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人生の価値は肩書ではない。「如何に真剣に人生を生きたか」ということこそが、本当の人生の価値である。

「西郷隆盛と明治維新」坂野潤治


2013年の書である。
著者は、東京大学名誉教授という肩書を持つ、所謂「体制派」の人間のようである。
このような肩書を持つ著者が「西郷隆盛と明治維新」の真実を暴くような書を世に出すはずがないことは、本書を読む前から分かっていました。
こういったことを分かっていながら、敢えて本書を読みました。
太田龍氏のような「反体制派」の書だけでなく、著者のような「体制派」の書を読むということは、重要なことであると思います。
学校教育が「彼ら」にとって重要な「洗脳工作の機関」であることは、当ブログの読者の方ならば「常識」としてご理解いただいているでしょう。
この「洗脳工作の機関」の最たる機関が、日本においては東大なのです。
この「洗脳工作の機関」の最たる機関の名誉教授である著者が書く「明治維新本」が歴史の真実を書くわけがないことは、当然のごとく「常識」でしょう。
しかし、そのような立場の人間がどのように明治維新を記すのかということを知ることは、意外と有意義なことなのです。
これは、テレビの歴史番組を私が好んで観ていることと基本的には同じです。
「西郷どん」が歴史を偽造しているのは、初めから分かっています。
そのようなことは「常識」として理解したうえで、どのように偽造しているかを確認することが重要なのです。
本書を読んだり、「西郷どん」を観て、「これが真実の西郷隆盛の人物伝だ」などと思い込んでしまう人は、初めから本書や「西郷どん」に近づかないことをお勧めします。
しかし、この「常識」を理解した上であれば、本書を読むことや、「西郷どん」を観ることは、とても役に立つのです。

批判めいたことを書きましたが、私は本書を全否定しているのではありません。
西郷隆盛のことをよく調べておられるのは事実ですので、役に立つ部分も多いのです。
征韓論について著者は、「西郷は朝鮮を武力で制圧することを目的にしていたのではなく、朝鮮への「使節派遣」を求めたに過ぎない」と述べています。
基本的には「真実」です。
ただし著者は「西郷は西洋・悪魔勢力と戦うための協力体制を築くために朝鮮に話し合いに行こうとしたのであり、「西郷の行動を許すな」と西洋・悪魔勢力に命じられた大久保・岩倉・木戸らと西郷が対立し、西南戦争の原因となった」ということには気づいておられない(気づいていても、そのようには書かない)ようです。
そして幕末・明治期の外国人に関しては、アーネスト・サトウに関する一部の記述を除き、ほとんど書かれていません。
「長州ファイブ」のヨーロッパ留学にグラバーが協力したことにも触れられていない。
これはウィキにさえ記されている歴史的事実です
外国人の存在なしに明治維新を語るということが全く意味をなさないことなど、東京大学名誉教授という肩書を持つ“お偉い方”ならば理解できないはずはないのだが、これは一体どういうことだろう?


http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-2503.html
15歳の少年が新しい天皇になる。孝明天皇に比べてはるかに影響力を行使しやすかろうから、将軍の権力を強めることになろう。 by ハリー・スミス・パークス
「幕末維新を動かした8人の外国人」小島英記



さらに著者が徹底的に遠ざけている箇所があります。
それは、下記の事実です。


http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
天皇史そして日本史の真実
「天皇破壊史」太田龍



このことを触れないで明治維新を語るということは、「キリストのいないキリスト教」「ミック・ジャガーのいないローリング・ストーンズ」「餡子の入っていない大福」「肉のないすき焼き」「スジャータのないコーヒー(古・・・)」のようなものなのです。

飛躍しすぎましたが・・・(汗)
要するに、このことを触れないで明治維新を語るということは、「問題の核心を欠いたもの」であり、「意味をなさないもの」だということが言いたいのです。

「この語られている史実」が真実か真実でないかは別として、「この語られている史実」に触れないということは、問題の核心から逃げているということです。
著者が東京大学名誉教授という肩書を持つ以上、「この語られている史実」に触れるということは、東京大学名誉教授という肩書を失うということになるでしょうから、「この語られている史実」に触れることはできないということは十分に理解できます。
恐らく著者は「この語られている史実」に触れないことと引き換えに現在の地位を築かれたのでしょうから・・・
歴史を偽造することを引き換えに東京大学名誉教授の地位を手に入れられたのでしょうから・・・
「頼むからそこは言わんといて。私がそれについて触れられないことは分かるやろ」というお気持ちは私にもわかりますが、日本近代史や明治維新についての書を出されている以上、「この語られている史実」を無視してもらっては困るのです。
「この語られている史実」が間違っていると主張されるのならば、何故に間違っているかという根拠を述べるべきです。

