広瀬隆 - 嘘八百のこの世界
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嘘八百のこの世界

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戦争というものは「右のエージェント」と「左のエージェント」の“協力”によって成立するのです。

「持丸長者・日本を動かした怪物たち(戦後復興篇)」広瀬隆


2008年の書である。前回に続いて発売当時に読んだものを再読した。
以下、一部引用する。



*このヤルタ会談に先立つ二カ月前、1944年12月19日には、日本占領政策を決定するために、アメリカの国務省・陸軍省・海軍省の三省調整委員会SWNCC(State-War-Navy Coordinating Committee)が設置され、国務次官ジョセフ・グルーが主導して、SWNCC主任にユージン・ドーマンを任命した。
このグルー次官は、幕末に日本を開港させたペリー提督の兄の曾孫アリス・ペリーを妻としていた。また従姉妹ジェーン・グルーの夫がモルガン財閥総帥ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア(通称ジャック)というアメリカ随一の財閥ファミリーから出ていた。そもそも日本の軍需産業を動かした日本興業銀行の設立にはモルガン財閥に資金を頼ったばかりではなく、東京芝浦電気(東芝)をはじめとする日本の電機事業は、ゼネラル・エレクトリック(GE)を通じてこのモルガン家の手で動かされてきたから、歴史的にも、日米関係の要にいる人物がグルーであった。しかもグルーは、満州事変翌年の1932年から駐日大使をつとめ、在日十年で、宮内省や近衛文麿はじめ日本を支配する皇族・華族・財閥たちと深い関係を取り結び、日本軍の真珠湾奇襲計画を察知してアメリカ本土に警告を打電したことで名高い。真珠湾攻撃後に抑留されたグルーは、翌1942年には日本の外交官と交換に、引き揚げ船でアメリカに帰国した。その時、昭和天皇の弟で、侵略の象徴・八紘一宇を喧伝した陸軍少将・秩父宮雍仁(やすひと)の妃・勢津子(せつこ)(会津藩の松平容保の孫娘)から餞別の品を届けられたほど、日本のファッショ的な保守集団と密着していた男である。




(管理人)
前にも書いているが、私の関心事は日本の持丸長者の立身出世物語ではない。
私の関心事は、あの戦争の真実に関する記述である。
本書はこれに関する記述が少なかったが、ここに引用した記述が最も私の関心事を充足させるに足る内容であった。
ジョセフ・グルーはペリーの兄の曾孫アリス・ペリーを妻としていました。

八百長明治維新が八百長太平洋戦争に繋がっていることの証明ですね。

ジョセフ・グルーは日本の支配者としっかりと繋がっていました。
グルーは「真珠湾奇襲計画を察知していた」んじゃありませんよ。
「自分のボスが計画した真珠湾攻撃を“八百長仲間”の日本の支配者に命じてやらせた」というのが正しい歴史ですよ。
「グルーが駐日大使をしていた」なんてのも、いかにも“ミエミエ”ですね。
グルーは日本の支配者にしっかりと八百長戦争演出の指示をしていたのでしょう。

近くに指示する人物がいないと八百長もスムーズにはいかないでしょうからね。

「真珠湾攻撃後に抑留された」なんてことも、言うまでもなく“くさい芝居”ですよ。
抑留されたことにしておいてあたかも本当に日本とアメリカが敵対していたかのように日米国民を信じ込ませるためのね。
「ヨハンセングループが戦争に反対していた」なんてのも、同じ目的で創作された“くさい芝居”に過ぎません。

戦争というものは「右のエージェント」と「左のエージェント」の“協力”によって成立するのです。

グルーについては以前にも触れています。



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-1021.html
戦後の日本国では米国のスパイが総理になることになっている。
「こうやって八百長戦争は演出される、八百長戦争演出家が養成されるルートを探る」


米国のジャーナリスト(ニューヨーク・タイムズ記者)ティム・ワーナーは(米国CIAの秘密を暴露する書物の中で)次のように書いている。読者は事実を知るべきだ。
 「岸は1941年、アメリカに対する宣戦布告時の閣僚であり、商工大臣を務めていた。戦後、A級戦犯容疑者として収監されていた間も、岸はアメリカの上層部に味方がいた。そのうちの一人は、日本によるパールハーバー攻撃があったとき駐日大使を務めていたジョゼフ・グルーだった。グルーは開戦後の1942年、東京の収容所に入っていたが、当時、戦時内閣の閣僚だった岸がグルーを収容所から出してやり、ゴルフを共にしたことがあった。二人は友人になった。岸が巣鴨拘置所を出所した数日後、グルーは『自由ヨーロッパ全国委員会』の初代委員長になった。この委員会は『自由ヨーロッパ放送』などの政治戦争計画を支援するためにCIAが設けた偽装組織だった。(『CIA秘録(上)』ティム・ワーナー/文藝春秋)
  岸信介の背後には「駐日大使ジョゼフ・グルー」が立っていた。同時にその背後には「米国CIA」も存在した。このような構造の中で収容所を出た岸はどう動いたか。
 「岸は一年ほどの間、隠密にCIAや国務省の当局者と(ハッチンスン家(引用者注/CIAの手先)の居間で会っていた。『彼がアメリカ政府から少なくとも暗黙の支援を求めていたことは明らかだった』とハッチンスンは回想している。一連の会談はその後40年間の日米関係の土台を築くことになった」(同上)
  本書では岸信介の動きを詳細に追う余裕はない。だが彼が「米国のスパイ」(CIAの支援で首相になった男)だったことは(日本国民全員が知るべき)「絶対的な事実」なのだ。





岸信介がジョセフ・グルーと“グル”であったことが分かれば、岸の孫である安倍が誰の指示を受けているかは分かりますよね。
安倍が憲法を改悪してまたしても国民を戦争に巻き込ませようとしている指令がどこから出ているかは分かりますよね。

いつまでも騙されていてはいけません!

“同じ過ち”を繰り返してはなりません!


ちなみに本書から引用した文章ではこの“計画”の首謀者がモルガンであったかのような記述になっているが、モルガンが単独犯であるかのような錯覚に陥ってはダメですよ。
モルガンもロスチャイルドの支配下にあることを忘れないように。
同じことはロックフェラーにも言えますよ。
誰とは言いませんが、ロスチャイルドとロックフェラーとモルガンが対立しているかのようなデマを拡散している工作員陰謀論者にご用心!


評点:60点






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憲法を変えようとしている勢力は、あの戦争の演出に一役買った役者の末裔である「現代の役者」であり、“悪魔の僕”であることをお忘れなく!

「持丸長者[国家狂乱篇]~日本を動かした怪物たち」④(最終回) 広瀬隆


前回に続く。以下、一部引用する。



*さきほど、日本が最も危険な道を歩んだ時代に、軍需産業に融資をおこなった興銀総裁・河上弘一を紹介した。出自は、山口県の岩国藩士・河上又三郎の孫にあたる。又三郎のもう一人の孫が、日本におけるマルクス主義経済理論の先駆的な指導者であった。満州事変の翌年に共産党に入党し、1933年には治安維持法で検挙され、懲役5年の刑で投獄された文学者の河上肇(はじめ)である。興銀総裁と共産主義者は、従兄弟であった

