歴史・宗教 - 嘘八百のこの世界
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嘘八百のこの世界

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「注意すべきは、後醍醐天皇の討幕のさい、まずその直属の武力になったのが、こうした悪党、海賊などの人々であったという点であります。楠木正成は、実際に悪党と呼ばれており、一所懸命の武士とは性格が明らかに違う、商人的武士、職人的な武士でありました。」by網野義彦

「中世再考~列島の地域と社会~」網野義彦

2000年の書である。以下、一部引用する。

*実際中世の年貢をとりあげてみると、米が圧倒的部分を占めているわけではありません。東国はほとんど繊維製品であり、西国でも、瀬戸内の島々は塩が中心、中国山地一帯は鉄が年貢になっています。この事実をみただけでも、日本人が水田耕作だけで生計を立てていたのではなかったことは明らかといわなくてはなりません。さらにまた、鎌倉時代には、農業にも若干のかかわりは持っていますが、おもに海や山で活動し、各地を広く遍歴して、生産物を交易する商工民、あるいは芸能によって生活をたてつつ漂泊する人々がたくさんいたと思われます。
まず海の民ですが、こうした人々のなかには、天皇、神社、寺院と結び付いて供御人、神人、寄人の称号を持ち、課役を免除され、諸国を自由に通行できる特権を保障されている人々もありました。これらの人々は漁撈に携わるだけでなく、時には海の武士団―海賊としてその姿を現すこともあります。また一方では生魚売の商人として活動する者もあり、さらに廻船人といわれ、海上運送に携わっていた人のいたことも12世紀には確認できます。

*山の民の活動も見落とせません。狩猟民の集団は中世にまだかなり存在したし、轆轤師や檜物師、塗師といわれる手工業民もたくさんいました。備中の新見庄には轆轤師が鎌倉時代に活動しております。さらに山伏などの修験の人々の動きにも注目する必要があります。山の民は、海の民ほど史料がないのであまりよくわかりませんが、鎌倉時代には普通考えられているよりはるかに活発に活動していたと思われるのです。事実、これらの山の民もしばしば山賊、悪党といわれる武装集団として姿を現しますが、さらにひろげれば野の民、川の民など、耕地にあまり関係しない同じような人々も、中世にはかなりいたのであります。こういう人々の技能―手工業の技術や廻船の技能のことを当時は「芸能」と総称しており、これらの人々は多くの場合、こうした特定の「芸能」―職能を、世襲的に伝えていたので、これを「職人」ということもありました。ですから、傀儡(くぐつ)、遊女(あそびめ)のような狭い意味での芸能民も職人であったわけです。
鎌倉時代末になると、西国のほうでは、こういう非農業民的性格を持ち、機動性に富んだ武装集団が、さかんにゲリラ的な動きをするようになります。モンゴル襲来後、西国に乗り出した幕府は鎮圧につとめますが、これらの悪党、海賊は増える一方でした。注意すべきは、後醍醐天皇の討幕のさい、まずその直属の武力になったのが、こうした悪党、海賊などの人々であったという点であります。楠木正成は、実際に悪党と呼ばれており、一所懸命の武士とは性格が明らかに違う、商人的武士、職人的な武士でありました。

*一方、山について言えば、南朝が根拠を置いた吉野・熊野は、山の民の広範な活動の舞台でありますし、護良親王の活動が山伏に依拠し、諸国の武士への令旨もこうした人々によって運ばれたことは間違いないといわれています。南朝が山の民に支えられていたことも、海ほどはわかりませんが、事実と思われますし、実際に南北朝合体後の後南朝を支えたのが、木地師などの山の民であった点はよく知られていることです。




(管理人)
ここに記したのは、本書のほんの一部に過ぎない。
正直言って、私には本書は少々難解であった。
しかし、ここに記した海の民、山の民の記述は、とても興味深く感じた。
天皇家にはこういった人々が常にかかわっていたというのは、よく言われている話である。
天皇家と八咫烏の関係なんて話もよく聞くが、これも似通った話だろう。
身分制度なんてものはあってはならないものだと私は思っているが、天皇家の存在を認めるということは、身分制度を認めることに結果として繋がってしまうのである。
かといって私は「天皇制を廃止すべきだ」と主張するつもりはないが、あえてこの問題は学校教育もメディアもタブー視して触れないようにしているのだろう。
日本が共産主義にならないために天皇制をそのままにしておくというのは、一見天皇制肯定の理由になるようではあるが、所詮「右も左も根は同じ」「資本主義も共産主義も同一勢力がつくった芝居」であるわけだから、そんな理論は屁理屈にすぎない。
ただ以下の歴史的事実が存在しているようだ。

身分制度の頂点に立っている天皇家は、身分制度の最底辺にある勢力と“持ちつ持たれつの関係”を築いてきた。

こういった特殊な関係は、今現在も大なり小なり存在しているのではないのだろうか。
さらに気になったのは、「南朝が山の民と繋がっていた」という話である。
「諸国の武士への令旨もこうした人々によって運ばれたことは間違いない」という話である。「楠木正成は、実際に悪党と呼ばれていた」とのことである。

この話から分かることは、身分制度の最底辺にある勢力と繋がっている天皇家は北朝ではなく南朝だというのである。

しかし公式ストーリーが正しければ、現在の天皇家は北朝である。
孝明天皇が北朝なのだから、そのまま続いているのなら北朝であるはずなのだ。
「身分制度の頂点に立っている天皇家が身分制度の最底辺にある勢力と“持ちつ持たれつの関係”を築いてきた」というのはあくまでも南朝の話であり、現在の北朝系の天皇家には関係のない話であることになる。
しかし、明治天皇は「南朝が正当である」と公式に発言している。
皇居にも楠木正成の銅像が存在している。
明治になって建立された神社のほとんど(すべて?)が南朝系であると言われている。

北朝系の孝明天皇の血筋が続いているのなら、これは実に不思議な現象である。

北朝系の天皇家は、「悪党と呼ばれていた楠木正成」を支持する南朝勢力に乗っ取られてしまったのだろうか?

それともやっぱり孝明天皇は弑逆され、本来の明治天皇であるはずの睦仁親王も弑逆され、大室寅之祐が明治天皇として据え置かれたのだろうか?

これはゆゆしき問題である。

天皇家を崇拝しておられるネトウヨの皆さん、この件は真剣に調査する必要があるんじゃないでしょうか?

もし皆さんが崇拝する天皇家が悪党によって“こっそり”すり替えられてしまっているとしたら、黙っているわけにはいきませんよね?

でもまさかネトウヨの皆さんは、「悪党と呼ばれていた楠木正成」を支持する勢力に雇われた商売ネトウトなんかじゃないですよね?

ネトウヨの皆さんは実際は日本人でさえなく外国籍の方が多いという噂もあるようですが、そんなことないですよね?

皆さんがカネで雇われた工作員なんかじゃなく本当に日本人のことを考えておられる北朝系の孝明天皇支持の愛国者であるならば、この問題に真剣に取り組んでくださいよ。

「なんで北朝系であるはずの明治天皇が「南朝が正当である」と語ったんや!」と抗議してくださいよ!