「本来北朝であるはずの天皇が、何故に明治になって南朝が正当であると公言するようになったのか」という根拠を述べるべきです。

「孝明天皇までは天皇家の菩提寺は寺であったのに、何故に明治になって廃仏毀釈を行うようになったのか」という根拠を述べるべきです。

「病弱であったはずの明治天皇が、何故に相撲にも精通されたご立派な体格になられたのか」という根拠を述べるべきです。

「ご立派な明治神宮と比べて、何故に孝明天皇は無各社(名もないほこら)に祀られているのか」という根拠を述べるべきです。


著者は、学生時代「60年安保闘争を、全学連の幹部闘士として指揮していた」そうである。
学生運動の良し悪しは別として、恐らく学生時代の著者は社会の矛盾に対して真剣に立ち向かい、戦っていたのでしょう。
生意気ではあるが、著者には、是非、当時の純粋な気持ちを思い出してもらいたい。
「現在の肩書を投げ捨てても歴史の真実を書いてやる」というような気概を見せてもらいたい。
人生の価値は肩書ではない。
「如何に真剣に人生を生きたか」ということこそが、本当の人生の価値である。
著者が想いを寄せている西郷隆盛の真剣な生きざまこそが、それを如実に語っているのではないのだろうか。



評点:30点






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15歳の少年が新しい天皇になる。孝明天皇に比べてはるかに影響力を行使しやすかろうから、将軍の権力を強めることになろう。 by ハリー・スミス・パークス

「幕末維新を動かした8人の外国人」小島英記


2016年の書である。
幕末維新の日本に強い影響力を持った8人の外国人について、人物ごとに章を分けて記されている。
著者の主観はほとんど記されておらず、無味乾燥な印象を受けるが、個別の文章を掘り下げることで「明治維新の真実」が見えてくる。
パークスとサトウの章の中から特に気になった箇所を一部引用する。




<ハリー・スミス・パークス>
*長崎領事代理のガウアーの報告によれば、そのころ、長崎に長州の伊藤俊輔と井上聞多が薩摩藩士と称してあらわれ、薩摩藩家老の小松帯刀の庇護で同藩邸に滞在、「薩摩藩は、来るべき長州征討に関して、表面上は幕府に協力的な態度をとっているが、実際は長州藩擁護のために全力をつくしている」。長州藩が薩摩藩の名を借りてグラバー商会から多量の武器を買い付けていることを知り、イギリスはいちはやく薩長接近を嗅ぎつけた。

*慶応二年(1866年)1月21日、薩長連合の密約が成立する。
・・・・・(中略)・・・・・
3月中旬、パークスは英国商人トーマス・グラバーの介在で、薩摩側から鹿児島訪問の招待を打診された。「私は関税の改訂交渉が終わり次第、(中略)長崎に出かけるつもりだが、長崎滞在中、薩摩、それにできれば他の1,2の大名を訪問する機会をえたいと願っている」。
・・・・・(中略)・・・・・
パークスは5月21日、横浜を発ち、27日に長崎到着。ここで、あらためて薩摩藩主の招待状がとどき、薩摩藩家老の新納刑部(にいろぎょうぶ)が訪問した。クラレンドン外相あてに「これは、われわれが日本と条約を締結して以来、幕府の職についていない一大名が、外国公使と個人的な交際をもとうとみずからすすんで申し出た最初の例である」。しかも薩英戦争の相手だから注目すべきだった。
各藩主に訪問の意向を告げる手紙を出すと、2,3の大名から後日、喜んでパークスを受け入れるという了解を得たが、宇和島藩の代表だけが、ただちにこの機会を利用したいとの意向を表明した。長州も藩議としてパークスとの会見を決定し、第二次長州戦争にそなえてイギリスとの接近を強く望み、高杉晋作と伊藤俊輔が訪問した
6月14日夕、長崎を発つ。第二次長州戦争の勃発を知る。
・・・・・(中略)・・・・・
17日朝、藩主島津茂久は、キング提督とパークスを旗艦上に訪ね、夏の別邸(磯別邸)に案内、島津久光に紹介して宴席でもてなす。
・・・・・(中略)・・・・・
6月20日夜か翌朝に鹿児島を去ったが、出航に際し、島津久光はパークスの手をとって別れを惜しみ、航海の安全を祝し、再会を期して手を分かったという。

パークスによれば、「長州軍の成功は、その兵士が、戦っている対手方よりもよい武器をもっているという事実に帰せられるところが大きい」。

*この旅行でのサトウの行動は次章でくわしく述べるが、大坂で薩摩の西郷吉之助と会い、自分の『英国策論』をぶって、大いに西郷を煽ったのが注目される。サトウの主張は「将軍は大領主のひとりという本来の地位に引き下がるべきであり、将軍に替わって、天皇を元首とする諸大名の連合体が支配権力の座につくべきである」というもので、パークスの与知らぬうちに出回り、幕府、討幕派いずれの陣営でもよく読まれていた。イギリス公使館の一吏員としては大きく中立性を逸脱した行為である。