*南京を攻略した翌年、1938年1月15日の大本営連絡会議で中国との和平交渉が議題になるが、近衛文麿首相・広田弘毅外相・杉山元陸相・米内光政海相が和平に反対し、翌日、近衛が「以後蒋介石を交渉相手としない」旨を宣言して大戦争に突入した。ほどなく4月1日に近衛内閣が打ち出したのが、「国家総動員法」であった。続いて2年後の1940年10月12日に、やはり近衛文麿によって生み出されたのが、図12で「国家総動員法」から新体制運動を経て生み出された「大政翼賛会」である。このつながりが最も固い結び目であり、この二つが、全体主義を支える二本の屋台骨となった。
国家総動員法の言葉から受ける印象は、国民が根こそぎ戦地に動員される徴兵制のように聞こえるが、これは戦場への動員ではない。軍需産業の工場への動員であった。兵器・弾薬や船舶・航空機の製造はもとより、食糧から医薬品、鉄道・車輌・土木建築・燃料・電力まで、「国民は言われた通りに工場でよく働け」と命ずる条項が連綿と書かれていた。よくこれだけ産業をくわしく規定したものだと思われるほど細かく定めてあり、知恵の足りない軍人がつくったものではない。この法に付随して、膨大な数の関連法が作成された。
明らかに、農商務省叩き上げの商工大臣・吉野信次が立案・作成し、信濃毎日新聞主筆として左翼労働運動を支援してきた近衛内閣書記官長・風見章たち新体制官僚が手を入れたと思われる内容である。茨城県土浦出の風見は、このあと近衛の右腕となって大政翼賛会を生み出し、総務に就任するが、戦後は日本社会党左派に入党し、原水禁運動の主導者となる。右翼軍部だけが全体主義をつくったのではない。左翼の頭脳がそこに参加したのだ。
吉野信次は前章に述べた大正デモクラシー指導者・吉野作造の弟、つまり鮎川義介の右腕となって満州重工業開発副総裁をつとめる人物で、商工大臣就任の前年、1936年に東北興業の総裁に就任して、日本の東北地方の産業振興の旗振り役をつとめた。この国策会社・東北興業は、ちょうど同じ年から本格化した満蒙開拓団を組織するため、満州移民の陰の先導機関の役割を果たしたと考えられる。

*国家総動員法に対して、1940年10月12日に発足した大政翼賛会は、実質的に一国一党をめざして既成政党をすべて消滅させ、道府県の支部、市区町村の支部、町内会、隣組を置いて、国民的な精神運動を広げようと企んだ組織活動である。手法の点では、ナチスが一党独裁を成し遂げるのに、青年や少年までグループをつくらせた組織化をそのまま踏襲したものであった
・・・・・(中略)・・・・・
大政翼賛会の総裁は、初代の近衛文麿以下、東条英機、小磯国昭、鈴木貫太郎の歴代総理大臣がつとめた。
大政翼賛の、大政とは天下の政(まつりごと)、翼賛とはツバサのように力を添えて助けること。一体誰の政治を助けるかと言えば、この一カ月後、1940年11月10日の神武天皇即位2600年記念行事と連動していた。その日、日本全国ばかりか、中国の北京、朝鮮の京城、台湾の台北などアジア侵略地の至るところで、「紀元2600年奉祝会祝賀行事」が奉祝会会長・近衛文麿によって開催された。

*近衛文麿がおこなおうとしたことは、第一に、資本主義と議会主義を破壊し第二に、左翼的な共産主義を手段として全体主義国家をつくり、第三に、軍事力によって欧米のアジア進出を排除せよと主張して軍部・国民の喝采を浴び、第四に、天皇が全世界を統治する国家をめざす愛国右翼思想を広めようとしたことである。一体、近衛文麿の頭はどのような細胞で、できていたのであろうか。
近衛文麿と取り巻き官僚、大政翼賛会の全議員および軍部が進めたことは、明白な私有財産制度の否定であった。当時の治安維持法では、私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したる者は、懲役刑に処すと定めていたのだから、特高警察はこの全員を豚箱にほうりこまなければならなかったのである。事実、1941~43年にかけて、企画院と満鉄調査部の関係者が大量に「左翼分子」として検挙される企画院事件と調査部事件が起こっているが、まず最初に総理大臣を逮捕するべきであっただろう






(管理人)
興銀総裁(河上弘一)と共産主義者(河上肇)は、従兄弟であった。
「この事実は、決して「偶然」ではない」と、私は感じる。
まさに「右も左も根は同じ」である。
河上 肇をウィキで見てみる。



河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者である。京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン32年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー『貧乏物語』の他に、『第二貧乏物語』『資本論入門』の著作がある。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。福田徳三とは終生のライバルであった。
山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれる。祖母に溺愛され、わがままに育ったという。山口尋常中学校卒業ののち、1898年に山口高等学校法科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学。その時、故郷では見ることの出来なかった東京の貧富の差に大変なショックを受ける。その後、キリスト教者内村鑑三に大きな影響を受け、また足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『東京毎日新聞』に「特志な大学生」であると報ぜられた。1902年(明治35年)大学を卒業。その後国家学会雑誌に投稿するようになり、人々の幸福に経済学をもって貢献しよう、と考えるようになる。1903年(明治36年)東京帝国大学農科大学実科講師に就任。その後専修学校、台湾協会専門学校、学習院などの講師を兼任し、読売新聞に経済記事を執筆。1905年(明治38年)、教職を辞し、無我愛を主張する伊藤証信の「無我苑」の生活に入るが、間もなく脱退し、読売新聞社に入る





「日本共産党の党員となった」こと、「『資本論』やコミンテルン32年テーゼの翻訳をした」こと、「キリスト教者内村鑑三に大きな影響を受けた」こと、「読売新聞社に入社した」こと、これらも「偶然」とはとても思えない。
ひょっとしたら当の本人は気づいていなかったかもしれないが、すべては仕組まれていたのだろう。
「彼ら」は同じ家系から「右のエージェント」と「左のエージェント」を育成し、戦争を演出したのだろう。
戦争を演出するには「右のエージェント」だけでは不可能であるのだ。

河上 肇以外の「左のエージェント」の一人が近衛文麿であった。
ただし、近衛文麿の場合は「限りなく右に近い左のエージェント」ではあったが。
「国家総動員法」と「大政翼賛会」という全体主義を支える二本の屋台骨の創設に深く関わったのが、「左のエージェント」である近衛文麿であった。
ただ私が言いたいのは、「近衛文麿はあくまでも役者の一人であって、近衛を操っていた黒幕は別にいた」ということだ。
近衛文麿はA級戦犯扱いとなって服毒自殺したことになっているが、「知りすぎていた男」として闇に葬られたのかもしれない。
何を知りすぎていたかって?

あの戦争が八百長であったことに決まっているでしょう。

「「大政翼賛会」の手法がナチスが一党独裁を成し遂げるのに、青年や少年までグループをつくらせた組織化をそのまま踏襲したものであった」とのことだが、これは一つの証明となる。
何の証明かって?

ナチスのファシズムも、日本のファシズムも、同じ勢力によってハンドリングされたものだってことの証明です。

その勢力が何者であるかということは、説明不要ですよね。

これまで何度も書いてきましたが、戦争というものは、ある勢力の演出によって起こされる「さる芝居」なんですよ。
その「さる芝居」を成就させるために、細かい演出が設定されているのです。
その一つが「ファシズムと自由主義の対立」であり、
「共産主義と民主主義の対立」であり、
「宗教対立」であり、
「テロとの戦い」であるのだ。

「さる芝居」を成就させるためには、様々な配役が必要となる。
役者の一人がヒトラーであり、スターリンであり、チャーチルであり、ルーズヴェルトであり、孫文であり、毛沢東であり、河上弘一であり、河上肇であり、岸信介であり、鮎川義介であり、吉田茂であり、白洲次郎であり、近衛文麿であったのだ。

「さる芝居」は現在も続いており、汚れた役者は途切れることがない。
役者の一人がゴルバチョフであり、ブッシュであり、ビン・ラディンであり、オバマであり、トランプであり、習近平であり、北のカリアゲ君であり、安倍であり、アホウであり、ハシシタなのだ。

配役名を挙げるときりがないのでこれぐらいにしておく。
著者は「あの戦争の真相」を正しく理解されていないようだが(書けないだけなのかもしれないが)、本書には「あの戦争の真相」を暴くヒントが膨大に散りばめられていた。
私がここで引用した文章は本書の膨大な情報のほんの一部であるため、詳細はご自身の目で確認されることをお勧めします。
本書が発売された当時は、「あの戦争の真相」を理解していなかったためこれらのヒントを見すごしていたが、今では十分に理解できるようになった。

ところで、開戦直前の1940年当時、「紀元2600年奉祝会祝賀行事」が大々的に行われていたとのことである。

「“皇室万歳番組で溢れかえっている”令和元年の今の時代と似通っている」と感じるのは、私だけだろうか?