「なんで南朝系の後醍醐天皇に仕えた楠木正成の銅像が北朝系の皇居に存在しているんだ!」と抗議してくださいよ!

「なんで明治天皇は立派な明治神宮に祀られているのに、父親である孝明天皇は名もない祠に祀られてるんや!明治神宮は「自分の父親を粗末に扱うな」と何故に怒らなかったんだ!どう考えてもおかしだろ!」と抗議してくださいよ!

それとも皆さんは、「悪党と呼ばれていた楠木正成」を支持する「悪党の末裔」なんですか?

昔と同じく南朝天皇の配下で悪事を働くことで生計を得ているんですか?

北朝天皇がどうなろうと俺らには知ったことじゃないんですか?

明治天皇が外国勢力及びその勢力に雇われた売国奴に担がれた替え玉であろうと俺らには知ったことじゃないんですか?

皆さん自身が外国勢力に雇われた売国奴なんですか?

「本当は天皇なんて南朝でも北朝でも殺されてようと入れ替えられてようとどーでもいいんや。俺らは商売でネトウヨやってるだけなんや」ということですか?




本書から話がかなり逸れてしまったようですが、まあ良しとしておきます(笑)


評点:50点


<参考記事>

http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
天皇史そして日本史の真実
「天皇破壊史」太田龍




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ギリシャの哲学者プラトンによると、今は亡き文明である「アトランティス」はイベリア半島付近に位置していた。さらに「エルチェの貴婦人」の“ヘルメット”は、高度な文明社会を反映している。とすれば、「エルチェの貴婦人」は地球外知的生命の庇護下にあったアトランティス文明の遺物なのだろうか?

「地球空洞説<頭中空洞説⑩」

アルシオン・プレヤデスの新しい動画をアップします。
今回は、メモにとどめておきます。

アルシオン・プレヤデス136:アトランティス、アストラン、退廃、戦争、アガルタ、パンドラ、洪水の警告、ノア

https://www.bitchute.com/video/YZYEu4UfDnVO/

はるか古代の伝統は、「アガルタ」の起源と、聖書のノアであり得るもの、そしてアトランティス文明の破壊を結びつけている。
アトランティスは、無限エネルギーを利用していた宇宙船といった、優れた技術を持つ高度に発展した文明だった。そしてそれを裏付ける多くの証拠や研究者が存在する。だが、末期においては、その破滅の前に退廃の時代を経験し、最先端の武器を用いる軍隊のすさまじい戦争が起こった。それにも関わらず、大洪水の前に当時の人類を助けようとした存在からの警告があった。
アトランティスやレムリア、ヒュペルボレイオスの多くの生存者が、空洞地球にその避難先を見出した。彼らは教訓から学び、それ以来平和を発展させて、前の文明を継続させた。
インドやギリシャ、エジプト、マヤの神話においても、また千夜一夜物語のペルシャの物語も、その退廃に至るまでの最高の輝きについて、またアトランティスの人類の終焉と現在の人類の開始について、言及している。私達がそれを回避するために何かしない限り、どうやら私達は、同じ自己破壊の道をたどっているようだ。
ビデオ制作:アルシオン・プレヤデス



エルチェの貴婦人について書かれたブログ記事から引用する。

https://tocana.jp/2022/04/post_233885_entry_2.html
ギリシャの哲学者プラトンによると、今は亡き文明である「アトランティス」はイベリア半島付近に位置していた。さらに「エルチェの貴婦人」の“ヘルメット”は、高度な文明社会を反映している。とすれば、「エルチェの貴婦人」は地球外知的生命の庇護下にあったアトランティス文明の遺物なのだろうか?
 現在、胸像はマドリッドにあり、そのレプリカは「エルチェ考古学歴史博物館」などで見ることができる。ちなみに、「エルチェの貴婦人」が発見されてから、これが偽造物であるという噂は常に囁かれていた。しかし、2011年に電子顕微鏡とX線技術を用いた調査が行われ、この胸像は古代に製作されたものであることが確定。放射性炭素年代測定の結果、製作から2500年以上が経過しており、これは確かに古代イベリアの時代と重なっている。また、人間の骨の断片を含む灰の痕跡も検出され、壷として使用されていたことが確認された。
 紀元前4世紀からこの地で眠り続けていたものの、歴史的・文化的にきわめて奇怪な特徴を持つ胸像「エルチェの貴婦人」――その出自をめぐる謎について、今後新たな事実が判明するのかどうか、研究の進展を期待したい。


https://mysteriesrunsolved.com/ja/2021/02/mysterious-helmet-lady-of-elche.html
エルチェの貴婦人の不思議な「兜」




バサの貴婦人について書かれたブログ記事から引用する。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/112900693/
スペイン南部の小さな都市バサの北に、セロ・デル・サントゥアリオ遺跡という、古代ローマ以前の墓地遺跡がある。1971年7月のある朝、発掘作業員がここで何か固い物を掘り当てた。色の付いた岩のように見えたが、土を取り除くと女性の顔が現れた。太陽の光を浴びたのは、およそ2400年ぶりだった。
 この高さ1.2メートルの石灰石の彫像は現在、「バサの貴婦人」として知られている。翼のようなものをもつ玉座に、ドレスと宝石で着飾った女性が座っている像だ。かつては鮮やかに彩色されており、今でもその顔料の名残が、バラ色の頬やマントの縁の市松模様などに見られる。右側の物入れの中から火葬された人骨が見つかったことで、バサの貴婦人は紀元前380年頃の骨壺だったと判明した。
バサの貴婦人は、1897年に発見された「エルチェの貴婦人」など、スペインの他の場所で見つかった女性像に似ている。2つの石像はどちらもイベリアの衣装や髪飾り、イヤリング、ネックレスで飾られており、かつては鮮やかな色が塗られていた。

両方とも古代ローマに支配される前の時代に作られたものだが、当時栄えていたイベリア文化はまだ多くの謎に包まれている。精巧な装飾を施されたバサの貴婦人は、その体内に葬られた人物に関する手がかりとしても興味深い。
 この像を詳細に調べると、イベリア文化が、ローマやカルタゴをはじめとする地中海周辺の他の文化とつながりがあったことがわかる。そしてバサの貴婦人が作られてから100年後、イベリア半島は、この2大勢力の争いに巻き込まれることになった。