*12月25日、天皇が36歳で死去(間もなく孝明と諡(おくりな)される)。慶応3年(1867年)1月5日、天皇崩御の知らせが老中からパークスに届けられ、「15歳の少年が新しい天皇になる。孝明天皇に比べてはるかに影響力を行使しやすかろうから、将軍の権力を強めることになろう」と予測した。

*パークスは、慶喜の権力復活に対する強い意欲を懸念する。
「疑いもなく御門(みかど)は大君(たいくん)よりはるかに高位にあり、大君が保持する一切の権威は御門から授けられ、大君の行為を支配しているのは御門であることに、われわれは決定的な証拠をいくつもにぎっている」「大君が実際に保持していない権力をあたかも保持しているかのごとくにいいはやすのは、大君の地位強化にはならず、逆に弱めることになる。わたしは、大君がこの国の政治体制にふさわしい仕方で統治を行なう意志をかためることが、かえって大君政府の立場を強化することになると思う」。それは「御門の優位と権威をはっきりと承認し、かつ大名たちの意見を代議機関に反映させることである」。

17日、新政権は布告を発し、対外関係は今後、開国和親の方針をつらぬくと初めて明言した。外国交際は万国公法をもって取り扱うと付言し、神戸事件の処置がその適用第一号となる。朝廷はそれまでの「攘夷」策を、神戸事件のどさくさに紛れて、そっと「開国和親」に方向転換させたのである。


<アーネスト・メイソン・サトウ>
*サトウの主張(引用者註:『英国策論』のこと)は、討幕派にとっては願ってもないものだった。彼と直接関わった西郷吉之助も井上馨も伊藤博文も伊達宗城も後藤象二郎も、そのほか多くの人々も、「天皇を元首とする諸大名の連合体」による議会制度を、めざすべき政体と確信した。サトウは明治維新への青写真を広げてみせたのである。もちろん、革命の勢いはサトウの構想をはるかに超えて、諸大名というものを版籍奉還、廃藩置県によって駆逐し、維新をになった下級武士による中央集権国家にしていくのである。

*慶喜の外国公使謁見の問題が本格化してきた。江戸にもどったサトウは二等書記官ミットフォードと慶応3年(1867年)1月3日、情報収集のため大坂に発つ。天皇崩御の報が老中からパークスにとどくのが1月5日。サトウは兵庫に着いて知る。
・・・・・(中略)・・・・・
西郷がサトウを訪ねる。「西郷らは我々と将軍の和解について、大いに不満であった。私は革命の機会を逸すべきではないと、西郷に説いた」。パークスと小松、西郷、吉井ら薩摩側の会見が、サトウがきっかけで4月10日に実現する。
・・・・・(中略)・・・・・
サトウは薩摩の新納刑部を4度も訪ねる。新納は「大隈守(島津久光)が水腫のため大坂で治療中、越前(松平慶水)も帰国、宇和島(伊達宗城)も近く京都を去る予定」と教える。サトウは「彼らは屈服する意志を固めたらしい」と思う。下級武士らによる討幕運動の新しい進展を、サトウに接触した誰もがもらさなかった。
9月3日、海援隊の佐々木栄と橋本久太夫の訊問が行われた。「才谷氏(龍馬)も叱りつけてやった。彼は明らかに我々のいい分を馬鹿にして、我々の出す質問に声を立てて笑ったからである。しかし、私に叱りつけられてから、彼は悪魔のような恐ろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」。龍馬の怒りがよく分かる。
・・・・・(中略)・・・・・
10月21日深夜、外国奉行の石川利政がパークスを訪ね、大政奉還を伝えた。
・・・・・(中略)・・・・・
サトウの日記に「私が長崎で知った土佐の男、才谷梅太郎(坂本龍馬)が、数日前、京都の下宿先で、まったく氏名不詳の男に殺害された」(中略)とある。





(管理人)
本書の中で私が一番注目していた人物はグラバーだった。
しかし結果としてここで引用した文章は、パークスとサトウに関する章からとなった。
グラバーが坂本龍馬をはじめとした明治維新に関わる人物を背後で操っていたということは私の中では常識であったため、それを示す箇所については何も驚きがなかったことがグラバーに関する章から引用しなかった最大の理由かもしれない。
パークスとサトウについてはこれまであまり調べていなかったが、本書を読んでこの二人が明治維新に大きく関わっていたことを改めて確信した。
実際問題、外国人の工作員がグラバーだけであったなら、これだけの工作を実現させることは不可能であっただろう。
パークスとサトウとグラバーは、密接に繋がっていたのである。

パークスとグラバーの関係は、ウィキを見れば一目瞭然です。






サー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes、CGMG、KCB、1828年2月24日 - 1885年3月22日)は、英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務めた。