祝賀ムードもいいが、その背後に良からぬ企みが存在していないかどうか、我々は細心の注意を払うべきだろう。

これが「歴史に学ぶ」ということである。

憲法を変えようとしている勢力は、あの戦争の演出に一役買った役者の末裔である「現代の役者」であり、“悪魔の僕”であることをお忘れなく!




評点:90点







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「あの戦争は、「彼ら」の傀儡である日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミが「彼ら」の指示に従って演出した「さる芝居」であった」by ソウルマン

「持丸長者[国家狂乱篇]~日本を動かした怪物たち」③ 広瀬隆


前回に続く。以下、一部引用する。


*初代満鉄総裁・後藤新平から、敗戦を迎えて悲惨な戦後処理を任された最後の17代目満鉄総裁・山本元幹(もとき)まで、どのような人間が満鉄総裁をつとめたか。
・・・・・(中略)・・・・・
満鉄創立者・児玉源太郎、三井家、住友家、岩崎家(三菱)はもとより、膨大な数の持丸長者と、藤田伝三郎、松形正義、広田弘穀、三井の大番頭・中上川(なかみがわ)彦次郎~池田成彬たち、財閥と政府の代表者が顔を出す。つまりは財閥の広げた巨大な人脈によって、満鉄が間接的に運営されていたのだ。

*張作霖爆殺をそそのかした黒幕が、田中義一内閣の事実上の外相だった外務政務次官の森恪(つとむ)であった。この男が、「満州の利権者は日本である」と主張して、積極的に軍事介入を推し進めたことはよく知られている。森恪は、ただの政治家ではない。父が山本条太郎と親しかったため三井物産に入社し、条太郎の部下となった森が、上海支店から北京南東の天津支店長となった。当時の天津は、世界の列強が中国進出の最大の拠点として治外法権の租界(外国人居留地)を構え、大いに栄えた都市であった。そこで力を蓄えた森は、満州の撫順炭鉱近くの塔連炭鉱に鉱業権を得て、次々と事業を興してかなりの事業家となり、三井党と呼ばれる政友会に入党して政界に進出していった。ここで政党に莫大な献金をして衆議院議員に当選したが、汚れた金を正解にばらまいて出世したことが発覚し、議会で満鉄事件と呼ばれる疑獄で厳しく追及を受けた一人である。
森の妻・栄枝が、住友商事創立者で住友総本店理事という財閥代表者の山下芳太郎(よしたろう)の妻、千代の妹だったばかりか、この姉妹は、3代目三井の大番頭・益田孝の妹・益田繁子の娘でもあった。彼の出世がこの二大財閥の最高幹部とまったく無縁であるはずがない。つまり森が主張した「満州の利権者は日本である」を言い換えれば、「満州の利権者は日本の財閥である」と主張し、それによって日本軍による満州支配の国策が内密に定められた。やがてこの思想が軍部に結実して、張作霖爆殺事件が起こされたわけである。山本条太郎は、かつての部下に裏切られたのである。
張作霖爆殺の首謀者である河本大作も、妻が東洋紡績社長の長者と、薩摩が生んだ鉱山王・五代友厚に連なる一族であり、このあと満州事変を拡大する関東軍司令官・本庄繁がその河本大作と一族であった。当時中心となった人物の誰を調べても、こうした係累がすぐに発見される。

*かつて製紙業界では、大川平三郎の樺太工業と、藤原銀次郎の王子製紙が熾烈な戦いを演じたが、その時、日本興業銀行総裁・結城豊太郎と、三井財閥の大番頭・池田成彬が介入して、両者の合併を勧めた。
・・・・・(中略)・・・・・
藤原銀次郎はその後、1943年11月から翌年7月まで東条内閣の国務大臣をつとめ、東条退陣後、引き続いて小磯国昭内閣の軍需大臣をつとめた。死者3万人余りを出したインド北東部でのインパール作戦、戦死者2万8千人余りのサイパン島玉砕、戦死者47万5千人を出したフィリピン戦は、いずれも藤原が閣僚時代に起こった悲劇であった。このように藤原は、実業家の顔と、政治家の顔を持っていた。そして三井の大番頭・中上川(なかみがわ)彦次郎の遠戚であった。
池田成彬の場合は、早くから三井の大番頭・中上川(なかみがわ)彦次郎の女婿(むすめむこ)という強力な家族関係があった。その上で、池田は三井銀行の事実上のトップとして、この最大財閥の産業を動かし、昭和2年恐慌のなかで鈴木商店つぶしに成功した。なおまた彼は、三井を退任後、公的な職務権限では、日銀総裁として、あるいは大蔵大臣として、政府資金を自由に動かすことができた。そうして結果的には、第一の自分の人生を満たしたわけである。
この池田の複雑な役回りは、日中戦争において、露骨に認められた。1937年7月7日の盧溝橋事件によって、日本と中国が全面的な戦争に突入したとき、日本が植民地として支配していた満州の金融を動かす日本興業銀行(興銀)の役割は、きわめて重かった。興銀が巨額の資金を調達して、急いで軍需産業にまわさなければ、満州国を出て中国全土を徘徊する関東軍の軍人たちは、兵器を手にできなかったからである。
・・・・・(中略)・・・・・
池田成彬は、実はこの年の2月9日に日銀総裁に就任して、こうした事態を予測して軍需産業への金融に積極的な政策を打ち出していた。そこで、7月7日に盧溝橋事件が発生すると、ただちに公定歩合を引き下げ、社債担保ないし社債前貸手形担保手形割引制度を実施した。名称を聞いても、金融機関につとめない人間にとっては意味不明の制度だが、要するに金利を引き下げ、しかも借金の手形を振り出す担保の範囲を広げて、金を借りやすくしたのである。そのため興銀は、11月までに1億2千2百万円という巨額の資金を手にすることができた。結果、興銀に資金を求めた軍需会社が、その融資を受けられ、軍需産業の工場が活況を呈した。
・・・・・(中略)・・・・・
そのとき池田は三井の大番頭として、先に述べたような慈善事業を装いながら後年の軍部クーデター、2.26事件の首謀者として処刑される北一輝を通じて、右翼に多額の献金をしていた。その手引きをしたのは、三井財閥首脳だった有賀長文(ながふみ)とされている。
・・・・・(中略)・・・・・
その池田が三井を退任して日銀総裁に就任したのは、大蔵大臣・結城豊太郎の要請によるものであった。もと日銀の大阪支店長だった結城豊太郎は、高橋是清と井上準之助の推挙によって安田財閥の番頭にのし上がった人物であり、しかも大臣就任前に結城は、1930年から日中戦争開始の年、1937年2月2日まで、軍需産業の資金源である興銀の総裁であった。