https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/112900693/?P=2
バサの貴婦人に納められていた火葬遺骨は、紀元前380年頃に亡くなったバステタニの高い身分の女性のものだと考えられている。
 スペインで見つかっているほかの女性像は、どこかの時点で元の埋葬地から動かされていたが、バサの貴婦人はこれらとは異なり、本来の場所で発見された。この像は、墓地遺跡にある地下約1.8メートルの四角い玄室の北側の壁際に安置されていた。
像の前には、色彩豊かな装飾が施された陶器や金属製の武器など、様々な供物が置かれていた。彼女が誰かはともかく、重要人物だったのは間違いない。足元の副葬品が、高い地位にあったことを強調している。また、こうした遺物は、イベリア人と交易があったギリシャ人やフェニキア人の様式の影響も受けている。
玉座と像の両方が一枚岩から彫り出されており、しっくいでコーティングして青、赤、黒、白といった複数の色で塗られている。彫像の顔は故人をモデルにしている可能性があるが、それを実際に確かめる術はない。
 像のデザインからは、強力な外部文化の影響がうかがえる。バサの貴婦人の女性が生きていた時代、イベリアの富はカルタゴに依存していた。カルタゴは、フェニキア人が北アフリカに作り出した新たな貿易の一大中心地だった。フェニキア人はこの首都をフェニキア語で「新たな都市」を意味するカルタゴと名付けた。
カルタゴの影響は、バサの貴婦人の宗教的な面に表れている。有翼の玉座は、女神を暗示している。左手に持つ鳩も同様だ。これらの鳥に関連するシンボルは、地中海西部における母なる女神であり主神でもあるフェニキアの神タニトを表していると考えられている。紀元前4世紀、タニトはカルタゴの中心的な信仰対象だった。
 カルタゴはローマとの戦争中、紀元前264年からスペインに侵攻し始めたが、最終的には206年に追い出された。イベリア半島は、徐々にローマの支配下に置かれていった。やがてローマの影響が大きくなるにつれ、土着のイベリア文化とその古代言語は失われていった。(参考記事:「2600年前のワイン醸造所を発掘、レバノン最古 」)
 バサの貴婦人は現在、マドリードにあるスペイン国立考古学博物館に展示されている。エルチェの貴婦人や他の遺物とともに、古代イベリアの理解を深める上で重要な文化財だ。





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「アメリカ先住民の人口は、16世紀の1200万人から、1900年には25万以下に減少した」byアルシオン・プレヤデス

「アメリカは、先住民を大量殺戮して成立した国家である」


アルシオン・プレヤデスの新しい動画です。


アルシオン・プレヤデス特別版22:ゴールドラッシュ、先住民の大虐殺、フォートノックス、タングステン

https://www.bitchute.com/video/oQskjKnKc4nh/


金(きん)について話すことは、富や財産に言及することであるが、また、陰鬱な歴史や恨み、野心、死にどっぶりとつかることでもある。「ゴールドラッシュ」は、1848年1月に、まだメキシコの領土であったカリフォルニアのサクラメントで開始した。その年に、メキシコとアメリカは、両国の戦争を終結させる条約に署名し、アメリカは当時までメキシコの領土であったニューメキシコ、テキサス、カリフォルニア、アリゾナ、ユタ、ネバダといった州を獲得した。
わずか7年の間に、30万人以上がカリフォルニアにやって来た。アメリカの先住民に対する暴力と憎悪は、大量虐殺に至った。先住民の人口は、わずか25年で15万から3万人に減った。彼らは飢えと病気、攻撃に苦しんだ。
世界的な交易の発展とともに、先進工業諸国は、取引を標準化し、『世界市場』を生み出す方法を模索していた。その答えとして、金本位制が採択された。議会は、金と貨幣の価値を安定させる一つの形として、1913年に連邦準備を創設したが、1971年に金本位制を放棄した。明らかに、各国が保有していた様々な金の準備は、時の経過と共に消滅した。もしかして、イルミナティやビルダーバーグ、また世界を治める20の主要な家系によって押収されたのだろうか? フォートノックスは、アメリカの金の準備を保管しているが、現在では、金が存在するのか、もしくは実際には金メッキされたタングステンなのか、誰も正確には知らない。
ビデオ制作:アルシオン・プレヤデス




・1850年と1851年に、カリフォルニア州は、先住民狩りを行った民兵たちに100万ドル支払った。

・一部の村では、先住民の首にお金を提供していた。
価格は5ドルから25セントだった。

・新聞は、その大量虐殺を報告していた。

・1872年と1873年に、フィリップ・シェリダン将軍は、先住民の食料を絶つため、350万頭以上のバッファローを殺すよう命じた。

・15年間で、カリフォルニアの先住民の人口は、15万人から1万5千人になった。

・先住民の人口は、16世紀の1200万人から、1900年には25万以下に減少した。

・1837年、先住民に天然痘ウイルスに侵された毛布が譲渡された。






アメリカは、先住民を大量殺戮して成立した国家である。
現在世界中で同じことが、「地球先住民」に行われている。
アメリカ建国を主導した白人勢力と、現在「世界同時詐欺」を進めている勢力は、同じ思想の持ち主である。
「自分たちの理想郷を成立させるためには、先住民には死んでもらわないと困る」と考え、行動する勢力である。
過去の歴史を正しく教えられていない我々は、同じ思考を持った勢力に、同じ手段によって、絶滅させられようとしている。
「今」を生き抜くためには、「過去の歴史」を正しく学ぶ必要がある。
我々は、「この世界を人間とは思えない思考を持った勢力が支配している」ことを理解しなければならない。
我々は、「地球先住民」という「過去形の生命体」にさせられてはいけない。




ザ・ブルーハーツ 青空



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「ロスチャイルド家のマリオネットに成り下がっていた」というジョージ4世は、フリーメーソンのイングランド・首位グランドロッジのグランドマスターでした。

「世界の歴史8絶対君主と人民」大野真弓⑧(最終回)


前回に続く。今回が最終回です。以下、一部引用する。


*このように議会がせっかく財源を議決しても、これが高利貸の食物になるので、大きな資本団体をつくり、そこから大口に借りいれるのがいちばんよいということになった。
ところで、これよりさき、実業家ウィリアム=パターソンが、資本団体に銀行を創設する特許を与え、この団体から大口を借り入れる案を提出していたが、ちょうど1694年政府は100万ポンドの歳入不足を生じたので、大蔵大臣モンターギュはこの案を採用した。これによって1694年資本金120万ポンドの株式会社イングランド銀行が創立され、同銀行はその資金全部を政府に貸し付け、これを保証準備として銀行券を発行する特権を与えられた。政府は120万ポンドに対し、年利8分9万6千ポンドと経費4千ポンドを支払うことになったが、イングランド銀行は、これを事業費として一般事務を開始した。
イングランド銀行の設立はイギリスの財政の危機を救うためのものであったが、当時イギリスの金属貨幣がひどく乱れていたところから、このような、つねに同一価格をもつ銀行券の発行はイギリス経済の発展によい影響を及ぼした。対フランス革命は非常に金をくう戦争であったが、ルイ14世の財政が窮乏し、ユグノー追放のためフランス工業がおとろえていったのに対して、イギリスがイングランド銀行を設立したことは、戦争遂行上非常に有利な点であった。
フランスでナポレオンがフランス銀行を設立したのは、それから106年後のことである(1800年)。




(管理人)
今回は、イングランド銀行を調べてみる。
まずは、コトバンクで見てみる。



日本大百科全書(ニッポニカ)「イングランド銀行」の解説

イギリスの中央銀行。その権威のゆえに「ザ・バンク」The Bankと尊称される。また、ロンドンの本店所在地にちなんで「スレッドニードル街の老婦人」The Old Lady of Threadneedle Streetの名がある。イングランド銀行券は、連合王国United Kingdomを通じての法貨legal tenderである。ただし、スコットランドと北アイルランドでは独自の発券銀行が存在し、それらの銀行券もイングランド銀行券と相並んで流通している。とはいえ、それらの保証準備発行額はごく限定されたもので、それを超える発券にはイングランド銀行券による100%準備が必要とされている。