1866年(慶応2年)、米仏蘭とともに幕府と改税約書に調印。グラバーの仲介で鹿児島を訪問、薩摩藩主・島津茂久(島津忠義)、その父・島津久光のほかに西郷隆盛・寺島宗則と会見した。第二次長州征伐勃発直後、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩の桂小五郎・伊藤博文らと、小倉で幕府老中小笠原長行と会談し、両者の調停をはかるが失敗した。その後、宇和島藩を訪問し、前藩主・伊達宗城らに会った。年末、公使館を横浜から江戸の泉岳寺前に移転した。

長女マリオン(Marion, 1860-1949) - ジャーディン・マセソンの大班となったジェームズ・ジョンストン・ケズウィックと1884年に結婚。
三女フランセス(Frances, 1866-1966) - ジャーデン・マセソン初代日本支店長ウィリアム・ケズウィック(姉マリオンの夫の兄)の孫チャールズ・ディクソンと結婚。





パークスの娘二人がジャーディン・マセソン関係者と結婚していますね。
ジャーディン・マセソンの長崎代理人がグラバーでした。
はい、パークスとグラバーを操っていたのはジャーディン・マセソンでした。
ジャーディン・マセソンを操っていたのはロスチャイルドでした。



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-703.html
明治維新こそ「彼ら」の「彼ら」による「彼ら」のための日本支配体制が確立された「日本転覆クーデター」なのです
「幕末・明治維新の真相、歴史の裏舞台に“貢献”したフリーメーソン・工作員の正体を暴く①(坂本龍馬編)」




そして気になったのは、新納刑部という人物です。
パークスも面会しているし、サトウは4度も面会しているというのである。
ウィキで見てみる。



新納 中三(にいろ ちゅうぞう/なかぞう)は、江戸時代末期(幕末)の武士。薩摩藩家老。通称の刑部でも知られる。字は久脩。諱が中三。維新後、七等判事、奄美大島島司。
島津斉彬・茂久の2代に仕え、始め軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用。文久2年(1862年)には軍役奉行となる。翌年7月に起きた薩英戦争で兵制改革の実績を発揮し、賞賛された。慶応元年(1865年)には藩大目付に昇進。薩摩藩が藩費で派遣した密航留学生を五代友厚・松木弘安と共に引率して薩摩藩遣英使節団としてイギリスに渡航。変名を石垣鋭之助と称した。その後フランス、プロイセン、オランダ、ベルギーを歴訪・視察した。ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)のモンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、ブリュッセルにおいて薩摩藩とモンブランの商社設立契約を結んだ。また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して、翌慶応2年(1866年)に帰国した。
帰国した年、勝手方家老に昇進して開成所を所管。また同年、子・竹之助をフランスへ留学させている。藩政においては、先述のパリ万博準備等外交事務を担当した。戊辰戦争時には京都にあり、明治維新後の新藩政において再び大目付となって藩政改革に尽力した。





新納刑部は五代らとともにヨーロッパに留学しているのみならず、息子までフランスに留学させているのである。
島津斉彬・茂久の2代に仕え、始め軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用しているのも、「偶然」とは思えません。
フリーメーソンであったかどうかは知らないが、明治維新のキーマンであったことは間違いないだろう。
さらに本書には、「明治維新の基本指針がどこから生まれたのか」という問いの答えが暴かれていた。
はい、「天皇を中心とした国家を成立させるという明治国家の骨格ともいえる重要指針が、日本人が生み出した発想ではなくサトウが記した「英国策論」から来ている」という“恐るべき真実”が暴かれているのである。
ここに大日本帝国なるものがキッチュであることが証明されているのである。
「英国策論」をウィキで見てみる。



英国策論(えいこく さくろん)とは、アーネスト・サトウが1866年に無題・無署名でジャパン・タイムスに寄稿した3つの記事を和訳したものである。「英国策論」と名付けられ、広く読まれた。イギリスの対日政策を示すものとみなされ、明治維新に大きな影響を与えた。

『英国策論』の骨子は以下の通り。
1. 将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
2. 独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
3. 現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。

サトウは「この文章を蜂須賀斉裕(徳島藩主)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。翌年、私が会った諸大名の家臣たちは、私のことをその写本を通じて知っており、好意を寄せてくれた。しまいには、その日本文が英人サトウの『英国策論』、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、 大坂や京都の全ての書店で発売されることになった。これは、勤皇、佐幕の両党からイギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは私の知ったことではなかった。」と述べている。 実際、西郷隆盛らは、それが英国の公式な政策であるかのごとく語っていたと言われている。






大日本帝国がキッチュであるとともに、明治天皇そのものがキッチュなのである。
天皇がキッチュでなければ、朝廷がそれまでの「攘夷」策を「開国和親」に方向転換させるわけがないのだ!

孝明天皇の息子であるはずの明治天皇が、“絶対的攘夷論者”であった父親・孝明天皇の意に背いて「開国和親」に方向転換させるわけがないのだ!