*興銀の融資先は、中島飛行機を筆頭に、もっぱら新興財閥に対して重点的に向けられていた。五大新興財閥と呼ばれてきた日産・日窒・森・日曹・理研に、ここでは、中島飛行機と石原産業を併せて、新興財閥として合算してある。これら7社は、軍需産業に特化していたと同時に、植民地を荒らしまわった最大の集団であった。
興銀総裁・結城豊太郎が国策にしたがって軍需産業に対する融資を強めた時代に、ちょうどこれらの新興コンツェルンが次々と形成されたため、両者の結びつきは、親子のように強固であった。
・・・・・(中略)・・・・・
ここで日銀総裁・池田成彬が興銀に有利な制度をもうけたことは先に述べた。続いて、池田に代って結城が日銀総裁となり、時の第一次近衛文麿内閣の大蔵大臣・賀屋興宣(かやおきのり)のもとで、9月10日に臨時資金調整法が公布され、日中戦争(条文では支那事変)のため、すべての金融機関の資金の貸出と、事業者の資金の借入は主務大臣の認可を受けなければならない、と定め、月末までにこれを施行した。その一方でこの法は、第6条に、興銀はそれまでの興銀法の制限を超えて債権を発行でき、政府はその興銀発行債券の元本の償還と利息の支払いを保証するとし、第9条に「時局に緊要なる事業(戦争)」を優遇することを謳った。要するに、興銀による軍需産業への融資を最優先すると法で定めたのである。
これによって、「政府=軍部」が銀行資金の融資先を支配する戦時金融統制の基礎が築かれ、これが、『興銀史』に出てくる命令融資の母体となったのである。こうして資金の裏付けを得た軍部と軍需産業は、日本軍が中国戦線への増派を次々と決定し、無謀きわまる日中戦争の拡大へと、駒を進めていった。





(管理人)
ここで紹介された主要な人物をウィキで見てみる。



森恪(つとむ)

森 恪(もり かく、1882年(明治16年)2月28日 - 1932年(昭和7年)12月11日)は、昭和戦前期の日本の政治家、衆議院議員。名の「恪」を「かく」と読むのは有職読みで、本来の読みは「つとむ」。
「東洋のセシル・ローズ」を自認した帝国主義者。軍部と提携し、日本の中国侵出に大きな役割を果たした。
父と旧知の仲であった三井物産上海支店長で、後年、立憲政友会幹事長、南満州鉄道総裁を歴任する山本条太郎の縁故で、同支店支那修業生として中国に渡る。上海支店社員時代に中国語(北京語、広東語)、英語に通じたほか、日露戦争では、東シナ海洋上を接近するバルチック艦隊の航跡をいち早く発見、打電して、日本海海戦の勝利に民間から貢献した。また、辛亥革命では孫文に対し革命資金の斡旋を行った。三井物産天津支店長を経て、1916年(大正5年)に上仲尚明と共に塔連炭砿鉱業権を得ると、翌1917年(大正6年)より東洋炭砿、小田原紡績、東洋藍業、東洋製鉄など次々と事業を興して事業家となった。
1918年(大正7年)に政友会に入党して政界に進出、党に多額の献金(推定5万円)をする。1920年(大正9年)に三井物産を退社し、政友会公認で神奈川県第7区(足柄上郡・足柄下郡)から第14回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。選挙に多額の資金をつぎ込み、金の出所をめぐり「満鉄事件」といわれる疑獄事件に発展している。この疑惑がたたり、次の第15回衆議院議員総選挙では落選する。
田中義一首相が外務大臣を兼摂(兼任)したため、森は政務次官ながら事実上の外相として辣腕を振るう。田中政権下で対中国強硬外交を強力に推進し、山東出兵、東方会議開催などに奔走した。また、満蒙を中国本土から分離することを目論み、張作霖爆殺事件にも関係を取りざたされた。
1932年(昭和7年)5月15日の五・一五事件では、会心の笑みを漏らした様子が語られている。同年7月に発病。12月11日、持病の喘息に肺炎を併発し、滞在先の鎌倉海浜ホテルにて十河信二と鳩山一郎・薫夫妻に看取られ死去。享年50。



河本大作

河本 大作(こうもと だいさく、1883年(明治16年)1月24日 - 1955年(昭和30年)8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の計画立案者として言われ知られているが、極東国際軍事裁判や南京軍事法廷で事件の証人として呼ばれた事も尋問された事も無い。
1928年(昭和3年)6月4日、蒋介石の北伐の圧迫を受け北京から満州に帰還する途上にあった張作霖は、奉天近郊の南満州鉄道線路上で殺害された(張作霖爆殺事件)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の犯行の可能性も指摘され満州某重大事件と呼称されていたが、その後の調査で関東軍高級参謀の河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉及び朝鮮軍から分遣されていた桐原貞寿工兵中尉らを使用して実行したと判明した。
事件当初から関東軍の関与は噂されており、奉天総領事から外相宛の報告では、現地の日本人記者の中に関東軍の仕業であると考えるものも多かったと記されている。河本自身は、事件の数ヶ月前に東京の知人宛に送った手紙において、「張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し支えないじゃないか。今度という今度はぜひやるよ。……僕は唯唯満蒙に血の雨を降らすことのみが希望」と書き記している。関東軍司令官の村岡長太郎は支那駐屯軍に張作霖を抹殺させる工作を行うよう竹下義晴中佐に内命を下していたが、河本はこれを押しとどめ自身の計画を実行した。
この事件の処理を巡って、当時首相の田中義一は当初日本軍が関与した可能性があり事実ならは厳正に対処すると昭和天皇に報告したが後の報告では隠蔽を図ったため、昭和天皇の怒りを買い、内閣の総辞職につなかった。河本は軍法会議にかけられることはなく1929年(昭和4年)4月に予備役に編入されるという人事上の軽い処置に留まり、事件はもみ消された。この処置に対して、松井石根陸軍大将は反対し最後まで首謀者である河本の厳罰を要求し続けた。
なお、ロシア人歴史作家のドミトリー・プロホロフは、張作霖爆殺事件は河本が首謀ではなく、GRUが首謀したものと主張している。
1955年(昭和30年)8月25日、河本は収容所にて病死した



藤原銀次郎

藤原 銀次郎(ふじわら ぎんじろう/ふじはら ぎんじろう)、明治2年6月17日(1869年7月25日) - 昭和35年(1960年)3月17日)は、日本の実業家、政治家。東京府平民。
戦前の三井財閥の中心人物の一人で、富岡製糸場支配人から王子製紙(初代)の社長を務め「製紙王」といわれた。その後貴族院議員に勅選され、貴族院廃止まで在任。米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任した。
1895年(明治28年)、同郷で慶應義塾の先輩に当たる鈴木梅四郎に勧められて三井銀行に入社する。同期には後に蔵相となる池田成彬がいる。
1929年(昭和4年)、貴族院勅選議員に勅任される。1933年(昭和8年)には王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社合併を実現させ、資本金1億5000万円、日本国内の市場占有率(シェア)8割以上を持つ巨大製紙企業を出現せしめた。藤原は新生王子製紙の社長に就任し「製紙王」の異名を取るようになる。
1940年(昭和15年)、米内光政内閣の商工大臣に就任する。1941年(昭和16年)、産業設備営団総裁、1942年(昭和17年)、海軍軍政顧問、内閣顧問を経て、1943年(昭和18年)、東條英機内閣の国務大臣に就任する。1944年(昭和19年)、東條内閣が倒れ小磯國昭内閣が発足すると軍需大臣に転じる。
戦後、東條・小磯両内閣で閣僚を務めたことから連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯容疑で出頭命令を受け巣鴨プリズンに収監されるが、間もなく不起訴となっている。
1960年(昭和35年)3月17日、脳軟化症にともなう合併症のため死去。90歳。叙正三位、叙勲一等旭日大綬章。