百科事典マイペディア「イングランド銀行」の解説

英国の中央銀行。名誉革命直後の国家財政収入の赤字を補い,経済発展に伴う通貨不足を補うために1268人の株主が出資して1694年設立。政府に120万ポンドの貸付けを行うことで銀行券の発券特許を得た。1833年イングランド銀行券は法貨と定められ,初期の業務は対政府貸付けがほとんどで,国庫金の出納や国債業務をも扱う〈政府の銀行〉として成長した。1844年のピール銀行法により銀行部と発券部とに分けられた。前者は一般銀行業務と国庫事務を取り扱い,後者は発券の独占権をもつ。1946年労働党政権により国有化され,株式は政府の独占的所有となった。本店ロンドン。




「1268人の株主が出資して1694年設立」されたが、「1946年労働党政権により国有化され、株式は政府の独占的所有となった」とのことである。

次に、ウィキで見てみる。



イングランド銀行(イングランドぎんこう、英: Bank of England、日本における旧呼称は英蘭銀行)は、イギリスの中央銀行[注釈 1]。
1690年、同行成立以前から、フォンテーヌブローの勅令でフランスから流れたユグノー資本が英国債の売れ行きに貢献していた。4年後に創立したとき、世界は大同盟戦争とウィリアム王戦争、そしてザームエル・オッペンハイマーの活躍する大トルコ戦争のさなかにあり、同行は政府への貸付を主要な業務とする商業銀行であった。多くのユグノーが毎年の選挙で理事となった[1]。1697年の同行第4次利払いリストによると、ウーブロン家をはじめとする移住の早かったユグノーは同行の15%を支配した。後発組にはテオドール・ヤンセンやトーマス・パピヨンなどがおり、彼らが先行組から同行の株式を譲りうけ、しかも英国債の約1割を所有した[2][3]。
同行は政府を通してイギリス東インド会社・ハドソン湾会社などへも貸付を行っていた[4]。ユグノー出身で6代目総裁のジェームズ・バトマン(James Bateman)はロンドン市長と南海会社副社長を務めた[5]。
18世紀後半、将来ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの義父となるレヴィ・バレント・コーエンをふくむユダヤ人が、最初アムステルダムにいながら、やがてロンドンに定住するまで、東インド会社の破綻した事業を買収していた[6]。
1800年8月から1816年8月までの各16ヵ年においては年平均60万ポンドの割引収入をあげて準備金を蓄え[7][注釈 2]、イングランド銀行は1816年に金本位制を採用した。やがてロスチャイルドが台頭し、各国の外債発行とイングランド銀行の準備金補填に関わった。銀価格低下の時期にアルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事を務め、19世紀末の不況に対応した。
第一次世界大戦ではJPモルガンが戦時国債の独占代理人を務めた。1934-1935年、イングランド銀行は植民地の中央銀行設立に関わった。第二次世界大戦後は財務省法官(Treasury solicitor)が政府のために100%保有するところとなった[8]。しかし大きな権限縮小を免れ、金プールの運営に参画した。
1807年、大英帝国内での奴隷貿易が禁止される。バルト海貿易で富を築き、当銀行理事を務めたジョン・ソーントンは、息子ヘンリや総裁を務めたサミュエルらとともに奴隷貿易廃止法案に尽力していた[9]。この禁止は帝国内の経済に長期的な打撃となり、1815年恐慌と1819年恐慌の背景となった。
1816-1817年に兌換が部分的に再開され[注釈 7]、1823年で全面的に再開された。1822年にハプスブルク家がロスチャイルド一族全員に男爵位を授与している。このころ外債が洪水のように契約されていた。ロスチャイルドは請負人として最も活躍した[14][注釈 8]。ロスチャイルドはロンドンの投資家の関心を呼ぶためにスターリング・ポンド建て外債の利率を定めていた。また、1823年と1825年に代理商取引法が制定されたことは契約を促したが、取引所の利害関係を混乱させた。
1823年6月、国庫委員会の議事録にネイサン・メイアー・ロスチャイルドが登場する[15]。同年3月すでに、フランスが総額1億2000万フランの公債を発行するにあたり、ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドがシンジケート団(以下、シ団)を組織し引受けた。アッシニアの担保に財産を没収された教会・貴族の反発があるも、フランス政府は低利借り換えを画策。実現に向けて公債相場を維持するため[16]、ネイサンは翌年5月イングランド銀行から1年間金100万ポンドの保証を受ける。12月1日に保証額中30-50万ポンドを持ち出し[15]、担保としてイギリスの「整理公債」を預託、持ち出した金塊はフランス銀行に預け入れた。結局、利率が低すぎてシ団は半壊。ロスチャイルドは残り、逆に力を誇示することになった[16]。
1825年、イングランド銀行から欧州まで恐慌の波が及んだ。ラテンアメリカ投機の一部について株価の暴落したことが引き金となった[注釈 9]。フランス銀行に正貨の供給を受けた[注釈 10]おかげで、破綻寸前で踏みとどまった[注釈 11]。この惨事は社会運動に発展し、紡績工場法が修正されたり、労働組合が承認されたりした。また、銀行券、特に小額紙券の流通量を著しく減らす[注釈 12]。
創立時から当分は事実上の財務省として機能した。政府に対する直接融資、国債の引受と消化もこなした[65]。
1701年の株主は1903人であったが、このうち107人が総裁の資格たる4000ポンド以上の株式を保有していた。その107人は、創立時の出資者を多数ふくむ[注釈 34]。ユグノーはセファルディムを参加させるようになった。筆頭はソロモン・デ・メディナ[注釈 35]。総裁資格をもつ107人のうち、およそ9分の1がユダヤ人であった[66]。メディナとスペイン系のシルバ家[注釈 36] は同行で大口の地金売りであった。





「1822年にハプスブルク家がロスチャイルド一族全員に男爵位を授与している。」とのことだが、これはどういった意味だろう?
フランス革命はイエズス会によるハプスブルク家への復讐」じゃなかったのか?
私はイエズス会もロスチャイルドも同一勢力(「彼ら」)だと判断している。
ということは、つまり「フランス革命でハプスブルク家を配下に置いたイエズス会(=ロスチャイルド)が自分たち一族全員に男爵位を授与「させた」というのが真実なのだろう。
カネを奪い取った後に名誉を奪い取ったということだろう。
テロリストの伊藤博文が県知事や首相という名誉を奪い取ったのと同じことだ。

イングランド銀行は「1701年の株主は1903人であったが、このうち107人が総裁の資格たる4000ポンド以上の株式を保有していた。その107人は、創立時の出資者を多数ふくむ。ユグノーはセファルディムを参加させるようになった。筆頭はソロモン・デ・メディナ。総裁資格をもつ107人のうち、およそ9分の1がユダヤ人であった。」とのことである。
イングランド銀行は、設立当時からユダヤが支配していたようだ。
その中でもイングランド銀行とロスチャイルドの関係は深い。
次に、こちらのサイトから引用する。



https://gentosha-go.com/articles/-/2398
1784年、バイエルン政府はイルミナティーを非合法組織と認定し、その閉鎖を命じます。そこでアダム・ヴァイスハウプトは、フリーメーソンのブルーロッジに入り、その中で自分の組織を作るようにします。フリーメーソンは、その起源を石工の組合とするなど諸説ありますが、1717年ロンドンでグランド・ロッジが結成されました。その時、「社会や国家を改良して、普遍的人道主義的な世界国を建設する」としています。