サトウが「英国策論」で天皇中心国家を唱え、実際に明治政府がそうなった本当の理由は、「キッチュ天皇を据え置くことで自分たちが間接支配しやすい体制を築くこと」にあったのだ!
もっと分かりやすい言葉で言いましょう。
満州国が実際は日本の傀儡国家であったことは、皆さんもご存じですよね。
明治維新以来この国は、満州国に似たような存在になったのである。

明治維新以来この国は、「彼ら」の傀儡国家になったのである!

独立国のような体裁に見せかけておいて、
「傀儡国家・大日本帝国」が捏造されたのである!




http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
天皇史そして日本史の真実
「天皇破壊史」太田龍





サトウは龍馬を叱りつけたそうですね。
ここに幕末維新の登場人物の力関係が読み取れます。
龍馬よりもサトウの方が「攘夷」じゃなくて「上位」の立場だったという力関係が。
龍馬はサトウにこのように叱られたのかな?

傀儡の分際で俺の質問を笑うとは、貴様は何様のつもりだ!

お前を消そうと思ったら、いつでも消せるんだぞ!


龍馬が叱られた後、ほどなくして大政奉還が成立し、
龍馬は暗殺されてしまうのである・・・




評点:70点






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鳥羽・伏見・八百長戦争

「鳥羽・伏見の戦いって何? 錦の御旗って何?」



「今年は明治元年から150年」と、売国奴政治家が「明治維新万歳、大日本帝国憲法万歳、憲法を破壊して“戦争のできる国”を取り戻そう」と企んでいるようだが、そうさせないためにも我々は「明治維新の真実」を理解しておかなければならない。
NHKが捏造する偽歴史番組に騙されてはいけない。
そういうわけで、鳥羽・伏見の戦いって何? 錦の御旗って何?

鳥羽・伏見の戦いって何?

基本的に、これまた八百長でしょう。
フランス・フリーメーソン配下の徳川幕府と、イギリス・フリーメーソン配下の新政府軍とで、日本転覆計画の下に仕組まれた八百長戦争でしょう。
慶喜は、新政府軍に勝つつもりなんてはじめからなかったんでしょう。
逃亡したのも怪しいですしね。
慶喜は、はじめから幕府を弱体化させ、負けるように命じられていたのでしょう。
命令に従ったからこそ、明治になっても“ご立派な地位”を与えてもらったんでしょう。
徳川が本当に新政府軍に敵対していたのならば、その地位は完全にはく奪され、お家断絶・さらし首の刑に処せられているでしょう。




http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-707.html
たとえ徳川家が滅亡に追いやられても、武士の魂だけは決して忘れてはならない
「幕末・明治維新の真相、歴史の裏舞台に“貢献”したフリーメーソン・工作員の正体を暴く②(徳川編)」




鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦いである。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。





錦の御旗って何?


錦の御旗(にしきのみはた)は、天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗。略称錦旗(きんき)、別名菊章旗、日月旗。赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗(この日之御旗と月之御旗は二つ一組)。朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える慣習がある。承久の乱(1221年(承久3年))に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、日本史上の錦旗の初見とされる。

1868年(慶応4年)正月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、薩摩藩の本営であった東寺に錦旗が掲げられた。この錦旗は、慶応3年10月6日に薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が、愛宕郡岩倉村にある中御門経之の別邸で岩倉具視と会見した際に調製を委嘱された物であった。
岩倉の腹心玉松操のデザインを元に大久保が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で密造させた。もう半分は数日後に品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てた。その後鳥羽・伏見の戦いが始まると征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に節刀と共に与えられた(製造は許可を得ていない密造であったが、掲揚は正式なものであった)。
新政府(官軍)の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場とされてしまった江戸幕府側に非常に大きな打撃を与えた。当時土佐藩士として戦いに参加し、のちに宮内大臣や内閣書記官長などを歴任した田中光顕は、錦の御旗を知らしめただけで前線の幕府兵達が「このままでは朝敵になってしまう」と青ざめて退却する場面を目撃している。




孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。





http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
天皇史そして日本史の真実
「天皇破壊史」太田龍


*ユダヤ・イルミナティ・イエズス会の売国奴・手先である伊藤博史、岩倉具視、大久保利通らが孝明天皇(睦仁親王)を弑逆(しいぎゃく)し、ニセ明治天皇の大室寅之祐にすり替える。

*明治天皇は、ほっそりとした16歳の少年であったはずなのに、明治改元とともに東京に遷都された明治天皇は体重24貫の大兵、相撲、軍事訓練に精通しておられた。

*ご立派な明治神宮と比べて、孝明天皇をご祭神とする玉鉾神社は無各社(名もないほこら)である。






鳥羽・伏見の戦いの1年前、孝明天皇は弑逆されていました。
じゃあ鳥羽・伏見の戦い時に使用された錦の御旗とは何なんだ!
それも、これを企んだ岩倉具視は孝明天皇弑逆事件の下手人である。
天皇を弑逆した極悪人が、何が錦の御旗だ!