結城豊太郎

結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、1877年(明治10年)5月24日 - 1951年(昭和26年)8月1日)は、日本の銀行家、大蔵大臣・日本銀行総裁、第5代日本商工会議所会頭を歴任。
1904年(明治37年)1月7日、高橋是清の推薦で日本銀行入行。本店検査局、日銀ニューヨーク代理店監督役付、京都支店長、総裁秘書役、大阪支店長などを歴任。1919年(大正8年)8月、井上準之助総裁の推薦で理事に就任、大阪支店長兼務。
だが旧知で引き立て役だった安田善次郎の不慮の死をきっかけに日銀を退職し、1921年(大正10年)11月28日に安田保善社の専務理事に就任、同年12月には安田銀行の副頭取も兼ねる。1926年(大正15年)1月には、安田学園理事長にも就任した。また善次郎の遺志を引き継ぎ、東大安田講堂を完成させた。
1929年(昭和4年)3月、欧米視察からの帰国後に安田を退社し、産業調査会を設立。1930年(昭和5年)9月に日本興業銀行第6代総裁に就任した後、1936年(昭和11年)11月10日設立の商工組合中央金庫初代理事長となる。
翌1937年(昭和12年)1月に日本商工会議所第5代会頭に就任し、2月2日には林銑十郎内閣の大蔵大臣兼拓務大臣兼企画庁総裁に就任し、同年5月31日には貴族院勅選議員に勅任された。だが林内閣はわずか4ヶ月で崩壊し、続く近衛文麿内閣でも蔵相留任を要請されたが断っている。また同年7月27日から1944年(昭和19年)3月18日まで病弱だった池田成彬のあとを受けて第15代日本銀行総裁を務めた。
1946年(昭和21年)3月20日、貴族院議員を辞職。その後、1948年(昭和23年)4月には三重県津市結城神社の第20代宮司となっている。1951年(昭和26年)8月1日死去。享年74。




池田成彬

池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日(1867年8月15日) - 昭和25年(1950年)10月9日)は、戦前の政治家、財界人。第14代日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣、内閣参議(第一次近衛内閣・平沼内閣・第2次近衛内閣)、枢密顧問官(東條内閣)、三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総帥)を歴任。平沼内閣が潰れると、元老・西園寺公望から首相打診があったが陸軍が阿部信行を推したため立ち消えとなり「幻の首相」となった。
大学予備門の受験勉強のために、知人に慶應義塾別科を勧められて入学。1888年(明治21年)7月、慶應義塾別科を卒業後、大学部が設立されることを聞き、東京帝大の受験から転換し、その後約1年半イギリス人に付いて英学の個人授業を受け、1890年(明治23年)1月、新設された大学部理財科(現在の慶應義塾大学経済学部)に入学。入学前から英語を学んでいたことが幸いし、ハーバード大学からの派遣教師・アーサー・ナップと慶應義塾より推薦され渡米、1895年(明治28年)に5年間の留学生活を終えて帰国。渡米中は小幡篤次郎・門野幾之進の書簡の往復をする。帰国後、福澤諭吉の主宰する『時事新報社』に論説委員として入社したが、3週間で辞める。
同年12月には中上川彦次郎が改革を断行していた三井銀行に入行。調査係を振り出しに大阪支店勤務、足利支店長。コール制度や大阪市債の引き受け、銀行間の預金協定など新機軸を次々に打ち出していく。1898年(明治31年)欧米出張を命ぜられ、銀行業務の近代化について学ぶ。明治33年(1900年)本店に転勤し、営業部次長。1904年(明治37年)に営業部長となる。その間に、三井財閥の実力者、中上川彦次郎の長女・艶と結婚する。
三井を退職した翌1937年(昭和12年)、第14代日本銀行総裁に就任した。同年10月15日に近衛文麿に請われ、内閣参議となる。平沼騏一郎の下でも内閣参議として政界に参加した。更に同年、政府に請われ大蔵省顧問、北支那開発株式会社及び、中支那振興会社の創立委員となる。1938年(昭和13年)5月26日から1939年(昭和14年)1月5日まで第1次近衛内閣で大蔵大臣兼商工大臣を務め、宇垣一成の外交政策と池田の財政経済政策にもとづいて近衛新体制運動の牽引役となる。この頃首相候補にも名前があがったが、帝国陸軍の反発で立ち消えになっている。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終後、同年12月には戦犯容疑を受け、同年12月にA級戦犯容疑者に指定されるが、1946年(昭和21年)5月に指定解除され容疑は晴れる。公職追放となり大磯に引きこもり隠遁、三井財閥に対する影響力を喪失した。
近所に住む吉田茂首相が財政や人事についてしばしば池田に相談に来ており、戦前の池田の秘書だった泉山三六を蔵相に推薦した。1950年(昭和25年)腸潰瘍のため神奈川県の自宅にて死去。享年83。
長女の敏子は岩崎隆弥に嫁いだ。二男の池田潔は英文学者、評論家、慶應義塾大学名誉教授。妹婿に加藤武男(元三菱銀行頭取)と宇佐美勝夫(元東京府知事)が、甥に宇佐美洵(元日本銀行総裁)、宇佐美毅(元宮内庁長官)などがいる。長男は戦没、弟の宏平は日本海海戦で戦死した海軍中尉である。







ここで紹介した人物の共通点は何でしょう。
はい皆さん、分かりますよね。
森恪だけは戦前に亡くなっているので不問にしますが、他のすべての人物が、戦犯として東京裁判で処刑されていないのです。
岸信介と同様に、A級戦犯の容疑をかけられても不起訴となっているのです。
これらの人物は、どう考えても「あの戦争の演出」に大きく関わった人物としか思えませんが、何故か「無罪放免」扱いなのです。
「無罪放免」どころか、その子孫は大学教授や日銀総裁や銀行頭取や東京知事などといった「普通の人」が就くにはかなりハードルの高い職に就いているのです。
「彼ら」に「協力」した人物は、本人のみならずその末裔まで手厚い「ご褒美」が与えられるようです。
本人がどこまで「真実」を教えられていたかは定かではありませんが、結果として、「彼ら」の計画に「協力」したことは間違いありません。
「彼ら」の計画とは何かって?

「太平洋“八百長”戦争計画」に決まっているでしょう。

この計画を成功させるためには、日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミの「協力」が必要でした。
当たり前ですよね。カネがなければ武器兵器は買えませんから。
財閥の支配者は、政治家・軍部の要職にも就いていたようです。
我々は、いつの時代も政治家・軍部のみならず銀行家や財閥に目を光らせておく必要があるのです。


「他人の死と引き換えに財を得るハイエナ野郎」に目を光らせておく必要があるのです。

当時の日本国民は、こういった「彼ら」の協力者である日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミの支配者に踊らされていたのです。

敵はアメリカだけじゃなかったのです。

そして、戦争は「偶然」発生するものではありません。
昔も今も戦争は「計画」に基づいて起こされるものなのです。
「彼ら」の協力者であるマスゴミが喧伝する、「軍部が独走したために歯止めが利かなかった」なんていう“見え透いた嘘”に騙されてはいけません。
著者はあの戦争の真実に気づいていないようですが、私には本書は「あの戦争の真実」を改めて「確認」する貴重な資料となりました。
「あの戦争の真実」とは何かって?

「あの戦争は、「彼ら」の傀儡である日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミが「彼ら」の指示に従って演出した「さる芝居」であった」という真実です。

「日本国民やアジアの人々は、「彼ら」の傀儡である日銀・大蔵省・銀行・財閥・政治家・軍部・マスゴミが「彼ら」の指示に従って演出した「さる芝居」によって殺された」という事実です。

だってそうでしょう。
本当にアメリカと日本が敵対していたというのなら、アメリカにとって許しがたき敵国であるはずの日本の「戦争演出者」であった人物を東京裁判で厳しく裁かないはずがないでしょう。
これらの人物が「無罪放免」となった理由を“八百長”戦争以外の理由で説明できる方がおられたら、是非お聞かせ願いたいものです。
ついでにこちらの記事を否定する理由を根拠立てて説明できる方がおられたら、是非お聞かせ願いたいものです。

初めから無理な要望であることは分かっていますが・・・





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何でも「したがえ」ばいいもんじゃない!