そして、1789年フランス革命が起こります。自由・平等・博愛を掲げるフランス議会が、迫害されていたユダヤ人に人権を認め、ナポレオンはゲットーを解体します。自由になったユダヤ人は、解放され、政治家、軍人、芸術家、知識人など、表舞台に飛び出します。ロスチャイルドは一族の銀行から革命の資金援助をし、その他の資金提供者もベンジャミン・ゴールドシュミットなどユダヤ人の銀行家でした。

このフランス革命の主体だったのは、フリーメーソンといわれています。フランス人権宣言の絵をご覧ください。一番上に、ピラミッドに万物を見通す眼というイルミナティーのシンボルが描かれていますし、同じ万物を見通す眼は、1ドル札にも描かれています。これによって、ロスチャイルド――イルミナティー(フリーメーソン)――FRBとつながっていることは明らかです。
・・・・・(中略)・・・・・
1812年初代ロスチャイルドのマイヤー・アムシェルが亡くなります。1814年東インド会社のインド貿易独占権が廃止になり、ロスチャイルド家がそれを引き継いで植民地支配を続けます。1815年にワーテルローの戦いが勃発しますが、この戦争を機に、ロスチャイルド家は莫大な利益を得て、ヨーロッパの金融を一手に収めるのです。この戦いは、ナポレオン率いるフランスとイギリス・オランダ・プロイセン連合国との間の、ヨーロッパの覇権をかけた戦いでした。イギリスは、その戦費を国債を発行して賄っていました。したがって連合国軍が負ければ、イギリスの国債は大暴落します。
ある時、ネイサン・ロスチャイルドは真っ青な顔をして、イギリスの国債をどんどん売り続けたのです。実は、ヨーロッパ大陸から荒波の中を船で帰国していたため、体力的にも真っ青で気分的にイギリスが負けるようなので、その国債を早く売って損を最小限にしたいと思い、必死だっだことも真っ青にしたということでした。

まさにリアリティーに富んでいて、周りの人たちはイギリスが負けると信じ込む要因にもなりました。彼が情報ネットワークを持っていていち早く情報を入手していることは、衆知のことでしたので、周りは連合国軍が負けるのだと思って、われ先にイギリス国債を売り始め、暴落します。ところが、一方でネイサンは自分の息のかかった者に、暴落したイギリス国債を最安値で買い漁るようにさせます。

実は、彼は連合国軍が勝利することがわかっていたのです。結局連合国軍が勝利し、イギリスの国債は暴騰します。これによって、多くの投資家と名門家系が破産しましたが、ロスチャイルドは莫大な利益と巨万の富を手中に収めるのです。ネイサン・ロスチャイルドはこの日の儲けだけで、100万ポンド以上の利益を得て、財産が2000倍以上にふくらんだといわれています。ヨーロッパには、「ワーテルローの戦いに勝ったのは、連合国軍だったが、実際に勝ったのは、ロスチャイルド家だった」といわれていたそうです。

これを機に、ロスチャイルド家はイングランド銀行を支配していくようになります。各国の財務大臣たちは、ロスチャイルド家に取り込まれ、国債を発行する際にロスチャイルド商会に多額の手数料を支払ったり、資金が必要になればロスチャイルド商会に借金したようです。これでヨーロッパの金融をロスチャイルドが一手に手中に収めることになります。





有名なロスチャイルドの「ワーテルローの戦い詐欺」「マネー詐欺」の記事である。
これは、ナポレオンを操っていたイエズス会(=ロスチャイルド)が自ら仕組んだシナリオによる“自作自演詐欺”である。
この“自作自演詐欺”が今も盛んに行われていることは、言うまでもない。
次に、こちらのサイトから転載する。



https://www.japanjournals.com/culture/gudaguda/16443-gudaguda-95.html
▼1825年、ラテンアメリカ発の恐慌がヨーロッパを襲った。産業革命を経て大規模な機械化に成功したイギリスだったが、マシーンの導入は生産性を向上させ過ぎ、綿製品がダブついた。足りなきゃ値は上がるけど、余れば当然値は下がる。これでヨーロッパの投資家たちは大損し、連鎖で恐慌になっちゃったってことらしい。投資家たちは一斉に銀行に預けていた金(ゴールド)を引き出し始めた。この時代、金が枯れれば銀行は立ちいかなくなる。イングランド銀行とて例外ではなかった。そこを突いたのがこっそり金を集めていたロスチャイルド家当主のネイサンだった。前号でも語ったようにネイサンは、ある時はイングランド銀行から巧みに金を引き出して窮地に追い込み、またある時は裏から金を融通して感謝された。そんな中で少しずつ株をかき集め、やがて通貨発行権を持つイングランド銀行を手中に収めた。余談だがゴールドとマネー、どちらも漢字で「金」なのは実に紛らわしい。ここで言う金は全てゴールド、金塊ね。
▼イングランド銀行を手に入れたが、ネイサンの野望はここが終着駅ではない。この時、イギリスには通貨発行権を与えられた銀行がまだまだ幾つも存在していた。ネイサンの究極の狙いは通貨発行権を独占し、全銀行の頂点に立つことにあった。ネイサンは後に自ら催したパーティーの席上で「大英帝国の玉座にどんな操り人形が座っていようが構わない。だって通貨供給を管理する者がこの国を支配するんだも~ん」とうそぶいたという。時の英王はジョージ4世だったが、皇太子時代の彼は謹厳実直だった父王と違い、浪費と放蕩に明け暮れ、酒と女に溺れる実に羨ましい超ド級のドラ王子だった。議会と父王から莫大な資金援助を受けていたがそれでは全然足りなかった。足りない分はどうした? だいじょうぶ。そばにネイサンという頼もしいATMが控えていた。借金漬けで1人では身動き一つ取れなくなったジョージ4世がロスチャイルド家のマリオネットに成り下がっていたというのはあながち大袈裟な表現ではなさそうだ。
▼この時、ネイサンの視線は他国の通貨にも向けられていた。彼は金を支配することで世界中の通貨を支配できると考え、金の保有量で銀行券の流通量が決まる金本位制を見据えて貪欲に金を貯め込んでいた。しつこいけど金はゴールド。1836年にネイサンが亡くなるとロンドン家は長男のライオネルが引き継いだ。後に「覇王」と呼ばれることになるこのライオネルの時代、ロスチャイルド家はさらなる発展を遂げる。1844年、時の首相ロバート・ピールは議会で「イングランド銀行条例」を可決させた。ライオネルの子飼いだった、後に首相となるユダヤ人、ベンジャミン・ディズレーリの仲介によるものだった。この条例は金に保証された銀行券をイングランド銀行に独占的に発行させ、その他の銀行の新規銀行券発行を禁じ、さらに銀の流通を制限するという内容だった。この瞬間、イングランド銀行は民間でありながら英国の「中央銀行」となった。ほとんどの議員はこれが何を意味するのか気づかなかった。ましてや庶民の間では誰がコインを造ろうが札を刷ろうがどうでもいいことだった。ライオネルは肩を震わせ「うっしっし」と喜んだ。世界に先駆けてロスチャイルド家に通貨を支配されたのは7つの海を支配した大英帝国だったということになる。そして彼らの触手は大西洋を挟んだあの大国に向けられていく。自分で自分の眉に唾しながら次号に続く。チャンネルはそのままだぜ。
参考文献:林千勝著「ザ・ロスチャイ ルド」他