すべてが嘘八百である・・・

自称右翼に告ぐ。
アンタが似非右翼じゃなくて本物の右翼なら怒りまくれ!
アンタの大好きな天皇が弑逆されただけでなく、
その殺人犯が錦の御旗を「不正使用」したんだぞ!
怒らないのであれば、アンタは似非右翼であり史上最悪の売国奴である!




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学校教育における日本の古代史=“偽史倭人伝” ?

「白村江≪古代日本の敗戦と薬師寺の謎≫」鈴木治


1972年(新装版は1999年)の書である。
本書を読んだのは、先日紹介した太田龍氏の書に紹介されていたからである。
以下、一部引用する。



*先頃発掘された「高松塚古墳」について、その中に現れたいちじるしい唐文化の影響が、当時いかにしてわが国にもたらされたかが論ぜられるにつれて、はからずも天智・天武・持統の三代30年間の長期にわたる遣唐使断絶の問題が浮かびあがった。このことは天智2年(663)、わが国は白村江において唐と戦い大敗を喫したにもかかわらず、その後両国の関係はしごく円滑で、わが国からはしばしば遣唐使が派遣されて、おおいに彼の地の文化を輸入し、ついに咲く花の匂うがごとき天平文化が現出した、という従来の通説をおおきくゆさぶることになった。
しかも多くの日唐交渉研究は、従来この問題をほとんど看過してきた。
近年私はたまたま薬師寺金堂三尊の建立が日唐30年の断交期間中に当るという意外な事実と直面するにいたり主として美術史の立場からこの問題の解決を試みて、これを「白鳳天平幻術の史的背景」(『仏教芸術』第73号)として発表した。今回それをさらに広い視野からパラフレーズしたのが本書である。
当時唐は朝鮮海峡を越えてわが国に上陸作戦を敢行するほどの力はなかったが、いやしくも白村江の会戦に勝った以上、むざむざ勝者の権利を放棄するはずはなかった。戦後数次の彼我交渉の後に、天智天皇崩御の前年にいたり、朝散大夫郭務悰に率いられ、47隻の船に分乗して大挙筑紫に渡来した2千人の大部隊は、軍隊ではないとしても、国内攪乱のための大規模な政治工作隊だったことはたしかである。そしてその跡引きつづいてわが国内に生じた数々の奇怪な事件は、唐のわが国にたいする内政干渉によって起ったものだったことはいうまでもない。壬申の乱をはじめとして、東大寺大佛建立その他の大事件は、すべてその中に含まれる。

*持統朝におけるもっとも大きなできごとは藤原京の建設と、それにつぐ薬師寺の建立だった。それは天武朝における大官大寺の建立に対比されるが、大官大寺の伽藍配置が、前記のごとくまだ百済系統の「法隆寺形式」であったのにたいして、薬師寺は左右に塔のある伽藍配置から見ても純粋の唐系の官寺とし画期的なものだった。

*藤原京の薬師寺は、伽藍配置の上からみて、わが国最初の唐系の官寺だったことはさきに記した。唐が「ポスト壬申」の対日政策として、天武朝以来、おおいに仏教の興隆につとめたことはいうまでもない。しかしそれと同時に難波の鴻臚館のほかに、大和におけるCIAの政治拠点として、純唐系の薬師寺が必要だったのだ。その初期の住職なども全然不明で、寺院としてよりも、むしろ政治色が強い。後に記すとおり、天平20年に異常の事態によって、突如聖武帝が退位してこの寺に幽閉されたことは、明らかにこの傾向を示している。

いずれにせよ、大宝律令なるものは、思いのほかの代物である。結局それは日本にたいして、大いに唐制をとり入れた親唐国家であることを要求し、それに日本が応じたものだった。
・・・・・(中略)・・・・・
(栗田)真人の一行が、3年間も彼地にいたことも普通ではない。おそらく彼はまず新製の大宝令を提出して、そこに示されているように、日本がすべてを唐朝に範をとった、立派な文化国家になったことを説明し、未来永劫白村江の戦ごとき大それたことをすまじきことを誓い、平身低頭して恭順の意を表したことであろう。それにたいして唐廷は一応承知したが、念には念を入れて、土佐衛門の足に石をしばりつける意味で、一層平和無抵抗主義の仏教をひろめて国是とし、さらに国力消耗策として、できたての藤原京から、もっと大きな平城京への遷都と、全国に国分寺・国分尼寺の建立が強要されたのだった。

*『続紀』によると、当時わが国にいた唐国人としては、つぎの4名があげられる。
・・・・・(中略)・・・・・
以上4人の唐人が奈良朝後半のわが宮廷内に延官として存在していたことは、有力な牒報源として無視することはできない。ことに仲麻呂が誅死した孝謙帝復位後の称徳朝において、4人がそろって重用されて昇位したことも見逃せない事実であって、彼らが大臣・参議などの高官でないからといって、これを軽視することは、実情を見誤るものである。しかしもっとも重要なことは、吉備真備がこれらと緊密に結びついていたに相違いないことである。