「持丸長者[国家狂乱篇]~日本を動かした怪物たち」② 広瀬隆


前回に続く。以下、一部引用する。


*福島県会津藩士の息子・中野友礼(とものり)が、日曹(日本曹達)コンツェルンの母体となる苛性ソーダ工場を横浜市保土ヶ谷区に建設したのが、この1915年であった。中野はのちに五大新興財閥として台頭する。一方、石川県金沢藩士の息子・野口遵(したがう)が肥料の硫安の製造に乗り出して大きな利益を出し、五大新興財閥・日窒(日本窒素肥料)コンツェルンの基礎を築いたのも、この時であった。肥料として欠かせない石灰窒素や硫安の原料となるカーバイド(炭化カルシウム)を日本で最初に製造したのは兵庫県士族の息子である大発明家の藤山常一で、彼が熊本県葦北郡水俣村(水俣市)に工場を設置し、野口遵は三菱と組んでこの技術を奪い取り、それが後年のチッソになったのである。
・・・・・(中略)・・・・・
またもう一人の「日本の十大発明家」棚橋寅五郎が日本化学工業を設立し、棚橋と共に大倉喜八郎、鈴木三郎助が組んで、肥料のリン酸、カリを製造し、この大戦中に莫大な富が懐に転がりこんだ。
・・・・・(中略)・・・・・
ここに登場した鈴木三郎助は、ご存知、味の素創業者であり、その事業仲間が、五大新興財閥・森コンツェルンの創始者・森矗昶(のぶてる)であった。

*では、台湾銀行、朝鮮銀行、村井銀行とは何であったろう。銀行には、商業金融機関としての普通銀行もあれば、大衆の貯蓄機関としての貯蓄銀行もあるが、特別な事業の目的のために融資をする銀行は特殊銀行と呼ばれた。台湾銀行と朝鮮銀行は、事実上は植民地を経営するための特殊銀行であった。
・・・・・(中略)・・・・・
続いて1899年には、わが国最初の正式な植民地銀行として台湾銀行(台銀)が設立された。この設立を主導して初代頭取に就任した添田寿一は、次に1902年に“ロシアのロスチャイルド”グンツブルク男爵と組んでパリに日仏銀行を設立し、大規模な外資導入を図った。この日仏銀行も特殊銀行と呼んでいい。
一方、朝鮮では、先に登場した第一銀行の韓国総支配人となった市原盛宏が、1909年に第二の植民地銀行・韓国銀行を京城に設立して総裁に就任し、日韓併合の翌年、1911年に朝鮮銀行(鮮銀)と改称して、引き続き市原が初代総裁に就任した。つまり朝鮮銀行の実体は渋沢栄一の第一銀行であった。
・・・・・(中略)・・・・・
台湾銀行・日本興業銀行・日仏銀行を設立した添田寿一は福岡県遠賀郡出身で、彼の孫と日銀総裁・岩崎弥之助の孫が結婚する関係にあった。西原借款を主導した愛媛県松山藩出身の勝田主計は、甥の勝田正之が岩崎弥太郎の孫娘・岩崎寿々子と結婚する関係にあったから、添田寿一とは同じ岩崎閨閥であった。この添田と共に台湾銀行の創立に参加して理事をつとめ、のちに満州中央銀行初代副総裁(実質上の総裁)となった山成喬六は渋沢栄一の一族である。朝鮮銀行の場体は第一銀行であるから、朝鮮銀行の実質的な設立者は、渋沢栄一であった。
したがってこの時代の植民地金融機関を総論すると、三菱の岩崎家と渋沢栄一の閨閥を柱に誕生したものであった。しかも岩崎家と渋沢家は、渋沢栄一の孫である日銀総裁・渋沢敬三が岩崎弥太郎の孫娘と結婚して結ばれていた。さらに満鉄の金融機関となった横浜正金銀行頭取に就任した三島弥太郎が、第一次世界大戦時代には高橋是清の後を継いで日銀総裁となり、これらの金融機関の元締めとなった。そして三島弥太郎の娘が、渋沢栄一の孫である満州国総務長官(実質上の総理大臣)の阪谷希一と結婚したのである。
・・・・・(中略)・・・・・
日銀総裁・三島弥太郎は一体どこから出てきたかと言えば、伊藤博文内閣のもと、警視総監をつとめた薩摩藩出身の三島通庸(みちつね)の長男であった。

知っておかなければならないのは、日銀と大蔵省は国民のための金融組織だと思われてきたが、実は、金融機関と高所得者のために特化した組織だったということである。日本工業倶楽部に対して、日本金融倶楽部あるいは日本長者倶楽部が、日銀と大蔵省の役割であった。





(管理人)
改めて、野口遵について考察する。
まずはウィキより。



野口 遵(のぐち したがう、したごう、通称:じゅん、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。
朝鮮半島進出後の野口遵は政商であった。朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成した。さらに、日本軍の進出とともに満州、海南島にまで進出した。森矗昶、鮎川義介などと共に当時、「財界新人三羽烏」として並び称されていた。

1898年 シーメンス東京支社に入った





「シーメンスに入社した」とうのが一つの鍵となりそうですナ。
シーメンスの会長は2011年のビルダーバーグ会議に出席しているようです。
ということは、シーメンスという企業が何者なのかは察しがつきますナ。




(知識の泉 Haru’s トリビア)さん
https://amor1029.exblog.jp/12879380/
【ビルダーバーグ会議 2011年 出席国・出席者名 一覧】
●Löscher, Peter, President and CEO, Siemens AG
ピーター・ロシャ(シーメンス会長)





次に、野口遵の正体について迫ったブログ記事等を紹介する。


https://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201812/CK2018121502000211.html
2018年12月15日
日本の近代化問い直し必要 チッソ創業の野口遵(金沢出身)と水俣病

水俣フォーラム 実川さん講演

 水俣病の原因企業チッソの前身である日本窒素肥料を中心とした日窒コンツェルン創業者で、旭化成、積水化学工業など日本を代表する会社の実質的な創業者でもあった野口遵(したがう)(一八七三~一九四四年)は金沢市出身。その野口と水俣病をテーマにした講演会が金沢市の石川県教育会館であった。NPO法人「水俣フォーラム」(東京)の理事長を務める実川悠太さんは、野口の実業家としての功績を顕彰するだけでなく、水俣病とのかかわりを通して日本の近代化を問い直す必要性を指摘した。 (松岡等)
 野口は加賀藩士の家系に生まれ、一八九六(明治二十九)年に東京帝国大学電気工学科を卒業後、シーメンス東京支社に入社。技術者として全国の電源開発を手掛ける一方で、カーバイドの研究を続け、一九〇八(同四十一)年に日本カーバイド商会を設立し水俣に工場を建設した。その後、社名を日本窒素肥料と改称し、石灰窒素、硫安の製造を開始する。
 日本統治下の朝鮮半島にも進出し、二五(大正十四)年に現在の北朝鮮にある赴戦江で水力発電の開発に着手して以降、化学工業を中心とした一大工業地帯に発展させ、日窒コンツェルンは新興財閥となっていく。「戦後、朝鮮半島で失われた日本の資産の七~八割は日窒のものだと言われるほど」だった。
 水俣工場が、水銀を触媒としてプラスチックの製造に需要が高かったアセトアルデヒトの製造を開始したのは三二(昭和七)年。不知火海に水俣病の原因である有機水銀が流されたのはその頃からだと考えられている。戦後、現地会社の社員の多くが引き揚げ後に水俣工場で働き、後の工場長は引き揚げ組の人物が務めた。水俣病の原因が工場廃水にあることが疑われる中で企業として対策が遅れたことについて実川さんは「植民地支配や戦争で、人を人と見ない心の慣性が残っていたこともあったのではないか」と指摘する。
 野口自身については、生前に財産のほとんどを寄付し、それが化学工業のための野口研究所(東京)や朝鮮奨学金になっていることも紹介。「野口自身がどんな人物だったのは分からないことも多い」としながら、野口が健在だった四一(同十六)年には水俣病の症状とみられる人がいたことが、残されたカルテから判明していることを挙げ、「水俣病と全く無関係だったとは言えないのではないか」と述べた。
 水俣フォーラムが一九九六年から開催する「水俣展」に尽力し、水俣病の実態を学び、伝える活動を続ける実川さん。「高度経済成長のひずみとして公害が起きたという言われ方をするが、公害を無視したから高度経済成長ができたと言うべきだ」と話した。




