思想である。
今回のコロナ詐欺を「彼ら」が行っているのも、この悪魔の思想が根底にあるのだ。
大友宗麟をはじめとしたキリシタン大名も、このような悪魔の思想に憑りつかれていたのだろう。

「自分が伴天連から硝石を得て、武力をつけることで豊かになる。そのためには女子供を奴隷として海外に売り飛ばしても平気である。自分自身の利益のためにキリシタン大名に“改宗”し、イエズス会と“仲良く”なれば、自分自身は力をつけることが可能になり、毎日楽しく愉快に暮らせるのだ」という。

まさに悪魔の思想である。

もう一度言う。今回のコロナ詐欺を行っているのも、この悪魔の思想が根底にあるのだ。
一般の日本人は「人間がそんなに悪いことをするはずがない。人間は本来善良な存在であるはずだ」と思っているため、西洋由来のこの悪魔の思想が理解できない。
しかし悪魔の思想を理解できなければ、次から次へと引き起こされる狂った社会事件の真実を理解することもできないだろう。

本書を一方的に批判しているように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。
本書は貴重な事実を教えてくれた。
その中でも特筆すべきことは、あの戦争の終戦記念日の本当の意味を教えてくれたことである。
1945年8月15日、すべての数字を足すと「33」になる。
この数字は「彼ら」にとって非常に重要な数字である。
この事実は決して「偶然」ではない。
「彼ら」がこの日を選んだ理由のもう一つの理由を本書は記している。

それは、「8月15日はザビエルが来日した日であり、その日をイエズス会は重要視している」ということである。

秀吉及び家康に追放されたイエズス会は、八百長明治維新を成功させることで日本民族に対する復讐を果たした。
そして、八百長太平洋戦争に日本を巻き込み、日本を焼け野原にさせることによって日本民族に対する復讐を完成に近づけたのである。

ザビエルにこの“成果”を報告するために日本の敗戦記念日を8月15日にしたのである。

「彼ら」は、これでもまだ飽き足らず、「117」や「311」を引き起こした。
「彼ら」は、これでもまだ飽き足らず、さらなる陰謀を仕掛けてくるだろう。

日本民族を徹底的に絶滅させるために。

「彼ら」の悪魔の計画に対抗するために、日本人はこの「事実」を理解しなければならない。「本当の日本史」を理解しなければならない。「彼ら」の悪魔の思想を理解しなければならない。

新型コロナウィルスが「彼ら」が引き起こした詐欺であることを理解するためにも、現代の日本人は「本当の日本史」及び「彼ら」の悪魔の思想を学ぶ必要がある。

本書は、「本当の日本史」及び「彼ら」の悪魔の思想を理解するための貴重なガイドブックである。
フロイス及び著者の功績に感謝する次第である。



評点:60点







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