*思えば天智2年(663)白村江敗戦以来、寛平6年(894)の遣唐使廃止まで、じつに231年にして、はじめてここにわが国は唐の羈絆(きはん)から脱することができた。





(管理人)
とにかく読みづらい書であった。
ここに引用した文章を選んだ理由は、内容的に貴重な情報であると感じたことは当然だが、
本書の中では比較的判読しやすいという意味においても“貴重”であったことも、大きな要因であった(笑)
書かれている内容は貴重なものだということは理解できるが、「もう少し分かりやすい文体で書いてもらえれば、理解しやすいのにな」と、正直感じた。
古い本とはいえ、はっきり言って古典を読んでいるような気さえした。
内容的には「著者の指摘は基本的には正しいものである」と、感じた。
そうはいっても、本書が大変重要な日本の古代史の真相を紐解く羅針盤的存在であることは間違いないだろう。

白村江敗戦後の日本に郭務悰の大軍がやってきて実質上日本は唐の属国となったということは以前から理解していたが、本書を読むことでその想いは確信となった。
そもそも敗戦した国家が戦勝国に支配されなかったと判断すること自体が、どうかしているのである。
白村江敗戦以前から日本は中国や百済・新羅の強い影響下にあったわけだが、白村江敗戦以後の日本は、完全なる外国勢力の支配下となったのである。
この「決定的事実」を無視して語られる学校教育における日本の古代史は、全く意味をなさない。

嘘八百の日本古代史、“偽史倭人伝”である!

この「決定的事実」を無視する限り、平城京や平安京等の古代都市、古代寺院、遣隋使・遣唐使、古代の政変、天皇制等の古代史の真相は見えてこない。
逆に言うと、この「決定的事実」を正しく理解さえすれば、古代史の真相が見えてくるのである。

本書によって教えられたもの、ヒントを与えられたものは、多々存在する。
壬申の乱・薬師寺・大宝律令等、決して学校教育が教えない「真実の古代史」が見えてくる。
「何故にあれほど遷都を行ったのか」が見えてくる。
「何故に女性天皇が多かったのか」が見えてくる。

先日「テレビは嘘報道という前提で観ればいい」といったことを書いたが、学校が教える歴史についても、「嘘の歴史をであるという前提で聴いておけばいい」と、思う次第である。
「歴史の真実」は学校教育にはない。
ただ、「歴史の真実」を教えてくれる書は、数は少ないが存在している。
本書は、その数少ない貴重な書である。

「歴史の真実」を理解することは、あなたにとってはさほど重要ではないのかもしれません。
それは「戦争が八百長だろうと、そうでなかろうと、自分には関係ない」と思っている方の思考と似ているでしょう。
ただ、そのような方に私が言っておきたいことがあります。
それは「あなたの思考は、あなたの周囲の家族・恋人・友人・知人に必ず影響を与える」ということです。

あなたの無関心は、あなたの周囲の人まで無関心にしてしまうかもしれないのです。
場合によっては、それが取り返しのつかないことになってしまうかもしれないのです。

嘘の歴史を真実だと思ったまま何も調べずに死んでいくのか、自分の頭で「歴史の真実」を理解しようと努めた末に人生を終えるのかは、あなた次第です。


評点:80点






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悪魔が存在しなければキリスト教が成立しない

「悪魔をつくったのは神である」



テレビを「白痴製造機」と呼んで否定している私だが、けっこうテレビを観ている。
ただ基本的には情報収集のために観ているわけで、
「今回はどんな嘘を垂れ流しているのだろう」と、懐疑心の気持ちで観ているのである。
私のような“屈折した心境”ではなく“素直な心境”でテレビを観るのなら、
すっかり「彼ら」の術中に嵌り、コロリと騙されてしまうので、
初めからテレビを観ることを拒否した方がいいだろう。

最近観たテレビネタを二つ述べておく。

まず、「やりすぎ都市伝説」である。
関暁夫がIOTやキャッシュレス社会やマイクロチップについて触れていた。
このような社会が現実に拡大しているのは事実なのだが、
これらを肯定的な視線のみで報道しており、
裏に存在する危険性には全く触れていなかった。
マイクロチップを人体に埋め込むことの利便性を強調するだけでなく、
その行為が時代の最先端な行為であり、
さも“オシャレな行為”であるかのように視聴者に思わせるように仕向けられていた。

マイクロチップを人体に埋め込むことの危険性には、一切触れられていなかった。

そして、最後に関は、自分自身にマイクロチップを埋め込んだのだ!
このような映像をテレビで公開した関暁夫という男は何者か。
先日この男がバランサーであるということを指摘したが、この想いは「確信」となった。
この世界の裏情報をテレビで語る「真実を語る人物」であるかのように信用させておいて、
確信の部分で「偽情報」を視聴者に信じ込ませること。
これがこの男に与えられたバランサーとしての役割である。

私の判断を信じるか信じないかは、あなた次第です(笑)