「ロスチャイルド家のマリオネットに成り下がっていた」というジョージ4世をウィキで見てみる。


ジョージ4世(英語: George IV、1762年8月12日 – 1830年6月26日)は、イギリス、ハノーヴァー朝の国王(在位:1820年1月29日 - 1830年6月26日)。ハノーファー王国の国王ゲオルク4世(ドイツ語: Georg IV.)でもあった。父はジョージ3世、母はその妃シャーロット。妃はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントの次女キャロライン(ドイツ名カロリーネ)。1811年から即位するまで、父の精神疾患により摂政王太子として統治した。
1787年にフリーメイソンに加入した[96]。1792年から1812年までイングランド・首位グランドロッジ(英語版)のグランドマスターを務める[97]、1806年から1820年までスコットランド・グランドロッジ(英語版)のグランドマスターを務めた。即位後はイギリス・フリーメイソンの「大保護者」の地位についた[96]。
イギリスではジョージ2世の王太子フレデリック・ルイスがフリーメイソンに加入したのをきっかけとして、男性王族はフリーメイソンに加入するのが一般的となる。しかしフレデリック・ルイスの王子のうち国王となるジョージ3世だけはフリーメイソンに加入したという記録がない。そのためジョージ4世は記録上明確な最初のフリーメイソンリーの英国王である。彼の即位をもってイギリス・フリーメイソンは名実ともにイギリス社会の正統・本流的存在になったといえる[98]。






はい、ジョージ4世はフリーメーソンのイングランド・首位グランドロッジのグランドマスターでした。
「イギリス王室=フリーメーソン」というのは、陰謀でも何でもありません。
ウィキにも記されている「事実」です。


ところでジョージ4世の紋章ですが、どこかで見た覚えがありませんか?

はい、ロスチャイルドの紋章です。こちらを見てください。



「ハプスブルク家より、男爵の称号とともに授けられた。盾の中には5本の矢を持った手が描かれ、創始者の5人の息子が築いた5つの家系を象徴している。盾の下には、ロスチャイルド家の家訓であるConcordia, Integritas, Industria(調和、誠実、勤勉)という銘が刻まれている」とのことですが、冗談もたいがいにしてほしいものだ。

何が「ロスチャイルド家の家訓であるConcordia, Integritas, Industria(調和、誠実、勤勉)」だ!あんたらのやってることは、「混沌、邪悪、怠惰」だろう!

ロスチャイルドがハプスブルグ家から奪いとった紋章は、ジョージ4世の紋章(イギリス国王の個人的な紋章)と瓜二つである。
これは、ロスチャイルドがイギリス王室と一体になって世界支配を進めている証拠である。
さらには、ロスチャイルドとイギリス王室がフリーメーソン、イルミナティ、イエズス会と一体になって世界支配を進めている証拠である。
国家なんてもんは、こいつら邪悪な悪魔勢力の配下に位置しているんですよ。
こいつらが、右も左も支配しているんですよ。
右や左なんていう似非思想をつくりあげたのも、こいつらなんですよ。

ジョージ4世の父親はジョージ3世(George III、1738年6月4日 - 1820年1月29日)で、ハノーヴァー家第3代目のイギリス国王(在位:1760年10月25日 - 1820年1月29日)であり、ジョージ3世はハノーファー選帝侯 ジョージ2世(1683年11月9日 - 1760年10月25日)の孫であり、そのジョージ2世の王女メアリーの息子が初代ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(Wilhelm I., 1743年6月3日 - 1821年2月27日)なんですよ。
ヴィルヘルム1世は、ロスチャイルド家の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトと1775年に知己を得、1801年から彼に財産の運用を任せるようになった人物なんですよ。

つまり、「ヴィルヘルム1世がいなかったら、現在のロスチャイルドは存在していなかった」と言っても過言ではないんですよ。

こうやってロスチャイルドは、ヴィルヘルム1世を介してイギリス王室と繋がっているんですよ。
ヴィルヘルム1世は、ウィキに「1813年のライプツィヒの戦いでナポレオン・ボナパルトが敗れると領土を回復し、1821年に死去するまでその地位にあった。なお、ヴィルヘルム1世は神聖ローマ帝国が解体されたにも拘らず「選帝侯」の称号を用い続けた」と記されています。
ヴィルヘルム1世は、ロスチャイルド、イエズス会と繋がって、神聖ローマ帝国が解体された後も既得権益を得ているんですよ。

ちなみにジョージ2世の父親がジョージ1世(英語: George I、1660年5月28日 - 1727年6月11日)で、ハノーヴァー朝の開祖である。
ジョージ1世については、「ジョージはドイツのハノーファーで生まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の領地や選帝侯位称号を父や伯父たちから相続した。スペイン継承戦争などヨーロッパにおける一連の戦争により、ジョージのドイツ領地はその治世中に拡大した。イギリスで又従妹のアン女王が崩御してステュアート朝が断絶すると、母のゾフィーがステュアート家の血筋だったことから、54歳でグレートブリテン王国の国王ジョージ1世として迎えられた。ドイツで生まれ育ったジョージ1世は英語を理解できず、文化も異なるイギリス国民から嫌われたと言われている。」とウィキに記されています。

つまり、 ジョージ1世はドイツ人だったんですよ。

ジョージ1世のハノーヴァー家は、ウィンザー家に名前を変えたんですよ。
つまりドイツ人がイギリス王になり、家名をイギリス風に変えたということですよ。
分かりやすく言えば、韓国人の王家である○○家(例えば李)の人物が、日本の王族になり、家名を○○家(例えば岸)に変えたようなものですよ。

これって実話でしたっけ(笑)

先日「明治維新はイギリスのピューリタン革命を模倣したものだ」と書きましたが、「外国人による国家乗っ取り」ということでも日本はイギリスを模倣したのかもしれませんな。
ともに「外国人による国家乗っ取り」を演出したのは、同じ勢力(=「彼ら」)です。





いつも「裏の世界史」を調べている私ですが、今回「表の世界史」を読み進め、さらにその背後を調べることで、「真実の世界史」が見えてきたように思えます。
歴史というものは、表も裏も調べる必要があるようです。

「真実の世界史」が見えてくると、「真実の日本史」も見えてくるようです。
日本も世界の一部ですから、否が応でも影響を受けます。
邪悪な悪魔どもとその傀儡によって、日本は「開国」させられたということです。

