Edit your comment こんにちは。 (歴史関係で支障ありそうなブログ?!訪問で、 しばらく当方足あと残さない設定にしたままでした。 嘘八百のこの世界さまファンとしてほぼ毎日拝見・拝聴 させて頂いています!) 魏志倭人伝からの鋭い分析や歴史的流れが 大変参考になりました。 貴重な内容を有難うございます! また、 >「天皇又は天皇を支配していた時の権力者は、 >日本人ではなく中国人であり、 >自分の故郷である中国の文化・文明・宗教を日本に >導入しようと考えたのではないだろうか? 遣唐使遣隋使の派遣の理由は、そう考えなざるを得ない、 当時の日本国内の宗教を含めた政策の実態が 物語っていますね。 >隋・唐の配下として倭国を支配していたのが、 >百済・新羅からの渡来人であったのだろう。 >百済・新羅の渡来人勢力は、倭人を支配すると >同時に、隋・唐に対する忠誠を示すために遣隋使・遣唐使を >送ったのであろう。そうすることによって、 >倭国の間接支配を隋・唐に認めてもらったのであろう。 中国史は日本史より更に訳が解らないので、当方にはほとんど分析できないのですが。 中国側は400〜500年代南北朝時代で、倭国に支配を 目論んでやってきた百済や新羅の渡来人が 南北朝の中でも。どの国の影響下の人間だったのかも、 ちょっと考えようと思ってみたのですが、 もう訳が分かりません。 倭国が中国大陸国家に隷属的な関係だったことは。 確かだと思われます。 Wikipediaと共に、下記のHPも参考にさせて頂いたのですが、 15節目を読むと、新たな疑問があったりします。 (有阿蘇山、其石無故火起接天者、……) http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun5-hokusi.htm (こちらのサイトは中国史料書訳の参考になりました。 梁書を当方なりに、グーグル翻訳で調べブログにしようと 考えていましたが、こちらのサイトで納得し、ブログに 安易な翻訳の掲載するのはやめました。^^;) 天智天皇と天武天皇の分析。とても納得できました。 ソウルマンさんの分析の流れでWikiで調べたところ、 やはり、天武天皇の側室に藤原氏が名を連ねていました。 それ以前の天皇の皇后や側室に蘇我氏の名があり散見し、 勢力の流れが645年で変わっていったことと、 中国や朝鮮半島の闘争の影響が倭国から日本へ 変わっていった裏事情とリンクしていることは充分 考えられることですね。 ともかくは… この現代日本のルーツとなるだろう、 草創期(奈良・平安時代)が藤原氏の功績として 狂育で延々と摩り込まれていることが 非常に恐ろしいと感じています。 例えば、https://www.youtube.com/watch?v=EwMt0G2IWR8 日本史受験勉強用の講義の動画ですが、どんだけ藤原ヨイショなんだ?!と。 例えば、奈良の大仏は、建設時、水銀汚染で疫病が流行り、 長岡京へ移転したという話を知り、皇朝十二銭の 悪徳性を再確認したことでした。東大寺を訪れる意義は、 鎮魂を捧げることなんだ…と。 ご参考までに… http://blog.goo.ne.jp/miyakekazutoyo230910/e/c0e269c424a135fe0d7c1daaf25e61d0 詳細を考えると、ホント深みにはまってしまいそうな 話なので、まずは、 ソウルマンさんの鋭く貴重なご考察を 読ませて頂けましたこと、感謝申し上げます。 m(_ _)m SECRET SENDDELETE