http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-2434.html
「どこにもない国」の「どこにもない国民」
「NHKが放送しない「満州の闇」を調べてみれば、「現代社会の闇」が見えてくる」


北朝鮮域で “核の研究・開発” を始めたのは,日本帝国だった.

しかし,タングステンも,核 (ウラン) も,途方もない大電力を必要とする.当時の貧しい北朝鮮域に,そんな大電力を供給する発電所があったのか?

なかった.だから日本帝国は,先ず,発電所 (ダム) づくりから始めた.朝鮮半島の北部地域には,豊富な水資源がある.これが今でも大洪水を起こす….

今後,世界で最も逼迫する資源は,石油,水,ウラン,タングステンだ.この全てが北朝鮮にはある.無尽蔵にある!
ここに最初に目をつけた人物が…,
日本帝国の実業家・野口遵 (のぐち したがう) だった.

(今,北朝鮮の無尽蔵の地下資源は,日本を除く全世界の国々が狙っている.)

野口遵 (のぐち したがう).

野口の大計画に全面協力したのは,日本陸軍 (宇垣一成) と朝鮮銀行だった.

そして,野口の計画どおりに大発電所 (ダム) 群が陸続と完成し,稼動し始める.

その総発電能力は,驚くなかれ,なんと 100万キロワット!
当時の世界一は,ソヴィエト連邦・ドニエプル発電所,31万kw.

ともかく日本は,断トツ世界一の発電能力をもつ巨大ダム群を北鮮に築造したのだ.
同時に,この巨大電力をフルに利用する大工業地帯も北鮮域につくっていった.

こうして,大電力を確保した日本帝国は,化学繊維,窒素火薬,アルミ,石油精製,やがて,タングステンからウランの製造までをも開始する.
そして,ついには,“核” の研究と開発も,積極的に開始する….

北朝鮮には 脱北者の弾圧収容所がある.テロ機関がある.拉致機関もある.謀略機関もある.

ホラとオドシ専門のTV局がある.世界一の舞踊団がある.偽ドルの印刷所がある.

とくに凄いのは,タングステンとウランだ.埋蔵量,ダントツ世界一! 無尽蔵だ.この世界一の “財産” を生かしきれば,北朝鮮は世界の最強国家になる.

しかし,世界中の “帝国主義国家” や,巨大資本が虎視眈々と狙っている.タングステンとウラン.

・・・・・(中略)・・・・・

ウランやタングステンなど北朝鮮の豊富な地下資源に,世界で最初に着眼した国家は,大日本帝国だった.

北の “核開発” に社運を賭けた会社があった.

野口遵 (のぐち したがう)が率いる日本窒素肥料(現・チッソ)である.

帝国は,野口らの提案を受け,ウラン235の分離・濃縮を開始した.






野口遵について整理すると、会長がビルダーバーグ会議に出席したことのあるシーメンスに入社しており、後年、水俣業の原因となる有機水銀をばら撒いた問題企業チッソを創設し、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもあり、北朝鮮では地下資源の開発と核開発に関わっており、大日本帝国と深く関わっていた人物である。
「限りなく怪しい人物」としか、私には思えない。
そして見落としてはならないのは、「野口遵は三菱と組んでカーバイドの技術を奪い取った」という本書の記述である。
またしてもグラバーの三菱がここで関係している・・・
さらにはこの時代の植民地金融機関を振り返ると、しっかりと渋沢栄一が関わっている。
最後に引用した本書の記述は非常に重要なので、再度記しておく。


知っておかなければならないのは、日銀と大蔵省は国民のための金融組織だと思われてきたが、実は、金融機関と高所得者のために特化した組織だったということである。日本工業倶楽部に対して、日本金融倶楽部あるいは日本長者倶楽部が、日銀と大蔵省の役割であった。



「日銀と大蔵省は国民のための金融組織」だなんて、私は端から思っていませんよ。
「彼ら」のための金融機関だと、理解していますよ。
そして、「彼ら」に「したがう」売国奴が紙幣に選ばれたり、偉人として「評価」されていることも、理解していますよ。
それにしても、「したがう」とは分かりやすい名前がつけられたものですナ(笑)
当たり前ですが、水俣病患者に水俣病のことを問い詰められて、「したがう」氏が「私は「彼ら」の命令に「したがった」だけだ」と言い訳したとしても、決して許されはしませんよ。

ところで、現在のこの国の首相は何て名前でしたっけ?
「安倍したがう」でしたっけ(爆)

最後に、一言言いたい。

「何でも「したがえ」ばいいもんじゃない!」と。




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“八百長戦争”を仕組んだ財閥と、“八百長戦争”を応援した新聞社は、表裏一体だったのだ!

「持丸長者[国家狂乱篇]~日本を動かした怪物たち」① 広瀬隆


2007年の書である。発売当時に読んだものを再読した。
複数回分けて記す。以下、一部引用する。



*読売と言えばジャイアンツを育てた正力松太郎のイメージが強烈だが、正力によって買収されるのは、はるか後年の1924年(大正13年)であり、それまでの読売は、子安を継いで社長となった本野盛亨(もとのもりみち)の一族によって代々発刊されてきた。
本野は佐賀藩士の息子だったので、大隈重信が設立した佐賀藩校・致遠館でオランダ生まれのアメリカ人宣教師フルベッキの教えを受けていた

*三井物産創業者・益田孝の日本経済新聞社、経済支配者・福沢諭吉の時事新聞社、藤田財閥創始者・藤田伝三郎の大阪毎日新聞社、川崎財閥創始者・川崎正蔵の神戸新聞社、三菱財閥創始者・岩崎弥太郎の女婿・加藤高明の東京日日新聞社(現・毎日新聞社)などは、これら財閥・富豪と共に世に出て大いに隆盛を誇った。加藤高明は、第一次世界大戦渦中で大隈重信内閣の外務大臣として中国の袁世凱に対華21箇条要求を突きつけ、巨大な大陸利権の強奪を画策し、日本が中国から最大の憎悪を買った外交の最高責任者である。そのあと総理大臣となって、世紀の悪法“治安維持法”を施行して国民に対する言論弾圧をおこなった悪名の代表者である。新聞人が自ら、言論弾圧をおこなったのだ。