そして今回、「彼ら」が何者であるかということが、ある程度見えてきました。
ロスチャイルドとドイツ経由の“世にも奇妙なイギリス王室”との繋がりが。
イングランド銀行との繋がりが。
イエズス会やフリーメーソンとの繋がりが。
あくまでも「人間の歴史」としてであり、その正体までは分かりませんが・・・


評点:90点




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「困難なことは、それがまだ易しいうちに始めなさい。 偉大なことは、それがまだ小さなうちにやりなさい。 世界中の困難な問題も、かつては易しかったに違いない。 偉大なことも、かつては取るに足らない小さなことだったに違いない。 千里の旅も、第一歩から始まるのだ。」by老子

「地球空洞説<頭中空洞説⑧」


アルシオン・プレヤデスの新しい動画をアップします。
天照大神や七福神等の日本の神話にも触れています。


アルシオン・プレヤデス134:悠久の中国-皇帝、観音、斗母元君、ダナ、万里の長城、不死…

https://www.bitchute.com/video/ZB2ziwhmMzFg/


この新しいビデオ・ドキュメンタリーにおいて、天球に由来する神々と結びついた、東洋の文化のはるかなる起源について掘り下げていく。これは、もっぱら抑圧され、隷属させられた集産主義しか見られない、現在の中国とは何の関係もないものだ。
この偉大な文明の開始は、約5千年前の黄帝の統治までさかのぼる。この時、神聖なものに触発された文化が創造され、天文学や文字、工学や医学が発達した。西王母は、天界最高の統治者、玉皇大帝と共に、天上の崑崙山に位置するヒスイの宮殿で統治を行っていた。そこには、不死の桃が存在していた。
アジアの伝統において、観音(クァンイン)は、慈悲と憐れみの女神、世界のあらゆる苦しみを見守る存在で、現在まで大いに崇拝されている神である。日本の神々の中で最も重要な神は、太陽の女神、アマテラスである。先ケルト期の民族においては、ブリギット女神が知られており、またダナという名でも際立っている。強力な叡智の女神であった。また斗母(ドウムー)は、アジア全土で仏教徒にも道教信奉者にも崇拝される神である。北斗七星の母として知られる。
では、たった49年の統治において、大国である中国を統一し、社会に多くの改善を達成した、万里の長城の建設者である最初の皇帝、秦の始皇帝については、何が言えるだろうか?また、これらの文化が常に達成可能なものとしていた不死の探求についてはどうか?これは多くの文化が述べていることであり、歴史は不死の存在がいることを伝えている。
ビデオ制作:アルシオン・プレヤデス





西王母をウィキで見てみる。

西王母(せいおうぼ、さいおうぼ)は、中国で古くから信仰された女仙、女神。姓は緱(あるいは楊[1])、名は回、字は婉姈、一字は太虚[2]。
九霊太妙亀山金母、太霊九光亀台金母、太虚九光亀台金母元君[3]、白玉亀台九霊太真元君[4]、白玉亀台九鳳太真西王母[5]、上聖白玉亀台九霊太真西王母[6]、紫微元霊白玉亀台九霊太真元君[7]、西華至極瑶池金母皇君[8]、西霊金母梵気祖母元君[9]、西漢金真万気祖母元君[10]、太華西真万気祖母元君[11]、太華西真白玉亀台梵気祖母元君[12]、九霊太妙白玉亀台玉光金真梵気祖母元君[13]、九霊太妙白玉亀台夜光金真万気祖母元君[14]、太妙天紫府化気西華金母元君[8]、無極瑶池大聖西王金母大天尊[15][16]、西元九霊上真仙母[17]、金母元君[18][19]、西霊王母や西華金母[20]、西瑶仙姥や西瑶聖母[8]、西老[21]などともいう。大抵は俗称の王母娘娘と呼ばれる[20]。
「王母」は祖母や女王のような聖母といった意味合いであり、「西王母」とは西方にある崑崙山上の天界を統べる母なる女王の尊称である。天界にある瑶池と蟠桃園の女主人でもあり、すべての女仙を支配する最上位の女神。東王父に対応する
歴史家の陳夢家によれば、殷墟から発掘された甲骨文字の卜辞に「西母」という神が見られ、それが西王母の前身であるという[22]。
東周時代に書かれたとされる『山海経』の大荒西経によると、西王母は「西王母の山」または「玉山」と呼ばれる山を擁する崑崙の丘に住んでおり、西山経には
「人のすがたで豹の尾、虎の玉姿(下半身が虎体)、よく唸る。蓬髻長髪に玉勝(宝玉の頭飾)を戴く。彼女は天の厲と五残(疫病と五種類の刑罰)を司る。」
という半人半神の姿で描写されている[23]。また、海内北経には
「西王母は几(机)によりかかり、勝を戴き、杖をつく」
とあり、基本的には人間に近い存在として描写されている[22]。
また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。
道教における天の女帝
西王母はかつての「人頭獣身の女神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃(蟠桃)を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。王母へ生贄を運ぶ役目だった青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのである。中国民間では旧暦三月三日の「桃の節句」が西王母の誕辰で、この日には神々が彼女の瑶池に集まって蟠桃会を行なうと伝えている[20][38][39][40]。
『封神演義』では「瑶池金母」という名前で登場し、昊天上帝の妻であり、竜吉公主はその娘ということになっている。『西遊記』では無数の珍しい宝物を持つ天界一の貴婦人である。現在の伝説では玉皇大帝の妻として傍らに座しているとされ、七人の娘(七仙女)がいるとされる。道教の文献に記載された西王母の娘の名前は、四番目の娘・南極王夫人(林)[41]、十三番目の娘・右英王夫人(媚蘭)[41]、二十番目の娘・紫微王夫人(清娥)[41]、二十三番目の娘・雲華夫人(瑤姫)[42][43]、そして末娘の太真王夫人(婉羅[44]あるいは玉巵[45])である[41]。『東遊記』には華林、媚嫻、青娥、瑤姫、王扈という五人の名前が出ている[46]。
また、西王母は民間伝説の「牛郎織女」や「董永と七仙女」にも登場する





西王母も生贄を要求する神であったようだ。
三月三日の「桃の節句」は、西王母が起源のようである。




八仙をウィキで見てみる。

八仙(はっせん)は道教の仙人のなかでも代表的な存在であり、中華社会のいかなる階層の人にも受け入れられ、信仰は厚い。日本における七福神のようなもので、掛け軸や陶磁器に描かれるめでたい絵の題材になるなど様々な芸術のモチーフとなっている。
八仙を題材にした小説には、戯曲『八仙過海』を元にした明の呉元泰による『八仙東遊記』がある。『東遊記』『上洞八仙伝』『八仙出処東遊記伝』とも呼ばれる[1]。
全五十六回から成り、前半は八仙の得道伝が、後半では八仙が東海を渡る際、彼らと四海龍王との間に起こった諍いについて語られている[1]。
ある日西王母の宴に出た八仙たちは、蜃気楼を見るために東海へと遊びに出る。だがそこで、藍采和が乗っていた玉版が東海龍王の太子に盗まれ、藍采和は捕らえられてしまう。呂洞賓は龍王と争い、藍采和を解放させたが、玉版は返されないままだった。龍王たちの行いに怒った八仙は龍宮に押しかけるが、そこで呂洞賓が東海龍王の太子たちを殺傷したため、東海龍王は軍勢を出して彼らを討とうとする。八仙がこれに応戦し、東海一帯を焼いたため、東海龍王は他の南海龍王・北海龍王・西海龍王と協力して戦い、八仙を破った。だが八仙たちが海に泰山を落としたため、龍王軍勢はまたもや敗北し、四人の龍王たちは天帝に八仙の行いを訴える。かくして天界側からは趙・温・関・馬の四大元帥が派遣され、また八仙側には斉天大聖が加勢し、騒ぎは大きくなっていく。