もう一つは、
NHKBSで放映されていた「世界神秘紀行 イタリア エクソシスト VS 悪魔」である。
バチカンでは「エクソシスト養成講座」というものがあるそうなのだ。
そして、「イエスは初代エクソシストである」と報じていた。
この番組を観て感じたこと。
その一つは、「エクソシストによる悪魔祓いの行為は嘘だ」ということである。
その根拠は、
「エクソシストによる悪魔祓いの行為が見られる国家が限られている」という事実である。
これらの行為が行われているのは、イタリアを中心とした欧米がほとんどであるだろう。
日本でこのような行為が行われた報道を聞いたことがない。
国家によってその行為の有無が存在しているというのは、どう考えてもおかしい。
キリスト教が浸透しているか否かがエクソシストによる悪魔祓いの行為の存在基準だというのなら、その悪魔に憑りつかれた人間は、深層意識に「自分が悪魔に憑りつかれている」と信じ込んでしまっているのだろう。
マインドコントロールされていると呼んでもいいだろう。
私は、「悪魔に憑りつかれている演技をしているケースもかなりあるのでは」と疑っている。
日本でも「悪霊に憑りつかれた」例はよく見かける。
これも実際に見たわけではなくテレビ映像を通して「観た」わけなので、
信用しているわけではないが。
仮に「悪魔=悪霊」だとするならば、「エクソシストによる悪魔祓いの行為が見られる国家が限られている」という問題が解決しそうだが、「悪魔に憑りつかれた西洋人」と「悪霊に憑りつかれた日本人」が憑依された時に発する発言内容は異なるわけであるから、その人物の信仰の違いによって“乗り移った存在”が変わってくるというのもおかしな話である。
これらの「悪魔や悪霊に憑依された」とされる現象の真実は、「悪魔や悪霊に憑依された」のではなく、「これらの人物の深層心理によるもの」か「単なる演技」であるかのいずれかであるだろう。

というわけで、私は重要なことを悟った。
それは、いずれ話したいと思う・・・

というのは冗談で(笑)、はっきりと言います。

「悪魔をつくったのは神である」ということです。

このようなこと(神=悪魔)は今まで何回も述べてきたが、今回は確信に満ちてきた。

「バチカンが公式にエクソシストを認めている」ということは、
言い換えれば、「悪魔が存在しなければキリスト教が成立しない」ということである。

キリスト教を作った勢力(「彼ら」)は、
「その信仰を広めるために、同時に悪魔を創作した」のです。
悪魔が存在していなければ、誰もキリスト教など信じないのです。
信者は、恐ろしい悪魔から自分や家族を守るため、キリスト教を信仰するのです。

キリスト教を作った勢力(「彼ら」)は、
イエスの存在以前に、悪魔の存在自体を問答無用に大衆に信じ込ませたいのです。

これが「バチカンが公式にエクソシストを認めている」理由なのでしょう。

そして、これが「彼ら」が世界中の人々を騙し続けてきた「キリスト教の真相」でしょう。

「彼ら」は悪魔崇拝主義者でしょうが、キリスト教崇拝者でもあるのでしょう。

ズバリ言って、「キリスト教崇拝者=悪魔崇拝主義者」なのでしょう。

勿論これは「彼ら」に関することであるので、
一般の善良なキリスト教信者のことを言っているのではありません。
一般の善良なキリスト教信者は、単に「彼ら」に騙されているのです。

この「敵対する勢力を自ら作り出して対立を演出する」という「彼ら」の常套手段は、
ここに起源があるのでしょう。

「宗教対立」、「資本主義と共産主義の対立」、「独裁国家と自由主義国家の対立」、
「国家とテロリストとの対立」等々。

ショッカーがいなければ、仮面ライダーは“正義の戦い”ができないのだ」という発想の起源も、「悪魔が存在しなければ、キリスト教が成立しない」というシナリオにあるのだろう。

さらに言えば、「癌がなければ、がん治療が存在できない」、「伝染病やウィルスがなければ、ワクチンが存在できない」という「彼ら」のオペレーションにも繋がっていくのだろう。

恐ろしい真実に気づいてしまった・・・

私の言説を信じるか信じないかは、あなた次第です(爆)





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テンプレート説明

このテンプレートは、プラグイン1・2・3に対応しています。
背景はスライドショーになっています。

◎プラグイン説明

最上部のメニューバーがプラグイン1です。マウスオーバーで展開するメニューになっていますので、お好みでプラグインを設定してください。「HOME」のような普通のリンクも置けます。
←のエリアがプラグイン2です。有効範囲幅は180pxです。
このエリアがプラグイン3です。有効範囲幅は540pxです。
サイズの大きなプラグインに適しています。

※最上部メニューバーの上に隙間がある方

最上部のメニューバーの上にFC2検索バー用のスペースを設けています。
検索バーを表示しない設定にしている方は、cssの最上部メニュー.MegaMenuの中にあるtop:27pxをtop:0に変更してください。

◎背景スライドショー説明

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