日本で「鉄道の父」と呼ばれてきた長州藩出身の井上勝は、幕末に、五稜郭を建設した函館奉行所の才覚者・武田斐三郎(あやさぶろう)に英語など数々の学問を師事したのち、長崎のグラバーに手引きしてもらってイギリスに密航し、その国に5年間学んだ人物であった。したがって明治元年に帰国した井上は、素人ではなかった。
・・・・・(中略)・・・・・
この井上を支援したほかの出資者は、福岡県第一位の長者で、イギリスのケンブリッジ大学に留学した旧福岡藩世嗣(よつぎ)・黒田長成(ながしげ)、イギリスのオックスフォード大学に留学し、日本鉄道会社と東京電灯の設立に参画した、徳島県第一位長者一族の旧徳島藩主・蜂須賀茂韶(もちあき)、大名華族のなかで日本一の長者一族である旧加賀藩世嗣・前田利嗣(としつぐ)、三菱財閥の岩崎久弥、住友財閥の住友吉左衛門、安田財閥の安田善次郎、大倉財閥の大倉喜八郎、藤田組の藤田伝三郎、どこにでも顔を出す第一銀行頭取の渋沢栄一に三井の番頭・井上馨は勿論、日本最高の長者全員が揃って、汽車製造会社が「出発!進行!」した。
しかし資金があっても、機関車を設計できる技術者がいなければ、汽車製造にはならない。井上勝は渋沢栄一らを口説いて、日本鉄道会社が大宮に建設中の工場から、設計者の長谷川正五を引き抜いたが、この長谷川が奇しくも「日本人として初めて列車に乗った」ジョン万次郎の近親者だったのである。つまり正五の妻の兄が鉄道院副総裁・長谷川謹介で、謹介の娘がジョン万次郎の息子と結婚したのだ。



(管理人)
まず、ゴミ売の件である。この組織の正体は、正力松太郎が起源ではないようである。
改めて本野盛亨をウィキで見てみる。



本野 盛亨(もとの もりみち、1836年9月25日(天保7年8月15日) - 1909年(明治42年)12月10日)は、日本の官僚、実業家、読売新聞創業者。旧姓は八田。
肥前国佐賀藩の久保田村(後の佐賀市)に八田晋の子として生まれた。後に、本野権太夫の養子となる。佐賀有田で谷口藍田に師事し、藍田塾の仲間の縁で大阪へ出て、緒方洪庵の適塾で蘭学を修めた。長崎の致遠館では、フルベッキに英語等を学んでいる。



本野盛亨が受けた「フルベッキの教え」が英語だけでないことは、言うまでもありません。
正力松太郎は「フルベッキの教え」を引き継いだようですナ。
これで「フルベッキ由来の本野盛亨」と「CIA由来の正力松太郎」が「同一路線」であることが分かりますネ。
ゴミ売新聞の正体は、フルベッキ&CIA由来のものであり、日本人のための存在でないことが証明されています。
基本知識をご存じない方のために、CIAとゴミ売新聞の関係を改めて紹介しておきます。
ついでに「飛行機雲の正体」をご存じない方のために、「基本情報」をお伝えしておきます。
たまには空を見てくださいネ。



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-43.html
イルミナティ→CIA→正力→日本テレビ→宮崎駿→風立ちぬ→戦争?
「あの素晴らしい“空”をもう一度」



このような汚い偽装ジャーナリズムは、ゴミ売新聞だけではありません。
当時の(今も変わりませんけどね)ほとんどの新聞社が財閥と表裏一体であったようである。

“八百長戦争”を仕組んだ財閥と、“八百長戦争”を応援した新聞社は、表裏一体だったのだ!

加藤高明をウィキで見てみる。



加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣(第15・18・25・27代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。
旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、明治14年(1881年)7月に東京大学法学部を首席で卒業し、法学士の学位を授与された。 その後三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、明治19年(1886年)岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長女・春路と結婚。このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と皮肉られる。
明治20年(1887年)より官界入りし、外相・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。
明治33年(1900年)には第4次伊藤内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺内閣の外相、駐英公使、第3次桂内閣の外相を歴任する。その間、衆議院議員を1期務め、後に貴族院勅選議員に勅任された。
大正2年(1913年)、桂太郎の主導による立憲同志会の結成に参画して、桂の死後に総理(立憲同志会は党首を総理と呼称していた)となった。翌年第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。
大正13年(1924年)6月11日、憲政会が比較第一党となり加藤は内閣総理大臣となった。それは明治憲法下における選挙結果で選ばれた唯一の首相であった。加藤は初の東京帝国大学出身の首相である。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、一定の成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を同時に成立させた。




このようなイギリスや三菱と結託した怪しい人物が、後の毎日新聞社長となり、首相になり、八百長戦争を遂行し、国民の思想弾圧を目的とした治安維持法を成立させたのだ。
マスゴミが腐りきったダマスゴミだということは、今も昔も全く変わっていない。
このような人物が普通選挙法を成立させたということは、この国の選挙制度というものは発足当時から不正塗れだったのだろう。
「このような腹黒い人物だが、選挙制度だけは国民のために成立させた」と思うこと自体がどうかしているのである。
我々は、以下の「事実」をしっかりと覚えておくべきである。

「国家・財閥・新聞社が一体となって国民の思想弾圧を行った」という「事実」を。


次に、井上勝をウィキで見てみる。



井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。



はい、長州ファイブの一人である。
グラバーに手引きしてもらってイギリスに密航した井上勝は、明治維新が「成功」することを理解していて、「彼ら」に教育されたとおりに行動し、「彼ら」のお墨付きが得られたために「鉄道の父」にしてもらえたのである。
「彼ら」に協力した売国奴は、亡くなってからも「偉大な人物」として歴史に名を残してもらえるのだ。
渋沢栄一が新1万円札紙幣に「採用」されたのも、同様の理由からである。
これが、哀しいかなこの国で「腐りきった歴史偽造」が続いていることの証明である。
この国の「腐りきった歴史偽造」は、「現代の大嘘つき」にしっかりと引き継がれている。
改めて井上勝のウィキにから引用する。




のちの、平成26年 (2014年) 5月1日、安倍晋三内閣総理大臣は、留学先であるユニバーシティ・カレッジ・ロンドン構内にある、「井上勝」の名前が刻まれた長州ファイブ記念碑を訪れている。



呆れてものが言えない・・・
これが「日本の総理はバカにしかやらせない」ということか・・・
新聞社と同じような財閥人脈が、鉄道事業にも見て取れる。
ここに登場した日本鉄道会社を見て、過去のブログ記事を思い出した。



http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-2709.html
ペリー来航とジョン万次郎の帰国とグラバー来日は、「同じ目的」を持っていたのである
「持丸長者・日本を動かした怪物たち(幕末・維新篇)」広瀬隆



下関戦争が八百長であることは以前記事にしましたが、生麦事件もその可能性が高そうです。
イギリス人に斬りかかったという奈良原喜左衛門を調べると、死刑になっていないのです。
弟の奈良原繁をウィキで見ると、イギリス人を斬りつけたのは、兄の喜左衛門ではなく、弟の繁であると子孫から異議が申したてられているとのことである。
その奈良原繁は、明治になって日本鉄道会社の社長になったそうである。
何故に奈良原繁はそれほど出世できたのだろうか?
裏がないと思うこと自体、どうかしているだろう。
巨額な賠償金は、薩摩藩ではなく幕府が支払わされている。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このような怪しい人物たちが関係している日本鉄道会社の社長に、生麦事件の真犯人と噂されている人物が「偶然」就任するはずがないのである。
生麦事件もヤラセであることは間違いないだろう。
“八百長テロ”の演出に協力した“ご褒美”に、奈良原繁は日本鉄道会社社長というご立派な役職を与えられたのだ。

生麦事件の真実はガセ麦事件だった!

学校教育は嘘八百!

この国の歴史は嘘八百!

明治維新も嘘八百!

財閥も嘘八百!

マスゴミも嘘八百!

ジョン万次郎も嘘八百!

「鉄道の父」も嘘八百!

新紙幣も嘘八百!

テロは昔も今も嘘八百!

戦争も嘘八百!

国民の99%以上がいまだに騙され続けているクレイジー国家ここにあり!







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