七福神はここから来ているのかな?
七福神をウィキで見てみる。



七福神(しちふくじん)とは、インド伝来の仁王経の中にある「七難即滅 七福即生」という仏教語に由来する、福徳の神として信仰される七人の神として日本で信仰されている七柱の神である。七柱は一般的には、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天とされており、それぞれがヒンドゥー教、仏教、道教、神道など様々な背景を持っている。
歴史[編集]
インドのヒンドゥー教の神である大黒を台所の神として祀ることは最澄が比叡山で始めたことで、それが徐々に民間に広まったという。これが民間において日本の土着信仰の神である恵比寿とセットで信仰されるようになった歴史的な経緯はよくわかっていない。平安時代以降、京都の鞍馬の毘沙門信仰からはじまった毘沙門天を恵比寿・大黒に加え、三神として信仰されることが起こった(初期の恵比寿は毘沙門天を本地とすると考えられていた)。この三神セットのパターンはかなり後まで一般的であったが、平安末期 - 鎌倉初期の頃、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになると毘沙門天ではなく「恵比寿・大黒・弁才天」とするケースも増えていった。
室町時代、仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まったものである(上田正昭 『古代からの視点』 PHP 1978年 42 - 43頁、11行 - 15行。吉祥天やサルタヒコを入れる場合もあったが、定着しなかった。前同43頁)。この頃は銀閣寺に代表される東山文化の時代。中国の文化に影響され、大陸的な水墨画が多く描かれた。もてはやされた画題は『竹林七賢図』(竹林の七賢人)。この絵に見立てて、人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神とした。ただし、当初は必ずしもメンバーが一定していなかった。
江戸時代にはほぼ現在の顔ぶれに定まったものの、その後もバリエーションが生み出されることがあった。寿老人と福禄寿はともに南極老人星の化身とされることから、この二者は本来同一のものとみなし、寿老人の代わりに吉祥天・お多福・福助・稲荷神・猩猩・虚空蔵菩薩[1]が入れられることがあった。他に宇賀神・達磨・ひょっとこ・楊貴妃・鍾馗・不動明王・愛染明王・白髭明神が七福神の一人に数えられたことがあった(不動明王と愛染明王、またはお多福とひょっとこはセットで入る場合があった)。
奈良時代から独立した信仰の対象として社が建立されていたが、明治時代の神仏分離の際に、神道の神社となった弁才天の社のようなものもある。古書では、徳川家継将軍時代の1713年に、和漢書『吉原七福神』全5巻が出版されている[2]。
八仙起源説[編集]
八福神の起源はインドである。このインド由来の神は中国に到来した。中国では、七福神と似た八仙(八福神)と呼ばれるものがあり、全てが実在の人物(仙人)であったといわれ、各地でその姿を描いた絵が信仰の対象になっている。絵は日本の宝船に乗る七福神に似た、八仙全員が船に乗って海を渡っているという場面を描いたものが主流なので、この八仙が元になったとする説がある。




八仙が起源だというのは、あくまでも説に過ぎないようである。


老子をウィキで見てみる。


老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする[2]。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。
史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある[3]。
老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する[4]。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている[5][6]。
老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝[7][8]」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。
これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」、字は「聃」(または「伯陽」[注 1])。楚の苦県[2](現在の河南省周口市鹿邑県[10])、厲郷の曲仁里という場所の出身で、周の守藏室之史(書庫の記録官[2])を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた[2]。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる[2])に着くと、関所の役人である尹喜(中国語版)が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい[11][12][13][14]、その後の事は誰も知らない[2]。(「老子」『列仙伝』においては大秦国すなわちローマへ向かった。)
「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる[15][16][17][18]。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える[15][19][注 2][注 3]。
出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の江蘇省徐州市沛県[10])に老子を訪ねている[20]。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる[10]。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う[10][21]。
さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。
ここでは、老子は周の「太史儋(太史聸[22])」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている[13][14]。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ[2]、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(聸)」と老子の字「聃」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う[22]。
これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている[12]。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないため[2]これらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である[23]。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す[24]。
生涯にまつわる伝説[編集]
一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている[38][39]。
『神仙伝』など[40]民間の伝承では、周の定王3年[41](紀元前603年)に母親(「真妙玉女」または「玄妙玉女」[42])が流星を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき[43])に老子を懐妊したが62年間(80年間? [41]、81年間? [42][43]、72年間または3700年間[2- 1]などの説も[40])も胎内におり、彼女が梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産した[42]という。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという[44][45][43]。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる[15][46][47]。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)[15][46][48]もある[38][49]。
中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた[50][51][52][46]。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる[53]。
政治思想の源流[編集]
「黄老思想」も参照
政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた[62][63]。このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める[62]。
しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う[64]。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある[64]。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した[62]。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる[65]。
老子の社会階級[編集]
老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。
老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、今のままでもその食物を美味と思い、服装も立派だと考え、住まいに満足し、それらを自給自足で賄い、その素朴な習俗を楽しむという。隣の国との関係は、互いに望み合えてせいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するように上からの干渉を極力抑えて、民のあるがままにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭し(9章)、民に対する為政者へりくだりこそが天下に歓迎され、長期にわたり安泰を維持出来るとある(66章)。権力政治に対して、民が君主の圧政と重罰に慣れると、上の権力をものともしない状態になり(72章)、民が圧政に苦しみ、死を恐れなくなれば死罪による脅しも効かなくなり民の反乱、国家の崩壊を招くと警告している(74章)。また、法令をどんなに整備しても必ず法網をくぐる者が現れ、さらに犯罪者が増えるという趣旨から法律・政令の簡素化を説いている(57章)。
中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義の呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない[67]。





最後に、老子の名言の中から三つ紹介します。
思い当たることはありませんか?
私は、「今こそ老子の言葉を見直す時期だ」と感じました。



https://iyashitour.com/archives/36160
老子の名言・格言


真言は美ならず、美言は真ならず。
- 老子 -


困難なことは、それがまだ易しいうちに始めなさい。
偉大なことは、それがまだ小さなうちにやりなさい。
世界中の困難な問題も、かつては易しかったに違いない。
偉大なことも、かつては取るに足らない小さなことだったに違いない。
千里の旅も、第一歩から始まるのだ。
- 老子 -


もっとも立派な武器はもっとも大きな悪をなす。
知恵深き人は武器に頼ることはしない。
彼は平和を尊ぶ。
彼は勝っても喜ぶことをしない。
戦勝を喜ぶことは殺人を喜ぶことを意味する。
殺人を喜ぶような人は、人生の目的に達することはできない。
- 老子 -





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